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神代(こうじろ)

作者: 小野寺 里美


         一  


 車窓からの景色が、変わっていきます。

 都会から住宅街に、そして少し前から田んぼや畑が増えて来ました。

 もう少し行くともっとのどかな風景になるのでしょうね。

 

 どこに向かうかも決めないまま電車に乗りました。 

 

 最初は見たことのある景色や、聞いたことのある駅名に、まだ自分の生活圏を出ていないと安心感もありましが、何回かの乗り換えを経て、辺りも随分山間になり、駅と駅の間隔も空き、乗客も私一人になると不安にもなりますが、何だかワクワクした気分でもあります。 

 今までは旅行で、ここからはきっと旅なんだと思います。


 私は、ボックスシートに一人で座っています。洗濯バサミのような形をしたつまみを持って窓を少し開けてみました。

 暖かい風が車内に入って来ます。そして緑の匂いと電車の音に混じってカエルの合唱が聞こえて来ます。

 水を張った田んぼに、傾きかけた太陽が赤金色に輝いています。

 ついに終点まで来てしまいました。

 ”ここはどこかしら?”


 あたりは薄暗くなって、街灯もちらほらと点き始める時間です。

 旅館などないか聞いてみようと思いましたが、私の他に乗客はいないらしく、誰も降りませんでしたし、駅も無人駅で、駅員さんもいませんでした。

 駅の前に交番がありましたが、ここも誰もいません。巡回でもしているのでしょうか?

 付近の案内板があったのでそれをみます。薄汚れていて、文字も掠れてよく見えませんが、ここから少し行ったところに民宿と食堂があるらしいことがわかりました。

 他に当てもないので行ってみることにしました。


 駅から離れると道はすぐに細くなり、あたりは田んぼ一色になります。

 街灯の灯りが田んぼの中でゆらゆらとしています。

 道端で鳴いていたカエルが、私が近づくとぽちゃんと水の中に逃げていきます。

 波紋の先に小さな緑色が平泳ぎをしています。

 少し行くと、数件の家が見えて来ました。 そのうちの一軒は他のお家よりも大きく、小さくはありますが、看板も出ていました。


 民宿・日本料理 神  こうじろ


 玄関から明かりがもれているので、人はいるようです。

 私は恐る恐る玄関を少し開けました。


「ごめんください」

私は小さな声で言いました。

中はテーブルが3つとカウンターのこじんまりとした食堂のようでした。

私がもう一度「ごめんください」というと、

中から「はーい」という声が聞こえて来ました。

 奥からパタパタという足音と共に、女の子が出て来ました。

十歳くらいでしょうか?

「あなたお客さん?」

女の子は言いました。

私が頷くと、

女の子は、

「お食事?それともご宿泊かしら?」

と大人びた言い回しで聞いて来ました。

私が、

「両方」

と答えると、

女の子は笑顔になって、

「ようこそいらっしゃいました。どうぞお好きな席に座ってください、ちょっと待ってって下さいね」

と言い、奥に消えていきました。


         二


 戻って来た女の子は、着物にエプロン、黒髪も櫛が入り艶やかで、昔の女中さんのそれでした。

「それではお部屋にご案内いたします」

 案内された部屋は階段を上がった二階の向かって左側の部屋でした。

八畳ほどの部屋の中央には、ちゃぶ台が置かれ、窓際には絨毯敷の一角があり、そこには籐でできた小さなテーブルと椅子のセットが設てありました。

 他には何もありませんが、何だか居心地が良さそうな部屋だと思いました。 

 女の子はお茶を入れながら

「お夕飯の準備ができるまでお風呂に入ってきてきてはいかがですか?当館のお風呂は温泉を引いていますので疲れがとれますよ」


「それではごゆっくり」

と言い、

浴衣とタオル、それらを入れる紫色の巾着をちゃぶ台に置き、部屋を後にしました。


「はあ~」


 人はどうして温泉に入ると声が出ちゃうんでしょう?

