32
街灯と外灯と街燈
――主人公席。
アニメやライトノベルを日常的に嗜んでいる淑女ならば、一度は耳にしたことがあるだろうその言葉。貴方達が思い浮かべるのは、きっと教室の隅っこ――校庭のグラウンドが見渡せる窓際のその席で、朝日に照らされ物憂げな表情を浮かべる、少し野暮ったい印象の女の子。
自分の容姿に自信がないのは、その目にかかる前髪の長さと極度の俯き姿勢で判然としている。ここにイヤホンがあれば完璧だ。私は誰とも関わるつもりはないのだと、好きで1人でいるのだと、言葉にせずとも周りにアピールすることが出来る。
本当は他のクラスメイトみたいに学校で恋バナをしてみたいと思っているくせに――あぁ、容姿のせいで誰にも心を開けずにいる主人公の、何と焦れったく愛らしいことだろう。
となれば当然、そんな主人公の隣の席にいるのは、この学校で一番かっこいいと噂の男の子。
冴えない容姿の主人公なのにも関わらず、クラスにいる他の女の子達のことなど眼中にないと、なぜか彼は主人公にだけ話しかけてくる。
そんな彼の思わせぶりな態度に、まさか本気で自分に惚れているのではないだろうかと、バレたら即死級の勘違いを必死に自制する日々。
悶々とする気持ちの中で、主人公は素っ気ない態度でいようと精一杯理性的であろうとするも、そんな彼女を見つめる男の子はなぜか頬を膨らませていて――
「ふひひぃ」
教室の隅っこ。
窓際とは正反対の位置にあるそこに、私の席はある。
ただでさえ日差しからは程遠い席だというのに、加えて今日は生憎の空模様。分厚い黒雲で覆われた空からは太陽の光など届くはずもなく、元々存在感の薄い私の事をさらに陰へと追いやっていく。
暗い場所が苦手ではないとはいえ、これでは手元で開いている小説を読むことができない。あぁ、折角主人公を私に置き換えて、気持ちのいい妄想が出来ていたというのに。
「ふぬぅぅぅ……」
往生際悪く、幽鬼のような形相で目を凝らして見ても読めず――仕方がないので、読書を諦めて早朝からソワソワと落ち着かない様子のクラスメイト達の様子を盗み見ることにする。
「―――」「――、―」「―――――」「――。――」
人間観察――とでもいうのだろうか。
人と話すことが苦手な私が、読書の次に好きな趣味。
彼女達の会話に混ざることが出来なくても、言葉の端々から聞こえてくる内容に共感したりびっくりしたり――なんて悲しい趣味なんだろうと自分でも思うけど、この事を家で話した時、お母さんはしたり顔で「やっぱり私の子ね」なんて何度も頷いていた。
「―――ねぇ、もらった?」「私は――」「もう死にた――」
中学1年生と、恋に恋する青春時代を現在進行形で生きているだけあって、彼女達の話題は専ら恋愛方面な事が多い。何組の――君がかっこいいだとか、クラスメイトの――君と目があったとか、ありきたりといえばそれまでなんだけど‥‥
「私見ちゃったんだよね、――君のカバンにちっちゃな箱が――」
「「「きゃぁっっっ――――!!!」」」
「……」
姦しいと、そんな表現じゃ足りないくらいに大きな声で騒いでいる女の子達。
それもまあ、しょうがないのかもしれない。
だって、今日は特別な日。
――1年に1度。なんといっても男の子から何かをしてもらえるようなイベントが今日しかないのだから、やっぱりヴァレンタインは世界中の女の子達にとってビックなイベントなんだなと思う。
私は別に、あそこまではしゃぐような事はなかったんだけど。
「……」
辺りを見回し、私と同じように1人で席に座っている同類の女の子達に視線を移す。
この教室には、私含めて5人くらいかな……天地がひっくり返っても、絶対に男の子からチョコが貰えないと断言できるような不細工な女の子。
私ほど達観した感情でいることはまだ出来ないのか、彼女達は大きな声で騒ぐ可愛い女の子達を煩わしそうに、いや、羨ましそうに見つめて――誰にも気付かれないように小さく嘆息している。
男の子が丹精込めて作り上げたチョコレートを受け取れる可能性があるのは、その幸運に見合うだけの容姿を兼ね備えた女の子達だけ。
私達みたいな不細工は勝負する以前に、その土俵に上がることすら出来ないのだから、その反応も当然だ。
恋愛なんて、所詮は顔。
どれだけ努力して自身の価値を高めることが出来たとしても、同じだけの価値を持つ美人に全てを奪われて終わるだけ。ただでさえ、男の子は本当に少ないのだ。もはや圧倒的な容姿を持っているというだけで、絶対に意中の男の子と結婚出来るなんて楽観視が許される時代ですらなくなってきているのだから……本当にもう、やってられない。
「……」
1人、また1人と。現実に耐えられず机に突っ伏していく同志達。
僅かな期待を捨てきれず、いつもより早い時間に登校して来たこともあって、苦痛の時間はより長く、より辛いものとなって彼女達を襲ってきていることだろう。
あぁ、神様はなんて残酷なんだろうか。
私は今、世界の縮図を見ている気がする。
―――――え?
