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パンナコッタ、ナンテコッタ



 真っ暗なカーテンで閉め切られたアパートの一室。


 かちこちになったご飯が残っているお弁当の容器に、カビの生えたパン、異臭を放つペットボトル。


 辺りに散らばるティッシュの残骸、埃を被った炊飯器、しわくちゃになったお洋服に、黄ばんで汚れた雑誌の束。


 足の踏み場もないほどのゴミが散らばる小さな部屋の中央で、頭まで被ったかび臭い毛布が揺らされる。


「ねぇちゃ、おなかすいた」


 囁くような、小さな声が聞こえる。


 生まれてからずっと息を殺すような生活を送ってきたせいで、すっかり身についてしまったのだろう。


「うぅ……まだねむぃ」


 昨日は2人、深夜の街を散歩した。


 私達以外誰もいない。静かで自由な夜だった。


 いつものように、お腹がすいたとぐずる妹の手を引っぱって。


 あてもなく、街灯の明かりに照らされて。


 くきゅるるるるる――


 お腹を鳴らしながら空腹を訴える妹を可哀そうだと思うけど、玄関先に置かれていたしわくちゃのお金は昨日の朝に全部使い切ってしまった。


 台所の棚にあったお菓子や、インスタントのお味噌汁ももうない。


 食べかけのおかずが入っているお弁当の中身を集めて食べようと思ったこともあったけど、すえた匂いがしていたし、妹が嫌がるのでやめた。


 近所にあったパン屋さんは、いつの間にかシャッターが降りていた。


 内緒でお弁当を買ってくれたお姉ちゃんは、どこか遠い場所へ引っ越していった。


 臭くて汚いからと、悪態をつきながらも私達をお風呂に入れてくれた1人暮らしのおばあさんは死んでしまった。


「ねぇちゃ、ごはん」


「おねえちゃんはごはんじゃないよぉ」


 最近、何もしていないのに疲れることが増えた気がする。


 ただ息をしているだけなのに、瞼が重くなる。身体が動かない……頭が、痛い。


 やっぱり、普段から変なものばかり食べているからだろうか。


 妹にあげたお菓子、強がらずに私も食べればよかったなぁ。


「ねぇちゃ、ねぇちゃ」


「わかったよぉ、じゃあ今からごはんを買ってくるからいい子で待ってなさいねぇ」


「や! ねぇちゃといっしょにいく!」


「うっ、生意気な妹めぇ」


 こしょこしょと脇をくすぐると小さな声で笑いをこらえる妹。


 あぁ、この子の笑う姿を見ているだけで心が癒される。


「くっくっくっ……もぅ! ねぇちゃ、やめてっ」


「大人しく家で待てるならやめてあげるよぉ?」


「やだ!」


「むぅ、強情なんだからぁ」


 困った困った。今日のお買い物には絶対に妹を連れていきたくないんだけどなぁ。


 自分でも悪いことをしようとしている自覚はあるから。


「ねぇちゃ?」


 それでも、私はこの子のお姉ちゃんだから。


 小さなこの子を守ってあげられるのは、私しかいない。


「……」


 道行く人に、助けてほしいと声をかけたことがある。


 足を止めて私の顔に視線を向けたスーツ姿の女の人は、嫌そうな顔をして歩いて行ってしまった。


 制服姿のおねえさんには邪魔だと言われた。


 私くらいの女の子と手を繋いで歩いている優しそうな女の人には無視された。


 俯いて泣いてしまった私を気にかけて、声をかけてくれる人は1人もいなかった。


「ねぇちゃ」


 どうせ助けてはくれないのだからと、誰かに期待するのはもう止めた。


「なぁんて」


 そう言って、割り切れたら楽なのに。


 あぁ――どうして、私ばっかり。


 私は何も悪いことなんてしていないのに。




■■■◇■




「ねぇちゃ、悲しいの?」



「うん、そうだねぇ」



「じゃあ、みーちゃんがいいこいいこしてあげる!」



「……」



「いいこ、いいこ」
















 お母さんがこのアパートに帰ってこなくなってから、もうすぐ1ヵ月が経とうとしていた。






◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇






 面倒極まりないけれど、事の経緯を話そうか。


 まず、山城さんがバカみたいに買ってきたホットケーキミックスをみて変なテンションになっていた私は、何を思ったのか、明らかに子供2人分の許容量を超えるボリュームのホットケーキを増産してしまっていた。ちなみに後悔はしていない。