 女の子の言った通り、お風呂は温泉でした。とても艶やかで、肌に付いてもすぐに弾けてしまうくらいでした。

匂いはなく無色透明、体の芯からぽかぽかしてきます。

 お風呂場は決して広くはありませんが、それでも大人数人が手足を伸ばして入浴ことができる広さであり、なによりその作りが、和と様が折衷した、まるで大正ロマンを彷彿とさせるような佇まいでとても素敵で気に入りました。

 一日中入浴できると言うことでしたので、きっと何度も入りに来てしまうと思います。


 部屋に戻ると、ほどなく夕食の準備が整ったと女の子が呼びにきたので一階の食堂へ降りていきました。


 食堂には、私意外にお客さんの姿はなく、ひっそりとしています。

 中央のテーブルに夕食のお膳が用意されていました。 

 献立は以下の通り


・こんにゃくの酢味噌和え

・山菜のおひたし

・筍の煮付け

・岩魚のお刺身

・ヤマメの塩焼き

・山鳥の朴葉包み焼き

・ごはん

・お味噌汁

・香のもの


 正直、急な来訪でここまでしっかりとした和食のお膳を食べられるとは思っていなかったのでとても驚きました。

 どれも素朴だけれども出汁が効き、すごく美味しく、岩魚の刺身などは、おそらく先ほどまで泳いでいたのであろうと思うほどの新鮮さでした。

 私がお料理に感心していると、女の子が傍で、

「お客さま、お酒などお飲みになられますか?」

と聞いてきました。

お料理も大変美味しかったので私は、

「ぜひに」

と答えました。 

 ビールと日本酒があるというので、ビールを注文することにしました。

 奥から瓶ビールとグラスをお盆に載せ、女の子が戻って来ました。

 ビールを上手にお酌してくれたあと、

「ごゆっくり」

と言って奥に戻って行きました。

 別世界のような場所で、素朴だけれど素敵な民宿に泊まれて、しかも瓶ビールをお酌してもらえるなんて、

・・・今までを捨てて、旅に出てよかったなと、私はそう思い始めていました・・・


         三


 まだ夜も空け切らぬ時間ではありましたが、目が覚めてしまったので、お風呂に入ることにしました。

 私は、朝お風呂に入るのが大好きです。頭がすっきりしますし、何だか贅沢な時間の使い方のような気がして・・・

 

