15
色んな事があった。これが人生。
土曜日の古書店カフェへと向かう道中、森の中でひょっとこのお面を被った女の子と遭遇した私とふーさん。
肩を掴んだ途端に泣き出してしまった彼女を前に一時は帰宅さえ視野に入れていた私だが、現在は当初の予定通り、目的地までの残り僅かな道のりを歩いていた。
「……すぅ…すぅ」
「はぁ」
背中越しから聞こえる小さな寝息に、思わずため息を吐いてしまう。
『おねんねしてる』
『……』
ここに来るまでに随分と体力を消耗していたのか、それとも大声で泣き続けたことが原因か――それまでの癇癪が嘘のように静かになったかと思うと、そのまま気を失うように地面に伏してしまったひょっとこ。
こんな珍獣、本来なら助けてあげる義理もないのだけれど……流石にあの場で放置はマズい。
出会った当初の様子から、私達を尾行していた危険人物でもないということは分かっている。
他に誰か連れがいるのかもしれないが、幸いにしてここから古書店カフェは近い。信頼できる大人がいる場所へ連れて行った方がこの子のためにもいいだろう。
『仕方ない』
というわけで、彼女の髪を雑に掴んで引きずって行こうとするふーさんに優しさとは何かを教えてあげた後、彼女は私が背負うことになり……今に至る。
「……すぅ…すぅ」
体力にはあまり自信がなかった私だが、背負った彼女は想像以上に軽かった。
背丈は私と同じくらいだから、ひょっとしたら同い年の子なのかもしれないが……まさか複雑な家庭環境の子なのだろうか。
物凄い形相で私の背中を睨んでいるふーさんと同じように、親がいない子なのかもしれないし。
あんな山奥に1人でいたことも含めて、あまり深入りはしたくないな。
そういうシリアス展開は物語の中だから面白いのであって、現実に起こってほしいわけではない。
私にできることはせめて、彼女のこれからがいい方向に転がっていくよう願ってあげることくらいだ。
「……すぅ…」
――それよりも今は
「臭い」
「――す゛ぅっ?!」
この背中から漂う悪臭を、切実に何とかしたい。
「吐きそう」
「すう゛ぅ゛ぅ゛ぅぅぅ……ぐすっ」
あまりこういうことを女の子に言うのは良くないことだと分かってはいても、お風呂くらいはちゃんと入ってほしい。人として。
私は別に潔癖というわけではないが、不潔なのは普通に嫌だ。
何やら背中から変な寝言が聞こえるのが気になるが、マスターにお風呂を借りられないか頼んでみようか。
「……ん?」
不意に視界が明るくなる。
そんなことを考えていたら、いつの間にか森を抜けていたらしい。
視線の先には、忘れもしない。私の安息の場所。
「ついた?」
あぁ、久しぶりの古書店カフェだ。
◇◇◇◆◇
カラン、コロン
「いらっしゃいませ」
店内に入ってすぐ、その体格に似合わないマスターの穏やかな声が私達を迎えてくれる。
「すずしい!」
ふーさんの言葉通り、店内には既に冷房が効いているようで、ここまで火照った身体には有難い。その心地よさに思わず立ち止まってしまいそうになるが……その前に。
「……お風呂」
「こちらへどうぞ」
流石マスター、皆まで言わずとも私に背負われた女の子のことを察していたらしい。
それまで磨いていたコーヒーカップを静かに置くと、私達をカウンターの内側へ通してくれた。
どうやらカウンターの奥にある扉はそのままマスターの居住区につながっているようで、開かれた扉の先にはどこか暖かみのある空間が広がっていた。
「代わります」
きちんと整理整頓された室内を珍し気に見ている私に向かって、マスターが手を伸ばしてくる。
断る理由はない。一刻も早くこの悪臭から解放されたかった私はマスターに向かって背をむけたのだが――
「う゛うぅぅぅぅぅ!!!!」
「痛い」
マスターが女の子の肩を掴んだ瞬間、唐突に私の身体が強く締め付けられる。
一体こんなに細い身体のどこにそんな力があったというのか――思わず顔をしかめる私を見て、マスターも瞬時に手を放す。
おかげで少しは力が緩んだが……そうか、起きていたのか。
「――っ! す、すぅ……」
「はぁ」
今更寝たふりをしても無駄だろうに。
「困りましたね」
マスターの力なら無理矢理引き離すことも可能だろうが、それでは今以上の力で締め付けられてしまうだろう。私もこんなアホな理由で死にたくない。
かといって、このまま私が浴槽まで連れていくのは論外。隙をみせたら襲われる可能性もゼロではないのだ。
