工房後期
工房に戻って数日後、伐採した2本の丸太が到着した。工房内の加工室に運ばれ、木取り、焼き印が施された後に茹で上げて乾燥小屋に運ばれる。
「おぉアントニオ、君も呼ばれたのかい?」
振り向くと先達パオロさんが居て、手には羊皮紙を持っている。何の事か解らず何の事かと疑問を返すと、
「ジローラモさんが新しいデザインを模索しているからとの招集がこの紙なのだけれど、関係無いのかな?」
呼ばれなかった疑問は更に疑問を作る。
「工房を任されて新形状を作るのだとすれば、ニコロ氏の作風をよく知る君も呼ばれると思うんだけど。」
パオロさんは首を傾げ、真意の見えない招集を深掘りする様に思慮を巡らせる。
「私が加わるとしてもニコロさんの過去作品を追うことしかできませんから、役に立つのか判りませんよ。」
「ニコロ氏が選択しなかった形状も出てくるだろうね。あぁそれだとジローラモさんが、、、」
うーんうーんと唸る様に経験から予想できる事を羅列しているのであろうパオロさん。
「兄さーん。書庫に来てもらえないかな?」
突き当たりの部屋からマティアスさんが大声で呼ぶ。
「はぁ。弟に呼ばれれば仕方ないな。じゃあまた、アントニオ。」
そう言い残して書庫へとパオロさんは歩き出し、
残された私は乾燥途中にある裏板用の木材を手に入れて、いつもの個室へと向かう。
型紙はニコロさんを含む他の職人と考えたミドルアーチの為の試作型の枝番3。他の型紙よりも下腹部が1/12インチ程膨よかになっている。中央を貼り付けた木材に炭片で型紙を写し取ると鋸で慎重に切り出す。
中心を頂点に端にかけて徐々に薄くなる様削り掘る。今持てる知識と技術を駆使しても、ニコロ・アマティの音には届かない。柔らかく透明な音のするニコロ氏の作品と自作の模造作では弦を鳴らすと明らかな違いを感じる。主要な工程に差はなくても重要な何かを見逃しているのか、見た目以外で音に迫る何かを探し出さなくてはいけない。
数日かけて裏板を形にし、表板も乾き切る前の物を同じように削り掘る。スクロールや糸巻き、駒は工房でストックしているものを調整してニス塗りの前まで仕上げ弦を張る。
乾燥しきってしまう前の木材の影響は、反りや捩れ、場合によっては乾燥によるひび割れが出やすく、刃の入りも乾燥した物より悪い。利点は多少の力が入っても柔軟性で割れにくい事ぐらいだろうか。
「新鮮な木を使う事、これでは無いのか。」
ふと天井を見て、教えとは異なる中央からの削り方を思いつく。再び乾燥しきれていない木材を調達し、膠で貼り合わせる部分を天井の梁に見立てて両側を薄く削り掘る。
数日後には継接革から構想した複合材もありえるかと、木理の異なる板を繋いで4木片で1枚の表板に仕上げてみたりと、ニコロさんからは習っていない方法を試しニス仕上げをしていない楽器がまたひとつ、と増えてゆく。
どの方法を用いた楽器も教えに従い作った音とは何かが異なる。自身の楽器形状を確立したニコロ・アマティと言う先達の、形状はどれだけ近く似ても音の類似という秘密は簡単ではない。
ニスや膠は工房内の同じ物を使っている事から音には関係しない。では表板や裏板をより薄く削る事にすればと考えるものの、側板を取り付けるまでに柔らかすぎて型崩れを起こし、その後にあるクランプの固定でも割れる恐れがある。
「あぁ、何が違うのだろう。」
それこそ測定しない位置の削る量とグラデーションの付け方以外には無いと考える理由なのに。
薄くても硬く強度を持たせる。これはどの様に適えるのか。これまでの工房での教えの中から丁寧に他の職人の作業を覗き見て比較する。
表板の裏側を丸ノミで木片を量産する者、予備で置いてあるカンナの刃を使い削ぐ様に仕上げる者、仕上がり具合を計測器具で測る者、キリで孔を開けf字孔の加工をする者。
工房内におけるいつもの風景であり、それぞれの担当を熟し次の工程へと木板を送る。
別の区切では有望と言われるスナイダーさんが作業していた。
