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黒天使と僕。  作者: 書の猫
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第七話 緑の試練と悪魔の業火



 ひゅるり、と。少し冷たく感じる風が木の葉を運ぶ。

 ここ何十年も形を変えない巨大な木の幹に、日光から逃れるように背中を預ける。

 モルテ達と人間くんを見送ったボクは、目を隠すように頭に巻き付けた遮光カーテンの切れ端を少し解いて、うっすら目を開けた。

 いつも通り、ハート型の眼帯で塞がれた片目の視界に白い前髪が横切る。しかし、その白い髪すら煩わしく思うくらい、鋭い光が眼孔に突き刺さった。


「────っ……! 痛った……」


 あまりに多量な陽の光に思わず顔を歪めて目を抑える。

 反射で赤の瞳孔が涙に浸る。視力が低く、光も過剰に受け取ってしまう自分の眼球の品質の悪さに苛立って少し唸った後、目を閉じたまま大きく息を吸ってまた少しだけ開いた。


 迂闊。

 まさか眩しさを軽減してくれる専用のコンタクトを家に忘れるなんて思わなかった。いつも持ち歩いているものだからまさか今日忘れるとは、タイミングが良いにも程がある。

 即座に家に帰って取ってこないと。

 モルテ達に着いて行かなくて良かった。こんな使い物にならない視界では弓という遠距離武器は使用できない。でもだからといって昔のようにレイピアを振ったら、まだ気配を覚えていない人間くんを知らず知らずの内に敵と誤認して攻撃していたかもしれない。


 いや……あの子は、あの人間はまず、味方……なんだろうか。


 あの銀髪に。ボクよりも遥かに年下の、あの本来大人に護られるべきである少年のあどけない顔に、そんな疑問を抱いてしまう。

 悪い思考がジトジトと滴る脳に嫌気が差す。

 軽く頭を振って肩の力を抜き、乱暴にズボンのポケットの中をまさぐった。


「連絡、しないと」


 スマホを取り出して画面を見る。さっきまでファルの家の中で使用していたため画面は暗く、全く見えない。目を擦りながらなんとかスマホの明るさ調整して、ある電話番号をタップし耳に近付けた。

 機械の向こうでは物音に敏感な奴が仕事の合間を見つけて眠りこけているはずだ。


『あ! アルちゃん!? ナイスタイミング! 助けて!』

「……何なの一体」


 ……と思っていたんだけれどなぁ。

 ボクを「アルちゃん」と呼ぶ藍色を纏った青年の、我らが王の声に、ボクの口からため息が逃げていく。

 ドタドタと足音をBGMに、茶番が繰り広げられているらしい。

 話そうと思っていた事も呆れと同時に脱力する。


『いやあ実は、人間の道案内をオルコちゃんに頼んでいたんだ。その隙にちょっと寝てた所をオルコちゃんが結構すぐ帰って来て見つかってしまってね』

「それは紛うことなき自業自得だよ。馬っ鹿じゃないの、エンマ」


 黒い布をまた頭に結び直して、素で淡々と返す。

 BGMは鳴り止まず、そのオルコという女性の声が少し聞こえるが、細かくは聞き取れそうにない。

 その代わりに聞こえるのが破壊音。恐らく今、ボクが「エンマ」と呼んだこの王は、彼女の攻撃から走って逃げている真っ只中なのだろう。

 ……何してんのこの人。


『えええ、自分のピンチを助けるための電話かと思ったら違うのかい? 君がスーパーヒーローに見えたあの一瞬を返しておくれよ』

「心底知らないしその一瞬があっても無くてもボクへのメリット全く無いんだけれど」


 彼女と彼の物理的距離が近づいているのか先程より女性の声が入ってきた。

 逃げないで仕事を、寝るなら仮眠室に、と部分的に聞き取れてしまい、ボクの眉が下がる。


「エンマ。上司が下の子に余計な体力を使わせてんじゃないよ」

『あはは! まあまあ聞いておくれよ! オルコちゃんは走り回る自分を捕まえる為に武器振り回して追いかけてきているんだ。この行動に対し逃げの一手を打つのを自分は恥ずかしい事だとは思わない! 逃走本能逃走本能!』