 山城さんも凄かった。


 初めて食べたホットケーキがそれ程に感動するものだったのか、一皿目のホットケーキタワーをものの5分程で食べ終わると、追加でお皿に乗せた2棟目のタワーにもスピードを緩めることなく突撃していった。


 血走った目で欲望のままに食欲を満たそうとする彼女の姿は決して小学1年生の女児がみせていいものではなかったのだけれど……まあ、あそこまで夢中になってくれたのなら私も悪い気はしない。


 そんなこんなでホットケーキを焼いていき、それもすぐに食べられて……なんてことを繰り返して20分程が経過した時だったろうか。


 キィ――と控えめな音を立てながらゆっくりと玄関の扉が開かれた音がした。


「……?」


 社会人が帰宅するにはまだ微妙に早い夕方の時間帯。


 この家を訪れる人など私には山城母しか思い浮かばないが、それにしては一向にただいまの声が聞こえてこない。


 さては不審者でも来たのだろうかと、少しの緊張感に包まれながら横を向いたその先には――なぜか4つの目があった。


「「――――」」


「……」


「「――――」」


「……」


「ねぇt「ちょっ、静かに!」


「……?」


 なんだろう、今一瞬、とても薄汚いちびっ子が見えたような。座敷童かな?


 いや、それなら家にいないとおかしいか……それにこの家の座敷童は今も一心不乱にホットケーキを腹に収めている最中なのだし。


 見なかったことに――は、できないか。


「「……」」


 先程逃げたはずのちびっ子たち、いつの間にかまた扉をわずかに開けて覗き込んできているし。


「ねぇちゃ、あれなにっ!? いいにおい!」


「わかんない。でも……確かにとってもおいしそう」


「ねぇちゃ、ねえちゃっ! みーちゃんあれ食べたい!!」


「ちょっ、静かにしないと気づかれちゃうんだからぁ」



 凄いな、それでまだ隠れる気持ちがあったのか。


 もう完全に身体が玄関の内側にまで入ってきてしまっていることに気が付いていないのか。というか声も完全に聞こえてしまっているし、お腹の音がうるさいし、なんならよだれが落ちて汚いし……山城さんの家だからいいか。


「うぅぅ、おねぇちゃぁ」


「もう、そんな顔しないでよぉ……」


 話を聞く限り、ちびっ子2人は姉妹のようだ。


 涙目でホットケーキを懇願する妹に対し、姉の方が根負けしてしまったらしい。


「絶対無理だと思うから、期待はしないでね」


「うん」


 妹が頷くや否や、意を決した様子で山城さんがいる方向へと歩き出す姉。


 よく見たら裸足じゃないか。まさか外にいる時からずっと?


 最悪に汚い。苦手なタイプだ。


「ねぇ、ちょっといいかなぁ」


「はぐはぐ」


「あなたが食べてるそれ、私達も食べてみたくてぇ……」


「はぐはぐはぐ……おいし」


「あの、ちょっと聞いてる?」


「あまい」


 勝手に他人の家に入ってきて食べ物をねだるこの子もなかなか肝が据わっているが、山城さんの方が1枚上手だったようだ。


 耳元で話しかける女の子を視界に入れることなく、ただ目の前のホットケーキを食べることのみに没頭している。


 というか既に3皿目、この子は一体どれだけ食べるのだろう。


「なんで無視するのぉ!」


 それでも女の子の方は引き下がれないのか、無視をされても果敢に山城さんに話しかけ続けている。


 というか、そんなにホットケーキが食べたいのなら母親にでも作ってもらえばいいのに……


「……」


 と、そんな光景を眺めながら変わらず料理を進めていたので、いつの間にか私の目の前には4棟目のホットケーキタワーが立てられようとしていた。


 同じ作業を繰り返していたからだろうか、4回目にしてなかなかの完成度のものができてしまった。自分の才能が恐ろしいな。


「ごくり」


 こんがりとしたきつね色。ほかほかと湯気を立て、お皿を揺らすとぷるぷる震えるほどの柔らかさ。仕上げにバターと蜂蜜を加えると、それはもう圧倒的な視覚の暴力。甘味世界のユートピア。