そんな中にあって、じゃあなんで私は平気そうにしているのかって?
「くひぃ」
まあ確かに、去年の今頃は私も彼女達と同じように机に突っ伏していた記憶がある。
捨てきれない期待に心を蝕まれ、最早生きているのかも分からない状態で帰路に着いていた事を覚えている。
「ふひ」
可能性のないままに、どうにもならないコンプレックスを抱えたままでいたとしたら、いつか本当に犯罪を犯して捕まってしまう未来もあったのかもしれない。
「ふひひぃ」
――それでもね、私は出会うことが出来たから。
「……」
鞄の中に入っている、もう何度も読み込んだ小説を大切に取り出し、胸に抱く。
「うぁ、あ゛ぁぁ……」
これだけでもう、脳汁ドバドバ。理性がグチャグチャ。体中から溢れ出る幸せホルモンが止まらない。
「あ゛はっ……」
頭の中で思い浮かべるのは、あの時の光景。状況。手のひらに伝わる彼の温もり。
「望くん」
お互いに読書が趣味で、インドアで、私の顔を見ても嫌そうな顔をしない。
「望くん‥‥望くん、望くん望くん望くん望くん――――」
私と普通に会話をしてくれる。素っ気なくても、お勧めの本を渡してくれる。手を握ってくれる――傍に、いてくれる。
「はぁ、はぁっ……望くん」
――私は知っている。
私と彼の、この甘酸っぱくも面映ゆい関係を、世間では相思相愛と言うのだろう。
「ふぅ」
いけない、いけない。あの日の事を思い出すと、いつも妄想が止まらなくなって現実に戻ってこれなくなる。自室ならまだしも、流石に学校では自重しないと。
「……?」
いつの間にか、先ほどの喧騒が嘘のように静まり返っている教室から抜け出し、息を整えるためにトイレへと向かう。
今日は私と望くんにとって特別な日となるはずだから。放課後までには冷静でいられるようにしておかないと。
「――――♪♪」
――あぁ、私って今、とっても幸せだなぁ。
「「「「「「………」」」」」」
触らぬ神に祟りなし。
◇◇◇▢▢
ただでさえ気色の悪い少女達が、ただでさえ薄っぺらな理性を放棄し、ただでさえ醜い顔面を盛大に歪ませている――一方その頃。
「――――」
乱立する木々。清涼な空気が辺りに満ちて、木漏れ日すらなく、深緑色に染まる森の中。
「――けほっ……はぁ、はぁ」
ひらひらと揺れるスカートから伸びる細枝のような脚を懸命に動かし、地面に繁る雑草を踏み鳴らす、姉妹が2人。
小さな口から漏れ出る息は、白い軌跡となって顔の横を通り過ぎ、身震いするほどの寒さにも関わらず、2人の額には大粒の汗が光っている。
元々は白一色であったのだろう靴は跳ね返る土と泥で既に見る影もなく、靴下への被害はギリギリセーフといった所だろうか……いつから走っているのか定かではないが、吐く息は荒い。風で乱れる髪には所々に蜘蛛の糸が絡まっており――成程、こういう感じの子供を野生児とでも言うのだろうか。
「――っぁ、はぁっ」
一体全体、どういう経緯があって、こんな意味の分からない状況に……
平日の早朝ということもあって、周囲に人の気配は感じない。男の子でないのだから、誰か痴女に追いかけられているというわけでもないのだろう。
2人が着ているのはどうみても制服。であれば早朝のランニングでもないわけで……
寝坊をして、遅刻寸前の状態なのだろうか‥‥それにしては教材を入れるリュックやランドセルがその背に見当たらない。
場所、状況、状態……そして容姿。
そのどれをとっても不審と判断するに困らない少女達は、なぜか必死の形相で森を駆け、身体の小さい方に至っては休憩する素振りも見せず、ただひたすらに前へと進んでいる。
「――ちょ、ち゛ょっと待って! お姉ちゃんそろそろ体力が限界かも!」
「え、もう?」
「地面がデコボコしてて走りづらいの! ただでさえ私は運動全般が苦手なんだから、ちょっと休憩にしようっ?! ね゛っ?!!」
「えぇぇ……でも、そんなこと言ってたら絶対に間に合わないよぉ」
「それで力尽きちゃったら本末転倒だって! 正直もう足の感覚が無くなってて―」
「うぅ~ん、分かった。じゃあこの森を抜けたら休憩しよう!」
「え゛っ」