さて、どうしたものか。
「……ぃ」
「……?」
不意に耳元から発せられる声に、首だけ振り返る。
「――ぁ…ぁぅ」
引っ付いて離れないくせに、私と視線を合わせることはできないのか。
とはいえ、このままでは埒が明かない。
折角彼女の方から意思表示をしてくれているのだ、私の背中に顔を埋めてしまった彼女の言葉を大人しく待つことにする。
「……」
そんな気持ちが伝わったのだろうか
「どこにも、いかない?」
相変わらず変なお面のせいで聞こえずらいが、なんとか私にも理解できるくらいの声量で話してくれた。
なるほど、どうやらお風呂に入れられている間に私が逃げ出すと思われていたらしい。
「……」
確かに、そういったことも考えないではなかったが、心外だ。ここまで珍獣を連れてきておいて後は全部丸投げなんて、お世話になっているマスターにそんなことするわけがないだろう。
事情を聞いた上で私の手に負えないと分かれば、ちゃんと警察に連絡するとも。
そんな意味を込めて、私も静かに首肯する。
「……」
嘘は言っていない、それは十分に彼女にも伝わったようで――
「ありがとう」
少ししてからそう呟くと、やがてゆっくりと私の肩から離れてくれた。
「こちらです」
「――っひ」
そうして、それまで静かに事の成り行きを見守っていたマスターに体を震わせながら連れられていく彼女を見届けて、私も店内へ戻ることにする。
「………すぴー……すぴー……」
「寝てるし」
先程から姿が見えないなと思っていたふーさんだが、やはり彼女も体力の限界が来ていたのだろう。
入口に一番近い席にちょこんと座っている彼女はアニメのような鼻提灯を出しながら器用に眠っている。
「………むにゃ……ごはん」
朝にたくさんおにぎりを食べていただろうに。
寝ている時でも欲望に忠実なふーさんに呆れながら、私も近くの席に腰かける。
「はぁ」
それにしても僅かな距離だったとはいえ、流石に子供一人をおんぶして山道を進むのは大変だった。
周りには魅力的な小説が所狭しと並んでいるというのに、今は一歩も動けそうにない。
「………すぴー……すぴー……」
呑気に寝息を立てるふーさんを見て、私の方まで眠くなってくる。
やっとたどり着いた古書店カフェ、出来ればここにいる間は本に没頭していたかったのだけれど。
「……」
ほんのちょっとだけ、仮眠をとろうか。
その後は思う存分本を読もうと心に決めて。
今はとにかく
「……ねむ…ぃ」
瞼を閉じた途端、猛烈な睡魔に襲われる。
こんな場所で無防備に寝ることに若干の抵抗はあるが、マスターもいる。
余計な考えは放置して、私もふーさんを見習うことしよう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『――――――!』『――――』
ぼんやりとした意識の外で、喧騒が聞こえる。
折角人が気持ちよく眠っているというのに、一体誰が騒いでいるというのか。
「むあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「ちょっと貴方、いい加減になさい! ――ってもう、髪を引っ張らないでっ!」
「このままじゃ埒が明かないっ! 抵抗する方が悪いんだから、多少の痛い目はっ――ごはぁっ!」
「秒殺されてるじゃない!」
「……」
あぁ、面倒臭い。
起きてすぐ目にする光景としては些か刺激的に過ぎる気もするが、どうやら暴れるふーさん相手に常連の女性が2人がかりで奮闘しているらしい。原因は勿論分からない。
1人はふーさんの蹴りをもろに食らってしまいダウン状態。もう1人の女性もあと何秒持つのやら。
「起きたのですね」
後ろから声がかけられる。
振り返った先には予想通りというか、こんなカオスな状況の中でも冷静なマスター。
手に持ったお盆には温かな湯気を立てるコーヒーカップが載せられており、そのまま淀みのない動きでテーブルに並べていく。
並べられたカップは全部で4つ。
中身はすべてカフェオレのようで、小さな空間にほのかに甘い匂いが充満する。
寝起きのぼやけた頭にはとても有難いが……いいのかな。
「サービスですから、お代は結構です」
いや、そうではなくて。
「いやあぁぁぁぁぁ!!腕を噛まないでえぇぇ!」
「ふふ、儚い人生だったな。さようなら世界」
