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『主人公が転生しなかった世界線』
まだ肌寒さを感じる3月も半ばの事。
「忘れ物はない?」
「……大丈夫」
格安で買えた中古車に最後の荷物を詰め込みながらそう聞くお母さんに、素っ気なく答える。
荷物といっても、うちにはそんなに多くの物を買えるほどの余裕はない。
加えてどちらも物欲というものが全くないのだから、荷造りなんて、半日もあれば十分だった。
「折角なんだし、今日は久しぶりに外食でもしてみる?」
そんなこと言って、お母さんが誰よりも人混みを苦手としていることは知っている。私の為を思っての提案だろうけど、余計な気遣いだった。
「お腹、空いてないから」
「そっか」
読みかけの文庫本だけ手に持って、助手席に乗り込む。
お母さんも、それからは何も言わずに車を発進させた。
「……」
私がこの町で育って15年。
バックミラーに映るボロボロのアパートを見ても、特に何も感じることはない。
幼い頃から近所にあった公園でずっと1人。何をするでもなく、ベンチに座ってぼんやりと虚空を見つめながらお母さんの帰りを待っていた。
懐かしく感じるような思い出も、私の旅立ちを悲しんでくれるような友人も、私を愛してくれる恋人も……
私には何もない。
「……あ」
ぼんやりと窓の外を眺めていた私の視界に、あの公園が映り込む。
私が通わなくなってから、とうとう誰も座ることのなくなったあのベンチ。その奥に見える小山の方に、なぜか目が惹きつけられる。
気のせいだろうか、今一瞬……あの山の中腹にある開けた場所に、子供の人影が見えたような。
あんな辺鄙な場所に小さな子供が1人でいるなんて、考えられないことなのだけれど。
「どうかしたの?」
「……何でもない」
気にしたところで関係ないか。どうせ私は今日でこの町を離れることになるのだから。
見間違い、ということにしておこう。
もし本当に子供がいたとしても、私みたいな不細工に話しかけられたくはないだろうし。
「ここからは結構時間もかかるだろうし、気にせず寝ててもいいからね」
「うん」
これから私達が向かうのは、女性しかいないという田舎の町。
そこには私達のように容姿に恵まれなかった女性が沢山いるみたいで……同じ社会の爪弾き者同士、苦労しながらも慎ましく暮らしているらしい。
この世界の男性人口が少なくなってしまって、そういった場所は探せば各地にあるのだとか。
高校の入学試験に失敗した私と、大きなミスをして会社をクビになってしまったお母さん。
私達2人が頼れる場所は、最早そこしかなかった。
それでも、引っ越しを決断するのは簡単な事ではない。
「……」
女性だけの町に行く、それはすなわち、今後一切男の人と関われる機会を失ってしまうということ。
誰かと結婚するという未来を失い、ただ虚しい人生を送ることを許容することになる、ということ。
「……」
私みたいな不細工が誰かに期待すること自体無駄だということは分かっている。
最低限1人でも生きていけるくらいに働いて、余裕があれば子供を産んで……私の身の丈にあった幸せなんて、所詮そんなものだろう。
――それでも、私は
『山城さん』
幼い頃に一度だけ、どこか遠くから私の名前を呼ぶ誰かの夢を見たことがあった。
その小さな人影には真っ黒な靄がかかっていて、声も中性的でその子の性別すら分からない。
……ただ、初めて会うはずのその人影に名前を呼ばれた私は、なぜだかとても嬉しくなって。
思わず駆け寄ろうとする私の頬に、いつの間にか、涙が流れていたことに気が付いた。
走っても、走っても……その子との距離は縮まらない。
いつしか影は消えてしまって、目を覚ますといつもの天井だった。
思えば、私の心はあの瞬間から壊れていったのかもしれない。
けれど……こうして新しい町に向かうことに抵抗を感じてしまうのは、やっぱり、もう二度とあの子と会えなくなってしまうことが分かるから。
「もう町を出ちゃうけど、いいんだよね」
「大丈夫」
それでも、私が孤独に過ごしてきた15年という歳月はあまりにも長過ぎた。
誰からも関心を向けられず、味のしないご飯を食べて――そうして、変わり映えのしない毎日を繰り返す日々に私の心は限界を迎えてしまった。
あの夢さえ見なければ、何かに期待することもなく心を殺すこともできたのかもしれないけれど。
『山城さん、ザリガニを取りに行こう』
「……」
流れる涙を袖で拭う。お母さんにはバレないように。
「瑞稀、ごめんね」
それが何に対しての謝罪なのか、私には分からない。
それでも、もう決心はついたから。
「大丈夫」
大丈夫だよ、お母さん。
私はもう、誰にも期待をしないから。
いつかくる終わりの時を、私は静かに待ち望む。




