第九話 流血の習慣
数分間屋敷の中を徘徊してなんとかトイレに辿り着いた。用を足して手を洗い、備え付けのミニタオルで水を拭う。
僕が通ってきた広い廊下はゴミ一つ落ちていなくて清潔そのものだった。足を踏み入れはこそしなかったが、廊下から見えた病室は白いカーテンが柔らかくした外の光で爽やかな雰囲気さえ感じてしまうし、病院としての機能を果たすためとは言えど、恐らく一人でここを管理しているラモールさんの技量には脱帽の一言だ。
もし僕が同じくらい大きい建物に住むとしたら、自室以外酷い有様になるに違いない。いや、自室が一番酷くなる可能性もあるかも。
ポータルというあの穴を創り出す技術がこの世界にあるのだから、自動で隅々まで清掃してくれる夢のような機械もあったりするんだろうか。だとしたらその機械を一目見てみたい。
そんな悠長な事を考えながら、せっかくだから他の場所を探検しようと目的も無く廊下を歩いていた途中。僕が昨日、唯一入室した部屋のドアが開いていたのが視界に入った。
そう、ディアさんが目を診て貰っていた診察室だ。
閉じ忘れたのか、一、二センチの細い隙間から中を覗くことができる状態。当然鍵なんてかかっていない。
室内から物音は無い。僕がドアを引けば、抵抗無く道を開けて迎え入れてくれる。キョロキョロと見渡してみるが、中には誰も居なかった。
昨日と何も変わらず、緊張を抱かせる清潔感が部屋を支配している。
招かれるまま診察室に入り、背後でドアを閉めた。
静かだ。
物音一つしない。
あの彼岸花の夢みたいな沈黙が蔓延っている。
人の家の一室に勝手に入り込んでいるというのに、これといって罪悪感は無い。歩を進めて奥へ移動してみる。
机の上、筆記用具を見つけた。筆箱は開いていて、ボールペンが顔を覗かせている。
普段からラモールさんの手に握られているであろうそれはシンプルな黒いゴムキャップを巻いて寝転がっていた。
安そうな、でも書き心地の良さそうなその文具を観察していたら、筆箱の中で一瞬キラリと何かが光ったような気がした。
鋭い反射光に注目すると、それもまた文具だった。
小型のカッターナイフ。収納された刃はまだ長く、使い古された形跡も無い。筆箱の内部で雑魚寝をする文具達の中では比較的新入りな事が予想できる。
……と。ここで一つ、試したい事ができた。
自分の血液を見た時の“ 懐かしい安心感”……あれは自分で自分を傷つけた場合にも湧き上がる感情なのか、実験してみたくなったのだ。
当たり前のように。
まるで、持ち主が僕自身であるかのように。
──僕はカッターナイフを手に取った。
サイズは僕にも扱えそうな程手頃な大きさで、手に馴染む。
人の物を勝手に使っているのに、やはり罪悪感は無かった。
刃を出す。カチカチカチ……と音がして、平行四辺形が縦に並んだカッターナイフ特有の刃が背を伸ばしていく。その間、僕は自分自身の存在を忘れそうになるくらいに無心だった。
恐怖も高揚も無く、前の光景を目に入れた。それを脳が正常に分析、理解するかどうかはもはや重要ではない。
左手首。手のひらの真下。柔らかい皮膚にカッターナイフの刃を当てた。このまま引けば、目的通りあの黒い血が僕の視界に現れるだろう。
ゆっくり、ゆっくり、刃が皮膚の上を滑る。皮膚が破られ、細い血管に届き、ぷっくりと表面張力で球体のようになった黒色の液体が僕の顔を映した。
不思議と、痛みは感じない。
分かるのは、何も考えていないこの時間がとてつもなく楽だという事────。
実験終了。
結論、自傷行為でも効果あり。
結果、身体に傷を一つ増やした。
現状、血液を床に一滴零した。
やっちゃったああああああ!!
自分で汚した床がフローリングなのが不幸中の幸いか、すぐ拭けばなんとかなりそうだ。
なりますよね?
