第二十四話 くすぶりの乱気流
父親。
新たな生命が産まれるためには必要不可欠な人物。
しかし、約十ヶ月の身重を体験することもなく、一度“ タネ”ができてしまえば、どこかに行方をくらませたところで子の誕生自体に支障の無い人物。
そんな血縁関係というものになる人間の存在は、僕にとって些事以外の何物でもなかった。
……不思議だ。確実にあの人──夕伊に関わっている筈なのに、ここまで僕の知識欲を刺激しない人物は他に居ないのではないか。
その興味の無さについて理由を考えてはみるけれど、五秒も持たずにそんな思考は打ち捨てる。
それとほぼ同時に目の前のソファに腰掛けている白色は、さして興味も無さそうに頷いた。
「ふぅん。その様子なら、あながち嘘でもなさそうだねぇ」
「嘘をつく必要がありませんよ。そもそもあの彼岸にすら、父親らしき人物と対面した記憶が無いんです」
「そのまま女手一つで育ててきたってことかぁ」
床に敷いたクッションの上に膝を戻した僕と、ソファとの間で、温度を落とした会話が飛び交う。
ソファの上。ディアさんは組んだ足の先をぷらぷら跳ねさせながら、こちらの「どうでもいい」の回答に納得の声色を混ぜた。
「キミは父親に会いたぁい?」
「まさか。あの女性が選ぶ相手でしょう、ロクな人物ではありませんよきっと」
息を逃がして首を横に振る僕の頭を巡るのは、幼き日の彼岸の記憶。
日当たりの悪い室内、締め切ったドアとカーテン。
彼がまだ歩くのもおぼつかない小さな身体で、声をかけたとしても。
手を伸ばしたとしても。
それを受け入れるのはいつもあの女性だけだった。
自殺に追い込んだ女性に嬉しそうに駆け寄る彼の姿は、慣れることなく腹が立つ。
こんな話題じゃない限り、思い出したくもない。
「彼岸くんの母親のこと、キミは好きじゃなさそうだねぇ」
「……ええ、好ましくは思っていません。あの女性が作り上げた孤独のせいで、彼岸は死んだので」
ディアさんの言葉に頷いて沈黙の殻を纏う。ディアさんと目を合わせられないのは、彼岸への後ろめたさか、はたまた口無しの存在に他責をする自分への情けなさか。
窓から床へ飛び込む日光が僕の影を浮き彫りにしていた。
けれど。
「んっふふ……あっははははは!!」
真顔で答えた僕の傍で、心から楽しそうな悪魔の大笑いがカラカラと床を跳ねる。いつもの媚びた仕草をする様子も無く、ソファの上で腹を抱えて肩を揺らすその光景は、まるで大層立派なコメディアンにでもネタを披露されたかのよう。
「はぁ、ふふふ……っ、あぁお腹痛ぁいっ、あっははは!」
「ええっと、そんなに面白いです? 今の」
「うん、面白いよぉ、ボクにとってはねぇ、ふふふ……っ。っはぁ、いいねぇ、お酒欲しくなっちゃうよぉ」
ルビーの瞳を潤ませて笑っている。白い肌に、ローズクォーツに似せて色付く頬が映え、目が眩む蠱惑が銀髪を掠めた。
ぽかんとしている僕に、ディアさんは目尻の涙を拭いながら息を落ち着かせた。
「立場が上である人物が、これまでの行動によって下にあっけなく見限られるのを、悪魔のボクが面白がらない訳ないでしょぉ?」
「あ、そういえばそうでしたねあなた。僕に親切過ぎて忘れていました」
「危ないねぇ。足を掬われちゃうよぉ」
彼の言葉に、気が抜けていたのを自覚して小さく咳払いしてみる。が、目を合わせても相手からは美しい微笑が返ってくるだけで、こちらの引き締めた筈の気持ちが緩んでいった。
僕にとって、ディアさんの姿は一つの安心要素として映っているのだろう。薄く息を吐いてみるけれど、緊張の欠片すら胸の内には見つからなかった。
僕は勢いなく、まごつきながら呟く。
「……怒らないんですか? 僕が彼岸の親を、こんな風に嫌っていること」
「うん? 別に良いと思うよぉ?」
取るに足らないとも言いたげに、コーヒーを一口飲み込んでカップを静かに戻しながら、白髪は答えた。
僕の疑問の眼差しに、ディアさんはまた頬杖に乗せた赤い目を細めている。
「親子だって、お互いに別の人間だよぉ? 逆に親ってだけで、子供から嫌われる可能性が全くない方が不自然だと思うなぁ」
余ったカーディガンの袖をぷらぷら遊ばせて、新たな価値観を僕の目の前に提示してくれた。
嫌われる可能性がない方が不自然。
正直、そんな風に考えたことは無かった。
彼岸が唯一頼りにした女性を嫌悪してしまう。そのことにどこか罪悪感を抱えていた背中を、無責任に押さず、温めてくれたような……そんな安堵。
しかし、ディアさんの視線は次の瞬間僅かに床に落ちる。遠くの雨雲を見つめるように伏せる目は、彼の年相応の知的に満ちると同時に、透明な靄を孕んだ。
