第二話 白の病と紫の追憶
屋敷の中は涼しく薄暗い。
土足のまま入っていくディアさんに手を引かれ、僕も辺りを見渡しながらドアを潜った。
廊下の壁に取り付けられたランプが、ぼうっと小さな光で僕らを照らす。
「ラモールぅ? ボクだよぉ。お薬ちょぉだぁい」
ディアさんの声が壁にぶつかって反響するけれど、返事は無かった。
少し厚みのあるカーペットをなぞるように、ひんやりと冷たい空気が僕らを包む。
「ラモールぅ? ……寝てるのぉ……?」
「どうします? 僕達、日を改めた方がいいんじゃ……」
「えぇ〜? 目のお薬ぃ〜……」
残念そうに眉を下げるディアさん。
その時、僕の背後にあるドアが────音を立てて閉まった。
「え!?」
「わぁ〜」
慌てふためく僕の横で、ディアさんは瞳を輝かせて、手を上空に上げる。
「ラモールぅ! ボクここ! ココだよぉ!」
「……五月蝿いぞ。ディア」
コツ……コツ……。
反響した低い声と、凛々しさすら感じる堂々とした靴音。
廊下の奥からこっちへ近づいてくる。
「まったく……私は暇ではないのだぞ」
そう言いながら姿を現した長身の男性は、その体を覆い隠す紫色のマントをひらりとなびかせながら僕らの前で足を止めた。
細いつり目に濃い隈。
通った鼻筋に薄い唇。
そしてエルフのような長く尖った耳。
飾り気のないシンプルなマントの中からは落ち着いた色のベストと紫色の丸い宝石の装飾が施されたループタイ。すらりと長い黒色のスラックスと同色の革靴が見えた。
ゴツゴツと骨張った手には杖が握られ、背筋を伸ばして立っている。
髭は無いけれどとてもカッコイイ、少し渋みのある男性だ。
「ん? なんだそれは。私へのモルモットか?」
「ち、ちち違いますよ!?」
前言撤回。
とても怖い男性だ。
「なんだ。違うのか」
少し落胆したような声でそう呟くエルフ耳。
「ふふっ。もう、怖がらせないのぉ。ごめんね人間くぅん、この子は死神のラモール。
ねぇねぇラモールぅ、人間くん可愛いから連れて来ちゃったぁ。羨ましいでしょぉ?」
「人間? それにしては変わった気配がするな」
「あの、ディアさん? 僕の聞き間違いじゃなければ死神って聞こえたんですけれどあの……」
「へ? うん。この子死神だよぉ?」
終わった。僕の人生。
そんな心境を悟ったのか、血の気が引いた僕の顔と首を傾げる長身の男性を見てディアさんは眉を下げて笑った後、手短に本題に入った。
「ボクの右目の治療、今週まだだったでしょぉ? なんかズキズキしてきちゃってぇ」
「僕は付き添い……でいいんでしょうか」
「いいよいいよぉ」
「ふむ……」
僕とディアさんの会話にナイフのような視線を刺してくるその人は、顎に少し触れた手を瞬時に離し、目を細めた。
「分かった、診てやる。場所を変えよう」
そう言ってラモールさんはまたマントを翻して廊下の奥へ歩く。
ディアさんと繋いだ手を少し引かれ、僕は二人の後ろ姿を追いかけた。
◇◆◇
「また無理をしたな。ディア」
「えへ、ごめんなさぁい」
案内された部屋は、診察室の様だった。何かしらの病気について調べた情報が書かれているであろうファイルが本棚を占拠し、少し液体の入ったフラスコ、オフィスなどに置いてありそうな作業机の上には複数のカルテと筆記用具が置いてある。
妙に緊張感を煽る清潔感に、僕はというと無意識に背筋が伸びてしまっていた。
骨張った大きな手が、ディアさんの片目を隠すハート型の眼帯に触れる。
気の置けない相手なのだろう。子猫のようにその手に擦り寄るディアさんの目は、僕と話していた時よりも幼い。
というか二人の距離! 近っ!!
見ているこっちが恥ずかしくなってしまうのがなんか悔しいな……!