「……早く捕まらないかなぁ」

『アルちゃんお願い今だけ自分を応援して欲しいな。ちょっとだけでいいから……おっと!?』


 大きな物音と共にエンマの声が途切れた。

 どうやらボクの望んだ光景が機械の向こう側で広がっているらしい。

 指を差して笑ってやりたいけれど、目は開けられないし電話越しだしで今は出来ないのが残念だなぁ。


『もう! どうして逃げるのですよエンマ様!』

『そんなにでっかい金棒ぶん回しながら追いかけられたら誰だって逃げてしまうよ!? しかもすごく楽しそうだったね』

『あっ、申し訳ありません。声をかけた途端逃げられましたので狩りをする感覚でつい……!』

「ふふっ。キミの部下は随分と優秀な子だねぇ、エンマ」

『優秀過ぎて困ってしまうくらいだよ。すくすく成長してくれて自分も鼻が高い』


 ガサガサ……とノイズが一瞬鳴ってまた青年の声がする。


『よいしょ……あ〜久々に思いっきり走った。足が痛いや』

「いつも座りっぱなしのキミが地面を蹴るなんて珍しいね。是非そのお姿をこの目に収めたかったなぁ」

『ふぇ? もしやそのお声はエンマ様のお友達、アルゴル様なのですよ?』

「そうだよぉ。久しぶりだねぇ、秘書ちゃん」

『わああ……! 一連の流れを聞かれていたのですね。なら話は早いのですよ!

 聞いてくださいアルゴル様。エンマ様ったらまた机に突っ伏して眠ってしまわれていたのですよ。眠るなら連絡をした後に仮眠室へ行って欲しいと何度もお伝えしているのに!』

「エンマ……」

『あははは〜。ごめんって、オルコちゃんとアルちゃん』


 誤魔化しに使うあの不愉快な笑顔が脳裏を過る。

 ボクはまたレイピアで地面を突きながら、長い会話を半ば聞き流し、裸眼でも問題無く生活できるファルの家に戻った。

 玄関の段差で靴の先を引っ掛けないように注意深く建物の中に入って、人間くんの代わりに鍵をかける。


『さてさてアルちゃん。スーパーヒーロー云々はさておき、君からの連絡を待ち侘びていたのは事実だよ。あの人間の事、調べてきてくれたかい?』

「調べたよ。今の所人間くんにはバレてないと思う」

『それは何より』


 耳元に届く上機嫌な声。片手で黒い布を解いて目を開け、閉じられたままのカーテンを確認した後靴を脱がずにそのまま玄関の段差に座る。


「結論から言うと、キミの勘は的中した」

『うんうん』

「正直ボクはまだ驚いてる。でも同時に、手下の蛇達があの子への警戒を解かないのもやっと納得出来たよ」

『予想と依頼を書いたメールを送ったら一分くらいで直ぐに電話をかけてきてくれたもんね、君。それも結構焦り気味で』

「当たり前でしょ、あんな内容」


 拗ね気味に返答すれば、藍色の笑い声が聞こえてきた。

 あの一重の瞳が細くなるのが思い浮かんで、ボクは相手が目の前に居ないにも関わらず含みのある笑顔で言葉を続ける。


「ボクは調べるまで、半年前の天使黒化事件みたいに、キミの勘が大ハズレするんじゃないかと思っていた」

『おや、そうなのかい? 流石にあんな大失敗はもう数千年経たないとしなそうな気がしてしまうよ』

「……まあそれもそっか。キミの勘は当たり過ぎる。不確かではあれどこの世界の立派な要の一つになってるエンマの勘が外れた出来事は、ボクの見てきた中であれが初めてだったからね。

 現に今、キミの予想通りに事が進んでいる。エンマのお陰であの人間くんの事を逸早く知れて感謝してるよ」

『………………』


 自分の気持ちを素直に伝える言葉を並べていたら、不意に相手が黙ってしまった。

 返事も無しに喋りまくるのは無礼だと思い、耳元の機械に送られる音声に耳を傾ける。

 すると。


『────褒められた……!? わああ、褒められ慣れていない訳ではないけれど、こんなに具体的に褒められたのは何百年ぶりだろう! アバウトに称賛されるよりやはりこういう褒められ方が嬉しいね。自分も部下を鼓舞する時に取り入れてみるよ。さてそんなことは置いておいて、今この溢れる嬉しさをどうしようかアルちゃん!』