2人程脱落しそうな様子だから、2つは余分だったんじゃないかなと。
「大丈夫です」
「……?」
そう言ってカウンターの奥の扉へと視線を向けるマスターを不思議に思いながら私も同じ方向へと目を向ける。
あぁ、そういうことか。
「……あぅぅ」
僅かに開かれた扉の奥から姿を現したのはひょっとこのお面を被った女の子。その後ろにはこのお店でよく見かけるもう1人の常連の女の子もいるな。そして――
「この度のこと、本当にありがとうございます」
目が合うなり私の元へ一直線に向かってきた女性。
くたびれたスーツに身を包み、目元にはくっきりとした隈が浮かんでいる。一見するとただの社畜の様にしか見えない彼女だが、しかし元は相当な美人であったのであろうことがその顔立ちから窺える。
子供の私相手にも真摯に礼を述べ、後ろで縮こまっているひょっとこを優し気な眼差しで見つめていることから、まあ十中八九母親なのだろう。
「宮越 円と申します。後ろの2人は私の娘で……ほら、2人とも」
「……うぅぅ」
「……」
母親に促される形で私と改めて対面する2人。
子供特有の人見知りからか姉の背後に隠れるひょっとこと、小さく口を開けたまま放心している常連の女の子。どちらも私の方へ視線を向けてはいるものの、一向に言葉を発する気配がない。
姉の方は私と1年近い面識があるにも関わらずこの態度。まあこのお店で顔を合わせる機会はあっても会話をしたことは一度もないのだ、それも当然か。
そもそも他の2人と合わせて私が勝手に"常連さん"と呼んでいる彼女達はこちらが一方的に読書仲間認定しているだけで、別段親しくもなんともない。
私もいらぬ繋がりを持ちたくなどなかったし、出来ればこのまま顔見知り程度の関係でいれたら良かったのだけれど。
「ずっと、聞きたかった」
非情に残念なことに、彼女はそうではなかったようだ。
「貴方は私達が怖くないの?」
◇◇◇
「……」
なんだ、やけに神妙な顔つきで何を聞くのかと思えばそんなことか。
そんなもの、怖いに決まってるだろう。
ガタンッ
隣がさらに騒がしくなった気がするが気にしないでおく。
「……うぇっ?!」
先程までは真剣な表情であった目の前の常連さんも、私の答えに意表を突かれたのか随分と間抜けな表情になっている。というか、万が一にでも怖くないと私が答えると思われていたのか。
「……で、ででで…でもっ!!!」
常連さんの背に隠れているひょっとこもその表情まではうかがい知れないが、顔を下に向けてプルプルと震えている――あれは悲しんでいるということだろうか?
「じゃあっ、なんでそんなに平然としていられるの?! おかしいでしょうっ?!!」
「……む」
まあ、それはそう思われても仕方がないか。
この閉め切られた空間で男は私1人。
これが小鹿君達であったならば発狂すること間違いなしのシチュエーションだろうし、いや、小鹿君達に限らず大体の男性は平静ではいられないのかもしれない。
「ひょっとして、物凄く視力が悪いとか……それとも――」
「違う」
1年前、入学式に出席するために車を降りたあの瞬間から、理解しているとも。多数の好気の視線の中に混じる、あの言いようもなく不快な視線を忘れたことなど一度もない。
それでも私が平静を保っていられるのは、至って単純。
前提として、私が前世の記憶を有しているということ(これは当然、口にすることなど出来ないのだけれど……
完璧な人間などいない。男女の比率が比較的均していた前世の世界でも性犯罪は毎日のように起きていた。私は人間が恐ろしい生き物だということを既に知っている。であれば今更私の置かれた現状に慌てふためくなんて滑稽だろう。
何より、いざという時は私を守ってくれる誰かがいると知っているからな。
「誰かって、そんな曖昧な――」
曖昧だっていいじゃないか、重要なのは私が安心できるか否かなのだから。
そう思いながら後ろを振り返ると、当然のように傍に立っているマスターが視界に映る。
「恐縮です」
仮にこの場の人間が一斉に襲い掛かって来ようとも、マスターがいれば何とかなりそうな気がする。
私は私の直感を信じている。
「そ、そうなんだ」
「ふーちゃんも守るよ!!!」
「(微塵も信用していないけど)ありがとう」
私の答えに納得したわけではないのだろう。その瞳は未だに懐疑的に揺れているが、しかしこれ以上の追及は止めたようだった。