「おい、貴様」
「え? ぼ、僕ですか?」
その様子を少し離れた椅子に腰掛けて眺めていた僕は、突然投げかけられた言葉に肩を上げた。
ラモールさんの一つに縛ったロングヘアと長く美しい目尻に、同性なのに少し色気を感じてしまう。
「貴様は少し、この部屋を出た方がいい」
「どうして……ですか?」
「あ、そっか! ごっごめんね人間くん、ボクのこっち側の目はねぇ、人間くんにはちょっと刺激が強いんだぁ」
「そうなんですか?」
刺激が強い?
どういう意味だろう……?
不思議に思いながらも腰を上げ、部屋のドアに向かうと、後ろから低い声が響いた。
「あ、待て。私の屋敷の中で迷子になられてしまっては面倒だ。貴様を部屋の外に出すのはやめておくか」
ラモールさんはそう言って、もうひとつの椅子を出してくる。
僕が座っていた椅子よりもクッションが厚く立派なそれは、ディアさんとまた少し離れた場所に設置された。
「それもそうだねぇ。人間くぅん、その椅子に座ってぇ」
「あ、はい」
ディアさんにも促され、僕は新しく出された一人用の椅子に腰を下ろした。
見た目より柔らかい座り心地に少々驚いたが、ふかふかした弾力がなんだか安心する。
途端、一枚の大きな布が僕が座った場所とディアさん達がいる場所を区切っていく。
「まあそれでも、ディアの瞳を見せるわけにはいかないがな」
しゃらり。
音を立てて布で分けられた空間に、僕の言葉を待たずまたラモールさんは口を開いた。
「そこで待っているだけでは暇だろう。私は今、手が塞がっているが、口は暇だ。話し相手くらいにはなれる」
「え?」
「ディアの診察には少しばかり時間がかかるからな。貴様がここに居るという確認も兼ね、言葉を交わそうと言っているのだ。貴様が迷惑でないのならば、構わないだろうか?」
「は、はい!」
うわあ……なんだろうこの感じ……。
低く心地良い声が深い紫色の布の向こう側から聞こえて、少しドキドキする。
というかこの人の声かっこいい!
「話題は貴様が決めて良い──こらディア。眼帯を外すのに抵抗しないでくれ」
「やぁん。ふふふっ……ラモールを困らせるのは楽しいねぇ」
……かっこいい声だけれどディアさんのせいで今完全にお父さんっぽいなラモールさん。
しかし、ゆっくりこの場所の情報を聞けそうな雰囲気だ。今の僕にとってこれ以上望ましい状況は無いのかもしれない。
今のうちに色々聞いておこう。
「話題……というか質問になるんですけれど、あの黒い化け物が居るこの場所にいらっしゃるという事は、ラモールさんもディアさんも戦えるという認識で良いのでしょうか」
「愚問だねぇ人間くぅん。ここにはそれなりの戦力が無いと住む事が許されない危険区域。キミを除いてここに居る全員が、戦いに関しては平均を優に超える実力者だよぉ」
「へぇ……お二人はどんな武器を?」
ファルさんがあの大きい刃を持っていたように、二人にも立派な武器があるんだろうな。
「ボクの武器は弓矢ぁ。敵から距離取りながら攻撃出来るから楽なんだよねぇ」
「弓矢! かっこいいです! ラモールさんは?」
「私は……武器と言っていいのか分からないのだが、死神しか使えない魔法を利用している」
「魔法……! どんなですか!?」
「え、ああ……そうだな……」
ファンタジーな響きに興味津々。
僕のワクワク感が声で伝わったのか、紫色の布の向こう側で少し困ったような息を吐いたのが聞こえた。
「こんな感じだ」
「うわっ」
突如目の前に現れる透明な長方形の板。僕の座高程の大きさがある空中に浮いたそれに最初は驚いたが……。
「え、これだけ?」
その後のアクションは全く無かった。
「……そういう反応されるからイヤだったのに」
「ふふ……っ! あっははは!」
不服そうに、不貞腐れたラモールさんの声に、堪えきれなかったのかご機嫌な爆笑が覆い被さる。
男性が小さく呟いた「笑わないでくれ」という言葉も容赦なく遮り、すごく楽しそうだ。
「あ。す、すみません」
