第五話 緑の死神
「どういう事じゃお前様ぁ!!」
一方その頃、赤色の垂れ幕の所々に金色が装飾されている部屋の中では、自分と一人の小さな女の子が言い争いをしていた。
女の子の怒鳴り声に藍色の冠が少しずれ、泣き黒子のある左目が誤魔化すように細くなる。
「う、うーん。そんなに怒らないで聞いてくれるかい? この子をあっちに送るにはそーれなりに自分の中では葛藤ってやつが——」
「うんにゃ、断言出来るぞ。お前様、結構即答で決めておったじゃろ!?」
失敬。言い争い、というのは少し違うかもしれない。
そう、言うなれば、自分がその女の子に一方的に怒られていた、と言う方が適切であり語弊が無い。
ちんまりとした背丈とストレートの滑らかな髪からは想像も出来ない大声を、この部屋に並ぶ骨董品達は無関心に聞き流していた。
「あぁあぁあぁ……儂はもういてもたってもいられんぞ……どうして、どうしてよりによってあの小僧を我が愛弟子の所へ飛ばしたのじゃ〜!? これで愛弟子の身に何かあったらどうしてくれる!」
目の前の女の子に、ため息一つ。
どうも、エンマです。
いつもやってくる迷い子達を天国か地獄かに選別するのが仕事です。
今話題に出ている銀髪の少年が一番最初に見た部屋だと思われるここ、申告の間。
顔見知りの小さな死神が仕事の報告に来たものだからこっちも状況報告をと話をしていたんだけれどね。
「儂は愛弟子の笑顔の為に仕事をしていると言っても過言ではないというのに! ああ、あの愛い顔に傷でもついたら儂はどうしたら……!!」
なんかめんどくさい事になっちゃった。
誰か助けて。
小学三年生くらいの可愛らしい頭を抱え、次の瞬間まくし立てるように地団駄で不満を訴えた女の子を、とりあえず苦笑いしながら宥める。
「まあまあ……でも言ってしまえば、あの子のデータの破損は君のせいだという報告があったんだから、面倒見てあげて。あの子大人しかったし、今のところ危険は無いよ?」
「っかー! 現場を見ていない奴らは気楽で良いのー! あの小僧が地上にいた時どういう精神状態だったか、なぁんにも知らんからそんな事が言えるのじゃ! 全く!」
目元までかかる長い前髪とウエストまでしかないフード付きポンチョを揺らしながら、ぷんぷんという効果音が付きそうなくらい愛らしく胸の前で腕を組んでいる。
……本人はそれなりに怒っているらしいのだけれどね。
しかし、自分の立場では知れない事が多々あるのも事実。
彼女が言っている事も一理ある。
……さて、じゃあ情報収集といきますか。
机の向こう側で仁王立ちしている変な喋り方の死神に、少し前のめりになって話を聞き入れる体制を作った。
「それじゃあ説明して貰ってもいいかい? 当事者じゃない自分にも理解出来るように」
「ふん、造作もない。心して聞くのじゃぞ」
……一応自分、王なんだけどな……。
──数十分後。
死神ちゃんから聞いた事を、自分なりにまとめてみた。
あの人間はどうやら悪霊になりかけていたらしい。
しかもその恨みは根強く、死神の説得には応じなかった。全くの無意味な行動、時間の無駄だったと死神は言う。
天界に連れて行く事さえ困難な状態だったらしく、これ以上時間が経てば、ついにはその恨みで人間さえ襲うだろうと考えた。それを止める為に仕方なくデータを破損させ、気を失っている間にこちらへ緊急システムを使って直接送り付けた、という話だった。
「なるほど、何故そこまであの人間が恨みを育ててしまったかは、判明しているかい?」
「知らん。たかが案内人が、そこまで踏み込んで良いのか疑問じゃったしの」
「……野暮な事を聞いてしまったようだ。申し訳ない」
「くはっ、王が頭を下げるとはまた滑稽なものじゃの」
机の上で軽く俯くと、イタズラっ子のように薄く笑う意地悪な女の子。
長い下まつ毛が柔らかい頬の肉で弧を描く。
頭を下げたことで少しずれた自分の冠を被り直し、前髪を直してまたいつもの調子に戻した。
「報告ありがとう。こちらもトラブルには迅速な対応が出来るように準備しておくよ。今回の出張で手に入れた魂達は、これで全部かい?」
「うむ」
机の上に置かれている、透明な瓶に詰められた青白い光達。
死神の導きに素直に応じた未練無き魂達だ。
ふよふよ自由に瓶の中を飛び回るその姿に小さな熱帯魚を重ねてしまい、頬が緩む。
「嬉しそうじゃのう、お前様?」
「綺麗な魂はいつ見たって可愛らしいものだよ、死神ちゃん」
「子供扱いはよしとくれ。儂はこれでも二百は生きておる」
否。死に続けている……かのう?