「知らないよ」


 新しいゲームを買ってもらったかのような予想外の無邪気な反応に、変に冷静になってしまって無表情で一蹴する。

 ボクの場合、こういう時に悪魔の鱗片が出てくるんだろうな。

 呼吸を少し整えて咳払いをする音が機械越しに聞こえた。


『要するに、自分の想像通りの結果だったんだね?』

「そう。あれはどちらかと言うと……」


 言葉が詰まる。

 ボクが見た物が現実だとしたら、ボクらが保護していた者は。そして今モルテ達の傍に居るのは。



『………………成程』



 ボクの沈黙に藍色は察したようだ。

 本当にこの王の勘はよく当たる。

 だから恐らくこの察しは、一文違わずボクの思考が読まれたということだろう。

 この人物が敵じゃなくて良かったと思う反面、あまりの頭の回転の速さに──些か、うんざりもする。


『ふむふむ。じゃあもう一つ道具が必要になるね』

「道具?」

『うん。死神ちゃんの監視役にちょっとね』

「……そう」


 意外な人物の浮上に首を傾げる。が、それよりも大きな違和感がボクの頭を支配した。


「ねぇ、エンマ。なんで人間くんを生き延びさせる選択肢を取るの」


 戦闘がいつ起こっても不思議じゃない場所に放り込んでおいて、保護の依頼、契約の果実の進呈、そして今のボクの報告を聞いても不自然に銀髪の少年を守ろうとするその姿勢に疑問が湧くのは至極当然だ。

 ありのまま聞けば、さらに藍色は上機嫌になった。


『ああ、これには少し訳があってね。これも発端は自分の勘になってしまうんだけれど、あの人間に出会ってから十数時間、こちらで鬼達に過去資料と照らし合わせてもらって、もうほぼ確定した事実があるんだ』


 言葉を交わす度に相手を喜ばせているようでなんだか不本意だが、興味はあるからここは大人しく聞くことにする。


『あの人間と黒天使君はね────』


 ざわり、と。

 風に押された葉が窓の外で不穏な音を奏で、急激に空気を冷却していく。

 その空間に取り残されたボクは、彼の言葉に目を見開いた。




「────────…………は?」




◇◆◇




 一体の、爆破されたグロルの塵がふわりと舞い落ちる。

 茶色のポンチョと、緑色の髪が風に吹かれてなびく。

 その風に、浮かんでいた球体達の一部が攫われ離れていく。

 森の中。青空の下。そんな景色を僕は目に映していた。


「ふあぁ……」


 退屈だ、という態度を隠そうともせず。しかし敵から目を逸らす事は無いまま、少女の容姿をした緑色の爆弾魔はまた歩を進めた。


「強くもないのに犬のように吠えよって。煩わしいことこの上ないのう」


 クルクルと手持ち無沙汰に武器を振り回し緑色のシャボン玉を模した球体を量産する。

 その生み出した結界を右手の人差し指で捕まえ、次は違うグロルへと銃のように向けて何発も連続で発射。グロルの黒い身体へ埋め込んだ。


「……ああ、違うか」


 パチン。指を鳴らす。

 何個も球体を忍ばせた敵の身体がそれらの急激な肥大によって醜く膨らみ、悲鳴を上げながら宙を掻く無数の手が落ち着く事は永遠に無かった。


「駄犬は、弱いから吠えるのじゃったな」


 もはや体内からの膨張、破裂を真似た、見るもの皆が息を飲むような。

 目を背けてしまうような。

 その最期を見ながら仁王立ちで腰に手を当て、モルテさんは得意げだ。

 彼女の小さく短い笑い声。黒い半固体は塵になって青空の中へ消えていく。

 僕はというと、あまりに衝撃的な敵の連続舞台退場に口を閉じる事が出来ない。そしてその視界を動かす事も出来ない。

 まさに度肝を抜かれるとはこの状況の事なのだろう。昔の人は素晴らしい言葉を遺したものである。


 ……つっよーい。

 確かにあれには巻き込まれたくない。

 あの緑髪が踊る戦闘の邪魔にならないよう、長身を屈ませ僕の腕にキュッと抱きついているトイフェルさんは「あ〜、可哀想だなあのグロル……」とため息混じりに哀れみの言葉を言っている。


 残るグロルはあと一体。

 少女の死神には敵わないと悟ったのか、僕達に標的を定め一直線に近づいてくる。

 でもモルテさんは仕留めてくれるはず。

 …………はず……。

 あれ、なんでスルーしてるんですかモルテさん……!?