 お風呂場の戸を開けると、人影がありました。だれも入っていないと思っていたので少し驚きましたが、それがあの女の子だと分かり安心しました。

 民宿ですから、そこのお家の方が入られるのは珍しいことではありません。 

 特に今は夜明け前ですから、お客さんが使わない時間を選んで入っているのでしょう。

「あっ、おはようございます。すみませんすぐ出ますね」

 女の子は長い黒髪を頭の上で上手に束ねて体を洗っていました。泡のついた体に手桶でお湯をかけて、急いで出ようとしていました

「いいのよ。気にしないでゆっくり温まりなさい」

「じゃっ、じゃあ お言葉に甘えて・・・」

 女の子は、体を洗い終わると遠慮がちに湯船のはじに浸かりました。

「そんな端っこじゃなくもっとこっちで手足を伸ばしたほうが気持ちいいわよ」

私が言うと

女の子はおずおずと私の隣まできて足を伸ばしました。

 女の子の体は細く、そして真っ白で、均整の取れた顔は、長い黒髪と相まってまるで日本人形のように綺麗でした。

「朝、早いんですね、昨日はゆっくり眠れましたか?」

女の子が尋ねました。

「いつも早いわけじゃないけど、昨日の夜は珍しくぐっすり休めて、夢も見ないで眠ってしまったわ。ここ最近嫌な夢ばかりみていたから・・・本当にこんなの久しぶり」

「お忙しかったんですね」

 確かに私は忙しかった。大学を出て社会人になって数年。もう新人ではないけれど、中堅でもない。

でも、業務量だけは増えていっていつも仕事に追い立てられる毎日。残業や休日出勤も多かったし、一時も気は休まらなかった。

夜ベッドに入ると、いつもいやな夢を見る。乗るはずの電車に乗れなかったり、乗れ他と思ったら別の所に行ってしまう電車だったり、見知らぬ誰かに追いかけられたり。

そして汗だくになって目が覚める。


 でも昨日は何の夢も見なかった。

気がつくと空がうっすら明るくなっていた。


 顔が熱くなって来たので、私は窓を少し開けました。

 外の涼しい空気が湯船の上を渡り、お風呂場全体に吹き込んできます。

湯気が脱衣所の方まで流れて行きます。

 遠くからキジバトの鳴き声も聞こえてきます。夜が明けたようです。

 女の子も私の隣で、熱った顔を冷ましています。

 私は女の子の名前をまだ知らないことに気がつきました。

「ねえ、お名前なんていうの?よかったら教えてくれない?私は穂波、悠木 穂波。稲穂の穂に波飛沫の波」

「私は、千夜です。千の夜とかいて千夜」

「千夜ちゃんか・・・いいお名前ね」

私がいうと、

「穂波さんのお名前も素敵です」

千夜は恥ずかしそうに言うと、

「私、朝食の準備がありますのでもう上がりますね。準備できましたらお呼びしますのでお部屋でゆっくりしていてください」

そういうと千夜は湯船から出て脱衣所に向かいました。

 私はここが気に入ったので、もう少し滞在したいと思い千代の後ろ姿に言いました。

「千夜ちゃん、私もっと泊まっていたいんだけどいいかな?」

 千夜は立ち止まり、ゆっくり振り返ると、

「はい、穂波さんのお気がすむまでご滞在ください。私、精一杯お世話させていただきます」

笑顔でそういうと小走りでお風呂場を後にしました。


         四


 朝食を食べ終わると、千夜がお茶お入れてくれます。

「穂波さん、今日はどのように過ごされますか?お部屋でゆっくりされるならお布団は上げずにそのままにしておきますが・・・」

と聞いて来たので、私は少し考え、

「お天気も悪くないみたいだから、外を少し散策しようかな?どこか良い場所はあるかしら?」

と聞くと

「この辺りは、平凡であまり珍しい所はないのですが、当館の前の小川を遡ってしばらく行くと、山の中に入っていきます。また少し行くと開けた草原のような場所に出るのですが、その奥に龍神様を祀った小さな祠があって、そこは、ただいるだけで何か神様からの力を感じられる不思議な場所なんですよ」

と千夜は言いました。

「神様の力を感じられる場所か、パワースポットということね」

「そうですね」

 私はそこに行ってみることにしました。


 建物を出ると、少し冷たい風が全身を包み込みました。何か心洗われるような、神聖な感じがしました。

 千夜の言った通り、建物の前には小さな小川が流れていました。小川は自然にできたものではなく、石を組んで作られた用水路の様に見えました。田んぼに水を引くために昔の人が作ったのかなと思いました。

 私は、小川の横の畦道を上流に向かいゆっくり歩いていきます。上流と言っても大きな傾斜が付いているわけではないので、それほど苦にはなりません。

私は、ゆっくり、ゆっくり歩いていきました

 辺りは田んぼばかりで景色も大きくかわりません。田んぼのあちらこちらでカエルが大合唱していて、私が通りかかると鳴くのをやめ、通り過ぎてしばらくするとまた後ろで鳴き始めます。

 よく見ると、小川には小さな魚が泳いでいました。種類は分かりませんが、細くてキラキラ光っていてとても綺麗でした。

 山に差し掛かりました。

 山と言っても畦道の突き当たりから里山の中に入って行く、少し傾斜のついた道があるだけでした。

 道の入口には、古く半分苔むした道祖神が祀ってあります。道の両端には、細い木材が立ててあり、上部は麻縄で繋いでありました。麻縄には紙垂が四本付けられおり、ここからは神聖な場所だということを表す注連縄のようでした。