くははっ、と人を食ったように笑う茶色のポンチョ。少し大きな口が三日月を真似ている。
旅の成果に得意げなその態度も、自分から見たらやはり子供のように見えてしまった。
「さてさて、今回の報酬だね。お金は振り込んでおくから、うーんと今は……これでいいかい?」
上を指さすと同時に空中にふわりと浮かべたのは、一つの果物。
ザクロだ。
「おお!! やはりその果実を食べんと帰って来た気がせんわい!」
真っ赤に熟れたそれを両手で受け取る少女は心底嬉しそうに頬擦りした。
その行動は見事に見た目年齢とマッチして、違和感は欠片も無い。
「……君もまだ愛でるべき子供だね、お嬢ちゃん」
「ふん、歳と経験は違うのじゃぞ?」
「そうだね。少なくとも自分はここに座って喋ってるだけだ」
「………………」
いつも通りの笑顔でのらりくらりと言葉を返していると、急に相手が黙り込んだ。
どうしたのかと首を傾げていたら、次の瞬間女の子は戦闘態勢に入る。
「……なんじゃお前様。今日はやけに機嫌が良いな、何を企んでおる?」
前髪の隙間から目線のナイフ。
一歩後ろに下がり人差し指をこちらに向ける子供の死神に、慌てて両手を頭の高さまで上げた。
「ちょっ、ちょっと! 誤解だよ誤解。何も企んでなんかいないよ。……いや、企んではいるのかな?」
「煮え切らん答えじゃのう…………?」
「待って待って本当に止めておくれよ! 君の能力は自分がここにいる中でまともに攻撃をくらいたくない力ランキング上位にくいこむんだから!」
こちらに向けた人差し指の先からビー玉程の小さな球体が生成されると同時に、自分の身体にはぶわりと冷や汗が伝う。
いやもう、そのくらい嫌なの。この子の能力。
理由は簡単。エグくてグロいから。
女の子はというと、相手の慌てっぷりに敵意が冷めたのか、息を吐きながら無言で手を下ろす。
「まあ良いわ。それで? 何を企んでおるのじゃ」
「もう疑ってかかっているね……良いけど……」
企んでるって言っちゃったし。
「黒天使君とあの銀髪の人間君。この二人は本人達が思っているより遥かに関係が深いと思うんだ」
「理由は何じゃ?」
「王の勘!!」
「はっ倒すぞ」
「ごめんなさい」
やっぱり自分、王様の才能無い気がする。
威厳なんて無かった。
机の天板におでこを強打させながら謝罪を口にする王様って……。
でも、理由ならある。
幾多の魂達を選別してきた自分だから見抜けたのかもしれないけれど、黒天使君とあの銀髪の人間君、魂の波長がかなり似ていた。
似ているもの同士の人間関係は大体、血族者や生涯を共にした親しい関係の場合が多い。
けれど今回は、地上で生まれてもいない黒天使君の波長と同じ波長を持つ人間君が来た。当然、二人にこれまでの接点は全くと言って良い程無い。
果たしてどうして二人の波長がそっくりなのか、大方予想はできているが、確証に踏み切るには今は情報が不足している。
途方もない時をこの場所で過ごしている自分には、今度はいつ出会えるか分からない奇妙な謎だ。
つまりは、どういう事なのか単純に興味が湧いてしまったのだ。
まあそれを正直に言ってしまえば、きっとまたこの死神ちゃんから怒られるから言わないけれど。
「なあお前様。今、『銀髪の人間』と言ったか?」
「え? うん」
考え事を遮って耳に入ってきたのは、あまり予想出来ない疑問符だった。
突然の質問に、つい素で返事をしてしまう。
あれれ、何か食い違った話をしてしまったかい?
「銀髪……銀髪ぅ……?」
「もしかして人違いしちゃった?」
「いや、学生服にペンダントをしていたんじゃろ?」
「うん、それは間違いないよ」
銀髪という言葉が何か引っかかるのか、うーんと唸り始めたフード付きポンチョ。
その間約十秒。
「ええい、ここで考えても無駄じゃ! 直接見に行った方が早いしの。愛弟子の元へ行かせてもらうぞ!」
「君のその『思い立ったが吉日』っていう行動スタイル、自分は大好きだよ」
「くははっ、王から直々に賞賛されるとはのう。自慢して回ろうかの?」
前髪で一部が見えない目元の代わりに、小さな口がニヤリと笑う。
小柄な身体に似合わず大人びた雰囲気を漂わせる三白眼が、前髪の隙間からこちらを楽しそうに見据えた。
「なんなら送るよ?」
「良い良い。あのくらいは自分で移動できる」
「そう、残念。…………なんちゃって」
「ぬ……?」
背を向けて立ち去ろうとする緑のおかっぱ頭は言葉に歩を止める。
ゆっくりと振り向く女の子は、少女の体型に見合わない淑やかさを放ちながら静かに言葉を待った。
「君の迎えはもう呼んであるんだ」
「は?」
「全然部屋に入って来ないから、痺れ切らしちゃったよ。おいで、トイフェル君」
ガチャリ。自分が座っている場所の右にあるドアが微かな音を立てて開く。そのドアから姿を現した男性を目に映し、死神は「げっ」と顔を顰めた。
ショートカットの明るい茶髪に黒縁眼鏡。優しげなタレ目。左目の上にある前髪は一部だけ三つ編みに編み込まれており、それを少し尖った耳の後ろにかけていた。ウエストまでの白い上着を羽織っているその下には、マネキンの如く形の整った足がスラリと伸び、腰から左右に伸びる蝙蝠の翼と艶やかな細く長い尻尾の先端にある大きな針が宙を揺らめいている。
満月のような、黄色く光る虹彩が緑色を見下ろした。
「よっ。久しぶりだなァ、元気してた?」
「最悪じゃ……儂が何をしたと言うのじゃ……」
「んー、改めて言うならデータの器物破損じゃないかい?」
ドアの前で人懐っこく笑う成人男性と、あまりの絶望に思わず目を覆う死神。
それをさらっと流して説明に入る。
「さて、今回のペナルティとして彼には君の監視役として行動を共にするようお願いしてあるよ。仕方なしとはいえ、人間の判別資料を壊したんだから、これくらいは予想していたんじゃないのかい?」
「予想はしておったが人選が……もっとマシな奴居ったじゃろ……こやつを選んだの悪意あるじゃろ絶対……」
「え〜、おれさまやっさしいしお前とは気心知れた仲だと思ってたんだけれど」
「お主は黙っとれぇ……」
「久しぶりの再会にこの仕打ち泣くわおれさま」
あ゛〜最悪じゃあ〜嫌じゃあ〜、と半ば諦めたような気怠い声に自分と監視役は苦笑い。項垂れた女の子が一呼吸おいて姿勢を正したのはそれから約十秒程後だった。
表情はまだ腑に落ちないようだが言いたいボヤきは言ったらしい。
……説明を再開させよう。
