第四話 彼岸花の力
……動けない。
否、誰かに直接動きを押さえられている訳では無いのだから、この言い方は少々語弊が生まれてしまうかもしれない。
だがしかし、今僕の目の前に居るこの彼岸花が。このさらりとした黒髪が。僕の脳内を掻き回していることは紛れも無い事実だ。
……つまり、ものすごく簡潔に言ってしまえば、僕は状況が上手く飲み込めなくて呆けてしまったのである。
今さっき会った、名も知らない人が、「やあ。キレイな方のオレ」とあまりにも手短すぎる、そして謎すぎる挨拶をして来たら、誰だって戸惑うだろう。
今の僕みたいに頭がパンクしそうな程にはならないかもしれないけれどね!
わーい!!
「戸惑っている……? 無理もないか。オレも最初はそうだった」
隈の濃い左目に僕の銀髪を映して、ぶっきらぼうに足元の赤を蹴る。右目がある筈の場所に咲いた赤い花は、彼の行動と共に静かに揺れた。
「せっかく来たんだ、ゆっくりしたらいい」
「ゆ、ゆっくりと言われても……」
「大丈夫。ここはお前が思うより……いや、もう一人のオレが思うより、案外居心地がいい」
「そういう問題ですかね?」
「住めば都」
「う……うん……?」
ダメだ。
なんかもう既に、彼のペースに飲まれている気がする。
……マイペースな人だなあ。
野蛮な人じゃなかったことには胸を撫で下ろすべきなんだろうけれど、それはそれでどう接していいか分からないというのが本音だ。
また赤い液体の中心に座り込んだ黒髪に、僕は少し小さい声で問いかけた。
「あの……一つ質問、いいですか」
「なに?」
「『キレイな方のオレ』という挨拶から考えて、その、やはりあなたは生前の……?」
「……うん」
わあ。
思ったより簡単に会えちゃったなあ。
どうしよう。
驚いてまた固まってしまった僕に、黒髪は自分の頭を引っ掻きながら呟く。
「……何しに来たの」
「そ、それが僕にもさっぱり……」
「……そう」
き……気まずい。
他に話題も見つからなくてもじもじしていると、不意に相手が口を開いた。
「なあ。オレは、死んだんだよな?」
「え?」
「いや、ごめん。いまいち実感が湧かないだけ。忘れて」
「…………」
そうか。
混乱しているのは僕だけではないんだ。
何があったのかは分からないけれど、自殺出来たと思ったら行き着いた場所がこんな暗闇で。
紅い花と共に揺れることで時間がそよ風の様に緩やかに過ぎ去るのを待つしか出来ないのだから。
「出るには、多分、あの力があれば……でもあれは……」
静かな、しかし通る声。
波打つ赤の波紋に運ばれ、僕の口を塞ぐ。
この人が、生前の僕。
やはり何だか実感が湧かなくて、じぃっと白い肌を見つめた。
視線に気づいたのか、黒に塗れた瞳に僕の銀髪が映される。この景色には相応しくない煌びやかな光の反射に、相手は少し目を細めるだけ。
煩わしそうに顔を逸らして赤の液体に波紋を広げた。
「じゃ、じゃあどうして……」
「一つ質問って言ってた」
「う……」
ぐぬぬ……と言葉を無理矢理飲み込む。
僕の足元にある彼岸花が無抵抗に揺れて赤を振り撒いた。
もちろん聞きたいことはたくさんある。生まれ、育ち、家族、思い出……。
そして——死因。
どれもこれも自分には無いからか、どこか他人事になってしまうのは否めないが、知っていてデメリットは無いと思いたい。
「あの……!」
「今度は何?」
顔は背けたまま、目玉だけがこちらを見る。
敵意も、悪意も、殺意も無い。ただただ真っ黒な目。
太陽の光すら吸い込んでしまいそうな虚無に満ちたそれに、僕は緊張で高鳴る心臓を手で押さえながら口を開いた。
「……ここに来たのは、何か理由があると思います。なので、あなたの事を教えてください」
「……なんで」
赤を踏み散らす黒は不機嫌そうに目線を揺らした。
それでも僕は怯まず、言葉を紡いでいく。
「知りたいんです、あなたを。……いいえ」
意を決して、今度は僕の眼球の中に彼岸花をまっすぐ映す。
「僕自身を」
チャリ。
首にぶら下がる二人のペンダントが、同時に音を響かせた。
◇◆◇
森の中。
その木の群れの中でも一際大きな木のてっぺんに、簡易な建物が立っている。
建物……というよりは、休憩所と言った方がイメージしやすいかもしれない。そんな極めて簡素なものだ。
立方体の形状を保つ木造のそれは中で雨風が凌げるようになっており、内装は中央に喫茶店にあるようなお洒落なテーブルが置かれているだけだった。
