31
メロンソーダ
面倒事というものは得てして、きてほしくないと思った時ほど畳み掛けるようにやってくるものである。
「先週も伝えたと思うけど、今日からこの学校に通うことになる新しいお友達を紹介しますね」
あの日、彼女から伝えられた言葉を忘れていたわけではない。
どの道、いつかは向き合わなければならなかった問題。それがたまたま今日だった……と、ただそれだけの事。
「もう、ざわざわしない! 男の子じゃないって何回言ったら分かるのよ」
この世界に男として生まれてしまった以上。何より、彼女達と関わってしまった以上。
「よし。それじゃあ、入って来て」
その贖罪から逃れることが出来ないなんてことは、ちゃんと分かっていた事じゃないか。
「じゃあ、早速だけど自己紹介をお願いね」
それでも、なんでこのタイミングなんだと嘆くくらいは許してほしい。
――矢沢 真央――
「別に、アンタ達と仲良くするつもりはないから」
「はぁ」
期せずして、役者は揃った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
――来る11月1日 天候:曇り
ヴァレンタイン当日
この日、世界中の女性達が浮足立っていた。
「お願いしますお願いしますお願いしますぅぅぁぁああ゛あ゛!!!」
ある者は、下駄箱の中を祈るような仕草でゆっくりと開き――撃沈
「ちょっ、うるさい! やめてよ恥ずかしい!」
またある者は、自分は全然気にしてないですけど……なんて気取った態度でいつつも、いつもより圧倒的に緩慢な動きで下駄箱を覗き込み――同様に撃沈
傍から見ればなんて情けない姿だろうか。
それでも、そんな彼女達を馬鹿にする人間はいない。
――今日に限っていえば
むしろ恋する乙女達の緊張は伝染し、心を揺らし、周囲の人間すらも巻き込んでいく。
男性のいない広告会社のオフィスで1人。朝一番に出社し、意味もなく何度もデスクの中身を確認する29歳独身崖っぷち女性社員。
滅多な事では部屋から出てこないくせに、今日に限ってはバッチリと化粧をして寒空の下1時間以上も散歩を続けている22歳引き籠り。
鬼畜な上司との死闘の末に有給休暇を勝ち取り、日の当たるカフェのテラス席で10度目のコーヒーを注文し終えた新米教師。
入院中にも関わらず、身体に纏わりつく看護師達を振り切って院内を徘徊する病弱少女。
混沌とする街中。
飛び交う視線。
漏れ出る溜め息。
震える小鹿。
異性からの告白など、期待するだけ無意味な事だと人は言う。
そもそもが男性の少ないこの社会。告白なんてしなくとも、いつだって周囲には鬱陶しいほどの異性で溢れているという事実は、この世界に生きる男性達の共通認識として既にある。
期待を胸に抱いていても、伸ばされた手が繋ぎ止められる事はない。
震える男性に熱い視線を送ったとしても、お洒落をしても、どれだけ祈りを重ねても。
「のぞみ、お母さん甘い物が食べたいなぁ……なんて言ってみたり」
「……」
こんな残酷で面倒臭いだけのイベント、なくなってしまえば楽なのに。
長年維持されてきた男女比1:3という均衡が崩れてしまった事が原因なのか、その熱は冷めるどころか増すばかり。
可能性の低さ故に期待は高まり、現実味の無さ故に妄想は広がる。
最早、歯止めの効かなくなった少女達に何を言っても無駄だろう。
「……はぁ」
溜め息と共に席を立ち、憂鬱な気分のまま制服に袖を通す。
世の女性達には申し訳ないが、私達男性陣としては、ただこの日が一秒でも早く終わってくれることを祈るばかりだ。
血走った目を向けてくる少女達が、少しでも早く正気を取り戻してくれるように。
そして願わくば、誰も傷つく事が無いように。
「行ってきます」
――同刻。少女はその日、静かな決意と共に玄関の扉を開けた。
振り返った先に母親の姿はない。
昼夜問わず仕事で家を空けることが多く、今日もまた夜が明けきらないうちに出て行ってしまったのだろう。
台所には冷たくなっているおにぎりが2つ、ラップに包んで置いてあった。
“ヴァレンタインだからって望君に迷惑をかけちゃ駄目だからね!”