「謝らなくていい。私の使う魔法はかなりシンプルなものだからな。地味に見えても仕方ないだろう」
「んっふふ……、人間くん、その、ガラスみたいな結界に触れてみて……っ」
「結界……?」
まだ笑いに震える白の指示通りぺたぺたと物体を触ってみるけれど、特に変化は無い。
本当にガラスみたいだ。……だが、脆い訳ではないらしい。軽いノックから結構強めのパンチまでやってみても結果は同じ、変化が無かった。
……逆に興味深い。
「貴様の力で壊せそうか?」
「あ、僕も今そう思って叩いたりしてるんですけれど……おそらく、無理でしょうね。すごく硬くて頑丈、僕には壊せそうにないです」
「そう! その頑丈さそのものがこの子の能力だよぉ」
やっと笑いが収まった可愛らしい声に、心地よい低音が続く。
「死神と聞いて浮かぶイメージはおよそ察しがつくが、私がやっていた仕事は主に霊道への案内だ」
「霊道?」
「何だ、知らないのか。その名の通り霊が使う道だ。
死神の仕事は地上で彷徨う魂達を天界に送る事。中でも霊道への誘導を担当するのは必然的に霊道の近くに居る事が多くてな。故にこの仕事に割り振られるのは、霊道を阻もうとする者、または霊道内で問題を起こす者を取り押さえられるよう、強靭な結界を張れる死神が多い」
「その中でも群を抜いてこの子の結界は硬くてねぇ。それにラモール自身の身体能力も高いから戦力になるって理由で、ここに住む事を許されてるんだぁ」
ぺちぺちと軽く結界を叩きながらラモールさんの身体を思い返してみると、確かに細身ではあるけれど筋肉はしっかりついていたように思える。身長も高く、一般的には大男の部類に入るのかもしれない。
「霊道への案内を担当、と言っていましたが、死神のお仕事ってそれ以外にもあるんですか?」
「人間のイメージ通り人間の魂を狩るのが仕事の死神も居るぞ。生きている人間に害をなす悪霊となった魂を退治し、それを王に献上するんだ。
霊道に入れなかった魂もこの仕事をしている死神達に案内される事が多い」
「わあ……すごく強い人達なんですねきっと」
「強いぞ。私なんてまだまだだ」
相手の声のトーンがふっと軽くなった。笑っているのだろうか。表情は見えないが、優しそうなその音声に不思議と心が解れた。
「ゔ……ラモールぅ。そこちょっと擽ったぁい」
「ああ、そうだった。すまないな、すぐに終わらせるから少し我慢してくれ」
「はぁ〜い……」
布の向こう側からの小さな会話、ディアさんの身をよじる衣擦れの音が微かに聞こえて、二人の自然なやり取りに仲の良さが垣間見えた。
片方が児童のような姿というのもあり、微笑ましく思えてしまっている自分が居る。
ラモールさんの集中力が他の場所に向いたのがきっかけなのか、僕の目の前にあった結界が砕けてキラキラと粒子のように消えた。
身なりの綺麗なラモールさんの魔法は消え方まで綺麗だ。
「えっと……じゃあ、ディアさんの目って、何か病気にかかっているんですか?」
これも話題というよりは質問だけれど、自分の身の回りの人のことくらいは把握しておきたい。
嘘です話題なんて緊張で全然思いつきませんどうしよう……! 見切り発車で会話するものじゃないな……。
「ボクの目ぇ? ラモールぅ。ボクの目って病気なのぉ?」
「ふむ。ある意味病気だな」
「そうなのぉ?」
「どんな病気ですか?」
「まず一つは、定期的な痛みだ。ディアは週に一度ここに来ているから、その頻度で痛みがあるんだろう」
「うん。ズキズキするぅ」
「そしてもう一つ。これがかなり厄介でな、私も手を焼いている」
「え、なんですか? それって……」
「……ディアには………………」
僕の問いに、ラモールさんは数秒、言葉に間をおいた。
「いや、やめておこう」
そして拒否された。
「ええ〜っ!? そこで止められたらすごく気になります!」
「だが私は答えないぞ。さあ、次の話題を出してもらおう」
「残念だったねぇ人間くぅん」
「う〜〜……」
次の話題……次の話題……。
何か話せるようなもの僕知ってたっけ?
ええと……えぇっとぉ……!
