17
カフェオレ・オレオレ
北条 望くんは、とても平等な男の子だ。
私が望くんと交流を持つようになったのは2年生に進級してからすぐのこと。
長かった春休みが終わって、再び男の子達に囲まれて過ごすスクールライフ(全て妄想です)に心を浮つかせながら始まった聖戦(席替え)。
私達が狙うのは当然、教室の隅で怯えてしまっている男の子達の隣。
目の端に涙を溜めながら闘争を見つめている彼らには申し訳ないが、私達は女の本能に従っているだけなのだからどうしようもない。
飢えた獣の前に極上の肉をぶら下げておいて何もせずにいられるほど、私達は人間が出来ていないのだ。
それに、争いがこんなにも激化しているのにはもう一つだけ理由があって。
「……」
震える男の子達から少し離れた場所で、ゴミを見るような瞳で私達の争いを眺めている1人の男の子。
その様子からは私達に対する恐怖なんて微塵も感じさせず、まるで自分はそれ以上の地獄を知っているのだと言うような落ち着きを持って、ただの傍観者としてそこにいる。
北条 望くん。
私達の世代であの伝説の入学式を知らない子などいない。あんな子に抱き着かれながら、なおも正気を保っていられる不思議な男の子。
翌日の席替えでも嘘か真か、泣き出す男の子に代わって自分から不細工な子の生贄を引き受けてくれたという噂まで流れてきていて。
普段は塩対応なのに隣の席になるとその容姿に関わらず平等に受け答えをしてくれるということも相まって、今や彼は容姿に恵まれない女の子達の生きる希望となっている。
ただ不細工に生まれてしまったというだけで、周りの綺麗な女の子達が男の子に果敢に話しかける姿を見ていることしかできなかった彼女達。
夢を見ることすら許されず、近づいては怖がられ、目線が合えば怯えられ……そんな彼女達が望くんに抱く思いの強さは、私が察するに余りある。
そしてそれは可愛いとも不細工とも言えない、いわゆるモブ顔の私にとっても同じように。
「……14番」
退屈そうな表情で私の隣の席に座ってきた彼を前に、この一世一代のチャンスを手に入れた私は心に決めた。
誰にでも平等で、いつだって無表情な望くんと私なんかが付き合えるだなんてバカみたいな妄想は抱かない。
この機会をきっかけに、彼が少しでも私の事に興味を持ってくれたらなんて甘い期待も抱かない。
ただ、望くんの人生に登場するモブAとして……彼の記憶の片隅にでもひっそりと生きていけたなら、私はそれ以上の幸福を望まないと誓う。
◆◆◆
「難しい」
望君と隣の席になってから早くも20日程が経過していた頃、私は放課後の教室で1人頭を悩ませていた。
「望くん、全然笑ってくれない」
彼の記憶の片隅に生きていたい……そう考えた私が取った行動は至って単純、一向に無表情を崩さない望くんを思い切り笑わせることだった。
寡黙な彼を人生で初めて笑わせることができた幼き頃の女の子――あぁ、なんて甘美な響きだろか。その妄想だけで私はこれから先1人でも生きていける自信がある。
まあ現実は笑うどころか、彼の口角を1mm上げることすら叶わないのだけれど。
思い出すと泣きたくなるので、取り敢えずここまでの私の奮闘をダイジェストで語っていこうと思う。
作戦その① "ホープ・イン・サイレンス(授業中に変顔)"
決して笑ってはいけない、そんな状況に置かれた人間の笑いのツボがなぜか浅くなってしまう心理を突いたこの作戦。
今回選んだ舞台は"鬼"の異名で知られる社会の松崎先生の授業。男の子には激甘なくせに私達に対しては親の仇を見るような視線を向ける先生の授業は毎回妙な静けさに包まれることで有名だ。
そんな緊張感に包まれた状況で隣に座る私が変顔なんてしたら爆笑必須間違いなし。もし望くんが笑ってしまっても怒られるのは私だけのこの完璧な作戦。