……その上に載せられていた置手紙は余計だったけれど。
「……むん」
些かの不満を顔に出しながらも、気を取り直して学校までの道のりを急ぐ。
普通に歩いて行っても遅刻にはならない時間帯。
それでも気持ちが早ってしまうのは、やはり今日がヴァレンタインだからというのが大きいのだろう。
「今日こそ、絶対」
初めて出会った時からずっと、思いを寄せている男の子。
小学生時代。面と向かってチョコが欲しいと伝えても、のらりくらりとはぐらかされて、結局一回も貰えることはなかった。
一緒にザリガニ取りをしたり、ホットケーキを作ってくれたことは何度かあったのに。
頑なにチョコだけはくれない彼の態度に、始めは照れ隠しかと疑ってもいたのだけれど、どうやらそうでもないようで……
「不思議」
赤信号。足を止めてぼんやりと空を見上げる。
今日はあいにくの曇り空。
折角の特別な日だというのに、開始早々ケチが付いたみたいで面白くない。
「むぅ」
いつもより早い登校時間なのにも関わらず、周りにはそわそわと落ち着かない様子の学生達の姿が見える。
考えることは同じということなのだろう。
視界に映る少女達は皆、小さな手鏡とにらめっこをしながら崩れた前髪を一生懸命に直している。
いつもなら気にも留めないその光景も、けれどあの中に彼の好みに合う女の子がいたらと考えると、なんだか胸がモヤモヤとしてしまう。
「早く会いたい」
寒さで赤らむ頬を首に巻いたマフラーに埋めて、青に変わった信号を見るなり少女は駆け出した。
「はぁ、はぁっ」
向かい風で滅茶苦茶になる前髪も気にせず、ただ早く――彼の下へと。
「……何ですか、あれ」
そんな光景を怪訝な表情で見つめるのは、彼女と同じ制服に身を包む小柄な少女。
制服を着ていなければ小学生と間違われてしまいそうな体躯の彼女の前髪には、明らかに新品と思われるいちごのヘアピンが付けられている。
「まあいいです」
どうせくだらない理由だろう。
意中の相手に度々ちょっかいを掛けている彼女の事は、明確に敵と認識している。
彼に迷惑をかけている場面ならいざ知らず、1人でいる所を話しかけるなんて死んでも嫌だった。
「ふぅ」
そんな事よりも、目下自分が一番気にするべきなのは――
「チョコレート、今年は貰えるのかなぁ」
結局、これに尽きるのだった。
「相変わらず昔みたいに話してはくれないけど、でもこの前は名前だって呼んでくれたんだし……一応気にしてはもらえてるってことだよね」
「嫌われてるなら近づいた時点で逃げられちゃうはずだし……じゃあやっぱり可能性がないことはないって事……だよね、うん」
急に道端で立ち止まり、1人ぶつぶつと自問自答を繰り返す彼女は、果たして自分が先程の少女と同じく奇異な視線で見られていることに気付いているのかどうなのか。
まあ、恐らく気付いていないのだろう。
「もしかしたら、チョコを持ってはいるけど恥ずかしがって渡せずにいる可能性もあるわけで……えへへ、そんなに私の事を思ってくれてるんだぁ!」
寒空の下、なぜか少女の周りにはピンク色の靄が発生している。
「取り敢えず、さりげなく2人きりの状況をつくらないとだよね! よし! そうと決まれば早く作戦を考えなくちゃ」
非常に可哀想な事に、彼女にはその肥大化した妄想を粉々に打ち砕いてくれる友人がいない。
故に、その間違いは訂正されることのないまま、ただただ勘違いは悪化していくばかりで――
「――っは、いつの間にこんな時間に?!」
慌てて駆け出した少女がいた場所には、まるで誰かの嘆きのような弱々しい風が吹いていた。
「お母さん……私、今日は学校休みたい」
