ある週の事
二頭立ての馬車が1台、総勢6名。日程としては馬車で1日程の距離を転々と10日程との事。道中は平和なものだ。天気が雨でさえなければ。と。
「山に登って直立松を。楓は一本選んで工房に戻ろう。」
当時の早朝、ニコロさんからざっくりとした予定が告げられる。
「マルコ、メトルォーネ、アントニオは初顔か。調達すんのは楽じゃねぇぞ。場所を管理する貴族に話をつけて、樵を味方に各山を這う様に分入り適材と道を探すのは誰でも出来るもんじゃあ無い。」
幌のある荷馬車の御者をするキャストルは新顔へ諭す様に語る。
「だが音を探す様に木材を探し出すのは、これから作る作品に繋がり苦労が報われるんだと思うとよ、何処でも行きたくなるものさ。良い木の根っこに近い部分なんて材木所に持ち込めば家具職人と取り合いにもなるくらいだからな。」
「他の何処の工房よりも薄く軽くした時にも適度に堅く、繊維の密度が高い部分を確保する。基体も弓、フィッティングにも共通する。ですね。」
キャストルの言葉にマルコが返す。
「だけどさ、材料にずいぶんと無茶な要求を僕たちはしてるよね。硬くて軽くて割れないって。」
メトルォーネは癖のある赤茶髪を指で遊びながら加わると、木材の調達に二度目参加となるディディーが口を挟む
「仕方ないだろ?一口に良い素材と言っても、選択次第、取り方次第、使い手次第なんだし。」
ニコロさんは静かに耳を傾けるだけ。
「バイオリンを作るだけでは足りないんだよ。目に見える差が無いと貴族サマは見向きもしない。」
「貴族サマお抱えの商会は、見た目と作者しか見てないよね。」
「弓なんて自分の作品なのか他人なのか区別出来ない物も多いからねぇ。」
弟子たちが気ままに話す。工房の中では聞こえてこない声そのものを目を閉じて聞き入る。
「でも技術は惜しげもなく工房の中では見せつけられている。いや違う、これはどう言えば良いんだ?」
ぽつりとアントニオがつぶやくと、
「それを技術だと言ってしまうのかい?感覚は人それぞれだっつーて、一瞬をよく見ろの一言で終わる時もあるじゃないか。」
「この通りに出来上がれば大きな失敗は無い。の見解がしっくりくるよね。」
「見てもらっている時は冒険的な違うことは出来ないよ。やっぱり。」
「技術は道具、形状、知識だよ。どれも欠けてはならねぇ。考えてみな、全てが揃っている当然が普通じゃない事をよ。」
やいのやいのと馬車の中は騒がしくも進み、神聖ローマ帝国から共和国ヴェネツィアへと入る。
「冒険と言えば半年前だ、バスバーを5インチ1/2きっちりでなく6インチにしたらいつもより音が硬くて鳴り方が悪くなった。結局表板を外してバスバーを作り直したのはここに居る者以外には内緒だ。」
キャストルの話にマルコは今が断罪の時とばかりに話す。
「失敗ついでだと表板も裏板もいつもより薄くなった時はG弦がよく響く気がするんだ。そんな楽器はE弦は控えめと感じるよ。」
ディディーも失敗談をこぼす。
「f孔が広いと気がついたのは魂柱を差し込む最後の時だったな。そのままにしているけど、今は気になって仕方がない。アントニオは何か無いか?」
「最近なら楽弓が別物になった事だけど、楽器だとアーチの取り方でしょうね。右側と左側の位置と高さをほぼ同じに仕上げるのは感覚だけでは出来ないし。」
「失敗するならアーチより板掘りじゃないか?楓板の1/8インチ厚がどれ程大変か。」
「均等は大事だけど鏡じゃ無いんだ。極論で言うと見た目は美的であれば楽器として成立するんだよ。」
