9
流石に夜か。
水曜日。
週の真ん中、折り返し地点。
小学生の頃には、もうそんなに経っていたのかと驚愕し。また中学生の頃には、あぁやっと半分を過ぎたのかと嘆息し。そして高校生、あの頃の私はとにかく時間よ早く過ぎろと時計を睨んでいた気がする。あまりにも進みの遅い秒針には時に殺意さえ覚えた。
まあそれは帰りに好きな作家の新作を買いたかったというのもあったのだけれど。弟にはかなり呆れられてしまったな。
懐かしい。もう、あれから随分と経ってしまった。
「……」
そんな前世の記憶を思い出しながら、この新しい世界で、人生2度目の私が水曜日に対して思う今の感情とは、一体何なのだろうか。
とりあえず、明らかに時間の進みが遅すぎるのではないかと問いただしてみたい。切実に。
だって、おかしな話だろう。私はこんなにも疲れているというのに。
果たして、本当にこれが水曜日に感じる疲れなのか。バイトで10連勤した時くらいの疲労じゃないのか。まぁバイトなんてしたことはないのだけれど。
いや、とにもかくにも……もはや疲れすぎて日課の読書にすら集中できなくなってきたというのは相当にマズいことだ。それは私の生きがいだというのに。
しかし実際の所、帰宅後はただひたすらに眠くなってしまって、それでも何とか活字を読もうと本を開いてみるけれど……現実はこの目の前の数ページしか進んでいない小説が物語っている。
「……」
もはや今日中に読むことは諦めるしかないか。
しょうがないので手元に持っていた小説は大人しく本棚にしまっておくことにする。
「……」
閉め切ったカーテンの外側から届く夕刻の光もだんだんと弱々しくなってきた。
こうして自由な時間が淡々と過ぎていくことにどうしようもなく寂しさを覚えてしまうが、割り切るしかないのか。
明日も変わらず学校はあって…‥そして、私がどれだけ人付き合いを面倒くさがろうとも、この先ずっと一人で生きていくことなどできはしないのだから。
幸い、来週からは隔日休日制度も始まる。せめて今週までの辛抱だと我慢して、また明日から頑張ろう。
だから
「山城さんも、そろそろ帰らないと」
「……むぅぅ」
私の隣、二の腕が密着するほどの至近距離で児童向けの絵本を読んでいた山城さんにも帰宅を促す。
相変わらず生意気な彼女はリスのように頬を膨らませて抗議の意を示すけれど、普通に腹が立つだけだ。
しかし昨日の事が多少は効いていたのか、やがて驚くほどおとなしく帰りの準備をし始めた。
「……うんしょっ……しょ」
「……」
明らかに色あせているランドセルは恐らく相当に昔のものだと思うのだが、近くの市立図書館で借りてきたのであろう児童書をぱんぱんに詰め込んでいるその姿は素直に微笑ましい。
全く、いつもこのくらい大人しければいいのだけれど……
それから少しして――
『ばいばい』
「……」
窓越しに手を振る山城さんを見送って、ようやく本当の意味で人心地がつける。
そうして裏庭の奥、前方に見える山へとてくてく歩いて行く山城さんをぼんやりと見つめながら――あぁ、私もだいぶ彼女に毒されてきているなと感じた。
「明日も来るのか……」
まぁ、絶対来るだろうな。山城さんだし。
「はぁ」
今日。学校が終わって、母の待つ車に着くなり熟睡してしまった私。
家に着いてから母に起こされた時には思わず辺りを見回してしまって……いつもの我が家を確認して安心できたのも束の間。既に裏庭にスタンバっていた山城さんには本当に肝を冷やした。
『……う!』
『あほ』
直ぐに仕事部屋へと戻っていった母に気付かれなかったのは奇跡と言う他ないだろう。
本当に、まぁ確かにまた明日会おうとは言った気がするけども……もう少し慎重に行動してほしい。怒られるのはどちらかというと山城さんの方なのだから。
「……」
それにしても、家がバレてしまったのは想像以上に致命的だな。
彼女は今後も変わらずこの家に来るだろうし……母もこの家から引っ越すなんてことは考えてすらいないだろう。いや、私のこの状況を知ったら直ぐにでもしそうな気も……
って、そうではなくて。
「……」
元々、昨日の時点で山城さんと物理的に離れることは限りなく不可能に近いと悟った。
『――――――――っ!!!』
あの時の山城さんの悲鳴。あれは尋常ではない。既に若干の依存傾向があるのではと推測していた私の認識が大幅に間違っていることにも気付いた。