「え、おいモルテ!? おれさま達狙われてる! 狙われてるってこれ! 早く倒せよ!」

「ん〜疲れた」

「はあ!?」


 即座に気づいたトイフェルさんが強く呼びかけるも、伸びをしながら緑が返した言葉に茶髪は驚きの声を上げ、僕も肩が強ばる。


「トイフェル。このくらいの敵、お主でも倒せるじゃろ。全て儂に押し付けるな図々しい」

「おれさま戦闘向きじゃねぇって何回も言ったよね。あれ、おれさま幻見てる? これは夢?」

「トイフェルさん落ち着いてください現実ですこれ! 逃げますよ!」


 冷たい視線。突き放すような口調。それらに変に混乱してる茶髪を半ば強引に引き摺って迫り来るグロルから距離を保つ。

 グロルの背後に立つモルテさんは背後に緑色のシャボン玉を従えて、腕を組みながらこちらを窺っていた。何が狙いかは分からないけれど、どうやら今は本当に手助けをする気はないらしい。

 しかし、裏切りという感じでもない。

 一体どうしたのだろう。

 でも……考える暇は無さそうだ。


「──────そうだ、ポータル!」

「は!? おいおい待て待て人間サマ! それはダメだって!」


 まだ距離のある空間の穴に向かおうとするが、トイフェルさんが全力で止める。

 僕の腕にしがみついて離さないトイフェルさんに引っ張られて拒否された。体格差もあってか全く足が進まない。


「何してるんです! 早くあれを潜って元の場所に……」

「だからダメなんだって! ポータルは最低でも三十分間を開けないと! 短時間での再使用は魂の安全が保証されてねェの!」

「ええ!? もっと早く説明してくださいよそれ!」

「ごめんね!? 今説明したから許して!?」


 会話、立ち往生、僕らに確実にグロルとの距離が迫る。

 いくつものどす黒い手がこっちに伸びて、そのプレッシャーに耐えきれなくてトイフェルさんの手首を掴んで一目散に駆けた。

 ガサガサと音を立てる草達を気遣う間もなく踏み荒らして出来るだけ早く足を動かす。


「くっそ〜モルテの奴……ありがとな人間サマ! おれさまだけだったらもう殺られてたわ絶対」

「トイフェルさん。どのくらい走れます?」

「おれさま体力ある方じゃないのよ……さっき走ってたのもあって、もう結構キツいかも」

「……あのバイク出せますか」

「ああそっか! あ、いや……ダメだ。人間サマ用のヘルメットが無い……。あっ、もしかして人間サマ囮にこれ使えばおれさまだけ助かるんじゃ──」

「そんな事言ってる場合じゃない上に何一人だけ確実に逃げようとしてるんですか殴りますよ!?」

「ひぃん……!」


 宙に浮かぶバイクで逃げようと思ったのだけれど、トイフェルさんが結構安全思考で厳しそうだ。多分無理にバイクを起動しても安全確認しているうちに追いつかれ毒に溶かされて終わるんじゃないだろうか。

 嫌過ぎるんですがそんな最期。

 挙句の果てには自分だけ助かるイメージをする始末。後で左前髪の三つ編みをもいでやろうと思う。


「じゃあやっぱり……逃げ切るしか……!」

「そうは言ってもよ……はあ……! どこに……!?」

「どこでもいい、まずは視界から外れないと!」


 せめて離れないように、息切れをしているトイフェルさんの手首を強く握った。

 グロルから逃げるのは、ファルさんと出会う前に一度やった。

 グロルは足が早い方ではない。

 前回は逃げ道が無くて追いつかれたが、今回はフィールドが広く平坦。密集している木々のせいで視界も悪く、放置されているのか伸びる草は背が高かった。

 ……逃げ切れる可能性はゼロじゃなさそうだ。

 行こう。


「転ばないでくださいね!」

「うわっ!?」


 息を吸い込みスピードを上げる。

 トイフェルさんの手を引いているせいで少し重くて動きづらいが、それでも構わず地面を蹴り、前へ前へと風を切った。

 時折木々の影になるよう左右に行き先を変えてみる。

 横目で背後の敵を見てみると、今の所順調。

 さっきより距離が開いていることは確かだ。

 でもまずい。急に走ったからか、脇腹が痛くなってきた。

 そういえば、もう一人の僕がモルテさんとの五十秒間の追いかけっこに『体力が無いのをすっかり忘れてた』とか言っていたっけ。

 もう長くは走れないかもしれない。


 考えろ。

 木の裏四箇所、草の中二箇所。走りながらざっと見渡して隠れられそうな場所はそれくらい。

 どこだ、どこに身を隠せばいい?

