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13

夜が好き。雨も好き。曇りはあんまり。




 ―とある老女の独白―






 男性が少ないこの世界で私は、容姿に恵まれずに生まれてしまった。




 それは、とても残酷なことだと思う。




 私を見て親身に言葉をかけてくれたのは、いつだって、お母さんだけだったから。




 私が今まで出会ってきた男の子達は、みんな……私を見てはくれなかったから。




 同性の女の子達も、同じ。




 こんな世界なら、生まれてこなければよかったのにと、何度も思った。




 何度も何度も、助けてほしいと、手をのばした。




 のばした手は、けれど、最後まで……誰からも掴まれることはなくて。




 優しかったお母さんは、死んでしまった。




 最後の日。




 息を引き取るその直前まで、泣いていた。




 泣きながら、悔しいと。




 唇を強く噛んで、ただずっと……悔しいと、そう言っていた。




 ――私は、泣けなかった。




 それからは、変わらない。




 ただずっと、無機質な日々が続くだけ。




 朝起きて、ご飯を食べて、仕事へ行き、家に帰って、眠りにつく。




 私の瞳に映る世界は、いつしか、色を失い。




 気が付けば、私はしわくちゃのおばあさんになっていた。




 このまま、この世界の片隅で、誰にも気づかれることなく、ひっそりと死んでいくのだと、そう思っていた。




『ハンカチ、落としてる』




 あの時までは。




 いつもの日課、散歩をしている途中で、綺麗な男の子に出会った。




 私が落としたハンカチを、拾ってくれた。




 私の目を見て、話してくれた。




『………?』




 触れてはいけないと、そう思った。




 こんなに醜い私には、貴方は綺麗に過ぎるから。




 こんなしわくちゃの手では、きっと、貴方を汚してしまうから。




 だから……どうか、許してください。




 気付けば、私は家にいて。




 頬は涙に濡れていた。




◇◇◇◇◇




 その日の夜、夢を見た。




 真っ赤なバラに、カーネーション。太陽みたいなひまわりに、ピンクに色づく胡蝶蘭。




 色とりどりの花が咲き誇る、広大な花畑の中で……幼い姿の私と貴方。




 つまらなさそうに不貞腐れる貴方の手を引っ張って。




 穏やかな気持ちの中、幸せな時間は過ぎていく。




 あぁ……恐らく、今世では、もう二度と出会うこともないのであろう、貴方へ。




 私を見つけてくれた、ただ一人の貴方へ。




 この世界では、こんな形ですれ違ってしまったけれど。




 私だけ、おばあさんになってしまったけれど。




 もしも生まれ変わったら、もう一度、私と出会ってくれますか?