他の職人が仕上げた裏板に細かな装飾を彫り仕上げている。持ち上げられた板の内側に木の色とは異なる何かが一瞬見えた。
「今の仕上げ方法は誰の技術ですか?」
スナイダーさんの手が止まり、そっと視線を上げて一つ息を吐く。
「邪魔しないでよ。僕は大事な個所を仕上げているんだ。君を理解出来ないね。」
そう告げると返事も聞かず再び作業を始める。
邪魔にならない距離から作業を眺める事2時間程。シュナイダーさんは装飾作業が終わり伸びを一つすると、
「それで僕に何の話ですか。手短にお願いします。」
「今さっきの仕上げで裏板に何かを貼っていませんか?教えて貰えるとすれば誰の技術ですか?」
「知らないの?表板に貼る力木はつけたままですが、歪みを抑えるだけであれば木である必要はありません。糊と羊皮紙なら水で剥がせますから。そして誰の技術と聞かれても答えようがないですよ。」
更に聞けばシュナイダーさんの親は楽器の修理職人であると知る。
「聞きたいのはこれだけですか?僕も用事があり考える事もあるので失礼しますよ。」
彼からもう少し技術を深く知りたいと思ったものの、材料を集めて自室に戻ると羊皮紙をナイフで切り揃えて翌日に備えた。
翌朝、太陽が山向こうに存在を示す薄っすらと暗い時刻。貯めてある雨水を琺瑯の銅小鍋に汲み取り、一度沸騰させた後目分量の膠を漬けて半日程ふやかす。その間に別の鍋に水を汲み取ってかまどに持ち込み、部屋に戻っては試験的に作った白木の楽器の表板、その表板に取り付けていたバスバーを外してかまどには薪を焚べる。と、準備する事は多い。
朝早くとは言え工房の内を移動して周れば職人にも出会う。
「誰かと思えばアントニオさん、陽に早くから何かしているなんて珍しくないですか?」
薪の確認を行なっていたリオーネさんが声を掛けてくれた。
「作り方で気になる事が多過ぎてね。試したい事は人の少ないうちに行うべきかなって思ったんだよ。」
かまど側の長机には使い込んだ綿布と温かい膠をふやかした琺瑯の銅小鍋、琺瑯の膠液入れと細い鹿毛の筆が並んでいる。
かまどに適量の木屑と薪を組み火種を移す。火が安定しだせば両手鍋をかまどに据えた。
時折り薪がかまどの中で小さく爆ぜる。火は何も語らないが赤々と力強く燃える。
両手鍋に銅小鍋を浮かべ、ゆっくりと膠を溶かす。誰かが部屋の扉が開ける音がした。
「アントニオさん、糊が余れば譲ってくれないかい?」
マルコが栗材と思われる指板を持って現れる。
膠は確実に余る量なので同意を伝えると、
「直ぐに準備するよ。ありがとう。」
と、作業机に指板を置いて部屋を飛び出ていくと必要な物一式を収めた箱を持って直ぐに戻ってきた。
琺瑯の膠液入れを隣に並べ、指板は温まったかまどの端で温めている。作業机に7つある固定具を使える状態に並べるところから余念が無い。
「それでアントニオ、君は何を貼り合わせるんだい?」
卓上に固定具が無い事を見ての質問だろう。
「シュナイダーさんの仕事を見て、ちょっとした当て布を貼ってみようかなと。」
「えっ、シュナイダーって今言ったよな?あいつが他人に教えるなんて想像つかないんだけど。」
「話すととっつき難い感じを受けるけれど、じっと見ていると丁寧な仕事をしているよ。」
「いやいや普通は仕事中じっと見ないから。何しているんだよ。」
談笑をしながら片手鍋を両手鍋のお湯に浮かべて湯煎を始める。
「シュナイダーはさ、慎重なんだろうけれど過程がちょっと過ぎるんだよなぁ。音にすればあんまり変わらないのに。」
「変わらなくはないさ。巨匠氏を超える評価の楽器を作りたいのは誰もが思うところだろう?」
「アントニオ、君は意外にも野心家だったのか?」
「野心ではないさ。この工房に居る限りはニコロ・アマティの楽器が最高評価である限り目指す到達点として充分な理由じゃないか。」
少しの間が空いて、