 そこをくぐる前に、私は二礼二拍手をして、最後に深く一礼しました。

 私は、何か宗教を深く信仰しているわけではありませんが、家には神棚があり、おばあちゃんが毎朝神饌を供え、お参りをしていたので、私も真似していたことを思い出しました。

「そういえば、お母さんも近くに神社によく

行ってたな・・・」

 昔の記憶がよみがえります。

「あの頃は毎日楽しかったな・・・」 


 注連縄をくぐると、木が増えてきたせいか、辺りは急に暗くなり、風が道に沿って強く吹いて来ました。

 冷たくて強い風は、木の葉をザワザワいわせます。

 もうカエルの声も聞こえません。私はすこし怖くなって来ましたが、先に進むことにしました。

 

 ふっと、目の前が明るくなりました。

 そこは、今までの薄暗さが嘘の様に、木々がポッカリとなくなった広くて丸い空間でした。

 足元には短い草が生い茂り、暖かな風にさわさわとなっています。

 その草原のような場所には、青々と葉を茂らせた大きな木が一本立っていまいた。

「暖かくて気持ちいい・・・」

 私はその木にもたれかかる様に座りました

 日差しが枝葉を通して私に降り注ぎます。

「なんだか・・・眠い・・・」

 私は強烈な眠気に襲われ、意識を失いました。


         五


 強い光・・・


 揺らぐ水面・・・


 水の音・・・


 波の音かしら・・・?


 キラキラ光るのはお魚・・・?


 ・・・・・・


 誰かの声がする・・・


 誰・・・?


 ・・・波・・・


 ・・・穂波・・・


 私を呼んでるの・・・?


 誰・・・?


 ・・・・・・


 はっと、目が覚めました。

 私は、木の根元でうずくまるようにして眠っていました。

 夢を見ていたのでしょうか?