「今回の報酬と同じ物をその人間に預けてあるよ。おそらく食べ方すら知らないだろうから、人間の分も食べれるように下処理をお願い出来るかい?」
「…………なんじゃと?」
敵意。
鋭い眼光から圧が押し寄せ、監視役とこの部屋にあるインテリア達が微かな地震に肩を震わせた。
そこらの魂が思わず身震いしてしまうそれに、自分はまた笑顔を見せている。
あは、流石プロ。
今、秘書の鬼達が居ない時間で良かった。弱い鬼がもしこの場に居たら恐怖で失神して、それこそ死屍累々な景色になっていたかもしれない。
「契約の果実を人間に与えるとは……何を考えておるのじゃ、お前様」
「こうでもしないと、君はあの子と話そうとしないだろうからね」
「当たり前じゃろう。誰が好き好んで危険人物と時を過ごしたいと思うのじゃ」
この場に似合わない穏やかな風に緑色の髪が揺れている。
張り詰めた空気の中の冷静な口振りは、流石二百歳と言えた。
自分は笑ってこう返す。
「危険人物でも改心は出来るよ。人間である限りね」
グロルに変化してしまうくらい現の世で呪いや恨みを買ってしまっていては、塵にするしか解決策は無いけれど。
でもね死神ちゃん。"あのフィールドで外見がグロル化しなかった人間"はかなり希少価値が高いんだ。
だからこそ、今は手出しさせない。
「それに、その改心のきっかけには君がいた方がきっとスムーズに事が運ぶ。見捨てるかどうかは、今のあの子を見てから判断を下しても決して遅くはないと思うのだけれど、どうだろう?」
「…………………………」
少女は、こちらを見据えたまま、微動だにせず立っている。
しばらく沈黙が続いていたが、段々と敵意も鳴りをひそめ、薄い唇が微かに言葉を紡いだ。
「それも、お前様の『勘』……かのう?」
「あはは。まあそんなとこかな」
答えを聞いた緑髪は息を吸い、大きなため息を吐き出す。
「あぁあぁ……嫌じゃ嫌じゃ、面倒じゃのう変に権力を持っているご老体は。その命令が若い奴らにどう影響を齎すかまるでわかっておらん」
「若かったら、失敗した時の対処も知らないでしょ?」
「ぬ……屁理屈じゃのう……」
「それで、引き受けてくれる?」
いつものスマイルと期待の眼差しを向ければ、数秒程むすっとへの字口を見せ、監視役の居る場所へと一歩踏み出す少女。
揺れるストレートの髪が空中に広がり、また重力に逆らうことなく垂れ下がった。
日が昇ってきたのか、星々は眠り、窓の向こうから日光がこちらを出迎える。床に不時着したそれが熟れた苺のように真っ赤なカーペットの端を照らした。
「お前様の勘は、恐ろしい程に当たるからのう。一応依頼は引き受けよう。……しかし」
こちらを見ることなく、死神は歩を進めながら呟く。
「儂の仲間を傷つけるようなら容赦なく小僧をグロルの贄にするぞ。良いな?」
「いいよいいよ。今戦力が減るのはこちらとしても痛手だしね」
……流石に。
今ある戦力を興味だけで一人の人間の為に減らす訳にはいかない。
そこまで自分達は暇じゃない。
だから、これは言わば、自分が主催の実験に近いところがあるのは否めないかもしれない。
どうなってもいい生命を使って、成果が出せたらいいな、程度の……ね。
「……じゃあの」
「監視の報告は後程、王サマ」
「うん。よろしくね」
小さくなる作り物の様な背中と眩しい白の上着に手を振ってドアが閉まるまで見送り、一人になった後、上半身を机に預ける形でくつろいだ。
その時、先程閉じられたドアとはまた違う場所のドアからノックの音が転がる。
ため息を一つ。
「失礼するのですよ〜。美味しい美味しいお茶をお届けに…………あれ?」
「もうお客さんは行っちゃったよ。オルコちゃん」
「ふええ!? 約一ヶ月ぶりのご帰還でしたのに、もう次の任務に行かせちゃったのですよ!?」
四つの湯のみを立たせたトレイを持つ、「オルコ」と呼ばれた見た目年齢二十代の女性があちこちを見渡しながら大声をあげた。
丸い大きな目とピンクの髪。首の横でゆるく結わえた長い二つ結びが、太ももの後ろでゆらゆらと揺れている。
「休憩も挟まずというのは少々気の毒に思えるのですよ!」
「落ち着いて。今回はかなりのレアケースなんだ。聞いてくれるかい?」
「……オリジナルブレンドのこのお茶の感想を聞かせてくれるなら聞くのですよ」
「この前持ってきてくれたタピオカミルクティーを一目見て『泥水』と言った自分に求めるのはとてつもない人選ミスだと思うよ」
う〜……と唸る桃色の唇。額にあるちんまりとした角に少しだけ影が生まれた。
「でもごめんね、その話は後。まずは死神が連れてきてくれた魂達の行き先を決めないと」
「わあ、今回も大量なのですよ……! お手伝いするのですよ」
「ありがとう。お茶、机に置いてもらえると嬉しいな」
死神の少女が置いて行ったガラス瓶の中にある、複数の青白い魂達に顔を少し照らされる。
無造作に机に置いた手を瓶の表面に滑らせ、ゆっくり、ゆっくりと蓋を開けた。
中で争いが起こらぬよう、活動力低下の魔法が念入りにかかった瓶。そこから出てきたばかりの魂は、考える事を忘れ、ぼんやりと宙を彩るだけの意思無き存在。
彼らにかかった魔法を解き、「自分が何者かを思い出させる」所から、もう自分の仕事は始まっていた。
ふわり。
次の瞬間、蝶のように不規則に飛び回る青の光が長い尾をはためかせ、部屋のあちらこちらに散らかっていく。
うん。
とても元気な、清い魂達だ。
天国行きも多いかもしれない。
手を二回叩くと、音に驚いて蛍達は動きを止める。
「いきなりごめんね。並んでもらってもいいかい?」
ゆるゆると戸惑いながらも、彼らは素直に自分の前に真っ直ぐな一列を作ってくれた。
その一番前の魂に指をパチンと鳴らし、生前の姿を呼び起こす。
思い出した魂はみるみるうちに生前と同じ身体を作り出し、改めて周りを見渡した。
「天界へようこそ! 死神との同行、お疲れ様でしたなのですよっ」
いつもの調子でいつもの表情を作り上げて、
「じゃあ、君の『データ』を見せてもらうよ」
少し変わった、今日が始まる。
◇◆◇
暗い。
けれど、さっきのような不安は無い。
ふわふわ。
もふもふ。
柔らかい感触。
気持ちいい。
安心する。
できるなら、時間が許す限りこのままで居たい。
「────…………〜〜?」
誰かの声。
暖かいような。擽ったいような。
微かな鉄の匂い。
「────…………〜〜」
何か……喋ってる……?