朝食時。朝日に照らされ金色に輝く半熟の目玉焼きをいつも通り醤油で食べるか、背伸びをして胡椒で食べるかを考えている時の事だった。
唐突に聞こえてきたその声に、思わず醤油が入っている容器へと伸ばしかけていた手を止めて隣を見る。
「お願い」
今年で中学2年生になる私の妹は、出された朝ごはんに一口も手を付けることなく、代わりに制服のスカートをしわくちゃになるくらいに強く握りしめていた。
「「……」」
視線を下に向け、思いつめた表情でそう告げる妹の様子に、思わず過去の光景がフラッシュバックする。
6年前……小学校入学から間もなく不登校になってしまった時も、この子はこんな顔をしていた。
抱える不安に押しつぶされそうになっているのに、それでも私達に迷惑をかけたくないと気を張って――
「唯、何か嫌な事でもあったの?」
お母さんも同じ事を思ったのだろう。
普段から全くと言っていい程変わらない鉄仮面を不安そうに歪め、綺麗に整えられた眉は頼りなく下がっている。
「そうじゃないんだけど……でも」
「ゆい、困っている事があるなら正直に言ってほしい。今度は絶対にお姉ちゃんが守るから」
「うぅぅ……」
私もお母さんも、昔みたいな後悔は二度としたくないと思ってる。
言葉に詰まる妹の背中をさすり、落ち着いて話が出来るように優しく促す。
そんな気持ちが伝わったのだろう。
やがて小さく息を吐いた妹は、改めて私達の方へと向き直り、そのふっくらとした頬を赤く染めながら話し始めた。
「今日はね、ヴァレンタインでしょ?」
「「……?」」
予想に反して聞き馴染のない単語を告げる妹に、思わず脳がフリーズしてしまう。
「え、噓でしょ。もしかして知らないの?」
ありえないと、まるで初めて宇宙人を目撃した人のように口に手を当てる妹。
その様子を逆に不思議に思いながら、お互いに目を見合わせる私とお母さん。
ヴァレンタインって、何なのだろう。
ポカンと口を開けたままの私とは違い、娘の失望顔が相当に堪えた様子のお母さんは慌てて立ち上がり、自室から分厚い辞書を持ってくる。
「――って、そんな事しなくていいからっ!」
何か恥ずかしい事でもあるのか、凄まじいスピードで辞書を引くお母さんの目元を必死に手で覆っている。
何だかよく分からない状況になってしまったけど、このままでは埒が明かない。
「そのヴァレンタインっていうのはよく分からないんだけど……えぇと、結局誰かに嫌な事をされたとか、そういう事ではないってことでいいの?」
「はぁ、はぁ……そうだよ」
「……」
それじゃあ、なんでまた学校を休むなんて……
「もう、待ってるだけじゃ嫌だから」
「え?」
小さく呟かれたその言葉を上手く聞き取ることが出来ず、思わず間抜けな表情で聞き返してしまう私。
「あの時の事、とっくの昔に忘れられているのかもしれないけど」
「……」
続く妹の言葉に、なぜか昔出会ったあの男の子の事を思い出す。
「もう、彼の隣には私じゃない誰かがいるのかもしれないけど」
「……」
今もまだ、妹と2人であの古書店カフェには通っている。
いるはずがないとは分かっていても、自然と視線はあの子を探している。
もう戻ってはこない――あの夢のような日々に思いを馳せて。
「ずっと、好きだから」
……あぁ、多分この子は本気だ。
「大好きだから」
「うん」
もう、理由は聞かなくてもいいか。
「行ってくるね、お姉ちゃん」
なんだか、泣きそうだ。
「いってらっしゃい、ゆい」
いつの間にか、こんなに成長していたんだなぁ。
◇◇◇◇◇
どうして今日なのかと、説明出来る人物は恐らくいないだろう。
虫の知らせのような、何か予感がしたからだろうか?
彼が中学一年生という、ある意味節目の年だから?
それとも、今日がヴァレンタインだから?