決戦当日、前日の夜にお母さんに披露した中で最もウケが良かった私渾身の変顔を望くんにかましてやった。
結果、ゴキブリを見るような目で見られた。
私は廊下に立たされた。
作戦その② ”リトル・カレッジ(お母さんって呼びたくて)
渾身の顔芸が不発に終わり、失意に沈む私にお母さんが教えてくれたとっておきの方法。
なんでも昔、授業中に寝ぼけた状態でいるところを先生に指摘され、焦って先生のことをお母さんと呼んでしまった勇者がいたらしい。ただ当時の教室は爆笑の嵐に包まれたそうで、本気で笑いを取りに行くならそれしかないと。
確かに傍から見ている分には面白いだろうなと納得した私は早速翌日の授業で試してみることにした。
選んだのは最近婚活が失敗続きで気が立っている英語の神林先生。
授業開始時から鼻提灯を出して首をカックンカックンさせていた私は僅か3分で先生に指摘され、そして自信満々にその言葉を口にした。
結果、クラスの女子には滅茶苦茶ウケた。
望くんからはミジンコを見るような目で見られた。
私は愛ある拳を頂いた。
作戦その③――いや、もういいか。
その後も果敢に望くんを笑わせようと頑張ってきた私だったが、そのどれもが失敗に終わった。
今日も私の唯一の友達のさっちゃんと一緒にコアラの真似を披露したのだけれど、そもそも見てもらえなかったし。
あぁ、結局モブAの私では彼を笑わせることなんて出来はしなかったのだ。
◆◇◇
完全にモチベーションを喪失してしまった私は結局、それまでの無理が祟ってしまったのか風邪を引いてしまった。
折角望くんの隣の席にいるというのにこの体たらく。その日お母さんが作ってくれたお粥はとてもしょっぱかった。
そんなこんなで、あっという間に4月は終わり。
「は~い、それじゃあ席替え始めるよー!」
先生の言葉に湧き立つ女子達を尻目に、私の胸は後悔でいっぱいだった。
あぁ、こんなことなら変な事はせずに望くんと普通に会話を楽しんでいれば良かった。私はこの1ヵ月一体何をやっていたのだろう。
こんなのって、あんまりじゃないか。
私はただ、望くんが笑っている姿を一目見たかっただけなのに。
望くんと隣の席になるなんて幸運、もう一生ないかもしれないのに。
こんな思いを抱えて生きていくくらいなら、もういっそのこと――
「隕石でも落ちてこないかなぁ」
――――――――――――
――――――――
――――
「――っふ」
「……え?」
誰に伝えるわけでもない、本当になんとなく思った言葉を呟いてしまった私の横で、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
いや、私の隣にいる人物なんて実質1人しかいないのだけれど。
というか――え?
今望くん笑ってなかった? 絶対笑ってたよね? そうだよね?
慌てて隣にいる彼の顔を確認する。
けれど残念なことに彼は既に読書に集中していて、やっぱりさっきのは私の聞き間違いなんじゃ……
「むぅぅぅ」
いや、違う。
私には分かる。これまでずっと見続けてきた彼の顔。
もう上がることなどないと思われていたその口角は、確かに……今確かに3mm程上昇しているではないか!!!
「あ、あぁぁぁぁぁ!!!」
お母さん! 私は遂にやりました。
こんなモブ顔の私にも、生きている意味はあったのです。
あぁ、これでもう思い残すことは何もない。私はこれから先どんなことがあっても生きていけ「――ねぇ」
………E?
HANASHIKAKERARETA???
私が凝視していることに気付いていたのか、それまで読んでいた本をパタリと閉じて、彼は――望くんは横目で私をチラリと見ると。
「馬鹿じゃないの」
ほんの少しだけ小馬鹿にするような表情で、僅かに表情を緩ませて、彼は確かにそう言って……
私は、私はあぁぁぁぁぁぁ!!!
