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黒天使と僕。  作者: 書の猫
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第二十三話 無色透明な空白

 死後の世界。天国でも地獄でもない森の中に佇む、洋風の立派なお屋敷。家主の住処と、小さな病院の役割を同時に果たすその建物の中で、銀髪を枕に預ける僕は目を覚ました。

 静まり返ったクリーム色の天井に見下ろされ、それに垂れ下がる照明と、カーテンで区切られた狭いスペースが目に入る。が、僕の次の行動は、肩まで布団をかけ直すというなんとも怠惰なものだった。

 この世界でも家を持たない僕は、現在、ラモールさんの屋敷の一室を借りている。

 ベッドを囲むカーテンの向こうは小さな木造の棚や、患者衣等の衣服が仕舞える飾り気のないクローゼットが淡い若葉色の壁に寄り添って佇み、棚の上でこぢんまりとした卓上カレンダーが静止画の如く動きを見せない横で、透き通った青色の花瓶に内側から赤い薔薇の造花がしなだれかかっていた。

 いやはや、白いシーツとふわふわの掛け布団のベッドに挟まれる感触には恐ろしい中毒性を実感せずにはいられない。抗い方を知らない僕はもそもそと布擦れの音を奏ではしても、起き上がるにはどうにも身体が重くシーツに沈んでいく。

 家主の可憐な花のような、緊張を溶かす笑顔と共に快く提供してくれたこの状況が恵まれ過ぎていて、生前の環境とのギャップに目眩がしそうだ。

 しぱ、と。カーテンから差す光に目が萎む。二度寝をする前は夜明けの薄明かりに過ぎなかった日光が、斜め上から降り注いでいるのをぼんやり見つめ、また寝返りを打った。

 仰向けから横向きへと体制を変えたせいで、視界は枕元に置かれたあるものに向く。

 コルク栓を咥え込む、五センチくらいの筒を二箇所に生やした丸型のフラスコ。筒には両方を繋ぐ一本の長い肩紐を結び付けて、運搬をしやすくしてある。

 そのフラスコの中には、波打つ花弁と三日月形に湾曲した多数の花柱が特徴の、真っ黒な彼岸花。その花を形作る黒い液体の上に浮かんでいる光景は、高級なインテリアと並べても差し支えないくらいに品を感じさせる。

 彼岸。元々は作りかけの他人格でしかなかった僕に、人間の身体を譲ってくれた恩人。今は眠っているのか単眼の影すら見えず、ただ黒い液体が僕の寝返りに僅かに揺れるだけだった。


「彼岸。ひーがーんっ」


 声を聞きたくて、小声で呼びかけながらフラスコをつついてみる。小さな衝撃に水面は波打つけれど、反応はない。

 ただでさえ最近は変化の多い日々だったのもあって疲れているのだろう、と一人勝手に納得して、僕は枕元に置いてあるもう一つの異物へ手を伸ばした。


 一冊の本。

 短い小説のページを途中まで掴んで少し浮かせば、残りのページは重力が手伝って中を開く。先日睡魔の誘いに使った細かい文字が虹彩にへばりついた。

 どこまで読んだだろうか。

 パラパラめくりながら創作の世界に飛び立つ準備をしていると、背後から声が染み込んだ。


「起きたの、此岸(しがん)

「はい、おはようございます。彼岸」


 僕の新しい名を、フラスコの中の黒い液体が気怠く口にする。布摺れと共に振り向くと、先程まで見えなかったジト目の単眼がガラス越しに僕を映していた。

 笑顔で返事をしてみるけれど、


「んん……呼び慣れない……」

「ですね、僕も変な感じです」


 照れに近い擽ったい感覚が一瞬で耳の後ろを走り抜け、二人共目を逸らした。

 振り向きざまに連れてきた小説で顔を隠してみる。ちゃぷ、ちゃぷと極小の水音が本を飛び越えて聞こえるのが少し面白い。


「というか、そっちこそ本当にそれで良かったの。名前」

「はい。どうしても思いつかなくて」


 空白だった僕の名前。どんなに頭を捻ったところで、良いアイデアは髪すら掠めてくれずにあれよあれよと三日が過ぎた。

 次第に周りからの“ 人間”呼びもいよいよ板につき、というか、決めあぐねていた時間に釣り合うように定着してしまい、ならばもういっそのこと、呼び手の自由にしてしまおうと思い至ったのだった。

 そんな、一言で言えば「好きに呼んでくれて構いません」のスタンスを公表された周りから少々心配の声があったのは事実ではあるのだが……。彼岸の譲ってくれたこの身体に名を付けるだなんて、僕にとっては重荷も重荷だった。