なるって言って!?
人の物を無許可で借りた上に部屋まで汚すなんて馬鹿過ぎないか僕!
せめて血の処理できるように用意してからやれば良かった!
……何か拭ける物、拭ける物……。可能であればティッシュとかお手軽にポイできる物が好ましいんだけれど、あるかな。
周りを見渡す。一通り部屋の中を見たがそれらしい物は無い……と思ったが、不覚にも僕がさっき目にしていた筆箱の後ろにちょこんと、小さいポケットティッシュがあった。
焦っていると身近なものを見落とすのは日常あるあるかもしれないけれど、それでも自分自身のあまりの阿呆さには一周回って笑えてきた。
無礼を承知でポケットティッシュを一枚拝借し、床に零した血液を拭う。早めに対処できたから跡は残らなそうだ。
失態の後片付けを成功させる為に屈みこんだ僕は、ようやく痛みの感覚が戻ってきた手首が視界に映り、少し考えてしまう。
それは、血を見るだけなら傷を増やす箇所はどこでも良かったのに、どうしてほぼ無意識に手首を選んだのか、という疑問だった。さらに言えば僕はその時、この“ 手首に傷をつける行為”に何の違和感も抱いていない。
何故だろう。自分で自分を物理的に傷つけるというのは恐れを感じてもおかしくない事だというのに。
あっさり終わった自傷行為。カッターナイフの扱い。最適な傷の浅さ。
初回と言うにはあまりにもスムーズだ。
もしかして────慣れていたのか?
記憶の無い僕にとっては初回でも、この身体にとっては違かっただけ。そう考えると少ししっくりきてしまう。
自分の左手首に注目した。切り傷の跡は長く残るから、薄い傷跡があったらそれは確実な証拠となる筈だ。
目を皿のようにして、まじまじと見つめる。
…………。
………………。
……………………あった。
目を凝らさないと見えない程薄いけれど、確かにそれは僕の手のひらのすぐ下から五センチ程刻まれていた。
範囲は狭いが回数は多かったようで、手首に淡く細い横線が密集している。
きっと、あの彼岸花が精神的に傷ついていた証なのだろう。新たに僕が傷を重ねてしまった事に僅かな後悔の念が纏わりついた。
懐かしさの謎は晴れた。でも気分は晴れなくて、床を拭き終わったティッシュをおもむろに傍にあったゴミ箱に投げ入れた。
痛みが滲んで手首の傷口が濡れている。浅くしか切っていないから、滴る事はもう無さそうだ。逆に瘡蓋のお陰で塞がりかけていた。
カッターナイフは……後で使えるかもしれない。僕が精神的に追い詰められた時もこの自傷行為は役立つだろう。
他人に迷惑をかけるよりよっぽど良い筈だ。
……心残りはこのカッターナイフを一時的に盗む事になりそうだという事。そしてこれは確実に、「他人に迷惑をかけている」と言えてしまう事だが。
バレたら土下座だ。
靴でも舐めよう。
プライドなんて無い。
ごめんなさいラモールさん、もう少しだけお借りします。
幸いこの刃物は小柄で薄い。ポケットに入れてもすぐには気づかれなさそうだ。
パーカーのポケットに忍ばせて、外から見ても違和感が無いか確認。パーカー自体、厚めの布が使われているという運も味方して、カッターナイフは上手く馴染んだ。
確かめたい事は確かめたし、そろそろ診察室を出よう。
ドアを開けて廊下へ出る。後ろ手で扉を閉めて今度はあの落ち着いた空間、応接間へと戻る為に歩を進めた。
喉が渇いていたのもあったが、何より座りたい。さっきまでしゃがんでいたせいで足の血の流れがあまり良いとは言えず、体力の無い身体は休息を欲しがっていた。
しばらく歩いて、ドアの前で足を止める。
何の心構えも無く扉に手を触れて開いた部屋には、既に一人の大人の姿があった。
僕が立てた音に振り返るその人から、また花の香りが淡く漂う。