「……あっ(絶命)」
短くそう呟くことしかできずに、気付けば視界は真っ黒に染まっていて。
その日仕事を早退して私を迎えに来てくれたお母さん曰く、保健室のベッドで眠る私はそれはそれは満ち足りた表情であったという。
――あぁ、やっぱり付き合いたいなぁ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
――私と結婚してください
静寂に包まれた教室の中で、彼女は確かにそう言った。
言葉を発したのは違うクラスの女の子。
私なんかじゃ太刀打ちできないくらいに可愛い子で、声も綺麗で、服もお洒落で。
――あぁ、胸がムカムカする。
視界が黒く染まって、固く握りしめた拳で今にもあの子を殴ってしまいそうになる。
頭も痛くなってきた。吐きそうだ。
目の前の光景をこれ以上見ていたくない。
これ以上、望くんには近づかないでほしい。
「はやく消えてよ」
それは、周りにいるクラスメイトの女の子達も同じようで。
見たこともないような表情であの子を見ていて、瞳は怒りに揺れていて。
皆、怒っていた。泣いていた。苦しんでいた。
こういう時の感情を、なんて言うんだったっけ。
「……確か」
W S S
あぁ、隕石でも落ちてこないかなぁ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
いつも通りの朝だと思っていたら、突然顔も知らない幼女に告白されてしまった今日この頃。
男女比が歪なこの世界、こういった状況を想像していなかったわけではないけれど……それにしたっていきなり"結婚してください"は意味が分からない。
ホームルーム直前の完全に気が緩んでいたタイミングだったということも相まって、この状況に私の思考は完全に停止してしまっていた。
それでも恐らく数分にも満たない時間だったと思うのだが、私が気が付いたときには教室の空気は既におかしなことになっていて――
「何を考えてるの?」
私の正面に立つ件の幼女を囲ってメンチを切っているクラスメイトの女子達。
中でもひと際強い憎悪の感情を身体から噴出させているのは頭がおかしなことで有名な松下 千沙という女の子で、一見すると人畜無害で特に印象に残らないような顔をしているのにやる事なす事がいちいち奇抜に過ぎていて密かに危険人物認定している変人でもある。
普段はぽけーとしている彼女がこんなにも感情をむき出しにしているのには驚いたが、この状況を止めないとそろそろマズい。
目の前の幼女は私を見つめて微動だにしていないが、辺りは今にも一触即発の雰囲気を帯びてきて――ガラッ
「遅れちゃってごめんなさい! 今日の日直は――って、なにこれ?」
タイミングがいいのか悪いのか、勢いよく扉を開けて現れたのはこのクラスの担任。
慌てた様子で教室に入って来ようとする先生を見てそれまで険悪な様子であった女の子達もぞくぞくと元の席にもど……らないな。誰一人として微動だにしていない。松下さんなんて舌打ちしていたぞ。
「――っあ! あぁ、なるほど」
しかし、流石はこの場で唯一の年長者。先生は私の方へ視線を向けるとすぐさま状況を把握したようだった。
「はいはい、皆さん一回落ち着いて! ここは婚活会場じゃないんですよ、すぐに席に戻りなさい」
瞳を黒く染めた幼女達を前にしてこの落ち着き……くぐってきた修羅場の数が違うのか、事態の収束を図ろうとする先生のその背中には頼もしさしか感じない。
「この場にいる男の子達のことも考えなさい。皆怯えちゃってるじゃない――可哀そうに」
そう言っていつの間にか教室の隅で震えていた小鹿の群れを保護する先生。うん、確かに彼らの救助は最優先だな。
涙目で震えている小鹿の頭を撫でている時間がだいぶ長いように思うのだが、きっと彼らのことを思ってのことだろう。でもそろそろこっちを何とかしてほしい。
「……」
そう思って先生を見つめてみたのだけれど――あ、頷いてくれた。
私の必死のSOSはちゃん伝わったようだった。
先生は背中に隠していた小鹿達を廊下の方へと誘導し、そのまま自分も一緒に教室を抜け出していこうとする。
「……?」
私は最後ということだろうか、まあ確かにこの幼女達の壁を突破することは一筋縄じゃいかないだろうが。
「大丈夫、ちゃんと分かってるわよ望くん。この子達は私に任せて! 直ぐに応援を呼んでくるから!」
「……」
そう言って颯爽とこの場を後にする先生。
どうやら私の必死のSOSは微塵も伝わっていなかったようだ。
頭が痛くなってくる。
「望くん大丈夫?」
流石に放置し過ぎたのか、目の前の幼女が頬を赤く染めながら私の様子を窺ってきた。
まったく、誰のせいでこんなに頭を悩ませているのか分かっていないのだろうか……私の心配よりも君はここから無事に生きて帰れるのかを心配した方がいいというのに。
「あ、あの。それで、お返事は……」
場違いな程に頭の中お花畑状態でありながら、スカートの端を両手で握りしめ、緊張した面持ちで私の答えを聞こうとする女の子。