 さてでは何と呼ぼうか……皆が頭を悩ませた末、片割れとして存在する「彼岸」に因み、現在、「此岸」と呼び名を預かっている次第だ。

 安直ではあるのだろうが、その安直さが僕にはありがたい。少なくとも、僕一人で考えるより遥かに良い名前であることは確かである。


「なら良いけれど。はあ、慣れていけるかなオレ」

「それは僕も不安ですが……まあ頑張りましょう」


 丸いフラスコからジトリと単眼が覗いた。黒い液体の身体を持つ彼岸の動きは緩慢を極め、水面とそれに浮かぶ花が揺れる以外の感情の表現は、ほぼ全てこの単眼が担っている。今のジト目は……恐らく不安の色が漏れたものだろう。


「それにしても、何読んでるの」

「『蜘蛛の糸』です。あなたも地上で読んでいたでしょう?」

「地上……。ああ、ネカフェやカプホの他に、市立図書館にも入り浸ってた時? 懐かしい」

「はい。エンマさんの用意したあの糸のことを知るきっかけになるかと思いまして」

「そう。それで、何か分かったの」


 一度の瞬きを挟んで僕の目を見つめる単眼。ベッドに寝転がったまま顎に手を当てる僕は、極めて個人的な推察を並べてみる。


「暗闇の夢で糸が垂れ下がってきた時のことを思い出してください。予想の域を出ませんが、あれかなり危険な状況だったと思うんですよ」

「そっちは胸を貫かれてたから、危険ではあったよね」

「じゃなくて、彼岸。危険だったのは『僕達』です」

「……というと?」

「この『蜘蛛の糸』に因んだものであると仮定して、一人だけ助かろうとした際の末路は想像できるでしょう?」


 小説の中で登場した糸は、地獄に落ちた盗人が、糸を他者に譲らない意志を表明した途端にプツリと切れている。あの時だって片方が欲に飲まれた結果、二人がどちらも身体に戻れずあの暗闇に取り残された場合を────藍色の冠が予想しない筈がない。


「……ああ、そういうこと。あの王様、あんまりその点は心配してなさそうだったけれど」


 僕の言葉に彼岸は目を閉じる。追憶をしているのだろうか。首を傾げるように単眼を傾けてまた薄く開いた目に、変わらず生気は無い。


「あの状況じゃ、どっちが自由に動けても結果は同じだった」

「それは……そうかも知れませんけれど……」


 彼岸に反論できず勢いを失っていく言葉尻。エンマさんの技量と、彼の頼りである勘とやらに未だに濃い霧がかかっている。

 全て取り払いたいとまでは言わないけれど、せめてもう少しエンマさんについて知れることはないだろうかと、欲深くならずにはいられなかった。

 小さく咳払いを一つ。


「まあ、話を戻すとですね。エンマさんの手の内を知らな過ぎている気がするんです。色々調べてみようと思いまして」

「……そう。無駄とは言わないけれど程々に。そもそもあの王様、オレ達の感覚で測れる存在な気がしない」

「……あと単純に、面白いですね。小説って」

「………………はあ。心配して損した」


 先程から僕が手を離さない本の中身は、『蜘蛛の糸』を含む短編集。古めかしくも奥ゆかしい文学に魅せられ夢中になりつつある僕の眼差しに、彼岸はため息を逃がして目を閉じた。

 会話が切れて、仕方なくごろごろ、布団との戯れに身を任せぬくもりを味わっていると、この病室のドアがコツコツと歌う。


「人間。少しいいだろうか」


 ドアを歌わせた指揮者の暖かな声。怠惰の権化と言われても言い返せない状態ではあるが、無視をする方が無礼と思い返事をした。


「良かった。起きていたんだな」


 静かにドアを開ける音、凛々しい足音、カーテンを開くレールの音の伴奏と共に距離を縮めたラモールさんが目の前に現れた。何か作業をしていたのだろうか。ベストの下に着ているワイシャツの袖が二回捲られていて、僕より太く筋の入った腕が覗く。

 まだ掛け布団に身体を隠す僕の姿を見て、彼の長いまつ毛が二往復。腰を少し落とし、上半身を屈ませて目を合わせてくれた。


「おはよう、目覚めはどうだ? 二人共よく眠れただろうか」

「うん。おはよう、死神さん」

「心地よくて二度寝してたくらいです。おはようございます、何か御用ですか」

「朝食ができたから呼びに来たんだ。食事にしよう」


 ラモールさんの百八十センチを超える長身の後ろで、太腿まで伸びる紫色の一つ結びがご機嫌に揺れている。呼び名が決まった後も尚僕を「人間」と呼び、その細身ながらも大きな身体に似合わず柔和な笑顔を浮かべた。