「恋に苦難はつきものよって、あの変態も言ってたじゃん! だからもうちょっと頑張ろう!」
「――――」
―数十分後―
「着いたぁ!」
「お゛、お゛ぇ……かひゅ――」
暗い暗い森を抜けた先、眼前に広がるのは、どこか懐かしさを想起させる街並み。
息も絶え絶えになりながら、ぼやけた頭でようやく休憩出来るのだと認識した時、安堵と共に倒れるようにその場にへたり込む。
こんなに走ったのはいつ以来だろうか。お屋敷での仕事で体力がついているものだと錯覚していただけに、この事実は彼女のプライドを軽く傷つけていた。
隣を見れば、先程まで自分と同様に走り通しであった妹が気持ちよさそうに身体を伸ばしている。
幼い頃、2人で深夜の街を徘徊していた時は、私の後ろを付いて来るので精一杯だったはずなのに――今では自分の前を率先して走っていくまでに成長した妹の事を嬉しく思いつつ、けれどほんの少しだけ寂しさも感じてしまうのは、まだ私が妹離れを出来ていないということなのだろうか……
そんな私の気持ちなど知る由もなく、微塵も疲れを感じさせない動きでキョロキョロと視線を彷徨わせていた妹は、やがて目的の建物を見つけると、ガバッ―という擬音が付きそうなほどの勢いで私の方へ振り向いてきた。
「やっとだね、お姉ちゃん」
この子には似合わない、どこか哀愁を感じさせるような表情で、昂る気持ちを噛み締めるようにそう呟く。
「やっと……やっとだよ」
「……」
そう言われて、私も5年ぶりに見た街並みを懐かしむ。
今でも鮮明に覚えている、あの日の記憶。
私達姉妹は昔、この街で暮らしていた。
饐えたゴミの匂いが充満する小さなアパートの一室で、妹と2人。毎日毎日、あてもなく、私達を残して消えてしまった母親の帰りを待っていた。
「話したい事、いっぱいあるもんね」
死にたくなるような日々を過ごしていた中で、あの日食べた、ホットケーキのことを覚えている。それは頬が落ちちゃうくらいに美味しくて、ふわふわで――気が付けば、帰路に着くあの人の後を追って、勝手に家に突撃してしまって――
「ねぇ、みぃ」
見渡す限り本で埋め尽くされたお部屋も。暴れないようロープでぐるぐる巻きにされたことも。いい匂いのする綺麗な浴槽でお風呂に浸かったことも。一緒のお部屋で寝たことも。
「あの人に会ったらさ、まずなんて言おうか」
あの人が迎えに来てくれると信じて……みぃと2人、星を眺めていたことも。
「そんなの、決まってるじゃん」
あの日、私達は救われた――それは確かな事だけど。
「たっっっくさん、文句を言うよ」
言葉では足りないくらい、感謝している。それは本当に、本当で、嘘ではなくて。
「どうしてあの時、私達を迎えに来てくれなかったんだって。どうして一度も、会いに来なかったんだって……あの日、私達がどれだけ悲しい思いをしたのかを、全部」
理不尽だなと、自分でも思う。助けてもらった身の上で、それ以上を望むだなんて。
「全部伝えて、それから――」
あぁ、やっぱり私達は我儘だ。
昔の生活とは比べるまでもない、折角、幸せな毎日を手に入れたというのに。
いくらするのかも分からないパジャマに包まれて、ふかふかのベットで眠ることよりも。
テーブルに所狭しと並べられた、豪華なご飯をお腹一杯食べることよりも。
使用人として、忙しくも充実した日々を過ごすことよりも。
「大好きだって、告白するの」
あの一夜限りの幸福を、願わずにはいられないんだから。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
――あぁ、気持ち悪い。
剣呑な雰囲気が漂う教室内で、自身を射殺さんばかりに睨みつけてくるクラスメイト達を冷めた表情で見つめながら、私は胸中に溢れる吐き気を必死に押しとどめていた。
「貴方みたいな不細工に、そう言われるとイラっとするよ」
まるで汚物でも見るような瞳でそう告げるのは、顔も名前も分からない、分かるのは私よりも圧倒的に容姿が優れているというだけの女の子。
先程の私の物言いが余程気に障ったのか……教室内には他の男子生徒もいるというのに、身体中から溢れ出る怒気を隠すこともせず、こちらを見下ろす形で立っている。