 その時。


「人間サマっ! あそこに行って!」


 月の瞳が指差す先は、一際大きく立派な木。

 成程。あれくらい木の幹が太ければ、グロルの毒で変色して形が変わるのも少し時間がかかる。

 それがほんの僅かな違いでも、今の僕達には必要だ。


「分かりました!」


 横腹の痛みに耐えながら残りの体力を使って何とか指定された木の裏に隠れた。

 黒い半固体との距離は八十メートル程離れている。

 でもこのまま待っていたらいずれは殺される。

 さっきのように走る体力は今は無い。呼吸を整えようとするが緊張と恐怖で心臓も呼吸も落ち着かないままだ。


「はあ……はあ……っよし。これだけ離れていれば倒せる」


 僕が手を離すと、肩を上下させながらそう言った月の瞳。

 表情を見れば、さっきとは打って変わって悪戯な笑みを浮かべていた。

 視線が交わる。

 こっちの視線に気づいた後、にこりとまた人懐っこそうに、人当たりが良さそうに笑う茶髪を見ていたら、次の瞬間。


 トイフェルさんは僕を置いて敵の前に出た。


「な……っ!?」


 咄嗟に手を伸ばしたが、トイフェルさんの着ている白い上着は疎か、あの長い尻尾すら掴めない。

 その当の本人は敵の前に立ちはだかり風に吹かれていた。

 直立したまま右手を胸に当て、目を閉じている。

 グロルが迫って来た。トイフェルさんとグロルの距離は約四十メートル。


「……!」


 瞼を下げたままのトイフェルさんの足元を支える地面が橙色に光った。

 傍に駆け寄ろうとした僕の足がその光と、ある変化に止まる。

 何だろう。トイフェルさんに近づこうとするだけで、焼けそうなくらいに肺が熱い。息が吸えない。

 これ以上は……近寄れない。

 庇う行動も起こせない状況……僕にできることは限られる。

 僕はそのまま、邪魔にならないよう、でも何かがあったらすぐ動けるよう、木の裏に隠れ続けた。


 地面から風が舞い上がり、それにざわめいた葉の声を合図にトイフェルさんが目を開ける。

 その瞳は伏し目でも暖かそうな光を反射して、宝石に似た美しさがあった。

 胸に置いていた右手が動く。指の長い手をゆっくりとした動作で、迫り来るグロルに伸ばしていく。

 グロルとトイフェルさんの距離は、残り五メートルを切った。

 あの黒い手を伸ばされればすぐさま接触してしまう距離。これ以上は危険だと思い僕が意を決して茶髪に近づこうとした時。


 月の瞳は一言だけ呟いた。



「人体────発火現象」



◇◆◇



 それは、摩訶不思議な光景だった。

 それまで僕らを追いかけていた黒い半固体が、まるで火種だったかのように。

 燃料だったかのように。

 どこからともなく火の手が上がり焼かれていく。

 つい先程まで呻きながら僕達を追っていた敵が、声を上げることももがくことも無くその場で何もかも停止して業火の餌食になるその姿を、僕はまたポカンと目に映すだけだった。