「俺ですらどれだけ材木に向き合っても自身の楽器の音なんか同じになった事は無いんだ。それでもと、ニコロさんの音を目標にする作者は俺からすれば距離感がある様に思うな。」
先程よりも冷めた声で言い放たれた気がして不意に顔をマルコへと向けた。
「誤解しないでくれよ?ニコロさんの楽器ですら一つとして同じ音は無いのに、それを目指すと力説するもんだからさ見た目だけでは納得、、、してないよなぁ。そろそろ膠も良いんじゃないかい?」
軽く片手鍋の中はをかき混ぜても小さくも溶け残っている塊がまだ見える。
「膠は後少しかかりそうだ。先程の言葉で気がついたけれどマルコさんは誤解している。ニコロさんの楽器は『もの悲しげ』な暗い音を秘めている。私の楽器がどれだけ見た目が似ていようが並べて弾くと音では幼さを感じる。その音に未だ知らない何かを求めてしまうんだ。」
グツグツと沸るお湯から片手鍋を下ろし、マルコの膠液入れに布で漉しながら熱々の液を流す。
続いて自分が使う膠液入れにも同様にする。
「熱弁もそこそこにして、糊が冷めないうちに。」
平筆で羊皮紙に液を塗り、表板に貼る。窓枠の様に等間隔に貼る。3枚の表板に羊皮紙
の間隔距離を変えて貼り終えると沸いていたお湯を汲んで用具に付いた糊を溶かし落とす。
濾し布をお湯で洗う頃にマルコは用具を洗いに来た。
「アントニオの膠は濃いめだね。」
「直ぐに剥がれる様な液じゃ駄目だろう。」
たっぷりあったお湯も使い切り、空の膠液入れと筆、濾し布を定位置で乾かす。
マルコが作業した指板は水で湿らせた麻紐がしっかりと締まり、部屋の中空に張った吊るし紐にスクロールを引っ掛けて完成を夢見る状態だ。私のと言えば羊皮紙を纏った表板は怪しげな儀式にでも使われる仮面の様にも見える。工房の指導とは異なる品なので自室へと運び、その後日常となった製作に励む。
その日の夕方、自室に二人の来客があった。
一人はマルコ、もう一人は予想外にもシュナイダーである。
「アントニオには突然だったが、シュナイダーと少し話すと訪問になってしまった。」
と、髪の毛を掻くマルコ。
「ふーん、表側に貼ったんだ。表板に
触らせて貰っても良いかい?」
「まだ羊皮紙が湿気っているから違いはないはずだと思うよ。」
じっくりとシュナイダーは表板の裏側も観察する。
「この表板の製作者は工房の外の人のものですか?言葉にするのが難しいのですが工房的じゃない印象があります。」
「工房の外の作品だと意図的な分解はしないよ。この部屋にある物は私が作った物で、違和感は教えて貰った手順や形の取り方が違うからだろうね。」
「この、わざわざ4枚板で制作した理由は聞いても良いですか?」
「ニコロ・氏の音の秘密を探求する為。かな。」
「この製作数を見れば、どれも探求に届かなかった。と。」
「シュナイダー、言っちゃ悪いけど言い方があるだろ。」
「マルコさんも同じ楽器製作者であれば、この部屋の作品から目から鱗はあるのではないですか?新しい技法が目の前にあるんですよ?」
「唐突にだが俺の事は良いんだ。アマティ工房の伝統を守る悌徒だからな。新しい事は他の職人に任せるのが正解さ。」
「それならば、この部屋は革新の坩堝ですね。教えの無い物から倣おうとする僕は新たな伝統の開拓者になり得ると思うよ。」
「それが出来るなら苦労はねぇんだ。誰もがアンドレア・アマティの如く第一人者となる時代になっているさ。」
「それこそニコロさんの演説の、国内外各地で楽器が模造れ、どの製作者も最新で最高作であると演奏者に託している。じゃないのかい?」
「商人達が挙って求めるのは、クレモナに楽器有りと言っていた事があるぞ?遠い聖都プラハではアブサムのヤコブ・シュタイナーと名が上がっている様だ。」
「その名は誰から聞いた?」
「ジローラモさんだよ。楽器の収集も始めたついでの話でね。」
ふと、何かを思いついた様にシュナイダー。
「アントニオさん、シュタイナー形状を作るつもりは無いですか?忠実な模作なら私は所持したいのですが。」