そのどれもがありそうで、けれど違う気がする。
ひょっとすると、ヴァレンタインそのものは、彼女達にとってただのきっかけに過ぎなかったのかもしれない。
ただ、なんの進展もないままに過ぎ去るこの平和な日常に焦りが募って。
気が付いたら、どこか遠くへ行ってしまいそうな雰囲気をみせる彼を繋ぎ止める、何かが欲しくて。
結局の所、確かなのは
少女達にとってのその日は今日だった
今はまぁ、そういう事にしておこう。
◇◇◇◇◇
「……」
朝起きて、まず始めに感じたのは何か言いようのない不安感だった。
野生の感、とでも言うのだろうか。
基本細かい事には頓着しない、まさに竹を割ったような性格の彼女にしては珍しく、その不安感は消えることなく、じくじくと胸をざわつかせる。
「双葉ちゃん?」
そんな様子が珍しかったのか、隣で毛布を畳んでいたもう1人の少女が怪訝な顔を向けてくる。きっちりとした性格の彼女らしく、既に着替えは済ませているらしい。
2人のいる部屋には既に朝の日差しが眩しく入り込み、隣室から聞こえてくる目覚まし時計の音が鳴り止むことなく響いている。
昨日の深夜、自分達が寝入るその瞬間まで騒がしくしていた年長の先輩達。きっとそのまま起きてはこれないだろうから、朝のウインナーは私がありがたくいただくとしよう。
「もうっ、また悪い顔してるんだから! 嫌だからね、双葉ちゃんのせいで私まで先生に叱られるの!」
「冴はいちいち細かい。バレなきゃ大丈夫なんだから」
「だ、か、ら! それがいつもバレてるから私まで叱られてるって言ってるの!」
「そうだっけ? 忘れた」
「――!」
そう言う私の態度が気に入らなかったのか、ただでさえ赤くなっている顔をさらに真っ赤に染めた冴は、手に持っていた枕を言葉もなく投げてくる。
的確に私の顔面を目掛けて飛んでくる殺意100%の枕。怒ると直ぐに物を投げる癖がある友人のことは、ここ数年で完璧に把握している。未だ完全に覚醒しない頭で面倒臭いなと思いながら、最早焦ることもなくそれを避けようと――
――ガチャ
「――2人共? もう朝ごはん出来てるけどぼはあぁっ!」
「あーぁ」
勢いのついた枕が突然部屋に入って来た先生に被弾。効果はバツグンだ。
「――――」
「あ、あわわわっ……」
不意の攻撃を受けて倒れてしまった先生。流石に枕が当たっただけで死んでしまうことはないと思うけど、ひまわり園で一番先生に懐いている冴は分かりやすく顔面蒼白になって取り乱している。
これは良くて朝ごはんのおかず抜きか、最悪晩ご飯の没収まで有り得るな。
1週間前、隠されていた高級クッキー缶を丸ごと強奪した件もまだ許されてはいない中、これは非常にマズい。私だけでもなんとかせねば。
「双葉、冴。これは一体どういうことなのかな?」
上半身だけゆっくりと起こし、静かな口調でそう尋ねる先生は……あぁ、これは滅茶苦茶怒ってるやつだ。
「ふーは知らない。冴がやった」
努めて冷静に、呆然と固まる友人へ向けて指を差す。
「……冴、本当?」
「え、いや……私は、だって双葉ちゃんがっ!」
「ふ、ふふふ。ついこの間も叱ったばかりなのに、全然伝わってなかったんだぁ」
「全く、冴はもう少し落ち着くべき」
「はぁ?! 元はと言えば――」
流れに便乗してこの場を乗り切ろうとする私に詰め寄る冴。けれどその手がこちらに届くことはない。なぜなら――
「冴、ちょっとお話しましょうか?」
先生に両肩を掴まれ、為す術もなく引きずられていく友人の何と哀れな事か。
せめて朝食抜きが確定した冴の分まで私が責任を持ってしっかりと食べてあげようと、そんな意味を込めて軽く合掌する。
「双葉ちゃあぁぁぁぁぁっ――――!!!!!」
あぁ、お腹空いた。
「成程、それで先生と冴ちゃんがいないんですね」