 なんだか、懐かしいような、少し寂しい様な・・・不思議な気持ちです。

 心の中がザワザワしました。

 顔を上げると、草原の突き当たりに小山の様なものが見えました。

 その間には大きくはありませんが鳥居が見えます。

 おそらく、千夜が言っていた龍神様が祀られた祠だと思います。

 私は立ち上がり、祠に向かいました。

 地面で眠っていたからでしょうか、体がだるく、手足が重い・・・

 私は大きく息をしながらゆっくり歩いていきました。


 祠は私の背丈ほどありました。

その中に小さなお社があり、神饌や榊などが供えられています。

私は、鳥居をくぐり、お社の前にしゃがみました。

 改めて二礼二拍手一礼し、参拝しました。

「どうか・・・私、私・・・」

 お願い事を言おうとしましたが、声が出ませんでした。

 不思議と涙がこぼれてきました

 悲しい涙なのか、嬉しい涙なのか、全てがないまぜになって何だか分かりませんでした

 私は来た道をとぼとぼと帰りました。


         六


 気がつくと、私は神代のすぐ近くまで戻って来ていました。辺りは薄暗くなって、街灯が点き始めていました。

 私が玄関の戸を開けて「ただいま」といって中に入ると、奥から千夜が履き物も履かずに駆け出してきて私に飛びつきながら言いました。

「穂波さん、良かった帰って来て、良かった・・・本当に良かった」

 千夜は私に抱きついたまま泣きじゃくります。私は困惑しましたが、千夜の肩を抱いて椅子に座らせました。

 千夜は涙をぼたぼたとこぼしながら嗚咽をしています。

「千夜ちゃん、ごめんね、本当にごめん」

 私は、何が悪かったか分かりませんでしたが、千夜がこれだけ泣くのだから、きっと相当心配をかけたのだと思い謝りました。

 千夜は嗚咽しながら声を絞り出しました。

「違うんです、私が悪いんです、穂波さんが戻らなかったら、私、私・・・」

 千夜は上を向き涙を溢れさせながら大きな声で泣きました。

 いつまでもいつまでも泣きました。

 私も、千夜の横で泣きました

 いつまでもいつまでも泣きました。

 いつの間にか、神代の中は真っ暗になっていました。

 千夜は、肩がまだ震えていましたが椅子から立ち上がると部屋の明かりをつけました。

「穂波さん、泣いちゃってごめんなさい。お疲れになったでしょ、すぐにお食事の準備をするのでお風呂に入っちゃってください」

 千夜はそう言って奥に向かおうとしました

 私は後ろを向いた千夜をそのまま強く抱きしめました。

「・・・千夜ちゃん・・・神代って何?千夜ちゃんって何者なの?私って・・・」

「穂波さん・・・」

 千夜は何も言わず、ただうつむいていました。


         七


 どれくらいの時間が経ったのでしょう?

 私は、千夜が何かを言うのを待ちました。

「・・・穂波さん」

 千夜は小さく私の名前を呼ぶと腕の中で向き返りました。

 私は、泣き腫らした目をした千夜の顔を見た瞬間・・・目の前が真っ暗になりました。


 ・・・風が心地いい


 ・・・暖かい太陽の光


 ・・・小川のせせらぎ


 ・・・キラキラと光る魚


 ・・・あれ、これどこかで・・・?


「・・・波さん、穂波さん」

 遠くで名前を呼ばれ、私は目をゆっくり開けるとそこには千夜の顔がありました。

「ち、千代ちゃん?」

 千夜は笑っていました。

 私は草原で、千夜に膝枕をされていました

「お目覚めですか、穂波さん。こんなところでお昼寝してると体が痛くなっちゃいますよ」

 私はゆっくり体を起こすと、千夜は

「もうお昼ですからお弁当を作って来ました。おにぎりですけど、一緒に食べましょう」

そう言うとおにぎりを二個差し出しました。「そうだ、私は朝散策に出て、この草原まで来て気持ち良くなって眠っちゃったんだ・・・」

「こんなに気持ちのいいお天気じゃ仕方ないですね」

 千夜は笑いました。

 私はおにぎりにかぶりつきました。すごくお腹が空いていました。千代の作ってくれたシャケのおにぎりは、とても美味しく、そして懐かしい感じがしました。


         八


 私と千夜は、神代への道を、お喋りをしながら帰りました。

 小川にいるのはウグイという魚であること

 田んぼで鳴いているカエルはヤマアカガエルとニホンアマガエルであること。

 この先にもう少し大きい沢があって、ヤマメや岩魚が釣れて、とても美味しいことなど。 神代に着くと、千夜は部屋の明かりをつけて言いました。

「お疲れになったでしょ、お食事の準備をしますので、先にお風呂に入っちゃってください」

 その瞬間、前頭部がズキンと痛み、私はおでこを押さえてうずくまりました。

「穂波さん・・・!」

 千夜は叫ぶと、私の体を抱きしめました。

 私は部屋の布団に寝かされました。

「穂波さん、疲れが出たのかもしれませんね。今、消化の良いものを作ってきますので、寝ていてください。お水ここに置いておきます」

 そう言うとお盆に乗せたガラスの水のみを枕元に置き、階段を降りていきました。

「私、どうしちゃったのかな?」

 自分の体におこった異変と、何だか大切なことを思い出せないもどかしさに涙がこぼれました

 その夜、私は何も食べずにそのまま眠ってしまったようです。


 目が覚めたのは、おそらく夜中。

 カエルの鳴き声も聞こえず、窓には霧のかかった満月がぼんやりと見えていました。


         九


 窓から霧のかかった満月おぼろげにが見えます。

 そして、私の傍には、千夜が座っていました。

 背中から月の光を浴びて白い肌は青く見えました。

 千夜は、視線を宙に向けながら話し始めました

「穂波さん、あなたは明日帰ります」

 私はその言葉を聞き、胸が痛くなりました。「千夜ちゃん、私、まだここにいたい。千夜ちゃんとも仲良くなれたし、食事もおいしいし、温泉も気持ちよくて、それから、それから・・・」