「見た事の無い形状は私でも作れませんよ。せめて、模範となる作品が手元になければ良し悪しすらわかりません。」
「それじゃ工房長に頼むとしますか。まぁ、返事が無くても期待し過ぎから怒らないでくれよ?」
そう言い残してマルコは部屋を出ていくと、
「長居しました。私も部屋に戻ります。」
と、シュナイダーも後に続いた。
この工房で数少ない照明のある部屋、食堂の隅で刃を研ぎ直す。ほとんどの職人は油と砥石で研いでるが、より望ましい刃先を求めると遥か遠く日本の水研ぎが良好だと私は思う。
23種の刃物。その中でも状態の悪い6本を研ぎ直ししていると、ジローラモさんの姿があった。
「熱心ですね。」
「調子の悪い刃物は職人の右腕に並ぶパートナーになれませんからね。」
「そうじゃなくて。マルコから聞いた新しい技法だよ。」
「掘り進め方は試作段階で何も満たしていませんよ。」
「そんな事ないって。仕上がったら見せてもらう事は出来るかい?」
「仕上がるまでに一カ月程は掛かりますよ。」
「じゃあ約束したからね。それと灯りを消すから片付けてね。」
仕上げ砥に間に合わなかった刃を別にして収納箱に収める。砥石と使い古したシャツを水を張った桶に放り込み食堂を出る。
部屋に戻ると収納箱の刃物に薄く油を塗布し乾燥しやすい様に隙間を空けて並べふと、布団に潜った。
翌朝も太陽が昇る前に起床。朝の準備もそのままに羊皮紙を貼った表板の一枚を手に取り左右から捻る様に力を加え、徐々に強くしながらもその効果を確かめる。同じ様に他の表板も同様に行った。
充分に削ったはずの板にまだ削る余地が生まれた。確信と言っても良い感触に次の目標、削る量はどれほどが良いのか探求になるだろう。
小指の先程の大きさしかない豆カンナを全体的掛け、緩い弧の形をした薄刃のスクレーパーで平す。木のチップと細かな木の粉でちょっとした山が出来るくらいに削るとお腹から音がなる。朝食の時間は大きく過ぎ、いつもなら工房で製作を進めている時間になっていた。
「つい、夢中になり過ぎたみたいだ。」
ぼやく様に呟くと削った表板は机の上に置いて、散らかった木屑を集めて掃除をする。
工房に入ると直ぐに声がかかる。主はマルージさんだ。
「頭に木片を付けてどうしたんだい?君が寝坊するのは珍しいからね。」
試したい事に集中し過ぎた事をかいつまんで話すとほどほどになと、釘を刺された。
「それと君を工房長が探していたぞ。ついさっきの事だから別の部屋だと思う。」
髪の毛に乗った木片を払い落とすと廊下に出る。
ジローラモさんも離れた他の部屋から出てくるとこちらに向かって走る。
「アントニオさんが居たっ。急だけど、別の仕事を頼みたいんだ。」
呼び止めるにしては大きな声で。それだけ大事が起きたのだろう。
「直ぐについてきて欲しい。」
と、腕を引っ張られて廊下を進む。向かっている場所は、私に馴染みのない別工房だった。
「とにかく今は入って。」
ジローラモに促され中に入ると、楽器の制作室より若干狭い部屋には製作途中の竪琴や撥弦楽器が置いてある。
「ここは楽器以外の弦楽器を作る小工房だ。アマティ工房の中では縮小されていく一方だがね。見た通りに大きな竪琴からギター、リュート、ビオラ・ダ・ガンバも扱っている。私は楽器の装飾を受け持つダーガン。よろしく。」
癖のある長髪を紐で束ねたダーガンと名乗る職人と挨拶を交わす。
「受注製作だからどれもが特別な作品でね。ほとんどの作品の最終確認をするギュスターブは怪我で居ないから直ぐには会えないんだけど、今日からここで楽器製作を」
と、ジローラモの説明は続き、製作途中の弓はマルージさんに仕上げてもらう予定になった。
「僕だって悩んだのだけれど、適任を考えるとアントニオさんしか出来ない仕事なんだ。君はどの様な形状でも上手に再現するし、人付き合いも良いからね。」