暗闇の視界の中聞こえる音が少し気になって、耳を澄ませた。
「──…………ああうん……うん……え? 今? ……うん……眠ってるよ。……」
高いような低いような、でも心地良い声。
もう少し聞いて居たくて、無意識に息を殺す。
「うん……うん…………………………心配してくれるのぉ? …………ふふっごめん……嬉しくて……」
ん……?
待って。
この声。そしてこの喋り方って……!?
「……うん……連絡しなくていいのぉ? きっとあの子喜ぶよぉ。……いいの? そっかぁ……うん……気を付けてねぇ。……それじゃ」
恐る恐る頭まで被っていた布団の中から顔を覗かせた。
「あ、おはよぉ人間くぅん。青ざめた顔も可愛いねぇ」
「うわ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!?」
僕が寝ている布団のすぐ横に座っていた、スマホを片手に可愛らしい笑顔を浮かべる白い髪と小さな背丈に、僕は寝起きとは思えないパワーで絶叫と枕を浴びせていた。
◇◆◇
「な、ななななぜディアさんがここに!?」
「今の仕事はファルとの共同任務だからねぇ。人間くんの護衛の通達はボクにも来ているんだよぉ」
ファルさんの家の中。
鳥のさえずりが聞こえる穏やかな外の音に心を和ませる暇も無く、僕は布団の上で尻もちをついていた。
丸いテーブルに頬杖をついてにこやかに笑う白い光。
茶色の遮光カーテンから漏れ出た微かな日光が薄暗く部屋を照らす。
「か……鍵は確かに閉めたはず……」
「ピッキングって知ってるぅ?」
「プライバシーの欠片も無いんですかこの家は!!」
ダァンッと勢い良く布団に手をつけ項垂れる僕。
要するに今、ディアさんがそのつもりだったならいとも容易く僕は襲われていたわけだ。
もうヤダ。
「それにしても大丈夫ぅ? だいぶ魘されていたよぉ? 怖い夢でも見たのぉ?」
「あ……」
ディアさんの声に呼び起こされる、夢の中の出来事。
あの黒髪と右目の位置に揺れる彼岸花が、瞬時に僕の体温を奪った。
《誰か一人を呪え》
夢に出てきたペンダントが音を鳴らす、あの空間を切り抜いた様な黒い瞳を前髪が覆う、その光景が脳に焼き付いている。
記憶を取り戻す唯一の手がかり。それが重くのしかかって息が苦しい。
「……人間くぅん?」
知りたいと思った。
過去を。記憶を。
助けたいと思った。
虚無の目を。深紅の花を。
しかしそれを叶える代償が、あまりにも重い。
自分を犠牲にするならまだしも、他人を巻き込んでまで知る必要が、価値が、僕の生前にはあるのだろうか。
それなら。
それならいっそ、このまま……。
「人間くぅん」
「え……?」
ふわり。
本当に悪魔なのか疑わしいくらい優しく、白い指先は僕の手を包む。
「何か見たんだねぇ。大丈夫だよぉ。ちゃんとボク、ここに居るからねぇ」
深呼吸してねぇ。安心して良いからねぇ。
そう言いながら僕の手にじんわりと心地よい体温を送ってくれた。
少し強い握力に酷く安らぎを覚えてしまう。視界が水に揺らいでしまう。
今から抱えようとしたものが、容易く白い光に奪われる。
「……………………」
「怖い夢だったんだねぇ。よしよぉし」
手の甲をまるで宝物に触るかのようにゆっくり撫でられた途端、耐えきれず溢れた僕の不安が瞳に映された。
頬を伝う熱い液体にはっと我に返る。
「あ、うあ、すみ……ません……!」
ディアさんに触れていない方の手で拭おうとするけれど、それより先に袖の伸びたカーディガンが頬に触れた。
「よしよぉし。泣いてる顔も可愛いねぇ」
「……素敵なセリフ、ですけれど、なんかディアさんが言うと……別の意味に聞こえますね……」
「こんな時くらいツッコミお休みしなよぉ」
クスクス笑っている顔に不安を削がれて、程よく肩から力が抜ける。
そのせいでまた涙が溢れ、ディアさんがまたそれをクリーム色のカーディガンに食べさせる。
そんな穏やかな悪循環を、部屋に入った僅かな日光が薄く照らした。
◇◆◇