そしてその建物の出入口の横で佇んでいる人影が月光に照らされる。
それは、まるで瞑想でもするように静かに目を閉じていた。
「………………」
どこまでも静かな空間に、風が葉を揺らす音を時折鳴らしていく。
そんな風の悪戯にふわりと宙を彷徨った毛先は、自分のあるべき場所を思い出したのか、緩やかにその人物の背中へと踵を返した。
そこに、こちらへ向かう影もう一つ。
包帯に隠された機械の先、緑色の尾が伸びる自慢の翼で空を舞うその影は、先客の姿を見るとパチクリと目を瞬かせる。
「んあ? ラモール来てたのか、悪ぃ。遅くなった」
「ああいや、構わないぞ。私も今来たところだ」
「んー……そろそろ俺一人でも大丈夫だと思うんだけどなー」
「全く、貴様は……。この仕事を甘く見ない方がいいぞ。この森に来てまだ半年も経っていないのだから、仕事は昼の見回りだけのはずなのに……頼み込んできたのはそっちなのだからな」
「いーだろ、俺も歌ってみたかったんだよ」
建物の中に入り翼を休める、ファルの二十代前半の身体には似合わない悪戯っぽい笑みに、私はため息を夜空へ溶かした。
私が持参していた楽譜のファイルを手に取ってパラパラとめくりながら、笑みの主は目を輝かせる。
「で、今日は何を歌うんだ? やっぱり賛美歌か?」
「何でも構わない。私達、特に貴様の様な天使の歌声自体にグロルを遠ざける力があるからな。今回は貴様が決めていいぞ」
「何でもいーのか!? ひゃはっ。何歌おっかなー」
鼻歌を歌いながら「んー違うか」とか「むうー??」とか言って首を傾げている黒翼に不安半分、心配半分の眼差しを向ける。
大丈夫なんだろうか。
眠気を我慢していないだろうか。
もしそうなら正直、今すぐ家に帰ってすやすやと寝て欲しい。
何しろ、夜の見張りは昼の仕事の何倍も危険だ。グロルも大きく、強くなり、そして数も多い。
しかも天使自体は戦闘種族だが、誕生する頻度が少なく、天国の敷地から出ることもあまり無い。
その無知で純粋な魂はグロルのご馳走。
より美味な天使の魂を求め、グロル達は私達が居る森の向こう、天国へと惹かれていくのである。
その尊い種族である天使が今、天国を囲む森の中で呑気に鼻歌を歌っている。
翼の色のおかげで夜空に馴染むことが出来ているけれど、危ないんだからな!
本当に危ないんだからな!
……客人も寝ていることだろうし、隣には狙われやすいであろう後輩。万が一という事の無いようにしなければ……。
「なあなあラモール、アレくれよ、甘いヤツ」
「ん、ああ」
私の心配など露知らずな、無邪気な黒に急かされて、熱々のレモン水が入った水筒をカップへ傾ける。
次に琥珀色の液体が入った瓶を取り出し、それを木のスプーンで一杯すくい上げて、湯の入ったカップの中に差し込みくるくるとかき混ぜた。
その湯はみるみる透き通った黄金を生み出し、甘い香りを湯気と共に辺りに撒き散らす。
その情景を、黒い翼が覗き込んでいた。
「いつもコレを覗きに来るな。好きなのか?」
「うん。いつ見ても綺麗なんだよな、ラモールが作るはちみつレモン」
「ふはっ。そうか」
あまりにも真っ直ぐな褒め言葉に不意に口角が上がる。
いかんいかん。これから仕事だというのに。
ほら出来たぞ、とカップを手渡すと、「サンキュ」と嬉しそうに両手で受け取って息を吹きかける。
私はグロルが来ていないか一回り見渡してみるが、今はまだそのような姿は見当たらない。ひとまず胸を撫で下ろした後、腕時計に目線を移す。
……どうやら、グロルが本格的に動き出す時間までまだ少し余裕がありそうだ。
お手製のはちみつレモンを一口飲み込んで「ぽへー」と間抜けな吐息を漏らしている可愛らしい後輩に、私は一つ、前から気になっている事を訊ねた。
「少し不躾な問いになるのだが、いいだろうか」
「どうした?」
「貴様が地上に居る時、周りはそんなに悪意や殺意を持った者が多かったのか?」
「………………」
きょとん。
そんな効果音が出そうな、少々驚いた表情だった。
何故そんな事を…………否。なぜ今更、と言いたげな眼差しを私の横顔に向ける。
「……いや、そうでもないぜ? 周りの人間が抱いていたのは……あれはシンプルに、『無関心』とか『好奇心』ってやつだった。俺がこんな風になったのは、一人の人殺しのせいだ」