「寧ろ、異常なのは彼岸くんだよぉ」
「え、どうしてですか?」
目を見開いた僕に続く、彼の静かな声。
「端的に言えば……大人し過ぎる、かなぁ。此岸くんという新しい人格を形成するまで追い詰められたのは、他でもないあの子だからねぇ」
時計の針の音とコーヒーの香りだけが、その後の小さな静寂を埋めた。
◇◆◇
「……という訳で、話してみませんか。あなたの親について」
「こっちはどういう訳か欠片も掴めてないけど」
病室の中でそんな会話が小さく飛び交う。夕方に差し掛かる頃に合流した僕と彼岸の会話フィールドはベッドへと戻ってきた。薄いカーテンを締め切ったまま、ごろりと掛け布団の上を転がる僕の傍で、フラスコの中の黒い液体は淡々と言葉を返す。
滑らかで安定感の無いそれが、窓からの陽の光を受け時折眩い反射光を放つ様子は、相も変わらずインク壺の中身だけを数本分集めて容器に移し替えたような見た目。
主成分が血液である証拠となる、ほのかな鉄の香りだけが例えとの差異だった。
「というか知ってるでしょ共有された記憶があるなら。何を今更」
ちゃぷん、と水音を立てて心底不可解そうに僕を見る彼岸。
液体で作った眼球の上の水面が持ち上がり、黒色の彼岸花が水面の傾斜に従って斜めに傾いている。
「それはそうなんですが、彼岸の感情までは僕には分かりません。当時親という存在をどう思っていたかを知るのは、あなただけなんです」
「……好奇心?」
「それもあります」
「悪趣味」
軽く悪態をつく彼岸にジト目で見つめられても怖くない。フラスコを指でつんとつつくと、形だけの棒読みな驚きの声が漏れると共に水面が荒れ、一瞬彼の目が液体に溶けた。眼球の形は一秒もかからず復元されてまたジト目になる。
彼岸は一回の瞬きの後、視線をシーツに落とし、何かを思い返すようにそのまま右上へと移行させた。
「んん……ちょっと困る。どう思っていたも何も、本当にどうでも良かったんだよね。
……いや、どうでも良く『なっちゃった』っていうか。うん」
僅かに下がる声。けれど声色に影の気配は無く穏やかに広がっていく。
わざわざ過去形に言い換える必要性が分からず、僕はベッドの上で組んだ腕に髪を預けて、フラスコの中の目を見つめた。
「モルテさんに記憶を壊させた時にですか?」
「ううん、これは結構前から。あっちが家に居ない時間の方が多かったし、家に居てもすぐ寝るし、……なんか、ドラマでとかでよく見る家族ってものよりも……ちょっと変な距離があった気がする」
「多忙な人だったんですかね」
「そうかも」
決して会話が多かったとは言えない親子関係。比較的大人しい性格に育った彼岸は、幸か不幸か、あの女性の仕事を邪魔することはなかった。
もっと我儘を言える環境だったなら。
もっと気持ちを率直に伝えられる性格だったなら。
……止めよう。こんな考えは今となっては意味がない。
一回の呼吸で切り替えて次の疑問を提示する。
「……父親と思われる人物が、あなたの記憶に現れません。僕の見落としでしょうか」
一秒程度の言葉の隙間を、水音が滑り込む。その水音は、彼岸が目を閉じながらその眼球を左右に揺らす音だった。
一連の動作が、あの暗闇の夢で見た拒否の首振りと重なる。
「オレも多分会ってない。でもあんまり気にしたことなかった、居ないのが当たり前で」
「特徴を聞けば聞く程、親というものに向かない人間ですねえ。あなたの両親」
「言えてる。モルテが嫌ってるのも無理もない」
「あなたは恋しく思いますか、親のこと……特に、母親のことを」
「全然。……って言いたいけれど、まだ理解に時間かかってるだけの可能性あるんだよね。よく分かってないのが現状。
まあその時になったら勝手に泣いたりでもするんじゃないの」
僕の質問に、彼岸は極めて他人事な態度だった。
ふむ、と僕は息を漏らす。
僕自身、彼岸の親についてもっと聞きたいことがあると思っていたのだが、面白いくらい次の話題が浮かばない。彼岸の言葉がやけに薄いせいだろうか。
彼の生前の感情が、他人格である僕にすら影響を与えている可能性がある。
……興味深い。
「というか今は、考える暇も前より無いかも。特訓してて」
「特訓?」
「うん。えっと……あの眼鏡かけた悪魔さんと」
まごまごと言葉を選んだ彼岸。首を傾げながらも次を待ってみる。
彼岸は僕の待ちの姿勢を理解したのか、いつもより僅かに早口で補足を付けてくれた。
対話が不慣れな彼の発言を僕なりに纏めると、特訓という名目で行っているのは、どうやらリハビリのようなものらしい。
重く、動作も遅い液体の身体を満足に動かせるように、トイフェルさんの知識を借り、モルテさんの分析力を借り、手探りで理想の動きに近づこうとしていたようだ。