あ。
「あの、ラモールさん」
「なんだ?」
「ファルさんとはお知り合いですか?」
「ああ、あの黒翼がどうかしたのか?」
「その…………」
「ファルさんの翼は、どうして黒いんですか?」
◇◆◇
「えっと、ちょっとだけ気になってしまって……。エンマさんはファルさんとの電話で、ファルさんを『黒天使』と呼んでいました。天使なのに、元々黒だったんでしょうか? それとも何か、きっかけがあったんでしょうか?」
「ふむ……」
薄い布の向こう側で、少しだけ息をつく音が聞こえた。
「話していいんだろうか……」
「ん〜……多分ファルに直接聞いても話さないだろうしぃ。ボク、ファルの地雷踏まないように、知ってて損はないと思うなぁ〜」
「お、怒られたく、ないんだが……」
「内緒にします! ラモールさんから聞いたことは内緒にしますから! そんなに声を震わせないでください!!」
さっきまでのかっこよくて堂々とした声どこ行ったんですか!?
ここからじゃ表情も何一つ見えないのがなんか惜しい気がしちゃうじゃないですか!
「ふふっ。可愛いねぇラモールぅ」
「からかうな」
「からかってないよぉ? 本心本心〜」
クスクスと小さな笑い声。
ラモールさんはそれを誤魔化すように咳払いをしてから、僕に話してくれた。
「ファルの翼は、元は白だった」
どこか昔を懐かしむようにその声は穏やかで。
「人間達が、黒に染めたのだ」
しかし、悲しさも含まれていた。
◇◆◇
時は半年程前に遡る。
私は、「数日後に天使が転生する」という話を聞いた。
正直、デマだと思った。
死者の転生はよく聞く話だが、天使が転生するのは極わずか。
その時はあまり信じられなかった。
天使は悪魔にこそ強いが、人間にはとても弱いからだ。
この天界に住んでいる私達は、細胞分裂ではなく経験や知識の多さによって成長する魂だけの存在。
その中でも天使は人間の感情に大きく左右される。
それも物理的に。
人間の悪意に触れれば翼は黒く変色し、そして人間の殺意に触れれば……。
天使の肉体は腐敗し消滅する。
そんな存在を敵だらけの場所へ送り込むというのだ。不安じゃないはずがない。
私は噂が本当かを確かめるために、転生する天使を遠くからこの目で見て、驚愕した。
見た目年齢七歳程のまだ幼い、美しい子供だったからだ。
目は真珠のように気品のある輝きを放ち、黒い髪は水のように滑らかで、笑い声は小さな鈴のように可憐だった。
名はファルシュター。
知り合いから話を聞けば、ファルは前から地上に興味があり、地上について書かれたいろんな本を読み漁るのが常。
そんな知識だけの地上から、もうすぐ経験に変わる。そう言った嬉しそうな笑顔は、希望に満ち満ちていたという。
そして、無事に転生の輪をくぐり、その選ばれた小さな天使は天界から姿を消した。
——だが、問題はここからだった。
天使の転生から一ヶ月が経とうとしていた時、母体となるはずだった女の肉体が死に、魂がここ、天界に来たという連絡が入ったのだ。
しかもその女の傍にあの天使は居なかったという。
エンマ様はすぐに天使の事を訊ねたらしいのだが、女は自分が妊娠した事にすら気が付いていなかったらしく、情報は無に等しかった。
ぽっかりと空いた情報の穴。
他の天使からも転生した天使への心配の声が上がった。
そこで動いたのが、私を含む死神部隊。
迷える魂達を天界に導く為に度々地上に降り立つ私達に、王から一人の天使の写真とかき集めた一部の情報が手渡され、捜索が依頼された。
地上に降りた私達はまず最初に女が住んでいた地域を探したのだが、都心だと思われるその場所には常に人がごった返しており、捜索は困難を極めていく。
天使の最大の特徴である白い翼も私達の視界に入ることなく、刻一刻と時は過ぎた。
何処を探せばいいか分からなくなってきた頃、同僚が放った言葉が更に私を追い詰める事になる。
「この街……人間達の騙そうとする悪意や、何かを奪おうとしている悪意が非常に濃い」
分析するような冷たい声。
しかしその一言に嫌な予感と嫌な汗が一気に噴き出したのをよく覚えている。
きっと同僚も、私と同じ予感があったのと同時に、天使のタイムリミットがあと僅かなのに気づいたのだろう。
そこからはこの依頼を担当する死神全員で探し回った。
地上に降り立った小さな天使が、人間の殺意によって腐敗して消滅するという、最悪の終焉を迎える前に見つけ出す為に。
ある者は睡眠を削り。
ある者は休暇を削り。
そしてある者は権力のある悪魔に協力を依頼し、裏切りをしないよう圧力をかけて、下級悪魔も交えて捜索したことすらあった。
捜索を依頼されて一週間経った頃だっただろうか。
第一発見者は、私だった。
◇◆◇
吐き気がした。
目眩がした。
頭痛がした。
息が詰まった。
だがもう、そんなことどうだって良かった。
高く積み上がったビルの裏側。
日の光に隠れるようにそれは居た。
整っていた黒い髪はぐちゃぐちゃに絡まり、着ている白い服もボロボロ。身体は母体と離れた一週間のうちに大人に成長し、赤黒い目が私を睨んだ。
そして、眩い程白く美しい翼は、
全て真っ黒に染まり、左の翼の先が腐っていた。
否。寧ろ腐敗しているのが一部だった事を喜ぶべきだろうか。
腐蝕した臭いで思わず酷く咳き込んだ私に、天使は手を差し伸べようとして、やめてしまう。
ああ、良かった。
まだ心は、天使のままだ。
この天使の行動への、私の安堵は計り知れない。
迎えに来た。帰ろう。
咳が収まってから私は気を取り直してそう言った。
だが。
天使は私の手を取らなかった。
黒い翼は私から距離を取るようにふらふらと覚束無い足で後ずさる。
手は頭を抱え、瞳からは次から次へと雨が流れ、なんで今なんだ、なんで今なんだ、と。そう呟いていた気がする。
何だ、何を言っている?