僕の目から水が止まり、一時はしゃくりあげていた呼吸も落ち着いた頃。
とりあえずTシャツの上からワイシャツを着て、淡いピンクに染まった目尻を擦りながら瞼を上げれば、白は僕を微笑ましそうに見つめている。
泣き顔を見られたのが今更恥ずかしくなって目を逸らすと、また柔らかい笑い声が小さな口から溢れ出たのが聞こえた。
「……そんなに笑わないでくださいよ……もう……」
「ふふふっ、だってぇ……ふふっ」
「笑わないでくださいってば……」
ああ、情けない……。
かっこ悪い所ばっかりだ。僕。
口に手をあててクスクスと笑うディアさん。不意にその両中指にはめられた指輪と、その指輪からカーディガンの中へ伸びる緑色の防具が見えた。
「夢の中で何を見たか、教えてもらってもいいかなぁ?」
「…………それは……まだちょっと……」
「そっかぁ」
愛らしい白いまつ毛に距離を詰められ慌てて目線を外す。
それを少しだけ困ったような、柔和な笑顔で済まし深く尋ねないディアさんには、気遣いに感謝するべきなのかもしれない。
僕が無意識に俯いていると、次にこの部屋に転がったのは金属音だった。
不思議に思い顔を上げる。すると、茶色く丸いテーブルの上に一つの工具箱が無造作に置いてあり、中からは見た事のない機械のパーツが溢れ出ていた。
丸く滑らかな表面を光らせるもの。直角を多く持つもの。何かとペアで使用するであろう特徴的な突起、または窪みのあるもの。
ガシャガシャと重い音を響かせながら、ディアさんはその鉛色の海に手を突っ込んでいる。
「ディアさん、それらは一体……?」
「これぇ? ボクの今の相棒だよぉ」
そう言ってディアさんは両手に持ったパーツを頬に近づけて、エフェクトでピンク色のハートが出てきそうなあざとい瞬きをした。
「相棒?」
「そぉ。今使っている武器のアップグレードができるパーツを特注で作ってもらってねぇ、やっと届いたから組み込むの楽しみぃ」
「武器……確かディアさんは弓矢でしたよね」
「当たりぃ! よく覚えてるねぇ」
今にも鼻歌を歌いそうなほどの上機嫌で、ディアさんはカーディガンの裾を捲っていく。するりと流れるように指輪に繋がった防具が外され、真っ白な腕が一瞬だけ露わになったすぐ後、またカーディガンの裾に隠された。
テーブルの上に乗せられた、中指の指輪から二の腕の途中まで伸びていた緑色の布は思ったより薄く、二枚重なっている。外側の布を外せば、その間に挟み込まれるようにミリ単位の小さな鉄塊が細かく連結されていた。
鎖帷子のような防御面と利便性に長けた構造かもしれない。
「わあ……! 近くで見てもいいですか?」
「いいよぉ。男の子はみぃんな機械好きだもんねぇ」
布団からディアさんの隣に腰を下ろし、作業の様子をまじまじと見つめた。
手馴れた様子で、ピンセットよりも先の細い道具を一つ使い次々に部品を分解していく。どうやらこの腕を保護するようにぴっちりと包んでいた鉄塊が、あの弓矢を作り出していたようだ。
もう何度も組み換えたことがあるのだろう。恐ろしく素早いプロの手つきで次々にパーツを外しては新しい物を連結させていく。
その手際の良さは、思わず見蕩れてため息を吐いてしまう程だ。
「凄い……」
「そぉ? ふふっ、ありがとうねぇ」
褒めても何も出ないよぉ。と目を細めながら、それでも手は止めない。
窓の向こうで穏やかな風が木々を揺らしているのが聞こえる。
「そういえば、一つ質問いいですか?」
「どうしたのぉ?」
「眼帯をつけているということは、距離感はつかみにくいはずですよね? 弓矢のような遠距離武器をどうして使っているんですか?」
「おぉ〜! すっごくいい質問だよ人間くぅん」
「うわあびっくりした!?」
さっきまで機械しか目線の先に無かったのに、急に愛らしい顔とキラキラした瞳をこっちに向けられ、近い距離もあり心臓が飛び出そうになった。
……あれ? 何だかよく見たらディアさんの目、昨日よりも色素が薄いような……?
あの特徴的なルビーが、今は桜のようなくすんだピンクになっている……ような……?