 次会う時は絶対に、逃げたりなんてしませんから。




 ちゃんと、貴方の目を見て、ハンカチを受け取りに行きますから。




 だから、待っていてください。




 そうして、叶うのならば。




 今度こそ、絶対に。




 誰にも憚ることなく、精一杯、胸を張って。






 貴方に、好きだと伝えたい。






◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇






 窓を叩く雨音に、まどろむ私の意識は静かに覚醒する。


 枕元の時計を確認してみれば、時刻は午前6時。


 まだうっすらと暗さが残る室内に、首筋からは若干の肌寒さを感じる。


 今日が土曜日だということを考えれば、起きるにはまだだいぶ早い時間だろう。


「よっこい、しょ」


 けれど、既に目は覚めてしまった。


 今日の事を考えると、これから二度寝をする気分にもなれない。


 温かさの残る毛布を勢いよく取り払って体を起こし、そのまま部屋を出ることにする。



「「――――あ」」


 扉を開けてすぐ、同じタイミングで廊下へと出てきたのは私より5歳年下の妹だった。


「おはよう、ゆい」


「……ぁ、あぅ」


 昔はどこへ行くにも私に引っ付いてきていたのに……この子が学校へ行かなくなってからは、顔を見るのも随分と久しぶりに感じる。


「――ぉ――ょぅ」


 長い前髪で目元を覆い、小さな手のひらで必死に顔を隠しながら、紡がれるのはあまりにもか細い言葉。


 しばらくお風呂にも入っていないのか、肩まで伸ばしている髪は所々がべたついている。


 私のお古のパジャマもよれよれで、新しいものを買って貰えばいいのに――この子はもう長い間外に出ていない。


「………」


「……ぅぅ」


 今ではもう、まともに会話をできるのもお母さんくらい。


 感情の機微に疎く、不器用な私では、かけるべき言葉が見つからない。


「………」


「――っ」



 ―――そうして、今日も。



「……」



 そのまま、逃げるように部屋へと戻って行ったゆいを追いかけることもせず。


 自分でもよく分からない気持ちの中で、一人、廊下に立ち尽くす。


「……」




 昨年の4月。


 私が通っていた公立藤咲小学校へ入学してからすぐの事だった。


 その日、初めての登校を終えて帰宅してきたゆいはやけに元気な様子で、目の前のご飯には全く手を付けずに学校の事を話してくれた。


『同じクラスには3人も男の子がいたっ!』


『女の子はかわいい子がいっぱい――』


 まるで何かに急き立てられるように、話は止まらない。


 そんなゆいに、私もお母さんも、ただ相槌を打つことしかできなくて。


『―――――!』


『―――』


 狭いリビングに、明るい声が木霊する。


 言葉は終始、途切れることなく。


 けれど、そうだ。


 思い出した。


 その日の食卓に、笑顔はなかった。



 2日目



 帰ってきたゆいの目元は真っ赤に腫れていた。


 心配するお母さんに大丈夫と伝えた後、部屋に籠って。


 結局、その日の晩ご飯には私が何とか連れ出したのだけれど……ハンバーグを一口食べたっきり、食欲がわかないようだった。



 3日目



 朝、学校へ行きたくないと泣いているゆいを、お母さんが必死に慰めていた。


 どこか体を痛めているわけでもなく、まして風邪を引いているわけでもないのだし、こんなに早く休ませることはできなかったのだけれど。


 登校中、途中までは私が手を繋いで送ってあげた。


 必死に私の手を握るゆいを見て、心が痛くなった。



 4日目



 その日の夜、枕を抱いて私の部屋を訪れたゆいが、一緒に寝たいと言ってきた。


 小さい布団の中で2人、たくさんお話をした。


 幼い頃、私が捕まえたバッタをゆいの服に付けて泣かせてしまったこと。


 お母さんの口紅を使って遊んで、その日の夜に2人して怒られたこと。


 外で男の人に出会えないかと、一日中2人で町を探検したこと。


 他にも、たくさん。


 気が付けば、私の話を楽しそうに聞いていたゆいは、小さな寝息を立てていて。


 ぽかぽかぽと暖かい体温を感じながら、私もゆっくりと目を閉じた。



 5日目



 いつの間に元気になったのか、その日の朝、ゆいは笑顔で学校へと向かっていった。


 そんな様子を見て、私もお母さんも心底安堵して、これならもう大丈夫だろうと、そう思っていた。


 だから、そう。


 その日の夕方、疲れたと言ってすぐに自室へと向かったゆいを見ても、そこまで心配はしていなくて。


 土曜日になって、日曜日が終わって。


 月曜日、とうとう部屋から一度も出てこなくなったゆいを見て。


 あぁ、この子はとっくに限界を迎えていたのだと、その時やっと理解した。


 私の妹なら、絶対に乗り越えられるだろうと、信じていたから。


 私もお母さんも、割り切ることができたから。


 ――でも、この子は耐えられなかったみたいだ。