 うん、思わず唾をのんでしまうのも納得だ。




「……ん?」


 あれ、先程喉を鳴らしたのは一体……



 くきゅるるるるるるるるr――



「……」


「……」


「……」


「……」


「おいしそぉ」


「……」


「たべていい?」


「……まあ、うん」


「わぁっ!!!!」



 駄目だった。


 流石に口に指を咥えてお腹を鳴らす幼女の頼みを断るほど非情にはなれなかった。


 今回非常識なのは完全にこの子達の方だけど――全く、親は一体何をしているんだか。



「ねぇってばぁっ! 無視しないでよぉ!」


「はぐっ、ごく」



 山城さんだけでも大変なのに、一気に騒がしくなってしまったアパートの一室。


 まあ、面倒な事は山城母が何とかしてくれるか。


 日もだいぶ傾いてきた。


 私はそろそろ帰り支度を始め――あぁ、終わった。



「「「「「「………」」」」」」



 ぐぎゅるるるるるるるるるr――


 ホットケーキの甘い香りに誘われたのは、どうやら幼女2人だけではなかったらしい。


 光に群がる蛾(最悪な例え)のように、山城家の玄関先には幼女の大群がすし詰め状態になっている。

全員が血走った目でホットケーキを凝視している光景は、この世界では発狂物のホラーだろう。


「……はぁ」


 これはもう、私も覚悟を決めるしかないようだ。


 幸か不幸か、山城さんが買ってきたホットケーキミックスはまだ山のようにある。


 心配なのは私の体力と気力、そして食欲を満たした獣達のその後の所業。


 それでも


「やるしかないか」


 床に置かれたホットケーキタワーを手掴みで食べ進める行儀の悪い幼女にツッコむことも諦めて、私は向かう。戦場へと。



「けぷ、おなかいっぱい」


「……うぅ…ぐす。結局、全部食べられたぁ」


「ねむたい。すぴー……」


「うそでしょ」




 苦労してるな、お互いに。




◇◇■■◇




「な、な、なななっ……」



 甘味に群がる幼女達との死闘を終え、時刻は18時。


 ようやく帰ってきたらしい山城母が、玄関先で言葉もなく固まっている。


 まあ、それもそうだろう。


 彼女の視界に映るのは畳の上で寝息を立てている自分の娘と顔も知らない幼女達。辺りに散らばるホットケーキミックス、牛乳、バターの空箱。


 そして、今なお台所に立ち最後のホットケーキを焼いている無表情の私。


 他人事ながら、仕事終わりの疲れた脳みそで処理できるような情報量ではない。


 それに今日来た幼女達の中には一部明らかに何日間もお風呂に入っていないような衛生状態の子もいた。畳の上であまり目立つ汚れにはなっていないが、恐らく今この一室は過去最高に汚れていることだろう。私だったらキレてるな。