僕のそんな小さな違和感は楽しげな白に拭われる。
「人間くんの推察通り、ボクの専門武器は弓矢じゃないよぉ。過去の話になってしまうけれど、もっとシンプルで、扱いやすい武器を使ってたんだぁ。さぁ、その武器とは一体なんでしょぉ〜」
「……うーん……」
急に始まったクイズに結構ノリノリで答えを探す。
さっきまで泣いたりしていたのに至極単純で、きっとディアさんが使っていた武器よりも僕は扱いやすいんだろうな。
「ブーメラン……は違いますよね。ハンマーとかでしょうか」
「ブブー、不正解だよぉ。確かにボク達悪魔は人間よりも力が強いけれど、ハンマーみたいな重い武器はどちらかと言えば古くから大鎌を扱う死神や金棒を扱う鬼の方が適任かもねぇ」
「へえー……ラモールさんも鎌を使うんですか?」
「うーんどうだろぉ。ラモール、大体結界魔法か足技だからなぁ〜」
「あの長い足が顔面に飛ぶのは想像したくないですね……」
「痛いよぉ? 数十発連続でガードした時腕痺れたもぉん。興奮するけれどねぇ」
ディアさんはその時の事を思い浮かべているのか、頬を微かに赤らめ恍惚の息を漏らす。
「また前みたいに喧嘩したいなぁ」
……心底楽しそうだ。
表情とは裏腹に考えている事がバイオレンスなのはもう気にしないようにしたんだ。僕。
また視線を鉛色の海をかき分ける白い手に戻し、作業を再開する白。
その隣で僕は腕を組み、少しだけ唸る。
前髪の銀が視界をさらりと横切った。
「じゃあ……斧とかですか?」
「ぶっぶー、ざぁんねん時間切れぇ〜。正解は剣でしたぁ〜」
「ディアさんが剣を! な、なんだか意外です」
「へ? そうかなぁ?」
小さく弧を描く吸い込まれそうな淡い目。
僕の驚いた顔を見透かしたように口の端を穏やかに上げている。
「剣と言っても、かなり細身の剣だよぉ? レイピアっていう針みたいな剣」
「わあ……とってもディアさんに似合いそうですね」
「今は剣で倒すのも飽きちゃってスキルアップ目当てに弓矢を使っているんだけれどぉ、昔……手下達で敵が倒せない時はよく振り回してたっけ。懐かしいなぁ、ふふっ」
「えっ? 手下?」
色素の薄い唇から発せられた言葉に、池の上を滑るアメンボが波紋を立てた心地がした。
「手下ってまさか、ファルさん達のことですか?」
「へ!? いやいや違うよぉ! あの子達は仲間! ごめんねぇ、誤解させちゃったねぇ」
愛おしげに瞼を伏せていた白が、僕の些細な疑問で一瞬にして目を覚ます。パタパタと顔の前で手を横に振り、頭も左右に振って全力で否定する姿は見た目年齢相応に見えた。
僕がキョトンと目を瞬かせていると、ディアさんは僕の前で人差し指を立てた。
三秒ほどの互いの沈黙の後、手の内から儚さを感じる細い人差し指に巻きついたのは、一つの白い……紐……?
と思ったら、その先端付近にディアさんと同じ様な赤い目が開いた。
「わ゛あ゛あ゛あ゛!?」
一匹の白い蛇だった。
冷静に考えればこちらより戦力が無いのは明らかなサイズだったのに、目の前に蛇が出てくるとは予想出来るはずも無く思わず悲鳴をあげてしまう。
驚いて飛び退いたペンダントと手の中に隠れた蛇を見て、ヤギの様に横に伸びた"赤"の瞳孔は小さな声で笑った。
「ボクが手下って呼んだのはねぇ、この子達の事だよぉ」
「い、いいいきなり至近距離で出さないでくださいよ! 心臓がどこかに飛んでっちゃうところでしたよ!?」
「その可愛いリアクション見たくてぇ〜。ボクの可愛さに免じて許してねぇ」
きゃるんっ。とオノマトペが付きそうな上目遣い。
そうだった。この人悪魔だった……っ!
すっかり忘れてた! 僕の馬鹿っ!!
ディアさんとお揃いの桜の目が付いた白く細いその魂は、こちらをおそるおそる見つめている。と思ったら、一つ、奇妙な動きを見せた。
「えっ」
呼吸も荒く、ゆっくり、しかし確かに体制を変え、鎌首を持ち上げた。それが臨戦態勢だということくらい、僕にだって分かる。
「ひっ!?」
「おっと」
僕に襲いかかろうとしたその時、ディアさんがその蛇をするすると宥め、手の内に収めた。
「ごめんねぇ、調子悪いのかなぁ。森の中に居た子達もキミを敵視しちゃってるしぃ……」
「え、森にも居たんですか」
「昨日森の中歩いてた時、途中からお手々繋いだでしょぉ? あれ、人間くんは敵じゃないよってこの子達へのアピールでもあったんだぁ」
「全然気づかなかった……」
「当たり前だよぉボクの手下なんだもぉん。敵の場所とか定期的に教えてくれるいい子達だよぉ。でも、なんで人間くんにも攻撃しようとしちゃうんだろぉ。グロルしか敵視しないはずなんだけれどねぇ……」
「はい、朝ごはぁん」と差し出してくれた少し小さくて真っ赤な林檎を「ありがとうございます」と両手で受け取りながら、僕は原因を探してみる。
「うーん……僕の近くに小さいグロルが居る、とかでしょうか」
「その線は薄いと思うよぉ。それならとっくにそのグロルは手下達のお腹の中だからぁ」
「そうですか……あ、この林檎美味しい」
「ふふっ。美味しそうに食べる子は大好きだよぉ」
皮も剥かないままかぶりついた、蜜のたっぷり詰め込まれた林檎で口を満たし果汁を堪能する僕の顔を見つめては、目を細める白い光。
眩し過ぎるその存在感は整った顔のパーツも相まって、次元の違う、現実味のある虚像を見ているんじゃないかと錯覚を起こしそうだ。
美しさからなる圧に負けて、目の前の林檎に目線を移す。
ハート型の眼帯はそんな僕の心境には気づかずにまた鼻歌を歌って武器の部品に顔を向けた。
な、何か話した方がいいのかな……。
「あ、そういえば。細かい作業にはこの部屋暗いですよね。すみません気が回らなくて、今カーテンを……」
「あぁやらなくていいよぉ。ボクこのくらいの方が効率上がるからぁ」
「でも」
立ち上がろうとした僕に工具箱が置かれているテーブルからコツン、コツン、と爪をぶつける音が響いた。半ば無意識に音の元を辿るとピンク色の目が静かにこちらを見据えている。
白い睫毛に装飾された赤い瞳孔は僅かに部屋に入る日光のせいか猫の瞳の如く鋭く光っていた。
「いいから、ね?」
「は、はい」
今の僕の状態を例えるなら、そう。まさに『蛇に睨まれた蛙』だろう。本能的に感じ取ってしまった威圧に思わずその場に正座した。