 ()姿()()()()()()()()()ことに。



 であれば、今は、心の傷が癒えるまではゆっくりと休ませてあげよう。


 ゆいはもう、十分に頑張ったのだから。



 でも、いつの日か


 ゆいが再び、元気になって。


 自分から外へ出ることができるようになった時。


 その時こそは、私の方から。


 頑張ったねと、抱きしめてあげようと思う。




「……さて」


 折角の休日、感傷的な気分になるのはここまでにしよう。


 最近の私には、誰にも言えない秘密の楽しみもあるのだし。


 お店が開くまでは、まだかなり時間があるのだけれど。


 顔を洗って、制服に着替えて……少しだけ、お化粧もして。


「あ、そういえば」


 ゆいに教えるのは、また今度でいいかな。



 毎週土曜日、あのお店に不定期に現れる"彼"と今日も会えるのかは――そんなこと、神様にしか分からないのだから。






◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇







 この度は数ある企業の中から弊社へご応募頂き誠にありがとうございました。


 厳正なる選考の結果、誠に残念ではございますが今回は採用を見送らせていただくこととなりました。


 何卒ご理解賜りますよう、お願い申し上げます。


 末筆となりましたが、三浦様の今後のご健勝ならびにご活躍を心からお祈り申し上げます。




「……」


 小さな町の片隅にある、おんぼろアパート。


 全8部屋あるうちの、真ん中寄りの一室。


 6畳一間、私の住処。


 カーテンを閉め切って、薄暗い部屋の中。もはや何度読み返したのかも知らない無機質な文字列を眺める。


 いくら読み込んだとこで、現実は変わらないのだけれど。


「……帰ろうかな」


 高校を卒業して、心機一転。


 それまで住んでいた男の子一人いないど田舎からこの町にやってきて、もう3年が経とうとしている。


 ここへ引っ越してきた当初こそ、すぐに立派な会社に就職して、25歳までには素敵な男性と結婚するのだと息巻いていたというのに。


 そんな大言壮語な妄想は、1週間も経たないうちに言えなくなってしまった。


 毎日毎日、深夜まで続く工場でのアルバイトに、一向に終わる気配のない就活。


 月々にもらえる薄給では贅沢をすることも難しく、ただ生きていくだけで精一杯の日々。


 故郷の友達にはありもしない自慢話を寒々しく語り、唯一の癒しはネットで見る男性配信者の料理動画(見えるのは40代くらいの男性の手もとだけなのだけれど)。


「……はぁ」


 今なら、私が実家を出ることを必死に止めていたお母さんの気持ちも分かる気がする。


 思えば、あの田舎にいる友達は大半が私と同じ、不細工な子だった。


 その時はそれが普通に思っていて――だから、この町に来た時は本当に驚いたのだ。


 外を出歩く人は皆おしゃれな服に身を包んで、私みたいにすっぴんでいる人なんて他にはいなくて。


「だから、落ちるんだろうなぁ……」


 そんな人達は当然、こんなに芋臭い女とは同じ空間で働きたくなどないのだろう。


 文書でこそこんなに丁寧な対応だけれど、実際は履歴書に貼ってある私の顔写真を見た段階で弾いているに決まってる。


 なにが()()()()審査の結果だ。それならもう、お前が不細工だから雇いたくありませんと言われた方が潔く諦められるのに。


「いや、本当にそんなこと言われたら号泣する自信があるけども」


 元より、最後は喧嘩別れのような形で会わなくなってしまったお母さんとの事もある。


 今更おめおめと実家に帰るのは、私のなけなしのプライドが許さない。


 それに私はまだ21歳で、全てを諦めるには早すぎる。


 せめて25歳までは醜くあがいて、それでも駄目なら……その時はもう、大人しく実家に帰ろう。


 お母さんにも謝ろう。


「よし、決定!」


 そうと決まれば、今日はもうダラダラしよう。


 折角の土曜日なんだし、久しぶりに一から料理を作るのもいいかもしれn――


「……あれ、土曜日?」


 何か、忘れているような。


「――っああぁぁぁぁぁ!!!!!」


 そうだ、そうだった!


 相も変わらず薄暗い部屋の中で私は、今日が特別な日である事を思い出した。


 同じ会社から3度目のお祈りをくらった衝撃で見事に忘れていたけれど、今日はあのお店に"彼"がいるかもしれない日だった。


「――っ、でも、もう2週間も会えてないし、今日も来てないかもだけど」


 あのお店に行けば……ひょっとしたらまた、あの子と会えるのかもしれない。


 その可能性が1%でもあるのなら、迷わず行くべきだろう、女として。


「そうと決まれば」


 呼吸を落ち着け、辺りを見回す。


「……ふふ」


 そこにあるのは当然、近くのスーパーで買った多数の半額弁当の容器に、飲みかけのペットボトル飲料。洗濯機には乱雑に入れられたよれよれのパンツがはみ出していて、カオスとはきっとこういうことを言うのだろう。