 何が起こったのかわからないままトイフェルさんに視線を移せば、一人討伐に浮かれているようだ。


「よっしゃ、悪魔化学舐めんなよ! 人間サマ、ハイタッチしようぜ! いえ〜い!」

「い、いえー……あっつい!?」

「うわやべ、ごめんな人間サマ! アレ使った後は一分くらい身体が熱いの忘れてたわ」


 目の前に広げられた手に自分の手を重ねようとするも、熱した鍋に触れたのかと勘違いしそうな尋常じゃない熱さにすぐさま引っ込めた。

 僕は熱に踊った指先に息を吹きかけ、次は手首から指先にかけて脱力させぷらぷらと空気をかき混ぜる。

 それだけで充分マシになった。どうやら酷い火傷ではないらしい。


「大丈夫なんですかその熱さ、血が沸騰しててもおかしくなさそうですけれど……」

「心配すんなって人間サマ、平気平気。だってこれ、発動悪魔本人には効かないようになってるし」

「いや、確かに心配もありますけれど……これじゃあ今は三つ編みをもげないなと思いまして」

「待って何をどうしたら三つ編みをもぎ取る選択肢が出んの? 『今は』って何? いついかなる時も嫌よおれさま」


 グロルが背後で燃え続けるのを無視して繰り広げられる僕達のそんな雑談に、頭上から拍手の音が降りかかった。


「及第点……と、言ったところかのう」


 特徴的な喋り方と共に。

 上を見上げると、あの切りそろえられた緑色の髪が僕達を見下ろしていた。


「あっ、モルテ! モルテのせいでおれさまと人間サマ危なかったんだからな!? 偉っそうな事言ってないで降りて来い落ちたら危ないじゃんアホ!」

「トイフェルさんは怒るか心配するかのどっちかにしてください優しさが隠せてませんよ」

「本当に五月っ蝿いのう……わかったわかった」


 男性の大声に不愉快そうに顔を顰める緑髪。

 僕達が立っている地面から四メートル程上に生えた木の枝に腰掛けるその茶色のポンチョが、体重移動を合図に自由落下に身を預ける。


「ぎゃあああバカバカ何してんの!?」

「モルテさ……あれ?」


 ただの飛び降りに見えたが、気づくと落下地点にあの緑色のシャボン玉が浮かんでいて、その大きさはみるみる膨らんでいき……。

 ぽよんっ、という可愛らしい音と一緒にモルテさんの小さな身体が柔らかい球体に弾かれた。

 表情一つ崩す事無くその後の着地を成功させ、あの威圧的な三白眼がこっちを見る。


「ああもうびっくりさせんなよなァ……!」

「いい加減慣れろと言っておるじゃろう……」

「あんな高い所から……! お怪我はありませんか?」

「無い。というか、自分を敵の前に晒した相手を案ずるでない。消されたいのか」

「案じますよ。僕だけならまだしも、グロルを倒すことが出来るトイフェルさんという保険も巻き込んで敵を仕向けたなら、僕をどさくさに紛れて殺すなんて気は毛頭無いはずです。

 あなたは少なくとも今、僕に協力的なのは分かりました」

「………………」


 少しだけ。

 本当に少しだけ、モルテさんの頬が膨らんだ。


「トイフェルという監視役と一緒に処理をしようとしたとは考えんのか」

「あなた程の戦闘力があるなら、こんな回りくどい事をせず自ら手を下せば良いだけです」

「う、うぬぅ……」


 もう一人の僕との協力を促した張本人。その時の言葉は「道を間違えた時、来世を奪う」だった。

 どこかでもう間違えていたのならモルテさんと会ったその場で僕は攻撃されていただろうし、攻撃が無いなら僕はまだ道を踏み外していないという事。

 こんなに強くて冷静な人が、僕を攻撃するタイミングを逃してここまで同行するとは思えない。

 そして極めつけはグロルを倒した後に居たモルテさんの位置。

 僕達の遥か頭上にあった枝。

 僕達を行動を邪魔せず、見張れて、グロルと僕両方確実に仕留められる位置に居た。

 その行動も、追い詰められて僕が道を踏み外した時と、僕達がグロルに襲われそうになった時両方に備えたとしたら────成程。納得のいく話なのだ。

 多分この人はトイフェルさんがグロルを倒せなかったとしても、その代わりにグロルをあの結界で消滅させていただろう。


「ところで、及第点って……?」

「…………窮地に追いやられても仲間を裏切ったりしないか、仲間にとって危険な能力を持っていないか、軽くお主を試したのじゃよ。少々強引だとは思ったがこんな形しか浮かばなくてのう。

 本当にトイフェルが仕留めたのは予想外じゃったが、まあ嬉しい誤算じゃの」

「嬉しい誤算じゃの、じゃねェわ。そんなの聞いてなかったんですけど! こっちに話を通してからやれよ!」

「断るじゃろ」

「断るよ!? グロル怖ェもん!!」


 戦闘に慣れない人物ならごく自然な意見。しかしモルテさんには共感が出来ないらしく眉間に皺が寄る……がすぐに取り払われる。

 今度はまっすぐこっちを向いて、緑は堂々とした姿勢を崩す事無く言葉を紡いだ。


「そういう訳じゃ。許しを乞う気は無い。恨むなり何なり好きに思うが良い」

「そう言われても、僕にはあなたを恨むちゃんとした理由がありませんよ」

「恨みに正当な理由なんぞあるものか。所詮自分に害をなす者なら、全員がその対象になり得るものじゃ。天使だろうと悪魔だろうと、神だろうとな」

「え〜。人間サマこう言ってくれてるんだから良いじゃん。わざわざ自分から恨まれる方向に向かうなよモルテ。人間サマ、こいつ頑固なところあるけど気にすんなよ」


 僕達の後ろ。

 グロルが完全に塵になって風に攫われていく。

 再び静かになった周りに僕達の声だけが聞こえていたのに、何か別の音がノイズのように徐々に大きくなっていった。


「な、何ですかこの音。まさかまたグロルが……!?」

「えええおれさまもう嫌なんだけど!」

「狼狽えるな鬱陶しい。あの音は敵ではない、寧ろ逆じゃ」


 そう話している間にも近づいてくる音。

 …………と、声……?