「アントニオ、それは言い過ぎだ。いくら美的でも価値の低い物は多くある。じゃあ可能な限り美しくと製作で何度も聞くアレは何なんだい?」
キャストルは首を横に振りながら問う。
「左右対称でも魂柱を立てて駒をおけば歪む。その後が美しいかどうかが大事なんだと思うよ。」
ニコロに教わった機能美のその先。アントニオはそれを言葉にした。
「アマティ家でも差はあるよね。弟子は総じてマスターメイドの半分の評価をも超えられないけれど。」
マルコが呟くと、ニコロは溜息を一つ吐くと口を開く。
「いいか?どの作品も作り手特有の癖があるものだ。よく観察し左右対称を実現したモノも、スクロールの形状や仕上げ迄の微差で統一感噛み合っていないモノも。遠目にも傍目にも同じように見えるが、多くの楽器を見てきた方々には違って見える。自然に生えている木々のようにな。木理の選び方と合わせ方、アーチの仕上げ方、f孔の大きさや位置関係、角になるパーフリングの切り方。仕上塗りのムラや滲み。他にも見ている所はまだ在るだろう。」
「マスターでも癖があるんだ。」
メトルォーネがぽつり。
「癖は音の傾向でもある。どうしても似た性格になって行く。だがどうにも鳴らない材料だって有るだろう。特定の弦が目立ちすぎる楽器も有るだろう。だが、全ては調和があってこそなのだ。演奏者の技量、楽器の潜在力、楽弓の発現性。どれが欠けても天上の音にはならん。」
馬の足音が大きく聞こえる。
「神聖ローマ帝国内の各公国領に住む知人や旅立った弟子達に連なる職人。教会の伝手で国内外に工房を構えた者、貴族に召し抱えられた者。ここまでに拡がるとは思いもしなかった。」
ニコロは目を瞑り語る。
「これこそ最高の作品だと製作時に何度想い、完成後これじゃあ無いと何度挫け、次こそはと。そうやって技術を試行錯誤するのだよ。良き木材、良き道具だけでは物は出来ない。人の手が無ければ作る事も使う事もままならん。」
一息置いて皆の顔を見た。
「過去を超える一挺を。正しく超えて行かねばならないのだ。我が父を、我が師を、他が職人を、今と過去の自身を。理想のみを言葉で語る事なかれ、よく観察しその姿に込めよ。我々は探求者であれ。と、偉大な我が祖父の言葉で口を挟むのを終わるとしよう。」
納得出来ぬ。そんな顔は皆無だったが、メトルォーネはあえて聞く。
「同じ物をただひたすらに作る事で技術は磨かれるのでしょうか。」
「磨かれる者と変わらない者、どちらも居るだろう。終わりのない旅への熱意と理想の姿への観察と少しばかりの発想と後は出来上がった道具を使う者の声を聞く事だな。」
ニコロは答え、抱える悩み事のアレコレを聞き合うのだった。
ブレシアに到着する頃には陽は沈んでおり、宿泊宿に入るのがやっとだった。
食事の後に樵の2名が合流し挨拶を交わす。
「トールだ。こっちはイサク。」
キャストルさんとニコロさんが二人と握手を交わし、一本目は明後日の早朝からで良いだろうとニコロさんは言い残し一人、姿を消した。
「ね、明日はどう過ごす?」
ディディーの問いに思い思いが答える。
「製作工房があるといいな。買えないけれど、何かしらの発見は有ると思うよ。」
「案内が必要なら言ってくれ。トールと別々でも良い。」
「別行動になるけれど、兄夫婦に顔を出したいと思っているんだ。」
「折角の解放だ、女性を口説こうとは思わないのか?」
どうしようかと思案していると、
「僕はね、演奏者に会いたいんだ。弓をどうして欲しいのか、どんな弓が欲しいのか。それが知りたい。」
メトルォーネの一言に
「演奏者ね。大きな楽器で木の棒を持った男なら伝手はある。興味は無いか?」