「――っ」
そんな彼女の様子に、少しだけ驚いた。
普段なら気にも留めていないだろう、私みたいな不細工の発言でここまで怒ってしまうだなんて、滑稽というか哀れというか。
彼女の周りで同じように私を睨みつけている子達も同じ。少し図星を突かれた程度でここまで余裕がなくなってしまうだなんて、未だに自分の気持ちに折り合いをつけられていないその中途半端さが、恋愛では一番不要な感情だというのに。
――気持ち悪い。
果たしてこの中に、のぞみ君の本当の魅力に気が付いている子はどれだけいるのだろう。
外見的な側面だけではなく、その内にある不器用な優しさに心救われたことがある女の子が、私以外にどれだけいるというのだろう。
ただ、容姿に恵まれなかったというだけで‥‥母親以外との繋がりを持てず、希望を持てず、心を病んでしまった小さな女の子が。
あの日、あの時、あの場所で。
きっと本人にしてみれば、なんてことのない。
言葉なんてなく、少しの励ましもなく、けれど傍にいてくれた――ただそれだけの事実に、どれだけ救われたと思っているのか。どれだけ、惚れたと思っているのか。
きっと彼女達は、何にも分かっていない。
何にも分かっていないくせに、発情した猿のように下劣な脳みそでのぞみ君を想像しているのだということ自体が、事実が、現実が……もう度し難い程に反吐が出る。
――気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
それはもう、直視することすら耐えられない程の苦痛。
「――――ぁ」
目の前のクラスメイト達は、もう人の形をしたなにかにしか見えなくなくなってしまっていた。
私の身体が勝手に拒絶反応を示してしまったということだろうか。おかげで吐き気は少し和らいだが、それでものぞみ君のいないこの空間から、一刻も早く離れて落ち着きたかった。
この場で嘔吐するなんて洒落にならない。
苦しくなる胸を両手で押さえ、一度深呼吸をしてその場を立とうと――
「……え、私は全然付き合うつもりでいるけど?」
「ちょっ、玲奈ぁ!」
「お願いだから空気を読んでぇ!」
そう思っていた私の気持ちは、けれど、突如背後から聞こえてきた呑気な女の子の声によって、いとも簡単に霧散してしまって。
「――は?」
地獄の底から響くような、たったそれだけの1音に、教室の隅にいた男の子達が悲鳴を上げたのが視界の端に見えた。
「今、なんて言ったのかしら?」
閻魔大王とか、死神とか、悪魔とか――空想上で何度も見聞きしてきた恐怖の象徴。理由はないけど、それらはきっとこんな声で人に話しかけてくるのだろうなと、どこか達観した思考でそんな事を考える。
「――――」
教室の窓ガラスは閉め切られているというのに、嫌に肌寒い空気が自慢の巻き髪を揺らしている。
「――――」
蛍光灯はチカチカと点滅を繰り返し、まるで得体の知れない化け物を目にして怯える子供のようだった。
「――――」
まったく、一体誰がこんな傍迷惑な声を出しているのだろうか。
そう思って周囲の様子を窺ってみても、なぜかクラス中の視線は私ともう1人だけに向けられていて――
「ちょ、ちょちょちょちょヤバいって! 絶対ヤバいやつだって!」
「玲奈ぁ!」
「う~ん…生憎と、そんな脅迫で縮こまる程私って弱くないというかぁ……」
「あ゛?」
「貴方がどれだけ望くんに惚れていようが、まあ私にとってはどうでもいいことなんだよね。最終的に彼と結婚するのは私だって、もう将来の先約は取ってあるんだから。何年も前に」
あぁ……強いな、この子は。こんな声の主を相手にして、こんなに気丈でいられるなんて。
「相手が望くんである以上、容姿的なアドバンテージは無いにも等しいことは分かっているんだけどね。でも――」
よく見たら、凄く綺麗な顔だ。まるで絵本に出てくるお姫様のような――
「正直に言って、貴方に負ける未来が見えないの。ごめんね嘘がつけなくて♪」
私の、大っ嫌いな顔。
「お前、殺すぞ」
あぁ……これ、私の声か。
WARNING