「もぐもぐ」
それから手早く身支度を済ませ、ここは少し広めのリビング。
テーブルに並ぶご飯をもきゅもきゅと口に詰め込む私の前で、頬に手を当てそう呟いているのは、今は近くの高校に通っている雫お姉ちゃんだ。私がここに来た時には既に朝食を済ませ、自分で淹れた紅茶を優雅に飲んでいた。
「全く、年は同じでもここでは双葉がお姉さんなんですから。……ご飯、冴ちゃんの分まで食べては駄目ですよ?」
「……」
自分の分を食べ終わり、視線を隣のお皿へ移していた所を咎められる。
元々ひまわり園で一番の年長さんだった胡桃お姉ちゃんがいなくなってしまったことで、代わりに頑張らなければと意気込んでいる雫お姉ちゃんは、今日も厳しい。
「代わりに茜の分のウインナーなら食べてもいいですから」
前言撤回。やっぱり雫お姉ちゃんは優しい。
「それを食べたらちゃんと冴ちゃんとも仲良くすること。――約束ですよ?」
片目を閉じて微笑むその仕草は、美人な女の人がやれば絵になるんだろうなぁ……と、そんな事を考えたら怒られるので、思うだけに留めることにする。
私を甘やかしてくれた秋お姉ちゃんや雪音お姉ちゃんも高校を卒業してしまった今、先生を抜いて事実上この施設のヒエラルキーのトップに君臨する事になった雫お姉ちゃんに逆らうことは出来ない。昔なら最年少の強みを生かした癇癪でなんとかなったものの、数年前にひまわり園にやって来た冴や他の子供達がいることで、今はそれも無理になった。
「ふふ、あんなに騒がしかった双葉にも少しは私達の苦労が伝わったようで何よりです」
「ふーは別に、だって冴がうるさかったから」
「……あぁ、あの時は確かに大変そうでしたね」
冴がここに来てまだ間もない頃。何か人には言えないトラウマでもあったのか、1人になることを極度に嫌っていた冴は、施設にいる唯一の同年代である私にべったりだった。
普段学校に行くときは勿論。帰ってから部屋で本を読んでいる時も、洗濯物の陰に隠れて盗んだクッキーを食べている時も、夜寝る時も、そして――
「当然、彼に会いに行こうとする時も……ですよね?」
「むぅ。分かってたなら、ふーは助けて欲しかった」
「分かっていたから、私は止めなかったんですよ♪」
「ふん」
先生の目を盗んであの人の所へ行こうと思っても、傍には必ず冴がいるから直ぐにバレてしまった。今でこそ付き纏う事はなくなったものの、それでも私が抜け出そうとするタイミングが感覚で分かるのか、直ぐに先生に告げ口されてしまい、私は思うように動けずにいる。
「彼と添い遂げるのは私なんですから、双葉はそのまま大人しくしていればいいんですよ?」
「絶対ヤダ」
「ふふ、生意気な子」
薄く目を開け微笑む雫お姉ちゃん。なんの進展もないまま高校を卒業してしまう事に焦りを感じているのだろう。最近はあの人の話題になると、背筋が凍るような覇気を出して凄まれることが増えた。
――まあ、それでも私は引かないけど。
「それよりも、茜お姉ちゃんと奏お姉ちゃんは?」
空気が重くなってきたので、そう言って話題を逸らす事にした。
流石にもう目覚まし時計の音は止まっていると思うが、それでもまだここにいないということは――
「はぁ」
返答の代わりに、長い溜息を吐いて頭を押さえる雫お姉ちゃん。
「茜の馬鹿が……全く、奏もいちいち付き合ってあげることないのに」
「……?」
昔から、雫お姉ちゃんと茜お姉ちゃんが口喧嘩している光景は何度も見てきた。昨日隣室から聞こえてきた声も、だから2人のものだと思っていたのだけれど。
「どうすれば合法的に中学校に侵入出来るのか、だそうです」
「え?」
「下らない議論を私達に持ちかけて、挙句寝坊する馬鹿の事は放って置いて構いません。私は奏だけ起こして学校へ行くことにします」
「……え?」