「……」


 時計を確認すると、現在の時刻は午前8時。


 あのお店が開くのが10時からだから、移動時間も考えて1時間半以内ですべてを終わらせる必要がある。



「腕が鳴る」



 閑静な住宅街の片隅で、そうして、静かにしょうもない戦いが始まった。






◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇






「ねぇ柊、この服はどうかしら?」


「はい、とても似合っておりますよ」


「こっちの服と迷っているのだけれど」


「どちらもお嬢様には大変お似合いです」


「いっそのこと、こっちとか?」


「お似合いですね」


「……」


「お嬢様?」


「柊、貴方さっきから似合っているとしか言わないじゃない」


「はい、本当に似合っておりますから」


「こんな顔でも? ……いいのよ、素直な感想を口にしても」


「お嬢様はお綺麗です」


「――っ……だからっ、本当のことを言ってみなさいよ!」


「……」


 って、なんで私は怒っているのよ。


「ごめんなさい、言い過ぎたわ」


「――いえ」


「……」


「……」


「……はぁ」


 ――分かっている。


 彼女に、八つ当たりをしていることくらい。


 柊だって私と同じ……容姿に恵まれないながらも、必死に頑張っていることくらい、分かっているのに。


「……」


 彼と出会ってから1年と少し、未だに話しかけることすらできていない状況に、焦りが募っていたのかもしれない。


 それに、最近の彼はあのお店にもなかなか来てくれないし。


 いっそのこと、住まいを調べて私の方から――


「――っいえ、それはだめよ!」


 それは、越えてはならない一線だ。


 そんなことをして嫌われるくらいなら、私は死んだ方がいい。


 彼を悲しませるつもりなんて、微塵もないのだから。


「……ふぅ」


 それよりも、そろそろ時間が迫って来た。


 外はあいにくの空模様で、今日も彼が来ている可能性は限りなく低いのだけれど。


「この服にしましょう」


 結局、私が選んだのは白のブラウスに、チョコレート色のジャンパースカート。


 昔読んだ絵本に出てくるお姫様が着ていた服に似ていて、つい買ってしまった。


 私がこんな服を着ていても、周りの人には滑稽に映るのでしょうけど……


「関係ないわ」


 どれだけ自分の容姿に悲観していても、現実は変わらない。


 ならばせめて……彼の前では、お洒落をしていたい。


 彼の瞳に映る私が少しでも綺麗であるのなら、それ以上に嬉しいことはない。



「今日こそは」



 もしも、会うことができたなら。


 今日こそは、彼に、話しかけてみよう。


 そして、叶うのならば「京ちゃーん!!!!」


「……」


「あれ、京ちゃん?」


「お母様、私の部屋に入るときはノックをしてくださいと……あれほど」


「えぇぇ、いいじゃない。どうせいつも柊と一緒にお嬢様ごっこしてるだけなんだし?」


「ごっこじゃないです! 私は正真正銘、お嬢様です!!!」


「またそんなこと言ってぇ……私達のご先祖様が貴族だったのって、今から何百年も昔の話よ? 今だってこんな古い屋敷が残っているだけだし」


「何年前だろうと関係ありません! 私は―」


「そんなことよりお嬢様、そろそろお出かけになる時間では」


「――はっ!」



 慌てて時計を確認すると、時刻は既に予定の時間を少しだけ過ぎていて――


「行ってきます!」


「またなの? そんなに毎週、決まって土曜日にはいつもいないし……一体どこに行ってるのよ、そんなに楽しい場所ならお母さんも一緒に――」


「柊、お母様を頼みます」


「畏まりました。いってらっしゃいませお嬢様」


「なんでぇぇぇぇぇぇぇっ?!!」



 背中に聞こえるお母様の悲鳴を無視して、私は急いでお店へと向かった。






◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇






「……着いた」


 今から遡ること、およそ1年前。


 新天地を求めて奇跡的に私が辿り着いたのは、今にも倒壊しそうなほどに古ぼけた古書店だった。


 家から歩いておよそ30分。


 道中、あまりにも変わらない風景にいよいよ帰ろうかと思っていた所だったので、何とかこのお店を見つけることができたのは僥倖だった。


「……」


 辺りを見回しても、人の気配は感じられない。


 木々を抜けた先、少し開けた場所からすぐ真下の位置にこのお店はあったので、それも当然なように思うのだが。


 こんな立地では儲かるはずもないのだし。であれば誰かが金持ちの道楽で始めたお店とかだろうか。


 まあ、人気がないというのは私にとっては有り難い。