どうしてこの天使は、こんなに怯えたような表情で下を向いている?
迎えが来た事を喜んでいないのか?
もう天使を身篭るはずの女には肉体が無い。
母体が無ければ誕生なんて星の彼方だというのに。
天界に居る皆も安否を心配しているというのに。
帰りたくないのか?
どうして。
黒に染まった色の、予想に反した行動。
疑問が脳内に積み上がったが、その疑問は黒の言葉に打ち砕かれた。
「──消えたい…………っ!」
「…………っ!!」
ああ、そうか。
発見したことを喜ぶ権利なんて、私達には無いのか。
情報の無さを言い訳にしたくはない。とても、とても迎えが遅くなってしまったことは確かなのだから。
黒に染まった天使。
この子の嘆きが私に直接牙を剥く。
言っていることは子供のような言葉なのに、どうしてここまで心に重く響くのか。
どうしてここまで、痛いのか。
涙が天使の成長した頬を伝う。
耳を塞ぎ、大人の身体に似合わず泣きじゃくる天使に、私はかける言葉なんて持ち合わせてはいなかった。
翼の黒化は、人間の悪意によって起こる。
身体の急激成長は、実年齢と経験の差が一定量を超えると起こる。
つまり、この哀れな天使は知りすぎたのだ。
触れすぎたのだ。
小さな肉体を持った人間としてでなく、ただ人間をより良くしたかった天使として。
ただこの世界に興味を持った天使として。
なんて脆く……美しいんだろう。
弱すぎる純粋な雨の心を、無言で腕の中に閉じ込める。
細く柔らかい身体がしなってしまう程に強く抱きしめて、私はやっと言葉を紡いだ。
もう大丈夫、とか。
無事で良かった、とか。
そんな言葉は私の頭に浮かばなかった。
ただ「消えないでくれ」と。
懇願にも、ただの我儘にも似た、しかし、心を込めた囁きが自然と口から零れる。
耳元で一瞬息を呑む音が聞こえたが、それも一瞬だけの事。すぐに天使の目は水分にとろけ、ボロボロと私の肩を濡らしてくれた。
◇◆◇
「そこからは天界に帰り、治療と左翼の腐敗が広がらないよう一部を切断。機械を取り付け、服も髪も整えられた。だが、目的がある、と。ここで戦いたい、と言ってきた」
「その目的って……?」
「そこまではわからない。訊いたが教えてくれなくてな」
「そう……ですか……」
ファルさんの過去。
地上に降りた後何があったのか、まだ謎が残る話だったな。……でも、それはラモールさんも知らなそう。
あの翼の機械も、腐った部分の代わりだったんだ。
初対面であんなにじろじろ見たら、そりゃあ嫌そうな顔するよな……。
すごく失礼なことしちゃった。
後で謝ろう。
「あれ? じゃあ今僕らが居るここは、天国と地獄のどっちなんですか?」
「ん? ……ああ、どちらとも言えない。それらの場所は、貴様らの言う街や集落と似たようなものだ」
「敷地自体はぁ、天国も地獄もぜぇ〜んぶひっくるめて天界。土地的には天国より地獄の方が膨大だよぉ」
「私達が今居るここは、天国の周りを囲む森の中だ」
「まぁ周りって言ってもぉ、ボクらがいる所から天国の距離なんてニ百キロメートルは優に超えるねぇ〜……」と、クスクス笑いながら、可愛らしい声は遠回しに僕の「逃げる」という選択肢を踏み潰した。
まあ、たとえ逃げたところでグロルというあのモンスターに食べられるだけだったのだから、最初からその選択肢は無いに等しいかもしれないけれど。
「あの……ファルさんが持っている分解された大きな鋏は、何か意味があるんでしょうか?」
「ああ。ディアの『アルゴル』と同じように、あの黒翼にも能力名があってな」
ラモールさんは少しだけ怠そうな声色で、布の向こう側に居る僕へこう語った。
普段扇のように開く、閉じるしか出来ない鋏。だが動きを制限する要が取れた鋏は、ただの長い刃物へと化ける。
拘束が解けたその刃物は順応無尽に暴れ回る凶器に成り果てる。
ただの天使から黒翼に変わった黒天使にはぴったりの武器だろう?