「人殺し?」
「俺の小さ過ぎる肉体には当たんなかったけど、一つの刃が母体を貫いたんだ。その時に左の翼は腐っちまった」
「ということは……」
「ああ。俺のママになるはずだった女は、殺されたんだよ」
赤黒い目を伏せて笑う儚げな顔に、月明かりが冷たい風を運ぶ。
その風は私達の髪を分け隔て無く平等に揺らした。
「その同種殺しとなった人間は、その後死んだのか?」
「わかんねー。でも、人を殺した奴、倒れた女を見てかなり動揺しながら立ち去ったな。自分で殺ったのに。変な奴だった」
「……他にその女性の惨事を見た人間は?」
「女が来たな、歳食ってるおばさん。ドンドンドンドンドア叩いたと思ったら入って来るなりうるせー悲鳴あげやがってよ。耳ぶっ壊れるかと思った」
「…………そうか……」
辛い事を思い出させてしまう質問をしてしまったな。
私がファルの頭に手を乗せると、目を細めて擦り寄って来る。
何の慰めにもならないだろうが、私の無神経な問いに答えてくれた誠意に礼をしたかった。
数十秒、私の手を無抵抗で受け入れてくれている黒い翼。狼のように鋭い目つきが時折開いてこちらの様子を伺ってくる。
どうしたのかと見つめ返すと、小さく、静かに口を開いた。
「もう一人いた」
「ん?」
「おばさんが来る前だけど、もう一人来たんだ、十代前半の男のガキ。倒れたママを見て尻もちついてた。目にすげぇ隈があってやせ細ってたんだ。
数分くらいだったっけ。そのくらいずっと見てて、ハッと我に返ったらママの傍にあった紙とカードがいっぱい入ったものを手に取って、一目散に逃げてった」
「……………………」
「…………あいつ、大丈夫かな。ちゃんと生きてるかな」
いつもの強気な態度はどこへやら。しおらしく眉を下げる赤いメッシュに、はちみつレモンの甘酸っぱい湯気が溶けていく。
雲の隙間から覗く星も、その湯気を瞬く間に啜った。
「…………どうだろうな……」
きっと生きている。なんて、無責任な事は言えなかった。
もし生きているのなら、その子供が見ているのは地上の地獄だろうから。
紙とカード……財布だろうか。いや、たとえ違う物でも盗んだならそれは立派な窃盗となるだろう。その後警察とやらに捕まっていようといまいと、それこそ「死んだ方がマシだ」と思うほど、行動を制限されているはずだ。
「その子供は、貴様の母親とどんな関係にあったのかは分かるだろうか」
「悪ぃ、よくわかんねーんだ。あいつに会ったの、それっきりだったし」
ファルはそう言って、また黄金を飲み込んだ。先程の一口、二口を味わうようなそれではなく、小さな喉仏を上下させてカップの中を一気に飲み干していく。
「そろそろやるか」
「そうだな、何を歌うかは決めたのか?」
「おう、これがいい」
かつて母親を人間に奪われた黒天使は眩い笑顔で、ゆったりとした、のどかな子守唄を選んだ。
◇◆◇
「知りたいとは簡単に言うけれど、その顔じゃ、どこから聞いていいか分からないんじゃないの」
「……そうなんですよね……聞きたいことたくさんあって……」
紅い花が照らす暗闇。
僕の意を決した眼差しに、心底呆れ果てたような目線を返された。
当然、気まずさは拭えてません。
うわーん。
「はあ。いいけど。暇だし」
「あ、ありがとう……ございます……?」
快く、とはいかなかったけれど、理由はどうあれ話を突っぱねる気はないらしい。
足元に散在する赤には僕の心拍数にリンクするように波紋が走る。
「僕は、どうして自殺をしたのですか」
いきなり踏み込んで良い領域なのか迷ったが、僕が今一番知りたい事を素直に問いかけた。
ゆらり。顔に咲いた深紅の花が音も無くこちらを覗き込む。
「現実で生きづらくなったから」
「えっ……そんな理由で?」
「そんな理由で。生死を分かつ問題なんてそんなものだ」
災害があったから避難をする。それと同じ。
淡々と、しかしはっきりと、感情の感じられない声でそう言った。
何故そんな状況になったのか訊きたかったが、黒髪の声に遮られる。
「今度はこっちが質問する。そのペンダントの中は見た?」
「いえ。お恥ずかしい話、鍵が見当たらなくて……どこかに落としてしまったんでしょうね」
「あ、大丈夫。オレも無いから」
「えっ」
スッと右手を頭の位置まで上げて真顔でキーアイテムの紛失を報告する彼岸花。
そ、そんな軽いノリで良いんですかもう一人の僕っ!