「うん、変なことを聞いてごめんなさい。それと、妹を助けてくれてありがとう」
「……」
「貴方がこの子を助けてくれなかったら、私は一生自分のことを許せなくなるところだったから」
「……」
「本当にありがとう」
助けたつもりは微塵もないのだけれど、空気を読んで頷いておく。
カフェオレを飲んだおかげか、寝起きでぼやけていた頭も冴えてきた。そろそろ本を読みたい。
「あぁ、そういえば私の名前を言ってなかった」
いや、どうでもいいです。
「宮越 涼花。覚えてくれたらすごくうれしい」
「――っ! ふーちゃんはふっちゃんって「ほら、最後はゆいだよ」」
「……」
姉に背中を押されて私の目の前に来る仮面の女の子。
私が眠っている間にちゃんとお風呂には入ったようで、今は不快な匂いはしない。袖から伸びる手足は相変わらず小枝の様に細いままだが、いつの間にか震えることもなく仮面の奥から私の顔を凝視してくる。
「うぅ」
いや、流石に凝視は恥ずかしかったのか、直ぐに横を向いて両手をモジモジさせ始めた。まあ人間そんな簡単に性格は変わらないよな。
「あ、あの」
今にも消え入りそうな声だけど、一応ちゃんと聞いてあげることにする。
「2人でおはなしがしたい」
◇◇◇◇◇
場所は変わって、ここは古書店カフェから少し離れた森の中。
2人きりで話がしたいというひょっとこの希望に素直に従う理由はなかったが、本人の真剣な様子に思わず頷いてしまった私。
自己紹介を遮られた&私とひょっとこがお店を出て行ってしまったというコンボをくらい当然のように暴れ出そうとしたふーさんは、しかし今回に限っては場所が悪かった。
『店内ではお静かに』
完璧にふーさんを抑え込むマスターには頼もしさしか感じない。
しかしいつまでもあのじゃじゃ馬に迷惑をかけさせるわけにもいかない、この話を聞いたらすぐに戻ろう。
「「……」」
さて、それじゃあ改めて話を聞こうか。
「うん」
対面に立つひょっとこに向き直ると、彼女もいい加減に迷いを捨てたようだった。
「わたし」
風が止み、肌に当たる優しい日差しを身体に受けて、小さな声が確かに聞こえる。
「わたし、死のうとしたの」
「……」
驚くことはない。そうだろうなと予想はしていた。
「生きることがつらくなって、ぜんぶからにげようとしたの」
彼女がそう思うことと、へんてこなお面を被っていることも恐らく無関係ではないのだろう。
「おかあさんやおねえちゃんはつよいのに」
「……」
「あのね」
「……」
「わたし、ぶさいくなんだ」
「……」
彼女の母親と姉の顔を思い出す。
なるほど、確かに顔は整っていた。
女性は容姿に対して人一倍強い思いがあるのだし、彼女も2人に対してコンプレックスを感じていたのだろう。
しかし、それだけで死にたくなるものだろうか。私には全く理解できない。
「ぶさいくだから、おとこのことはおはなしできないの」
極論だな。世界は広いぞ。
「ぶさいくだから、わたしはあきらめないといけないの」
誠実であれば小鹿の一匹くらい……いや、ちょっと自信はないな。
「でもね、そうじゃなかった」
「……」
「わたしにも、ちゃんといた」
「……?」
私の返事を待たずして、彼女はお面のひもに手をかける。
「これが、わたし」
「……」
中から現れたのは至って普通の女の子だった。
顔に大きな傷があるだとか、歯の並びが不揃いだとか、目が小さいだとか……そんなのは全然なくて。
クリッとした大きな瞳に、雪のように白い肌。母親譲りの端正な顔の造形も相まって、客観的に見ても不細工だとは思えない。
むしろ美人だと言われてもいいような容姿なのに、彼女には何が不満だったのか……
「……ふふ」
そうして静かに顔を見つめるだけの私に対して、なぜか満足気な様子の彼女。
最早照れることもなくなったのか、浮かべる笑顔は猫のように無邪気なもので……これが彼女の素だろうか。
「ねぇ、わたしのかお……へんじゃない?」
「別に」
「ふっ……ふふっ、べつにって」
何がそんなにおかしいのか、お腹を抱えて笑う彼女は出会った頃とは別人のようだ。
そのまま堪えきれなくなったのか、ついには目の端に涙を浮かべて、それでも彼女は笑い続ける。
「……」
そんな彼女を見守っているうちに、気付けば近くの古書店カフェからはふーさんの叫び声が聞こえてきた。
そろそろ時間だろう。
「あ、まって!」
待たない。君はもう大丈夫なのだろう?