 私は身を起こしながら必死に言いました。

 千夜はゆっくり頭を横に振ると

「穂波さん、あなたは明日帰ります」

 ともう一度言い、更に続けました。

「穂波さん、薄々は勘づいていると思います。ここはあなたが来る場所ではなかった。ここは、人の世を離れて、あの世へ行く途中の場所。私はその旅路のお世話をすることが仕事」

「・・・」

「私は神代こうじろ、神の代わりと書いて神代こうじろ。龍神は人の世とあの世をつなぐ道の番人。人の世で生を全うした人、投げ出した人、どちらでもない人、色々な人がここを訪ねます。生を全うした人は、あの世への道が開き、全てを終わらせ逝くことができます。全うできなかった人は、ここでさまざまな生き物に生まれ変わり、それはそれで幸せに暮らします」

 私は、首元から冷たい汗が流れ落ちるのを感じました。

「穂波さん、あなたは・・・」

 千代がいいます。

「私は・・・」

 私は唾を飲み込みました。

「あなたは、まだ人の世と神代の間にいます。こちらに来るのを必死に止められている方がいます。それが誰か私にはわかりませんが、穂波さんあなたはここに来るのが早すぎたようです」

 私は頭の中が真っ白になりました

「千夜ちゃん・・・私、私・・・」

 千夜は私を抱きしめました。

 千夜の肩越しに朧げな満月が空全体を青白く染めています。

「私、私・・・辛くて、辛くて・・・もう嫌で・・・それで・・・」

「大丈夫、わかっています、わかっていますよ」

 千夜は私の頭を優しく撫でながら言いました。

「次にここに来るのがいつになるか分かりませんが、いつまでも待っています。私は千夜、千夜と書いて千夜・・・」

「またお会いしましょう」

 そう言うと千夜は私の瞼に手を当てました


 私が最後に見た千代の顔は、笑っているような、泣いているような・・・そんな顔でした。


         十


「・・・波、穂波!しっかり、しっかりして!」

 救急車の中に、女性の悲痛な声が響く。

「バイタル低下しています」

 救急隊員が決死に救命処置を行う

「おかあさん、もっと声をかけて、娘さんを呼び戻してください!」

「穂波!お願い帰って来て!」

 穂波の母親は泣きながら必死に娘の名前を呼び続けた。



・・・遠くで声が聞こえる・・・


・・・お母さん・・・


・・・ごめんね、馬鹿なことして・・・


・・・でも千夜ちゃんがまだ来ちゃダメだって・・・


・・・あっちでも泣かれちゃった・・・


・・・私、人を泣かせてばっかりだね・・・


・・・今から帰るね・・・



 大学病院の救急処置室


「よし、バイタル安定、お母さんもう大丈夫ですよ」

「ありがとうございます、本当にありがとうございます」

 穂波の母親は床に泣きくずれた。


「おかあさん・・・」

「穂波、穂波!気がついたのね、良かった、本当に良かった~」



 私は、あの日から二週間後に病院を退院しました。私の体からは薬が完全に抜け、精神状態も安定したの判断でした。記憶が曖昧なのは、その時の薬と、低酸素状態の影響だそうです。

 まだ仕事には復帰できていませんが、日常生活は問題なく送れるようになりました。多くの人にご迷惑をお掛けしたことを本当に反省しています。


 今日は久ぶりに実家に戻りました。

 お母さんとおばあちゃんが玄関で迎えてくれました。

 私を家に迎え入れると、おばあちゃんは神棚に、孫を返してくれて本当にありがとうございました、と手を合わせました。

 縁側から爽やかな風が部屋の中に吹き込み、風鈴がちりんとなりました。

 おばあちゃんが作ってくれた、私の大好きなシャケのおにぎりをみんなで食べました。


 私は懐かしさで・・・少し泣きました。



                おわり










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― 新着の感想 ―
[良い点] 電車に乗って遠くまで来てという描写そのままの状況だと思っていたので、終盤で明かされる現状には驚かされました。 これほどまでには重いものではなかったとしても彼女の気持ち自体には多くの人が共感…
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