「気を使ってくれてありがとうねぇ。ボク以外の人が相手の時はさっきの行動は正解だからぁ…………ねぇ、そんなに縮こまらないでぇ?」
「だって今のディアさん、ちょっと怖かったんですもん……」
「へ? 嘘ぉ、ごっごめんねぇ。そんなつもり無かったのぉ」
欠片ほどの焦りと華やかな笑顔で僕の頭を撫でるカーディガンは、優しく柔らかい。
陽の光を目に入れていたはずなのに全く大きさを変えなかった赤の瞳孔は、警戒心と恐怖心を蝋のように溶かす。
「不思議な人ですね、ディアさんって」
「そぉ?」
「何だか僕、ディアさんの手のひらでコロコロ転がされてる気がします」
「まぁそれが悪魔の本業だからねぇ」
小さく、笑い声が聞こえる。頭上から心地よい重さを感じる。それで胸の内まで暖かくなるのが分かる。
「…………………………」
この感覚を、僕は知っている気がする。
それはもっと大きな手で。
それはもっとしなやかな腕で。
それはもっと飾られた爪で。
それはもっと聞き慣れた声で。
何だっけ。何だったんだっけ。
思い出せない。覚えていない。
こんなに嬉しくて、重たい感情が湧いてくるのに。
ジクジクと何かが僕の胸を突き刺しているのに。
霞んで、ぼやけて、滲んでいく。
深く深く思い出そうとするとあの揺らめく彼岸花も視界に現れてしまいそうで、慌てて首を横に振った。
いきなり水に濡れた犬のように銀髪を振り回したからか、鉄の香りが離れない小さな指と僕の髪からは即座に距離が生まれる。
我に返って相手の方を向けば、愛嬌のある丸い目が更に見開いた後、申し訳なさそうに眉を下げた。
「……もしかしてなでなで嫌いだったぁ?」
「あ、いえ。違うんです。前にも何か、似たような事があったような気がして」
「それってぇ、こっちに来てからの事ぉ?」
「すみません、分から……ないんです。何も」
ずしり、鉛のような空気がのしかかる。
ペンダントは音も鳴らさず、また僕の首に圧力を加えた。
「人間くぅん。ボクずぅっと気になってたんだけれどぉ。キミは生前を思い出したいのぉ? それとも忘れたままにしておきたいのぉ?」
「……っ!」
和やかに、穏やかに問うその眼差しは、まだ経験の浅い幼子を見ているようだった。
ハート型の眼帯の中心に、ひし形の青い宝石が煌めく。僅かな光を何倍にも膨らませ自身を主張するそれは、目の前に居る僕にえもいえぬ不安を抱かせた。
苦しい。
別にプレッシャーを与えられているわけでもない。
怒られているわけでもない。
けれど僕の脳は、その答えを導き出せない。
思考が止まって、一瞬だけ息も止まる。
僕はさもそれが癖だったかのように。
いつもその仕草を当たり前に行っていたかのように。
ただペンダントを握りしめていた。
俯いて動かない僕にディアさんは少しだけ、息を吐く。
「……お揃いってちょっぴり嬉しいものなんだろうけれどぉ。『ボクとオソロイ』はやめておいた方がいいと思うよぉ」
「お揃い……?」
顔を上げると、幼い輪郭には似合わない、諦めの混じった笑顔でその唇は次の言葉を紡いだ。
「ボクにはね。もう思い出せない友達が居るんだぁ」
普段通りおっとり、ディアさんが笑顔で淡々と話す。
目にかかる前髪がやけに艶めかしくて、しかしガラス細工の連想させる白い肌に影を作る。その姿さえ物が少ないこの部屋にはとても眩しく見えてしまい、僕は目を逸らす事が出来なかった。
「ディアさんも記憶を……?」
「ううん。ボクの場合はただの加齢。大切な子だったはずなんだけれど、もう何も思い出せないんだ。仕方が無いんだけれどねぇ」
テーブルの上に乗せた林檎の皮が歪にディアさんの顔を映す。
「人間くん。『忘れる』っていうのはね、何よりも怖いことだとボクは思う。
長いことここに身を置いていても、あれ以上の拷問をボクは知らない」
哀しそうに微笑んだ瞳から微塵も涙が出ていない事に唖然とした。
もう乗り越えた過去──否。忘れた過去だから……なのだろうか。
子供をあやすような。読み聞かせをするような。静かで、穏やかで、しかし残酷な声。
指先は小さな鉄達を相手に戯れているがどこか生気のない肌の色に、パーツ達は退屈そうな金属音を鳴らした。
「それでボクの場合、快楽を逃げ道にしちゃってね。こんな不純な美少年になっちゃったんだぁ」
「あ、自分で言っちゃうんですね美少年って」
「事実だもぉん」
お互いに少しだけ笑って、すぐにディアさんが僅かに口角を落としながら紡いだ言葉に、僕は固まった。
「他人事だからこそ言えるのかもしれない。けれど、それでもボクは、今のキミが羨ましく思うよ。"もう一人の自分を見る事ができる"んだから」
「え……?」
思わず、目を見開いた。
夢の内容は伝えていないはず……。
「何故、それを……?」
「ふふっ。死んだばかりの人間達はこの夢を見る可能性が高いって聞いただけだよぉ? でもその反応……キミも見たんだねぇ」
「あの、僕……僕っ! その事でお会いしたい方が居るんです!」
「わぁ。だれだれぇ?」
「緑の髪の、おかっぱの、ちっちゃい死神さんらしいのですが、ディアさん心当たりありませんか!?」
焦りが大きくなってしまいつい大声を出してしまった。床にも手をつき前のめり、ディアさんの昨日より薄い目の色をじぃっと見つめる。
シンデレラや白雪姫といった童話が並ぶ小柄な本棚の中で本が一冊横倒しになって、テーブルの上に放置されていたザクロが寝返りを打った。
「あ〜……」
露骨に目線を逸らす白。
「成程、人間くんはあの子に送られたんだねぇ」
「……つまり心当たりがある、ということでよろしいですか」
「バッチリあるよぉ。もし人間くんがあの子から逃げたくてもどうせもう遅いしねぇ」
そう言いながら、ディアさんは工具箱から一つの絆創膏を取り出した。
細長い白い蛇が、いつの間にそこに居たのか僕の背後から主の方へと擦り寄ってこちらを睨んでいる。
「……?? ディアさん、遅いってどういう──うわっ」
「今こっち見ちゃダメぇ」
「は、はい……?」
ディアさんは絆創膏の粘着部分を隠すシールを剥がしたかと思えば僕の横を四つん這いで移動し、僕が緩やかなカーブの角の方を向こうとすると、白い片手で頬を押され邪魔されてしまう。
結果、僕が視線を忙しなく動かしている間に、左足首に絆創膏を貼り付けられた。
あれ? 僕怪我したっけ?