 ラモールさんは基本的に仲間を能力名で呼ぶらしく、まだ能力名の無い僕達への呼び名変更は据え置きとなっているらしい。


 「ほら早く、冷めてしまう」とちょっとだけ急かされつつ、フラスコを抱えて床に足を付けた。フラスコに繋いだ肩紐を掛けて、彼岸の運搬の準備も滞りなく進める。

 花の香りを淡く漂わせるラモールさんの視線を受けながら手櫛で髪を整えた。


「いつも料理ありがとうございます、ラモールさん」

「死神さん、たまにはサボってもいいからね」


 もう既に数日間、三食欠かさず世話になってしまっているものだから少々居た堪れないのもあり、深々と頭を下げた。彼岸も言葉を続けるけれど、返ってきたのは謙遜。


「私は何も礼を言われるようなことはしていないぞ。私はただ……」


 それと。


「美味しそうに食べてくれるのが嬉しいだけだ」


 紫色の目が細くなる、あのネモフィラのような笑顔だった。



◇◆◇



「……エンマさん相手でもあなたがあの人を手放そうとしない理由、今なら分かりますよ……」

「あれは反則。レッドカードレッドカード」

「ふふっ。ラモールと仲良くやれてるようでボク一安心だよぉ」


 ……同建物内の一室。パジャマ代わりの患者衣のままクッションの上で正座した僕は、フラスコをそっと床に置いた後、目の前に人物が居るにも関わらず額も床に預けていた。腕もつま先の横で脱力、なんとも間の抜けた格好である。

 一方僕と空間を開けたソファに腰を落ち着けるハート型の眼帯──ディアさんは、足を少し開いたリラックスした体制で僕の話を聞いてくれていた。

 テーブルの上に乗せたブラックコーヒー。今話題に出ているその人が用意したカップを、白く細い指先で持ち上げながら、ディアさんは言う。


「ボクの気持ち分かってくれて嬉しいなぁ」

「分かるっていうか実感させられた。可愛いね、あの死神さん」

「でしょぉ? エンマにはあんな良い子なんてもったいないよぉ」


 突っ伏している僕を横目に続く会話が盛り上がりを見せたと同時に、僕は上半身を起こしにかかった。

 僕を優に超える身長、肩幅、筋肉を持ち合わせている人に可愛いだなんて不相応だと思われるかも知れないけれど、あの嫋やかな仕草を見れば誰だってギャップに驚く。

 極めつけに料理上手ときた。もう僕はラモールさんに何で勝れば良いんだ。器の小ささか。


「せめて料理くらいは最低限自分でできるようにならないといけませんね。いつまでも頼りっぱなしは避けたいですし」

「あ、分かる。これを当たり前だと思ったら終わりな気がする」

「おぉ。良い心がけだねぇ、此岸くぅん」


 僕の呼び名を呼んで微笑むディアさんの視線は、やはり幼子を見守るそれに近く感じる。ディアさんにとって僕の小さな決意は、赤ん坊が頑張って掴まり立ちをしようとしているのを見ているような感覚なのだろう。

 そのやり方がどんなに効率の悪いものだったとしても、危険が牙を剥くまで口を出さず手助けもしない。この人の持つ優しさはラモールさんとは違って涼しく、それでいて自由だった。

 故に、ラモールさんと居る時よりも、自分で考えねばならないことが必然的に増える。

 義翼の黒天使、ファルさんが戦闘において冷静さを欠かないのは、ディアさんと組むことが多いからなのかも知れない。


「本題に移ろっかぁ」


 コーヒーを一口飲み込んで、静かにカップを戻しながらディアさんがそう言うと、これまで風呂場であっても僕の手首を離れなかった白蛇がするすると僕から距離を開けて主へと向かった。

 細い足を上り伝って手の上に収まっていく。その光景は顔や身体の造形美と相まって、彼が悪魔であるにも関わらずどこか神秘的だ。

 モルテさんから手渡されて今日まで、中途半端なグロル化をしている僕や彼岸に一度も牙を見せなかった白蛇。ディアさんは一体どのようにこの蛇を躾けたのだろう。


「うん、蛇の方は大丈夫そうだねぇ」


 白蛇の顎の下を撫でながら、長い睫毛が縁取るルビー色の瞳が全体を眺めている。白蛇も桜色の目を細めちろりと舌を遊ばせた。

 今回僕の目の前にこの美少年の容姿を持つ悪魔が訪れたのは、人伝に僕に預けた蛇の様子を見に来たのが主目的。コーヒーの香りが、ディアさんの柔らかな、落ち着いた喋り方に良く似合う。