「……」


 取り敢えず、このお店の向こう側。


 視線の先には私が住んでいる日暮市とおよそ変わらない街並みが広がっているのだが、間違ってもあそこの有象無象には見つからないよう、注意しなければ。


「よし」


 改めて辺りを警戒し、私の他に誰もいないことを確認してから、慎重にお店の扉を開ける。



 ――カラン、コロン



 扉に取り付けられているドアベルが鳴る。


「……」


「いらっしゃいませ」


 中にいたのは、やけに身体のがっしりとしたゴリラ。


 いや、よく見るとただ体格がいいだけの50代くらいの女性だった。


 彼女が着ている白いシャツはピチピチに張っていて、腰に巻かれているサロンエプロンから何とかこのお店の住人であると判別できる。


 この人は初対面の私にも然程驚きはないのか、一瞬固まっただけで再びスプーンを拭く作業を戻ってしまった。


「……」


 レトロな雰囲気を醸し出す店内で、やけに存在感のある彼女は、それでも、なぜか不思議と調和しているように感じる。


 彼女の立つカウンターの奥からは微かにコーヒーの匂いが漂ってきて、心が落ち着く。


 視界に見える蔵書の数々も私の目に優しい。


「……」


 これは、いきなり当たりを引いたのかもしれない。


 外の窓ガラスからは本棚に収められている蔵書しか見えなかったが、ここが喫茶店としての側面を持っていたことも素晴らしい。


 町のはずれにポツンとある古書店カフェ――うん、響きがいいな。


 店内には一人用のテーブルと椅子がそれぞれ4セットずつ設けられていて、私の他に客は1人もいないようだった。


「……」


 ――それから少し。


 お店の側面にずらっと並ぶ本棚を見回した後、それまで歩き通しだった私は足を休めるためにも椅子に座ることにした。


「……ふぅ」


 椅子に腰を下ろした瞬間、それまで忘れていた疲労が一気に襲ってくる。


 本当は1冊でもこのお店の本を読みたかったのだけれど、やっぱり今日は止めておこう。


「どうぞ」


 と、そんな感じでゆったりとしていた私の目の前に、湯気を立てたコップが突然表れた。


 中に入っているのはミルクだろうか、鼻腔をくすぐる甘い匂いに、思わずごくりと喉を鳴らしてしまう。


 というか


「……頼んでないです」


「サービスです」


 そうか、サービスか。


「お金も持ってないです」


「サービスですから」


 ――ならいいか(楽観)。


 私が素直にお礼を言うと、マスター(勝手にそう呼ぶことにする)は少しだけ目を細め、静かにカウンターの方へと戻っていった。


「……」


 店内には再び心地の良い静寂が訪れる。


 お店に一つだけある窓からは暖かい日の光が差し込んできて、それも心地がいい。


「……」


 目の前で湯気を立てるミルクを見つめる。




 ―――――――――――――――




 ――――――――――



 

 ―――――




「……うん」


 決めた、ここにしよう。


 人気のない、落ち着ける空間。


 私に対して邪な視線を向けることのない、自制心のあるマスター。


 壁際の本棚に収められてある、数々の蔵書。


 そして、ミルク。


 これだけの条件があれば、もう十分だろう。


 新天地はここにあったのだ。



「……」



 まだ湯気を立てるミルクを少しだけ口に含む。



「おいしい」



「恐縮です」



 かくして、私の短い冒険は終わった。




◇◇◇◇◇




「むぅ」



 待ちに待った土曜日、一年前からだいぶ増えた蔵書の中。


 窓ガラスの外、私は、一向に止む気配のない梅雨の雨を睨んでいた。


「……」


 6月に入ってからというもの、いくら何でも降り過ぎではないだろうか。


 この雨のせいでおよそ2週間、あの古書店に行けていない。


 強引に行こうにも、雨でぬかるんだ山の中をこの身体で登るのは自殺行為だろうし。


「仕方ない」


 自然現象に怒ってもどうしようもないので、大人しく今日も家にいることにする。


 マスターに会うのはまた来週に持ち越しだな。


 それと、あのお店で出会った、何人かの常連さんにも。



「さて」



 本を読もう。














 ―30分後―



『あそぼ』


「帰れ」





喫茶店の女性店主の名前をそのまま"店主さん"にするか"マスター"にするかかなり悩みました(どうでもいい)。

結局選んだのはマスターですが、この呼び方は本来男性店主に対して言うもので、使い方は間違っていると思います。でも個人的にはしっくりくるので変わらずマスターでいきます。

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