「おい、おせーな。そんなんじゃ置いてっちまうぞ!」

「ちょっと待っ……! 待ってくれっ! ずるい! 飛ぶのずるい! 私も飛びたい!」


 男性とも女性とも取れそうな中性的な声と、もう一人の男性の低い声。

 足音は比較的静かで、さっき聞こえていたのはこの二人の喋り声だったらしい。

 二人の間に距離があるのか、お互い大声で会話をしている。

 それにしてもこの二人の声。

 …………どこかで聞いた事があるんですが……。


「みーっけた。ここか……あ?」


 その声の主が現れた。

 一人は空から。切断された左側の黒い翼、その欠損を補う緑色の羽根が日光に透けて特徴的なシルエットが浮かぶ。


「ファルさん!」

「は……? お前何でこんな所に!?」


 急いで地面に降り立ち僕の方に駆け寄るファルさん。するといきなり僕の肩を掴んで思いっきり前後に揺する。


「外危ねーって言ったよな俺! 早く寝ろって言ったよな俺! 怪我はねーよなお前!!」

「ご、ご心配には及びません無事です首痛い」


 されるがまま揺れる視界の中短く返事をして、その返事を聞くと赤いメッシュはパッと手を離してくれた。

 結構強い力で揺さぶられていたらしくよろめいてしまったが、踏みとどまって顔を上げるとファルさんは膝に手をついて息を吐いていた。


「あービビった……危ねーって言われたら行きたくなったりやりたくなったりすんのは分かるけどよー。……あー、その、あれだ……怪我してねーならいいや」

「す……すみません」

「お、謝れるんなら尚更いいや!」


 僕の言葉で歯を見せて笑う天使に少し心地良さを感じていると、もう一人、足音の主がこの場に辿り着いた。

 長身を覆い隠せる程の紫色の布をなびかせながらファルさんの背後を横切りまっすぐ走り抜ける。

 その姿を目で追っていると……。


「火・気・厳禁っ!!」

「あっづゔううああああ!?」

「わ゛ああああトイフェルさああん!?」


 『厳禁』のタイミングで長い髪が茶髪目掛けて走りながら何かを振り下ろした。

 パコーンと良い音がしたと思ったらその途端大騒ぎしながら地面に転がるトイフェルさん。

 命中した頭を抑えて蹲る長い尻尾を見下ろして、また低い声が響く。


「こらトイフェル! またあの技を使ったな、何度注意されれば気が済むんだ」


 長い目尻。高い身長。紫色の綺麗な髪。男の僕でも羨ましいそんな容姿のラモールさんが、転げ回るトイフェルさんを叱っている。

 そうだ、ここは森の中。火気厳禁というのは冷静に考えれば至極当然であり、窮地に立たされていたとはいえ、配慮が足りなかったと言われれば返す言葉も無い。

 ラモールさんが持っているのは……分厚い本……?


「ごめん! 本っ当にごめんだけどさ、聖書は止めて!? おれさま一応悪魔だからめっちゃ熱いのよそれ!!」

「分かっているが?」

「何それ分かっててやるとかすっごいタチ悪いじゃん急に。そんな所人間サマに見せちゃっていいの?」

「え」

「いやさっきめっちゃ叫んでたじゃん嘘でしょ」


 トイフェルさんの言葉に驚いて辺りを見渡したラモールさんと目が合う。


「はわわ」

「『はわわ』て」


 見た目年齢三十代後半の男性から出る言葉に思わずシンプルにツッコむ僕。

 ラモールさん、案外面白い人なのかもしれない。


「何故ここに!? どこも怪我していないか!?」

「少し用事がありまして。怪我はしていませんのでご心配なく」

「そ、そうなのか」


 「良かった……」と小さく呟くラモールさんを横目に、僕はファルさんの姿がいつの間にか僕の傍から消えている事に気づいてキョロキョロと視界を動かす。

 すると、黒い翼は背丈の低い緑髪に向かって一直線に走っていた。


「ししょー! おかえり!」


 僕にとってちょっと衝撃的な呼び名を呼んで。

 黒はモルテさんをひょいと持ち上げるときつく抱き締めて頬擦りをする。

 最初は驚いた様子だったモルテさんも、ファルさんの後頭部を軽く撫でた。


「よしよし。良い子にしていたか?」

「してた!」

「そうか〜儂の愛弟子は良い子じゃったか〜。偉いの〜」


 いい笑顔! モルテさんすっごくいい笑顔! デレッデレじゃないですか!

 先程までの顰めっ面は何処へ!?