「預けている間に噛み付かれたりしてなぁい?」

「してないですよ。とっても大人しくしてくれました」

「良かったぁ」


 小さく笑いながら手を離せば、白蛇はまた僕の元へと這いずって定位置に収まった。自身の尾を噛んで目を閉じられてしまうと、温度の低い乳白色も手伝って、少し質の高いアクセサリーと遜色ない。

 先程まで主人にあんなに撫でられて上機嫌だったというのに、僕が小さな頭を撫でても無反応。この切り替えの速さには、流石はディアさんの蛇だと妙な納得すらする。

 白い手が再びコーヒーに伸びるのと同時に、どこか気軽なノックが頭上を通った。

 こちらの返事の途中で廊下に繋がるドアが開き、その向こうでひょこりと人影が動く。

 ドアと隙間を滑り込んだのは、明るい茶髪。


「入るよ人間サマ……あれ、やっだごめんお話中?」


 目を瞬かせるトイフェルさん。黒縁眼鏡が飾る優しげなタレ目と、左前髪を束ねる三つ編みを耳にかけて、先を肩で揺らすその姿が、僕達を見て僅かに長身を屈ませる。

 すぐさまディアさんの、語尾を切り捨てた起伏の少ない声が続いた。


「そんなに大した話じゃないよ。どうしたのトイフェル」


 ──例えるなら、鍾乳洞に響く水音のような。男性にしては高めの筈なのにどこか重く、それでいて威圧と魅了を同時にこなす不思議な声。それが形の整った唇から、しとり、零れていく様子をぼうっと見つめた。

 この数日間で少しずつ傾向がつかめてきたのだが、ディアさんは大人の男性同士の会話となるとこの喋り方が多い気がする。

 普段は言葉尻の柔らかさで誤魔化されてしまうけれど、元々落ち着いた声の人だ。速度とイントネーションの違いだけで、ここまで冷徹な印象に様変わりするものなのかと、発見の際驚いたのが記憶に新しい。


「黒い方の人間サマに用があって来たのよ。今時間ある?」

「オレ? 良いけど、何の用……ああ、続き?」

「そ。今日もちょっとだけ一緒に頑張ってみない?」

「いいよ。ごめん、ちょっと席外す」

「え、あ、はい」


 彼岸の言葉にぱっと表情を咲かせた、眼鏡の奥に瞬くトパーズの瞳。

 僕の傍に駆け寄りフラスコを両手で抱え、カーブの強い短髪の毛先を上下させながら、トイフェルさんはまたドアの前に立つ。


「人間サマ、黒の人間サマ借りるね」

「は、はい」


 陽だまりのように笑うトイフェルさんの退室を正座のまま見送った。閉じられたドアの向こうで鳴る足音が、室内の沈黙を休符に見立てて軽やかに遠ざかっていく。

 白い悪魔と取り残された部屋の中で、次に鳴ったのはため息の音。


「……最近、仲良いですよねあの二人……」

「あれれぇ此岸くぅん、嫉妬ぉ?」

「嫉妬じゃなく、……不満、というか。お二人で何をしているのか教えてくださらないんですもん。意地悪です」

「仲間はずれが寂しいんだねぇ」

「……違いますもん」


 静観の眼差しに、正座の上を陣取る両手は小さく布を掴んだ。

 近頃、度々別行動を取ることがある彼岸の身を案じ、燻っていく胸の内を言い当てられた恥ずかしさ。彼岸に直接、一体何の為の別行動なのかを尋ねてみたこともあるけれど、二回ともそれとなく躱されてからは小さな意地で自分から話題に触れないようにしている。

 トイフェルさんが彼岸を乱雑に扱うような人物ではないからこの程度で済んでいるというのを、彼岸が気付いているのかは定かではない。


「半身をもがれたような、とはよく言ったものですね。傍にあの人が居ない時間は、……些か、不安になります」


 この感情すら、彼岸には重苦しいものかも知れないから、気付かれていない方が良いとは思ってしまうけれど。

 異なる身体、異なる思考、異なる視界。

 望みの叶った今でさえ不満を見つけ出し無様に掲げてしまう僕は、駄々をこねている幼児と大差はないのだろう。


「お二人共酷いです……」

「それなら此岸くぅん。ボク達もナイショのこと、するぅ?」


 提案に驚いて顔を上げた。相手は僕を見つめて小首を傾げており、その動作で揺れた白い前髪の数本が、長い睫毛の先に押し返され、見事な黄金比が瞼の前を独占している。

 変な空白を作ってしまった僕に、ディアさんは続けた。


「ナイショでぇ、秘密でぇ、……内密なコト」


 ソファの肘置きを越えて身を乗り出し、僕に顔を近付けて、赤い目が僕の視線を奪っていく。何もしていなくても薄く谷間を作る彼の胸筋が、体勢を変えたせいで艶めかしく歪み、その揺れで柔らかさの視覚情報を伝えた。