「……」
彼女にとっては後ろの死地よりも私からの返事の方が重要ということなのか。
「……」
その気持ちはまったく理解できないが、しかしおかげで私も自分がどうすべきか分かった気がする。
まあ、様々な過程をすっ飛ばして結婚を申し込んできたのだ。
その気持ちを無下にして答えを有耶無耶にするのは彼女に対して失礼か。先程まではこの場からどう逃げるかしか考えていなかったのだけれど、返事は返しておくべきだろう。
迷いを捨てて、彼女の方へと向き直る。
そうして――
「ごめんなさい」
「――っ!」
極めて簡潔に断りの言葉を伝える。
相手が誰だろうと関係ない。
そしてそれは彼女も予想していたことだろう。そもそもお互い話した事もない相手、彼女が私に告白したのもただ私が男だったからという、そんな安直な理由なのだろう。
「う゛ぅぅ……」
静かに涙を流す姿には心が痛むが、それで返事が覆ることはない。
なぜか周りの女子達も胸を押さえて苦しみだしているのが気にかかるが、どうせアホな理由だと思うので気にしないことにする。
「早く帰って」
そして、そんな中でも松下さんは本当に容赦がない。
その場で泣き出したまま動こうとしない女の子を前にして、それでも彼女の怒りは収まらないようだった。
「貴方が悪い。望くんを傷つけた。もう二度と望くんに近づかないで」
「……」
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
松下さんってこんなキャラだったっけ――ただのアホの子だと思っていたのに。
数々の奇行を繰り返していたあの頃の君はどこにいったんだ。
「いこ」
そしていつの間に私の腕を掴んでいたのか、物凄く強い力で私をどこかへ引っ張って行こうとする松下さん。ほんとに怖いんだが。というか痛い。
「望くんは私が守るから、私と一緒に……」
自分が今どれほど恐ろしい顔をしているのか気付いていないのだろうか。彼女のあまりの豹変ぶりに周りの子達も近づけずにいて「何してるの?」
――いや、いた。
そんな松下さんを前にして、それ以上の狂気でもって相対できる頭のおかしい女の子が、まだいた。
「どいて」
「どかない」
ただ少しの怯えもなく、恐れもなく、不安もないままに。
「のぞみくんに、何してるの?」
篠田 香織。
なぜか彼女はそこにいた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「その手を離して」
お前はどこのアニメの主人公だと突っ込みたくなるようなセリフを吐いて松下さんの前に立ちふさがる篠田さん。
とても1年前に私の隣で泣いていた子と同一人物だとは思えない。いや、前世では"男子3日会わざれば刮目して見よ"なんて言葉もあったのだし、この世界の女性の成長スピードとしては不思議ではないのかもしれないが。
「「……」」
疑いようもなく、その小さな身体に不釣り合いの覇気は我を失う松下さんの進行を確かに止めていた。
「――っつ」
腕を掴む力が強くなる。
ここからでは斜め前にいる松下さんの表情は窺い知れないが、その額から頬を伝う一筋の汗が見えた気がした。どうやら両者の睨み合いは篠田さんの方に軍配が上がったらしい。
私が痛みで顔を歪めるのを見た篠田さんが急いでこちらに駆け寄って来ようとする。
「くるなっ! あっちいけ!」
「のぞみくんが痛がってる」
「私が助けるから邪魔しないでよ!」
「でも――」
じりじりと距離を縮めながらも私が腕を掴まれていることで迂闊に近づくことができない篠田さん。
一向に引く気配のない彼女に松下さんも苛立っているのか、まるで駄々をこねる子供のように一層私を強くつかんで離さない。
「……」
そろそろ本気で腕の感覚がなくなってきた。
私はいつまでこの昼ドラみたいなドロドロの展開に付き合わなければいけないのだろうか。
先生も未だに戻ってくる様子がない。万力のような力で腕を掴まれていなければどうとでもなるのに……この世界の女性の力が異様に強いことを完全に失念していた。
「―――――っ!!」「―――――!」「――――!!?」
白熱する2人の言い争いをどこか他人事のように眺めながら、自分の無力さが嫌になってくる。
結局私がどれだけ1人でいたいと叫んでも、同学年の女の子1人に腕を掴まれたくらいでこうも無力になってしまう。
2人共私の為を思って行動してくれているのは分かっているはずなのに、なぜか言いようのない不安感を感じて身体がうまく動かない。
他のクラスメイトも同様に、まるで動物園にいる猿の檻に1人放り込まれてしまったかのような気分だ。
鼓膜に響くキンキンとした言い争いの声が心底気持ち悪い。
あぁ、こんなことなら今日は学校を休んでいれば良かった。
具合が悪いと嘘を言っても、母なら疑うことなく休ませてくれたことだろう。
もう家に帰って休みたい。
不貞寝をしたい。
部屋に引き籠ってしまいたい。
本を読みたい。
「……1人になりたい」
「分かった」