「……」
――というより
そもそもからして、あれはこの世界基準だとどの程度の危険度なのか正確なことが分からない。依存度のレベルとしては、果たしてどうなのか。彼女のあの反応は、一体どれほどに末期な―――
「……」
とにかく、彼女の興味が今のところ私にしか向いていないことが問題だ。
山城さんにはこれまで同性の友達らしい友達もいないようだし、きっとそれも私への過剰な接触に関係があるのだろう。関りを持ってしまった私が異性であったことがさらに面倒に拍車をかけているのもそう。
であれば、今後はいかに彼女の興味を他に移すことができるのか。その一点に尽きる。
この世界にはまだまだ彼女が見たことも聞いたこともないような娯楽が溢れているはず。そういったところを切り口にして興味を持ってもらうのもいいのかもしれない。
いずれにせよ、普段の生活の中でそういったものがないのか、まずは私の方から積極的に知っておくべきだろう。たとえどれほど時間がかかったとしても。
「よし」
そうと決めたらだいぶ気が楽になった気がする。
「……」
なんだか他に大事なことを忘れている気もするけれど、今日はもう晩ご飯を食べて寝ることにする。
きちんと睡眠を確保していないと、頭も正常に働かないというのだし。
ガチャ――
「のぞみ、ごはんができたから一緒に食べよう」
「……」
そうして、今日も一日が過ぎていく。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日。
昨日の意気込みはどこへやら。その日も何とか面倒極まりない授業を乗り越えて……
さっさと帰ろうと昇降口へ向かった私を待っていたのは、昨日も会った……大前?何某さんだった。
「大槻 雫です!!! 酷いじゃありませんかっ! どうして昨日は何も言わずに帰ってしまわれたのですかっ?!」
「……」
あぁ、そうだった。そういえば完全に忘れていた。
思い返せば、昨日も最後の最後で疲れてしまったのはこの子のせいだったな。
あまりにも面倒くさくて、気付けば無意識的に記憶の中から消去していたらしい。
「気付いたら貴方がいなくなっていて、本当に悲しかったんですからねっ!! 全く……いきなり話しかけてしまった私も悪いとは思いますが、もう少し優しくして下さったって――」
「……」
あぁ、またぶつぶつ言い始めた。
この子は昨日の事から何も学んでいないのか。
「大体っ、私達はこれから……その、ひょっとしたら末永くお付き合いをすることになるのかもしれませんのに……って?!! いえっ、今のは決して変な意味ではなくてっ!!」
「……」
「お付き合いと言っても、私のこの顔が受け入れられない……ということは重々承知しています。ですが、私はっ――私の内面こそを見てほしいのですっ! 知ってほしいのです!!」
「……」
「顔の造詣が何だというのですかっ! 大事なのは中身でしょうっ?!」
「……」
「それなのにっ! 今までお会いした男性の方々は私を見るなり泣き出したり、酷いときは吐かれたり……私はただお話をしたかっただけなのに………ぐすっ…」
「……」
よし、何とか靴を履き替えた。それじゃあまた明日――って
「―――――ぁぁぁああっ!!!! いたあぁぁぁぁ!!!!!」
「……」
私が昇降口を抜け出して母の待つ駐車場へと向かおうとした矢先……少し遠くにある正門の方から、何やら耳に覚えのある声が聞こえてきた。
「ま゛ってください゛ぃぃ!!!!」
その人影は猛然と私に向かって走ってきていて‥‥遠くからでも分かるその気迫はまるで山城さんを彷彿とさせるようだ。
「……はぁっ、はあ……お゛ぇっ…」
「……」
この国の人類の祖先はひょっとして猪なのでは? 割と真面目に。
「……はあっ……奇遇っ、ですねっ!! はぁっ、はぁ――」
「……」
明らかに正門の方で待ち伏せていたように見えたのだけれど……
「そそそそっ……そんなわけないじゃないですかっ?! 私は本当にたまたまっ――」
そう、あくまで偶然だと言い張るのか。
「っそ、そんなことより! また、会えましたねっ!」
そう言って、何とか息を整えて私へと話しかけてくる女の子……才原さんは、サイズの合っていない黒縁眼鏡は相変わらずのようだけど、よく見れば髪は綺麗に櫛でとかしているようで、服装も薄めの青シャツの上に少し大きめな白のベスト。下はグレー系のミニスカート――って、どこかで見たことがあるような。