「人間、応接間に姿が無いから驚いたぞ。外に出てしまったのかと焦ったくらいだ」
ラモールさんがそう言って腰に手を当てる。その立ち姿は凛としていて、背後にある花瓶の中に佇む精巧な薔薇の造花が、見事な引き立て役に成り下がった。本当に何をしても絵になる人だ。
僕はポケットの中のカッターナイフに目線を引っ張られそうになったが、既の所で止め、目の前の紫色を瞳に捉えた。
「すみません。お手洗いに行きたくなってしまって、少し席を外してました」
「そうか、案内も無く失礼した。これの結果が出たのだが、聞きたいか?」
「……はい」
僕のぎこちない視線の動き方を気に止める様子は無く、ラモールさんは僕の黒い血液が入ったガラス製採取管を手に持っている。その採取管を透明な天板の上に置き、こちらに上座の席を勧めた。
勧められるままソファに座る。飲みかけのストレートティーの上で開かれていた湯気のダンスパーティーは既に幕を閉じていた。
ラモールさんもテーブルを挟んで僕と向かい合う形でソファに座り、僕の目を見据える。
彼の鋭い眼光が、僕の身体に緊張として伝わる。
「結論から話そう」
薄い唇はそう言って、少し息を吸った。
「貴様の血液は、グロルの身体を形成する半固体の物体と、ほぼ同じものという結果が出た」
◇◆◇
グロル。
これまで何度も僕の前に現れては恐怖を植え付けてきた、いくつもの目玉と手が特徴の生命体。
決まった形状は無く、まとまりの悪いスライムのような半固体。その黒い身体には毒が含まれているのか、触れた草木は腐敗し枯れていく。
それと、僕の血液がほぼ同じ。
そう言われて一瞬思考が止まったが、次に秒針が動く時には脳は正常に作動していた。
納得してしまったのだ。
あの異様な色の見覚えに。
確かに、言われてみればそうだ。そっくりだ。どうして気付かなかったのだろう。
……だがそれは所詮見た目が似ているだけ。同時に矛盾点が生まれる。僕がすぐに冷静になれたのはどちらかというと、その辻褄の合わない事実の方が頭を冷やしていた、と言っても良い。
僕は顎に手を添えて下を向いた。ガラスの天板の上に置かれた、僕の黒い血液が入った採取管を見つめる。
……数分前の過ちを思い返してみる。
血液を一滴、診察室の床に零してしまったあの時を。
あの時、床にダメージは無かった筈だ。拭ったティッシュペーパーも特に異常は見られず、僕はそれをごく普通に、何の引っ掛かりも無くゴミ箱へと処理をする事ができた。
黒い半固体と同じなら、どうして血液が触れた床に変色すら起こらなかったのだろう。
「しかしな、無いんだ」
ラモールさんの低く心地良い声が、俯いていた僕の顔を上げる。
「グロル最大の特徴である『毒』が」
「無い……?」
窓の外で木の葉が揺れた。陽の光は傾き始めていて、木の幹に温もりを与えている。
部屋の中に入ってくる日光はさっきより多く、斜めに伸びながら床に寝そべっていた。
「“ 無い”って一体どういう事ですか」
「そう微妙な顔をされても困る……ただ無いんだ。黒ずんだ草木が足跡となって私達にグロルの居場所を教えてくれるあの毒が。それ以外はグロルと大差の無い成分だから、ほぼ同じもの、としか言えなくてな」
正面に座る紫がこちらの様子を窺いながら、しかし嘘偽り無く言葉を紡ぐ。スラックスに包まれた太腿の上に乗る大きい手の中には僅かな隙間があり、僕を警戒していたとしても緊張は抱いていないのを察した。
もう一度俯く。銀髪が視界の上を邪魔して伏した睫毛を擽ったのを、首を横に振って誤魔化した。
黙ってしまった僕に、ラモールさんが少し声のトーンを上げて話しかける。
「そこで、だ。人間」
その内容は、僕が考え事をほっぽり出すのに充分過ぎるものだった。
「この血液、操れるか?」
「……………………はい??」