今朝ギュスターブさんが竪琴用の木材に刃を立てて削っていた時に刃先が爆ぜる様に割れ折れ、その破片が眼に入ったのではないか。赤い血が手の隙間から滲む片目を押さえて呻いていた事から推測しジローラモに伝達された。
今、この小工房での主たる製作者は竪琴職人であり小工房長のギュスターブの下で見習うミロン。リュート職人のイサクと見習いマーリオ。ギター職人のロペスと見習いルイス。そして先程の装飾師ダーガンとその見習いハルト。
小工房長の未完成楽器をミロンが仕上げるにはまだ技術的に難しい。そして他楽器職人が手を加えるには受けた依頼の状況から望ましくない。それならば技術の高い職人を怪我人の補佐役として一時的に置き、人当たりの良いアントニオなら問題も起こらないだろうと職人達に伝える。
小工房長の居ない工房は竪琴職人以外の誰もが製作に向き合い、見習いは任されて出来る事を熟していく。
「新入りは竪琴用の裏板作りを。」
見習いのミロンさんは材料の場所と加工の手順、出来上がり見本を指で差し、自身の作業に着く。
新入りですか。と、気を取り直し適材を見繕う。
木材を使う以上は楽器は違えど要求される内容は変わらない。音の大きさを増幅させなければ良い楽器とは言えないのだから。
時々ロペスとイサクが様子を見に来たくらいで日が傾く前には完成と言える長細い台形の一枚板を見本と並べて次の準備で部屋を離れる。
「これ程の腕前なら一つの丸太からもっと多くの枚数がとれるだろうに。」
「楽器を作った経験があるならば知っていて当然だと思うのだが、歪んでも削り直せる厚みを残しておくものだろうに。君はここまで薄く出来る技術を勘違いしているのではないか?」
「そうか、そうだな。これは使えない材料な訳だ。」
丸太から一番良い部分を板にして運び入れると、ミロンとルイスが一枚板を前に批評していた。
「新入りはもう一枚、今日に完成させる事。」
そう言ってアントニオが作った一枚板を二人は持ち去る。今から作業しても到底出来上がらないさ。そんな話が二人から聞こえた。
材木の長さだけ調整して切り、アントニオは片付け始める。
木材は部屋の外へ、工具は箱へ。誰よりも早く工房を出ると材料を持って自室に閉じ籠る。材木を一枚板へと仕上げるつもりだ。
部屋を作業しやすい様に整えて、夕食を軽く済ませる。寸法は若干の余裕を持たせるとして必要な幅を考えると最上が一枚、良品が二枚とれるだろう。
迷う事なく鋸で切り出す。切り分けられた端材と言えど別の部位を知れば使えるかもしれない。丁寧に部屋の隅へと運ぶ。
数枚の板に切り分け終わると鋸で出来た段差を均していく。全部の板、表裏。
陽の光が窓から差し込んでいる事に気付く。そっと窓を開け、桶に溜めていた汚物を外へと捨てた。並べて置いた徹夜の成果を眺めて後は運ぶだけだと集めた木屑を持って部屋から出る。
「おはよう。」
こんな早朝に山盛りに木屑の入った箱を持っているニコロさんと出会った。
「おはよう。製作ですか?」
「他者の模造に過ぎぬよ。別の楽器はどうだ?」
「部位の模造元を渡されただけなので、よくわかりません。各部位を詳細に見る時間があれば変わるでしょう。」
「ではジローラモに言って基本的な設計図面を君に届けよう。新入り扱いではないからな。」
その言葉を複雑な思いで聞き流す。
誰よりも早い朝食を食べ終わると一枚板を慎重に運び出す。まだ材料室の扉は閉じられたままだ。しばらく待つとイサクさんとロペスさんが現れ、
「おはよう。今日はギュスターブも出てくるだろう。」
「おはよう。昨日の作業を見る限りニコロ最後の直弟子の噂は嘘じゃなさそうだ。」
ロペスさんが扉の鍵を開けながら和かに、イサクさんは様子を伺う様に話しかけてくる。
「板を運ぶのを手伝うよ。」
ごく自然な動きで板を持ち上げると皆で材料室へと入り、
「私たちの材料も加工して欲しいくらいだ。」
「まったくだ。」
と、談笑をさそう。
今の流行について二人から話を聞いていると、左眼に当て布をした男が材料室に入ってきた。