——あの天使の能力名は「縁切り」。
誕生すら出来なかった、奇跡のなりそこない。
持ち主の高い身長に見合った二つの刃がグロルを切り刻み、獲物は塵へ還る。
奴は目的を果たすまで、あの武器を振るい続けるだろうな。と。
「今日はよく喋るねぇ。ラモールぅ」
「む……少々喋りすぎてしまっただろうか」
「お客さんが来て嬉しいんだねぇ」
「……否定は出来ないな」
あんな暗い話をしていたとは思えない程ほのぼのとした会話が聞こえてきたその時。
耳を直接押されるような大きな破壊音が外から鳴り響いた。
「わっ!?」
「何事だ」
「わぁ〜」
しゃらり。さっきまで僕の居た空間とラモールさんやディアさんが居た空間を区切っていた布が音を立てて取り払われ、ラモールさんが急いで部屋の外に出る。
「ラモールったら肩が跳ねるくらい驚かなくてもいいのにぃ」
「え、そんな反応するんですか、ちょっと可愛いですね」
そんな会話をしながら、ラモールさんにちょっと親近感が湧いた僕と、治療を終えて僕に見せないように眼帯を付け終えたディアさんが後を追いかけていると、廊下の窓からさっきの騒音の犯人が確認できた。
でろりと半固体状のどす黒いものがこの建物の周りを這いずっている。
無数の目が好き勝手に動き、複数の口が意味も無く開いたり閉じたりしていた。
よく見ると、赤ん坊のような小さな手が何個も宙を掻いていて、そして……。
「……大き過ぎませんか」
高さはニメートルを超えていた。
「そぉかなぁ? 小柄な方だと思うよぉ」
「兎に角、荒らされる前におびき寄せて止めるぞ。それと人間、貴様は出ないでくれ。危険すぎる」
「は、はい」
顔色も変えず颯爽と化け物の前に駆ける二人。
僕は言われた通り建物から出ずに、様子を見た。
あれが……ファルさんの言っていた……。そして最初に僕を追いかけていた、『グロル』ってやつかな……。
「さてと……すまないな。ここから先は立ち入り禁止だ」
ラモールさんが手に持っていた杖で地面を突くと、化け物の前方をピンと張った幕のように薄い結界が塞いだ。
その結界はやはり硬く、化け物が強い力で破ろうとしてもびくともしない。方向転換しようと後ろに下がる敵の目に、今度は別の場所から一つの矢が刺さる。
化け物は悲鳴をあげ、どろりと藻掻いて地団駄を踏んだ。
「あっはぁ……! やっぱこの瞬間、好きぃ〜……!」
その矢を刺した張本人は恍惚とその様子を見つめている。
今まで指先まで隠していたカーディガンの裾をまくり上げて現れた細い腕。そこには手の甲から肘まで緑色の布が巻きついていて、手にはさっきの矢が放たれたと思われる弓を握っていた。
あれ、ディアさんさっきまで弓なんて持っていなかったような。一体どこから……。
雄叫びを轟かせ暴れ回る半固体状のそれは、僕が居るこの屋敷の敷地内に入って来る。
毒が含まれているのか綺麗に手入れされていた芝生は触れた部分から枯れ、木も黒く腐敗した。
「あれぇ? 残念。コアには命中していないみたいだねぇ」
「下がれ、ディア」
更にもう一本矢を空中から作り出して構えたディアさんを、ラモールさんが止めた。
敵を見ると、矢を刺されたことで攻撃の標的をラモールさんからディアさんに変え、距離を詰めている。
「やばぁ」
「顔がにやけているぞ」
「ふふっ。追いかけっこも好きぃ」
「全く……」
こ、この人達には恐怖心が無いのか……!?