――それじゃあ、と。
空になったコップを台所へ持って行って、雫お姉ちゃんは廊下の奥へと消えていった。
対して、言われたことの意味が分からず、その場でしばらく放心していた私はというと――
「あっ、ヴァレンタイン!」
今日が11月1日であったことを、今更になって思い出したのだった。
今もまだ先生に叱られて泣いているであろう、拗ねると面倒くさい友人の事など忘れて。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
空気がヒリヒリする ――とは、まさにこういう感じを言うのだろうか。
騒々しい声で溢れかえる校舎とは打って変わって、張り詰めた静寂に包まれる教室。
朝礼の時間にはまだだいぶ余裕があるというのに、誰も自席から離れる様子を見せず、ただ静かに瞼を閉じて沈黙している。
その様子はまるで広大な平原の中、草をはむ草食動物を仕留める為、姿勢を低くし息を潜める肉食動物が如く。歴戦の狩猟者すら唸り背筋を凍らせるほどの何かが、彼女達の内から発せられていた。
たかが中学1年生と――そう鼻で笑う大人達を逆に嘲笑うかのような濃密な気迫。
既に登校していた小鹿達は教室の隅で身を固め、弱々しく身体を震わせながら怯えることしか出来ない。教室に入った瞬間から全身を包みこむ異様なプレッシャーは、最早群れるだけでは打ち消せない程の恐怖心と共に肥大化していく。
ただ息をしているだけなのに早鐘を打つ心臓。
ゴクリ―と、誰かが唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえる。
寒気しか感じられない教室で、しかし少女達の頬には共通して一筋の汗が伝っていた。
「何よこれ――辛気臭いわね」
いや、正確には――とある数名を除いて。
「ひょっとしてここにいる全員、のぞみくんからチョコがもらえるんじゃないかって期待してるわけ?――バッッッカじゃないの」
「「「「「――――っ」」」」」
その物言い、まさに傲岸不遜。
この張り詰めた緊張感に包まれる教室内で、聞こえなかったなんて言い訳を許さない程の声量でそう言い切った彼女――矢沢 真央。
緩く巻かれた金髪はこのどんよりとした空間にあって一際強烈に輝き、シワのないスカートの下からは黒いストッキングで覆われた細長い足がスラリと伸びている。
制服を押し上げるその豊かな曲線を支えるように腕を組み、彼女は冷めた表情で辺りを見回した後、これ見よがしに追撃を放つ。
「あ〜あ、やだやだ。みっともなくて反吐が出る」
有象無象にいくら嫌われようがどうでもいいと、言外にそう告げる彼女の真意は何なのか。そう冷静に分析できる者がこの場に1人でもいたのなら、きっと精一杯に強がる彼女の唇がほんの僅か……緊張で震えていることに気付けたのだろう。
「えぇと、急にどうしたのかな」
けれど、ここにいるのはただの中学生。
「ひょっとして、私達に喧嘩を売ってるの?」
多感な感情を持て余し、緊張で張り裂けそうな心臓を何とか押しとどめていた理性ギリギリの少女達。
今日がヴァレンタインでなければきっと気にも留めていなかったであろうその口撃を、見逃してあげられるほど冷静ではなく――
「私達だって別に、本心では本気で望君と付き合えるだなんて思ってないよ――でも」
他でもない……転校生にそう言われて黙っていられるほど、自分を安く見積もってもいなかった。
「貴方みたいな不細工に、そう言われるとイラっとするよ」
「――っ」
ともあれ、この高慢的な転校生の発言をきっかけに――
「……え、私は全然付き合うつもりでいるけど?」
「ちょっ、玲奈ぁ!」
「お願いだから空気を読んでぇ!」
事態は静かに動き出す。
この世界はたくさんの面倒事で溢れている。