「はぁい。いきなりごめんねぇ」
「あ、いえ。その……足首、血でも滲んでましたか?」
「まあそんなとこかなぁ」
「えっ布団に付いてませんよね!? これファルさんの物なんですけれど!」
「大丈夫大丈夫ぅ。小さかったからぁ」
いつも通りの笑顔。その表情に少し安心感を覚えた時、家の外でエンジン音が近づいてきた。
「あ、来たみたいだねぇ」
「えっ、誰がですか? ここら辺乗り物とかありましたっけ」
「まあまあいいからぁ」
いそいそと改造したパーツをぴったり組み込んだ後、布を元通り直し、腕を通しながら玄関で靴を履くディアさん。
僕も急いで後を追うと、ドアを数センチ開けたディアさんが「あうっ」と大袈裟に目を閉じる。
「ああもぅ。やんなっちゃうなぁ」
白は陽の光が反射する外の景色にそんな悪態をつきながらカーディガンのポケットに手を突っ込んだ。
そこから出てきたのは真っ黒の細長い布。ぺたぺたと周囲の物を触った後に大きな瞼を下ろし、少々厚みのあるそれを眼帯の上から目隠しのように頭に巻き付けた。
瞬間、どこからかディアさんの手元に淡い光を纏った細身の剣、レイピアが現れる。小さな手がそれを掴むとその光はパラパラと玄関に落ち、消えていく。
突然のディアさんの行動に驚きと疑問符しか浮かばなかったが、レイピアの先で地面をつつきながら外へ踏み出したその足取りで、盲目の人達が使う杖の代わりだと理解した。
「……んしょ」
ドアの先にある段差も動作は遅いが危なげなく越え、僕ら二人は外へ出る。
そこにいたのは宙に浮いた、タイヤの無い中型バイクのような形状の乗り物から下りてきた二つの影だった。
一人は背の高い茶髪。もう一人は小柄だがフルフェイスのヘルメットをしていて顔は分からない。
「よっ。ディア、久しぶりだなァ」
「やっほぉ、トイフェルぅ。元気そうだねぇ。研究は進んでるぅ?」
「順調だぜ。なんてったっておれさま天才だから。ディアの目ん玉は相変わらずか?」
「そうなんだよねぇ〜。眩しくて眩しくてぇ」
腰に蝙蝠の羽を生やした長身の男性と話している目隠しした白い男の子……このシーンだけ見ているとなんだかとてもシュールだ。
「おお? そっちが人間サマか。ちっこいなァ。おれさまトイフェル。よろしくな」
「あ、は、はい。よろしくお願いします……?」
そしてなんだかとてもフレンドリーだ。
細く大きな手で求められた握手を受け入れて目線を交わしている時、ディアさんはもう一人の、ヘルメットをした子供にふわりと笑う。
「おかえりぃ。モルテぇ」
「…………」
こくん。小さく頷く茶色のポンチョはヘルメットを外し、左右に頭を振る。
「あなたは……!」
切りそろえられた前髪。肩を超えるか超えないかくらいまでの前下がりの後ろ髪。ポンチョに装飾されている赤黒い宝石。編み上げのロングブーツ。長い下睫毛。
緑色の特徴的な三白眼が——こちらを見た。
「久しいのう……小僧」
木々に触れた風が僕らの髪を平等に揺らす。
「やっぱりこの人間サマであってんの? モルテ。めちゃくちゃいい子そうだけど?」
「うむ。髪の色は変わっているが、間違いない」
「ほお〜」
にぱーっと人懐っこく笑うトイフェルさんと、こっちを警戒しているのかギロリと睨んでくるモルテさん。
その睨みには子供の体型に似合わない覇気がある。
「ああそうだ、人間サマ。今そっちに危害を加える気は無いからさ、安心してくれよな」
「は、はい……」
死んだ後、関わったであろう人。
生前のことは知らなくても、ここに来るまでは知っているはず。
知りたいのか、そのままにしたいのか。
ディアさんの質問には、まだちゃんと答えられそうにないけれど。
こうやってまだ手がかりを探している自分はきっと、可能性も捨てたくないんだと思う。
危害を加える気が無いなら好都合……かもしれない。
「トイフェル。すまぬ……」
「ん〜? どうしたモルテ」
「吐きそうじゃ……」
「うっそちょっと待って!? 袋どこ! 袋!」
「あー吐く……これは吐くぞ……十……九……」
「カウントダウンやめて!? ああマジ見当たんねェどこやったんだよ過去のおれさまああ!!」
「ふふっ。あっち向いてよっかぁ、人間くぅん」
「そうですね……」
深い青空。
流れる雲。
大騒ぎのトイフェルさん。
木の幹に手をつくモルテさん。
そっぽを向いて耳を塞ぐ僕ら。
……間に合ったかどうかは、ご想像にお任せします……。