僕もう心臓が飛び出そう……!!
ストレートの長髪がもう一度杖で地面を突くと、傷一つ無い革靴を紫色の美しい結界が包んだ。履いている革靴より少し踵の高い形を足に纏わせるラモールさんの姿には、何故か少しも違和感を覚えない。
それどころか、高貴さまで感じる。
そんな煌びやかに光を反射する武器を身につけたラモールさんが次の瞬間敵の方に駆ける。
驚異のジャンプ力で敵の頭上を取り、空中で体を前転させ長い足を伸ばし、その足が相手に勢い良く衝突した。
要するに、というか。分かりやすく言ってしまうと……その硬そうな結界の靴で、思いっきりかかと落としをしたのである。
黒い半固体が裂ける。切れ込みを上から下までしっかりと入れ、ラモールさんは綺麗に着地した。
その切れ込みの先にハンドボール程の大きさの歪な形の赤い物体がある。恐らくあれが、先程ディアさんが言っていた「コア」というものだろう。
「ディア」
「はぁい。ボクの為に加減してくれてありがとうねぇ」
とりあえず敵から距離をとる二人。
ラモールさんは指揮者のようにリズミカルに杖を振り更に行く手を遮るように結界を張る間、ディアさんが再び弓を絞る。
その時だった。
「ギャーギャーうるせーんだよ」
邪魔だと言わんばかりに結界に体当たりする敵の背後から声がした。
『玲瓏天風』
途端、聞き覚えのある声と同時に急に巻き起こった強い風に、僕は思わず目を閉じた。
植物のざわめきが収まって瞼を上げると、僕は目の前の光景に目を見開く事になる。
さっきの敵が、跡形もなく塵に還されていた。
しかし。
僕が驚いたのはそこではなかった。
黒い翼。
その切断部分を包む白い包帯。
黒髪に紛れる赤のメッシュ。
あまりにも綺麗な武器構え。
下着姿で。
下、着、姿、で!
しかも黒のブラとショーツで!
「え……ファルさんって……お、女の子だったんですか……!?」
「へ? うん、そうだよぉ?」
「縁切り。まだ性別を明かしていなかったのか?」
「あー? 性別なんざどっちだっていいだろーがめんどくせー」
「どっちでも良くない。あと服を着てくれ、縁切り」
「うるせーな。だぁれがエリンギだ!」
「誰も地上のキノコの話はしていないぞ。服を……ああもう、風邪をひいてしまう。こっちに来てくれないか」
思わず建物の外に出てファルさんに駆け寄る僕と、平和なやり取りをしている三人。
ラモールさんの長いマントを頭から被せられた黒翼がふるふると首を振って、裾からあどけない顔を出して無邪気に笑っているのが見えた。
あ……空いた口が塞がらない……。
え? じゃあ僕はこれまで、咄嗟に女の子に命乞いをして、お姫様抱っこされて、怒鳴り声に怖気付いて半泣きして……。
うーわ。情けないな、僕。
相手が女の子なら尚更情けないな、僕。
「どうしたの人間くぅん。そんなぽけーっとしちゃってぇ。あ、もしかしてぇ、ファルに見蕩れちゃったぁ?」
「そういう理由なら微笑ましいんですけどね……。過去の自分が頼りなさすぎて自己嫌悪に陥ってました……」
「今更だろ」
「今更だな」
「ボ、ボク、そのくらいの方が可愛げがあって大好きだよぉ?」
「止めてくださいディアさん……優しさが傷口に沁みます……」
「えぇ!? 怪我してるのぉ!?」
ディアさんのフォローに更に俯く僕と、腕を組みながら頷く仲良しなファルさんとラモールさん。
さっき倒されたグロルの塵が風に吹かれて足元をすり抜けるこの場所から、嫌になるくらい青く輝く空を見上げながら、僕は酷く他人事に思った。
……ああ、生前の僕。
せめて今の僕よりは、頼れる人であってください……。