 第二ボタンを開けたワイシャツの中を意図せず視界に入れてしまい、呼吸が止まってしまう。ワイシャツの上から着ている、大きめなサイズのカーディガンが肩からずり落ちた小さな音でやっと我に返った僕は、即座に目を逸らしてさらに距離を置いた。


「い、嫌ですよ!? この身体はあなたには食べさせません!」

「ふふっ。やぁん、子供相手に興奮する程飢えてないよぉボク」


 ズササーッと効果音が付きそうな後ずさりにディアさんの心底楽しそうな声が返ってきた。

 ……間違いない。からかわれている。


「もう……戯れが過ぎますよ、あなた。いつか僕がその気になったらどうするんです」

「あっははは! 百人抱いてから出直してきなよぉ」


 先程のようなしっとりとした大人しい笑い声とは打って変わって、等身大の、カラリと男性らしい笑い。

 同性の僕ですら迫られれば容易く流されてしまいそうな容姿で、酷く心臓に悪いからかいをするものだ。人が悪いにも程がある。

 相手の性別関係なく、この人が場を乱そうとすれば、赤子の手を捻るようなものなのだろう。

 ううっ、想像すると恐ろしい限りだ。この人が味方で本当に良かった。

 ほっと息をついて、床の上で正座を組み直す。


「それなら初対面の時にもその態度で良かったじゃありませんか。ディアさんの第一印象怖かったんですからね」

「ごめんねぇ。最初にああやっておかないと舐められるからぁ」

「舐められるって……あなた意外とプライド高いですねえ」

「あぁん、違ぁう、違うよぉ此岸くぅん。ボクが問題視しているのはぁ、相手がボクの言葉を軽く見て、危険な行動を取る可能性ねぇ」


 カーディガンの裾に隠れた手が、豊かに膨らんだ胸筋の前をふわふわと彷徨った。

 過去の行動の発端が、子供じみた地位保持に見えて薄ら笑いを浮かべたのがバレたのか、ディアさんは愛らしく、しかし強かに弁明へと移行する。


「戦闘中の配置指示や撤退指示に、経験を積んでいないまま無意味な反抗されてもボク困っちゃうからぁ」

「あ、確かに。その視点はありませんでした」

「そうならない為にはああやって最初に怖がらせるのが一番効率良くってぇ」

「ああ……確かに……その視点はありませんでした……」


 初対面の時と同じく、折角過去の行動の動機を教えてくれているのに、それ以上にこの人を警戒せざるを得ない発言があるのは気のせいだろうか。

 ────いや、うん。

 気のせいだ。

 ディアさんはそんなこと言っていない。

 そう思わせてください。


 もう一度正座を崩して後ずさりしたくなるのを既のところで抑えた。

 ソファの肘置きに体重を預け、身を乗り出したままあざとく小首を傾げてみせる白い悪魔は、僕の反応に満足したらしい。肘置きを軸に頬杖をついて、寛ぐように足を組む。


「身構えないでぇ? ボクが今キミとしたいのはただのナイショ話だよぉ」

「分かりましたよ。それで、その『ナイショ話』って?」


 特に必要ない変な心構えが抜けない僕に、悪魔は小さな八重歯を覗かせた。


「そういえばボク、”キミ達”が父親について話しているのを見たことないなぁって思ってぇ」


 ディアさんの赤い目に映った僕の姿。言の葉には冷静な声色が僅かに混ざっている。

 僕の何かを推し量りたいのか、宝玉の目は離れる様子がない。前髪が揺れ、目尻は穏やかに下がってはいるものの、そこに親しみを見出すには彼はあまりに綺麗過ぎた。

 けれど、僕は即座に返答してしまう。


「父親? ……ああ、簡単ですよ。彼岸の母親であるあの女性よりも、どうでもいいだけです」


 軽々しく。忖度など露とも過らず。

 ただ空に浮かぶ雲の形を何かに例える幼子のように。

 僕は心の空洞を悪魔の目前に晒してみせた。

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