 これまで僕に見せてきたあの威圧的な表情とは打って変わって、ファルさんに抱えられ幸せそうな微笑みを見せるモルテさんに今度はラモールさんが話しかける。


「久しいな、約一ヶ月ぶりか? 『泡沫(ウタカタ)』──帰還の連絡も無かったからケーキ用意してないぞ」

「くははっ。わざわざ能力名で呼ばんで良いわ堅苦しい。しかし、仕事中だと把握していたが故に連絡を控えたのじゃが、お主の手作りケーキをすぐ食べれんのは惜しい事をしたのう。次からは気をつけるとしよう」

「……ししょー。それ、前の『シュッチョー』から帰ってきた時も言ってなかったっけか?」

「ぬ? そうだったかの……。覚えておらんわい」


 再会。困ったように眉を寄せる緑の表情に綻んだ顔を見せる二人。

 先程の戦闘力や分析能力を見る限り、仲間からの信頼も得ている人なのだろう。雰囲気がふわりと柔らかい。

 手作りケーキか……良いな。食べてみたいかも。

 僕がそんなくだらない事を考えていると、ラモールさんが一呼吸置いてモルテさんに問いかけた。


「さて、泡沫。今回の人間の記憶破損には貴様が大いに関わっていると聞いているが」

「うげっ」

「……説明を聞こうか」

「こ、これはお主には直接関係の無い話であって」

「よし、縁切り」

「おっけー。ほらよ」


 目線を合わせずに躱そうとしたのを見逃さず、ラモールさんはファルさんの腕の中から緑髪の少女を受け取った。

 二人の阿吽の呼吸で瞬く間に筋肉の付いた胸に抱かれた小さい背丈が途端に抵抗を始めるが、全く相手にされていない。


「あ、そうだ死神サマ。モルテにお説教するならさ、ついでに人間サマの持ってるザクロの下処理とかお願いしたいんだけど良い?」

「ザクロ? 人間、今ザクロを持っているのか」

「はい。実はこの果物見たの昨日が初めてで、下処理が必要っていうのも今日知ったんです。僕からもお願いします」


 ザクロを見せながらラモールさんに軽く状況を説明する。

 「下処理自体は構わない」と言いつつも、僕の手に乗ったその果実を不思議そうに紫色の長い目尻が瞬いた。その間でも腕の中の小柄な死神は手足をジタバタ動かしているが、やはりというべきか、ラモールさんとの体格差のせいでまともな抵抗にはなっていないようだ。

 ラモールさんの不可解そうな顔を見て咄嗟に黒い翼が補足する。


「あー、俺が渡した。なんつーか……あれだ、昨日の夜エンマがこのガキ宛てに送ってきたんだった。自分から送って来といて『食べる時は覚悟が出来てから』とか何とか言ってたぜ」

「──そうか。何か、私には考えつかないような計画をお持ちなのだろうな」


 長身の死神がエルフ耳を軽く動かした後、


「私の家で少し待ってもらう形になるが構わないか?」


 少し屈んで目線を合わせて問いかけてくれた。


「僕は大丈夫ですよ」

「おれさまも〜。元々下処理後の実を入れる物が無くて移動してた訳だし」

「嫌じゃあ!!」

「泡沫、いきなり大きい声出さないでくれ」

「ひゃはは。なんか急に賑やかだなー」


 拒否の声が一票入ったが、ラモールさんはそれをサラリと流して茶色のポンチョに包まれた背中をあやす様に軽く叩く。


「小僧! 何を笑っておるのじゃ!」

「あ、バレました? 面白くってつい。だって今、傍から見たら親子みたいなんですもん」


 その光景がなんだか微笑ましく見えてしまって、思わず笑ってしまったのを見抜かれたらしい。三白眼が睨んでくるけれど、状況が状況なだけに全く怖いと思えない。


「儂より年下の奴と親子に見えるじゃと!? ふん、お主の目は相当な節穴のようじゃの!」

「え、ラモールさん、モルテさんより年下なんですか……!?」

「ん? ああ、そうだが。そんなに驚く事だろうか」

「ガキ。俺も知った時はめっちゃビビったから分かるぜ。ラモールの方が歳上に見えるよなやっぱ」

「モルテが二百歳前後、死神サマが百五十歳くらいなのよ。人間サマが驚くのも無理ないわ」

「ひゃ……百五十歳……」


 いや、ディアさんだってこの森で長い時間を過ごしたと言っていた。それを踏まえれば……。

 ラモールさんの顔をまじまじと見て、言う。


「百五十歳だなんてすごくお若いですね」

「感覚とち狂ってんのかお前」


 ディアさんの『ざっと四百年』発言によって著しく馬鹿になっている僕の年齢感覚に、ファルさんが冷静なツッコミを入れた。

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