多分結構大事な物だと思いますよ!?
紛失してる僕が言ったところで五十歩百歩ですけれども!!
「というか、やっぱりこのネックレス、生前から身につけていたんですね」
「お守りだから」
「お守り……」
ふとネックレスに目をやると、首元に絡みつく鎖の音がこだまする。
金色のアクセサリーはその蝶番を動かす事無く、胸の前でとどまった。
「あの、もし嫌でなければ、どうやって自殺したかを教えてもらってもよろしいですか」
「どうやって? 簡単。高い建物から飛び降りた」
「飛び降り自殺……ですか」
「そう。あれは我ながら完璧な頭からの着地だった。まあそのせいで片目見えないけれど、もういいや」
「自殺の成功に胸を張らないでくださいよ……」
「てへぺろ」
顎に手を当てて真顔でこっちを見る彼岸花。
声に全然感情こもらないなこの人。
いや僕なんですが。
「じゃあ今度はこっち。お前、子供の死神を見なかったか?」
「へ? い、いえ……」
「緑髪の、おかっぱ頭の、目付き悪い奴」
「ん〜……見たことないですね……」
「そ。じゃあいい」
「…………??」
子供の死神……? 僕が知っている死神は、ラモールさん一人だけ。
他に死神なんて居ただろうか。
思い返してもやはり記憶に無くて、思考は宙を舞ってしまう。
首を傾げる僕と、ふいっとそっぽを向く黒髪。
何かを喋ろうとした僕の手は空中で止まり、また太ももの横へとぶら下がった。
彼岸花が、はあ。とため息を吐き出して赤い液体を揺らすと、ふとその水に自分の姿が映る。
「そういえば、僕が動かしているあの身体も、元々はあなたのなんですよね? お返しするには……僕、どうしたら……」
「いい。要らない。お前が使って」
「はい?」
予想外の答えに目が点になってると思う。今の僕。
「いやいやいやいや! そういうワケにはいきませんよ!」
思わず両手と首を横に振る。
元々は人の物だった身体を、おそらく、故意では無いにしろ奪い取るような形で主導権を握ってしまった。
僕が罪悪感で耐えれるか不安なのでちゃんと返したいのだけれど……。
「要らない」
「で、でもでも……!」
「要らない」
「だって!」
「しつこい」
「酷い!」
「うるさい」
「辛辣!」
なんてテンポのいい会話だろう。
中身すっからかんだけれど。流石僕。
「というか! 先程聴き逃しませんでしたからね! 『出るにはあの力が……』とか何とか! 詳しくお聞かせ願いたいのですが!」
「わあ。人に頼む態度? それ……」
「すみませんお願いします」
体育座りのまま呆れ顔を見せる黒髪に、きっちりしっかり九十度のお辞儀を返す。
心底面倒くさそうに目を伏せたその人は、透き通った声で言葉を紡いだ。
◇◆◇
死んだ後、次に目を覚ましたのは飛び降りた建物の真下だった。
すぐ側には自分の死体。
そこかしこに飛び散った血液のせいで、辺りは血の海。
人の気配があまりない裏路地だったからかな。まだこの惨状が見つかってはいないらしく、周りに人は見つからない。
間違いなく。人生の中で一番最悪な目覚めだった。
けれど同時に、酷く安堵した。
ああ、死ねた。良かった。
そう思った。
生きていても、何も無かったから。
何も、ありはしなかったから。
死んでからしばらくして、力の存在に気づいた。
割れた頭から滴る液体が、ドロドロとした黒に変色しているのを。
そしてその液体を、意のままに操る事ができることを。
地面に零れたそれを少し持ち上げて蛇のように空中でくねらせてみたり、棘のように尖らせた先端を指でつついてみたり。
そんなひとり遊びにも慣れてきた頃、それは起こった。
何の気も無しに触れた建物の壁が、黒く変色してだらりと半液体状の何かが垂れ下がっていた。
得体の知れないそれに恐怖を覚えたオレは思わず後ずさって大きな歩道に出た。
それがいけなかったんだ。