「きみっ、大丈夫?! またみずきが迷惑をかけたんじゃっ――あぁっ、本当にいつもうちの子がご迷惑を……て、こんなに近づいてごめんなさいぃぃぃ!!!」


「……」


「それよりも、こんなところにいたら危なくてっ……えぇぇと、お家の場所はわかるかな?! 1人で帰るのは危ないから私が――」


「……」


「ってぇぇぇ、それはセクハラァァァ!!!!! 私のバカァァァァ!!!!」


「……」


 目の前の惨事よりも私の事を優先して心配してくれるとは――初めて会った時から山城さんの血縁者ということで若干警戒していたものの、どうやらそれは杞憂だったようだ。


 少々テンションがおかしなことになっているのが心配だが、彼女がとても優しい人なのは分かる。


 それに、帰り道は問題ない。


 まだ外もオレンジ色に明るく、この辺りは人通りも極端に少ない。


 多少暗くなったとしてもここから自分の家までの道のりは完全に把握しているのだし、万が一にも迷子になる心配はない。


「いや、そうことじゃ……」


 それよりも、目下私が心配しているのは母の事なのだけれど。


 まあそっちはこの世界の神様がいつものご都合主義で何とかしてくれていることだろう。


「……さて」


 ホットケーキ。焼いていた最後の一枚をお皿に移し、慣れた手つきでバターと蜂蜜をかけて山城母に手渡す。


「あぇっ? あ、ありがとう」


「……」


 それじゃあ、用も済んだので私はこれで帰るとする。


「あ、待って! この子達はっ――」


 その子達を押し付けるのに気が咎めるから報酬(ホットケーキ)を渡そうと待っていた、なんて口が裂けても言えない。


 恐らく近所の子供なのだろうし、娘の不在を知った母親達がじきに探しに来ることだろう。


 だから頑張れ。


『えぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!』


 扉の向こうであの山城さんの母親にしてはあまりにも情けない困惑の絶叫が、閑静な住宅街に響き渡った……気がした。













 ――あれ、そういえば。



 全く人の気配がしないと思われていたこの町にも、やはりちゃんと山城さん以外の子供はいたのだな。



 今日アパートを訪れた幼女達、もれなく()()()()()()()()()のが、とても気にはなったのだけれど。






◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇






 我が北条家に門限などという私の外出を縛るためのルールは存在しない。


 物心がついてからこれまで、母が見てきたのは日々の大半を小説を読むことに没頭する小さな息子の姿だったから。



「よし」


 中に誰もいないことを確認した後、慎重に書斎から帰宅する。


 この時間帯、いつもならリビングで母が晩ご飯の準備を進めているはずだ。


 玄関先にパトカーが集まっている様子もなかった。


 一先ずは私の不在がバレなかったようだと、ホッと胸を撫で下ろす。


「はぁ」


 落ち着いたところで‥‥思い出すのは今朝の告白、修羅場、そしてホットケーキ。


 明日が休みで本当に良かった。男に生まれて感謝だな……いや、今こうして疲れている理由は元はと言えば私が男であることが原因なのだから感謝するのはおかしいか?


 ――まあ、どうでもいい。


 取り敢えず今日は早くご飯を食べて、お風呂に入って、そして明日を存分に満喫するために早く寝るとしよう。


 そうと決まれば話は早い。座ったらそのまま動けなくなってしまうのは容易に想像できたので、靴を玄関に置いてリビングに向かうことにする。


「……ん?」


 書斎の扉を開けて気付いた。明かりが全くついていない。


 そういえば、先程からやけにリビングの方が静かなような……


 母が料理を作っている間は、多少なりともこちらまで音が聞こえてくるはずなのに。


「むぅ」


 まさか本当にばれているのでは……いや、それなら母は騒がしくなるはず。


 恐る恐るリビングを覗いてみても、そこにあるのはやはり明かりのついていない薄暗い室内だった。


 母は一体どこに……まさか不審者でも入ってきたのでは。


 そんな私の不安はしかし、数分後には杞憂に終わった。


「――――――、―――――」


「……」


 母がいたのは仕事部屋。


 余程の激務だったのだろうか、目の下に濃い隈を残しながら、寝息も立てずに机に突っ伏して熟睡している。


 書類が散らばる机の端には捨てることすら億劫なのか、大量のエナジードリンクの空き缶が置かれていた。


 開かれたままのパソコンには『ミーティングを退出しました』の文字があり、察するに重要な会議で疲れ切った母は、そのまま気を失ってしまったのだろう。


 まあ、取り合えず無事(?)なようで良かった。


 けれど、この状態の母に晩ご飯を作れと起こすのはあまりに忍びない。私もそこまでお腹が空いているわけではないのだし、今日の所は静かに寝かせておいてあげよう。


 仕事部屋の明かりを消して、静かに扉を閉める。


「……」


 さて、あの様子だとお風呂もまだ沸かしていないようだし、まずはお風呂掃除から始めるとしようか。




「みーちゃんおなかすいた」























 ………ん?



ただでさえ男性が寄り付かない地域、そして育児放棄、テレビなどあるはずもなく、日々考えるのは食べ物のこと。

そんな環境にいる彼女達が果たして男性という生き物の稀少性ををそもそも理解しているのかどうか……

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