これ以上私が心配する理由もない。
「宮越 唯!わたしの名前! 私が生まれる時に、おねえちゃんが考えてくれたんだって!」
「……」
「わたしねっ、この名前がだいすきなんだ! おかあさんとおねえちゃんによばれると心があったかくなるの!」
そうか、それはとてもいいことだと思う。
「あのっ、あなたの名前はっ?!」
古書店カフェへと向かう私を追いかけて、彼女の声が辺りに響く。
――まあ、それくらいはいいだろう。
面倒臭いので後ろの彼女を振り返ることはないけれど、聞こえるように声を出す。
「北条 望、覚えなくても大丈夫」
「そっか! のぞみくんだね! 絶対忘れないよ!!!」
「……」
「のぞみくんっ!」
「……」
「助けてくれてありがとう!!!!!」
心からの感謝の言葉に、私も悪い気はしなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
帰り道。
オレンジ色の夕陽を背に受けて、3つの影が歩道を歩く。
「今思い返しても不思議な子。私達の顔を見ても平然としているなんて」
「私は1年前から知っていたけど、まさか普通に話してくれるとは思わなかった」
「……」
こうして親子3人並んで帰るのは、随分と久しぶりに感じる。
ゆいが部屋に閉じこもってしまってから1年も経つのだから、それもしょうがないか。
「あ、そういえばお醤油が切れてるんだった。ごめんなさい、2人は先に帰っていて」
家まではあとほんの少し。
近くのスーパーへ小走りで向かっていった母を見送り、私達は素直に帰路に着くことにする。
「「……」」
古書店カフェを出てからここまで、ゆいは一言も話していない。
机の上にあんなものを置いていった手前、私達になんて言ったらいいのか分からないのだろう。
「……」
口をもごもごと動かしながら……それでも言葉を紡げないゆいを見て、1年前、2人で歩いた通学路を思い出す。
そういえば、あの時もそうだった。
何かを口にしようとするゆいに気付いていたのに、私は何もできなくて。
苦しいこと、辛いこと、たくさん吐き出したかったはずなのに。
私の手を強く握るゆいを見て、それでも私は――
「……おねえちゃん?」
「……あ」
いつの間にか、私は家の前を通り過ぎようとしていたらしい。
玄関前に佇んでいるゆいが私を不思議そうな顔で見ている。
「……?」
以前のように、もう私に見られても顔を隠すことはない。
「……」
本当に、ずっと昔に戻ったみたいだ。
学校に通う前の私達はいつも一緒で、2人でこんな時間になるまで遊んでいた。
私の後を必死についてくるゆいは本当に可愛くて、愛おしくて。
「……」
あぁ、そうだ。
難しく考える必要なんてなかった。
私は既に、答えを持っていた。
大丈夫、練習なら夢の中で何度もしている。
「ゆい」
名前を呼んで、抱きしめて
「よく頑張ったね」
――あぁ、やっと言えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ねえ、本当に言うつもりなの?」
本格的に梅雨が明け、肌に感じる空気の熱さに額から玉の汗が流れ落ちる。
ここは公立桜花小学校屋上前の階段。
金曜日の放課後ということもあって辺りに人の気配はなく、聞こえるのは3人の子供の声。
「う、うん。もう決めたから!」
「絶対に無理だって! やっぱりやめた方がいいよ!」
「まあ、私も賛成はできないかなぁ」
「で、でも……万が一があるかもしれないじゃん!」
「自分で万が一って言ってどうするのよ……」
「こ、断られたらどうするの?」
「――っ! だ、だだだだだだだだだだダイジョウブデスワヨ」
「はぁ、これは全然考えてなかった顔ね」
「や、やっぱり」
「――っ、もう! 2人ともうるさい! 私が決めたからもういいの!!!」
「まぁ、そこまで言うなら私も止めないけどさ」
「心配だよ」
廊下に夕陽が差し込んで、その場に勢いよく立ち上がった少女を照らす。
「私はもう、迷わない」
彼女を見つめる友人たちの心配そうな視線を振り切って。
「来週の月曜日、私は望くんに告白する!!!」
小さな少女の宣言は、そうしてひっそりと行われた。
修羅場……かなぁ