進捗はと問うと、牛歩ではあるけれど前進はしていると答え、水面に触手のように滑らかな、爪楊枝くらい細い二本の水柱を作り上げて見せてくれた。
器用に空中でくねらせているそれが興味深くて感心の息を漏らしたのも束の間。僕の頬は不服げに膨らむ。
「確かに成果は凄いみたいですが……納得はしませんよ。そういうことなら、どうして前回訊いた時答えてくださらなかったんです。不安だったんですからね僕」
「……ごめん。言ったら心配するかと思って」
僕の言葉に視線をシーツへ沈めると同時に、水柱は水面へと戻って行ってしまった。
心配くらいさせて欲しいのだが、下を向いて目を合わせようとしない態度にこれ以上の不満をぶつける気も起きない。
「思い通りの動きにはまだ遠そうですか?」
「うん。だからしばらくは、身体全体じゃなくて一部だけ動かすのに注力する予定。
あと、近々この容器も変えてもらおうと思ってて」
「え、何かご不便が?」
「ただ単に耐久性の問題。ずっとガラス容器っていうのも、この場所じゃ危険だと思うからって、あの茶髪悪魔さんが提案してくれた」
「相変わらずお優しいですね、トイフェルさん」
「うん。申し訳なくなりそう」
彼岸はそう言って水面に波紋を走らせた。
……提案という形ではあるのだろうが、十中八九、彼の眩い笑顔に押し切られた感じだろう。
出会ってからずっとこちらを気遣ってくれているトイフェルさんには頭が上がらない。
「あ、そうそう。容器を変えるって話、どんなのがいいか聞かれて色々な入れ物に注いでもらったりしたんだけど、オレが一番落ち着いたの何だと思う」
「何だったんです?」
「透明のガラスコップ」
「はははははっ!」
即座にコップの中に入った彼岸が頭に浮かんで、吹き出すように笑ってしまう。
しかも彼岸の声は相変わらず淡々としているのだから尚更だ。
悔しい、見たかった。絶対面白い。
「周りがちゃんと見えるのが結構安心要素になるみたい。茶髪悪魔さんも爆笑してた」
「そりゃあ笑いますって、気の毒に」
息を整えようとしているものの、先程のイメージが離れなくて、笑いがぶり返しそうだ。シーツに突っ伏している横で彼岸はまた通る声を窓に溶かす。
「明かすタイミング丁度良かったかも。もう透明の方がしっくりくるって分かったし、このフラスコの形はそのままに、防弾ガラスとか強化ガラスにしようと思ってて……でもオレを運ぶのそっちだし、そっちにもどういうのが良いか聞きたいんだよね」
「先程のが面白くて、もう、もう何でもいいです……。扱いを急に変える必要も無さそうですし、ありがたいですね」
「決まり。茶髪悪魔さんに会った時伝えておく」
「あっ、彼岸。次から僕も同行しますからね」
「……そう。でも、んん……」
着いて行く気満々で合わせた目が一秒も持たずに逸らされた。拒否というよりも、言い淀んだように感じた視線の動き。聞こえるのは外の葉の音と、次の言葉を発するまでの数秒を繋げる、口を閉じたままの声だった。
「多分同行は無理だと思う」
「ええっそんなに嫌でした……!?」
「違くて。モルテがそっちの特訓メニュー作ってるから多分そろそろ本格的に別行動になると思う。筋肉も脂肪も足りなすぎるって嘆いてたけれど」
「それあなたのせいですけれど」
「てへぺろ」
発言の割に単眼は無表情である。
「……というか、平均以下の数値である予想はしていましたが、嘆かれる程とは……」
「傍から見てて面白かった。健康診断結果の紙見ながらずっと顰めっ面で」
「ちょっと見てみたくなるのやめてください?」
「仕舞いには寝落ちしてた」
「やめてください?」
モルテさんがソファの上で紙を片手に突っ伏す姿が目に浮かんだのは、内緒にしておこうと思う。
僕もラモールさんが手渡してくれた結果は見ているけれど、確かに平均を大きく下回っていた数値が三ヵ所程あった気がするような。頭を抱えたくもなる。
一度の軽やかな水音を鳴らして、彼岸が僕を見上げた。
「ねえ。話が結構戻るんだけれど、そっちから見た母親ってどういう印象なの」
「僕? そうですねえ、あなたとファルさんを傷付けた人間という認識しかありませんよ。暗闇の夢の中で、あなたの記憶を通してあの女性への幕引きを見た時は、心の内が晴れたような、一種の快感を覚えました。
でも──同時に、あの終焉を残念にも思ってしまったんです」
「残念?」
フラスコの表面に薄く映る僕の口角が、静かに歪んで上向く。
「僕が殺したかった」
ガラスに隔たれた屋外で、それまで爽やかだった風が、不穏に吹き荒れた。