「この様子だと順調か?私が怪我をしたばかりに見習いで手を焼かせただろう。」
「ギュスターブ、君こそ怪我は大丈夫か?ジローラモが取り急ぎとばかりにアントニオを寄越した。大きな遅れは出ないはずだ。」
イサクさんとギュスターブさんが挨拶を交わす。
「アントニオ、本来とは違う楽器だが宜しく頼むよ。しばらくは物の距離感が測り難いのが難点でね、製作も思う様には進まないだろうから。」
「ジローラモさんはそれを知って私を遣わせたのでしょう。」
「昨日はミロンから新入りと呼ばれ、一枚板を仕上げていた。そして今朝材料室の鍵が開くまでに五枚も次工程に回せる状態に仕上げている。」
「ふむ。ではひと通り加工出来る様に指示を出すから覚えていってくれ。」
材料を確認すると小工房に入っていくギュスターブさん。ロペスさんの口頭援護でやるべき仕事は前に進んだ。
数日の作業を観察され製作に余力があると感じられたのだろうか、竪琴以外の楽器の材料も幾つか拵える事になった。この仕事で一番の収穫はギターの力木に関する事で、楽器にも効きそうだと思った。
さて。任される仕事が濃くなり新しい見聞から自身の作品も造るぞ。と行動するには一日の時間は少しどころでは無いくらいに足りなく、睡眠時間を少しずつ削る。
そんな生活が一年も続くと、ギュスターブさんから竪琴の組み上げも任される様になる。
「かつてのどの見習いよりも良い職人になるのは間違いないだろう。」
材料から組み立てまで一人で行った竪琴の各部を確認しながらギュスターブは呟く。
「私の役割も終わりで良」
「そんな指示はジローラモからは届いていない。」
アントニオが話しかけた言葉に被される言葉。
この小工房での経験を積んでもアントニオには竪琴職人になるつもりは全くなかった。ほぼ狂いなく同じ音質に仕上げるギュスターブさんの技量は尊敬に値するが、同じ作りでも同じ音にならない楽器の魅力を上回らなかったからだ。
「では。いつまで小工房で独立も許されず続けなければならないのでしょうか。」
「ふむ、そうだな。日を改めてジローラモを含めて決めようか。」
ジローラモさんからの返事は6日後、製作を終えた時間に話し合う事となった。
「待たせたみたいだね。」
商売人の様な服装をしたジローラモさんは席に着くと顔を見合わせる。
「アントニオの身の振り方の前に、総長の周りで慌ただしい人の動きがあるのは順調だからか?」
ギュスターブさんは豊富な私財の運用に衣装商と地主を新たに始めたジローラモさんに問う。
「この街で同業が増えた事と、未来を見据えるとね。楽器作りだけでは難しいのですよ。そんな事よりも大職人の、身の振り方を考えましょうか。アントニオさん、率直な要望は?」
「ここ、アマティ工房でバイオリン が作れればそれで良いんだ。」
「今のところ充分な数の職人は育っているんだよね。そしてアントニオ、君は宿舎でも独創的な楽器を作っていたはずで、それを元にする作り方はここでは異端だ。工房長としてその流れを取り入れた作風も影響を考えれば受け入れたくない。」
「ジローラモさん、遠からず私は工房から出てゆけと」
「まて、早まるな。我が工房はアントニオが居ることで理想を叶える事が出来ている故にこちらで働いて貰いたい。」
「それでも、もし独立するなら新しい工房や住居の手配は僕が手配しよう。一年程は必要でしょう。その間はギュスターブに任せるよ。」
「一年か。仕入れから製作までを一人で熟すには短く無いか?」
「その内容は僕が考える事じゃないよ。工房を持つ以上はその者が決めるしか無いんだからさ。」
「それもそうだな。アントニオ、君が工房の主になった時の指針と必要となる人との伝手は私も助言しよう。ニコロ氏も同じ事を思うだろうしね。」
アントニオ・ストラディバリウスの独立がこうして進められていく。1678年の秋の事である。
作中後半に出てくるギターは、ルネサンスギターと呼ばれる物です。