「―――あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「……」
あ……そういえば後ろにもまだ放置していたのが。
「また勝手に置いて行きましたねっ!!! どうして貴方はそんなにも私から逃げるのですかっ?! ううぅぅぅぅ……やっぱり顔ですかっ?! 顔なんですかっ??!!!」
「……」
「何か言ったらどうなんですかっ! 言っておきますけどっ、私は貴方に何と言われようとも話しかけるのを止めませんからね! 私はっ―――「……しずく?」――へ?」
「なんでしずくがここに居るの? 今日も用事があるって先に帰ったはずじゃ――」
「……あかね……いえ、これは………その…」
「……?」
なんだか、空気が重くなってきたような。
それよりも、どうやら二人は知り合い同士のようだったらしい。
そうか、確かにどちらも5年生と言っていたっけ……
そんなことを考えている私を他所に、いつの間にか険悪な雰囲気になっている二人。
「――っ! そ、そういうあかねこそっ、その服! それは私のっ!」
「違うっ、私のだよ! 私が胡桃お姉ちゃんからもらったやつだもん!」
「違いますっ! お姉さんは私の方が似合っていると―――」
「……」
――っあ、母から着信が来ている。
『もしもし、のぞみ? 私はもう着いてるけど……』
直ぐに行く。
『うん、待ってるからね』
「……」
「大体っ、しずくは応援してくれるって言ったじゃん!! それなのになんでこんなことするの?! 私なんにも聞いてないっ!」
「――っ! だ、だって!!! あかねばっかりずるいじゃありませんかっ! 私達は今日まで、同じ苦しみを経験してきたというのにっ!!! かなでだって、きっと!」
「だったら、あの時そう言ってほしかった! しずくはいっつもそう!!! 結局自分のことしか考えてないんだよっ!!」
「――っな?! そういうあかねだって昔おねしょしたのを私のせいにして―――」
「しずくも私のお気に入りの絵本を破いて―――」
「……」
◇◇◇
―――ガチャ
「っあ、少し遅かったけど大丈夫? 何かあったの?」
なんでもない。
「それにしては……やけにぐったりとしているけど」
「……」
なんでもない……と、思いたい。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから二日後。私が心から待ちわびた土曜日の昼下がりの事。
「本当に何もなかった」
おかしい。大抵こういう時は次から次へと面倒なことが降りかかるのが定番だったはずなのに。
才原さんと大槻さん。二人が言い争いになったことでその場では何とか事なきを得た私だったのだけれど、翌日の金曜日は絶対に何かが起こると戦々恐々としていたのだ。
それはもう……いろいろと自暴自棄になって、その日の夕方に遊びに来た山城さんと急遽ザリガニ取りをするくらいには憂鬱に思っていたというのに(ちなみに山城さんは滅茶苦茶はしゃいでいた)。
明けて翌日の金曜日には、嵐の前の静けさ……とでもいうのか、一日中、妙な胸騒ぎを感じて。
けれど……嫌に静かなその日の放課後は、結局、どちらからも接触してくることはなかった。
「……」
まあ私としてはそれでありがたいのだけれど……それならどうかこのまま何事もなく無事に事態が収束していってほしい。
あと可能なら才原さんと大槻さんがもう私に近づいてきませんように。
「お願いします、神様」
頭に思い浮かべるのは死後の世界で出会った白髪のお祖母さん。
彼女が実際にこの願いを聞いてくれるのかは分からないけれど……叶うのならば、どうか。
―――――コンコンッ
あぁ、そんな私の真摯な思いが伝わったのだろうか。
『もっ、もしも~し?』
『――っし! もう少し小さな声でないと』
書斎にいる私の瞳には、なぜか窓ガラス越しに才原さんと大槻さんの幻覚が映っていて……
「……」
『すっ、すみません! すみません!』
『だって仕方がないじゃないですか! まさか貴方のご家族に見つかるわけにもいきませんしっ!』
「……」
あぁ、神様。
もう二度と貴方には祈らないです。
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