するん。何かがオレの魂をすり抜ける感触。目で追うと、一人のサラリーマンがオレから離れていく。
ゲホゲホと咳き込むその身体には、あの液体を薄めたようなどす黒い煙が渦巻いていた。
もしやと思い、近くを歩いていた主婦に触れた。するとやはり、オレの腕から煙が現れて、女にまとわりつく。
主婦も軽く咳をして歩を進めた。だがその顔つきは暗く、さっきとは比べ物にならないほど疲れていた。
その時のオレは、口角が上がっていたと思う。
楽しくなってしまったんだ。
人間に悪影響を及ぼせる、その力が。
けれど、そんな夢のような時間はすぐに終わりを迎えた。
「手当り次第通行人を呪って歩くとは、通り魔と同じくらいタチが悪いのう。小僧」
切りそろえられた緑の髪。赤黒い宝石が飾られた茶色のポンチョを翻しながら、子供の姿の死神がオレの前に現れたんだ。
◇◆◇
「まあそこからは鬼ごっこの始まり。負けたけれど」
空中に浮かせた手をぷらぷらと振り回し、諦めたように彼岸花はそう締めくくった。
欲を言えば死んだ後からこちらに来る時より、死ぬ前の事を訊きたい。しかし、ここまで隠すのにも理由があるのかもしれない。
否。本当は理由なんて無いのかもしれないのだけれど。
考えてもみてほしい。誰だって嫌な思い出なんて語りたくはないだろう。ましてや、初対面の相手にだ。
相手が僕の知りたがる過去に口を噤んだって、寧ろこの情報を語ってくれただけでも僕は、この深紅の花に感謝の意を述べるべきなのである。
「何日程逃げ回ったんですか?」
「………………」
虚無の目は無言で片手を上げる。
「五日間!? すごい! 死神を相手にそんなバトルを……」
「五十秒」
「…………早過ぎませんか」
「我ながらちょっとザコ過ぎると思ってる」
体力が無いのをすっかり忘れてた、と真顔で分析し始める黒髪。
話を一通り聞いた後、僕はふと疑問が浮かぶ。
「あれ。さっきのお話と、ここからの脱出はどう繋がるんですか?」
「そこだよ。あの死神、変な事を言っていた」
「というと……?」
「『今から閉じ込める場所に、一人の客が来る。そやつは記憶を失ったもう一人の自分じゃ。お互いに理解し、助け合う時間をやろう。しかし、それでも間違った選択をした暁には、小僧の来世を奪ってやる。心しておけ』って」
黒髪は俯いて、頭の中にある彼岸花を柔らかく傾ける。
それに反応するように、床に生えている深紅の花も儚く赤い光を零した。
「僕の……来世……」
僕の声が現実味も無く黒い背景に溶ける。
「最初は訳が分からなかったけれど、実際にこうして記憶を無くしたオレが来た。あの死神が言っていた事は本当だったみたいだ」
「ああ。だから僕が来た時、あんなに冷静に振る舞えていたんですね」
「いきなり来られてたら呪ってた」
「死神さんありがとうございます……」
顔の前で手を合わせ、軽く擦りながら感謝した。
虚無の目はそんな僕の姿を興味無さそうに、瞬きもせず形だけ映している。
「まあつまり、今は呪う力も半分って事。液体の色は赤に戻ったし、操るにも少しタイムラグがある……。万全な状態に戻すには、お前の協力も必要だ」
赤い液体の中心に座り込んでいた彼岸花は不意にゆっくり立ち上がり、波紋を走らせながらこちらに近づく。
「こんな話を聞いても、まだオレを助けたい?」
「…………はい。きっと、あなたの持っている記憶も、お互いにとって大事だと思うんです」
「……そう」
何処からか分からない風が、二人の前髪を揺らしている。
温かくもなく、しかし冷たくもない、心地よい風。
黒髪が一瞬、今まで真顔だった表情を少し暗くした。
「…………今から、残酷な事を言う」
僕から目を逸らし俯く。
表情は……見えない。
「オレを助けたいなら。もし助けてくれるなら。誰でもいい……」
消えそうな声で、呟いた。
「誰か一人を────呪え」