「大きな楽器で弓と言えば、ビオラ・ダ・ガンバか、チェロのどちらかだよな。」
トールの提案にディディーが言葉を挟むとメトルォーネは即決、
「頼みました。」
と、笑顔で手を握る。
製作工房がと言ったマルコも手を重ねている。
べちっと石壁に手をやり、嘆く男。
「どいつもこいつも真面目になってよぉ。俺ぁ、オペラみたいな愛を味わいたいんだ!」
「じゃあキャストルさんはイサクさんに連れられて、別行動で良いんじゃないですか?」
しまった。つい言ってしまったが頷く者多数。
「それでは明日の朝にでもお会いしましょう。」
翌朝、朝食をとるとニコロさんは関係者への挨拶に出る。私たちは教会の近く、集合住宅の一室をノッカーで叩くと体躯の良い男が顔をだす。
「久しぶりだねボルジャ。昨夜の手紙の通り君に客だよ。」
トールは手短な紹介をすると、
「狭い場所だが、入ってくれ。」
ボルジャさんはドアを大きく開け、中へと促すと、壁側に据えられた一人用のテーブルの上にはバイオリンやビオラにしては大きく、チェロにしては小さな黄色味を帯びた楽器が置かれている。
「大きな楽器の正体って、テノールビオラですか。」
ディディーが呟き、メトルォーネがテノールビオラって何ですか?と聞き返す。
「知っている奴が居たか。アマティ工房製100年以上前の遺物さ。弓は都合上チェロ弓だ。」
ボルジャはネックを握る様に持ち、肩に置く。
「Fis(ファの半音高)、C、G、Dを押さえない時に鳴り、ビオラとして弾くには指が届かない。そこで指の届くAの音から上を弾くんだ。ギターの様に抱えて弾く者も居て面白いだろ?」
と、器用に童歌を弾いてみせる。
「弓は重いですよね?どうして?」
「重さがあるからしっかり鳴るんだ。ビオラ用の弓では、コイツ相手だと力が足りないんだよ。」
周囲の木キラキラさせ質問する。
「常に弓の毛を張り替えた状態が維持できる。と言うのは望み過ぎだろうから、弦の上で跳ねない弓が良いね。」
実際にこういう事だと、実演して見せる。
「手入れはご自分で、ですか?」
マルコだ。
「大半はな。流石に不調があれば近くに住むマリアーニの工房へ持ち込む。駒も魂柱もマリアーニ・アントニオ作だよ。良い仕事してるだろう?」
弾いたばかりの楽器をマルコが受け取る。弓はメトルォーネ。
「音は心地よいのだけど厚みもあるし重い、手は届かない。チェロで音域が間に合うならこの手の楽器は求められなくな
ひと通り楽器を見た後に渡された。
確かに首に挟むには分厚く、スクロールに指は届かない。かと言ってチェロの様に抱えるには窮屈に見え、膝に乗せて弾くには左手が狭い。f字孔のデザインもニコロさんならあと少し十字部分を膨らませるだろう。
「大切にされている。それが大事なんじゃないだろうか。」
「なぁアントニオ、俺たちの作品だって大切にされていると思うか?」
「貸し付けで預かるん言はボルジャさんによって答えられた。
「ボルジャさんは教会の器楽者なんだ。」
トーが改めて紹介する。
「ここから少し離れた小教会の。な。」
この後興味本意の質問が飛び交い、折角なのでとマリアーニ氏の工房を訪ねる事に。
20分ぐらい歩いただろうか、その工房は普通に隣接家屋と変わらない。
「ボルジャじゃないか。調整に不満があったのか?」
ボルジャさんに負けないくらいの体躯が良い高齢の男性がドアから顔を出す。
「不満は無いさ。クレモナの楽器職人が訪ねてきたので、紹介ついでにここへ来た。」
軽く紹介され、工房内へ案内を受ける。
「何も得るものは無いと思うが、自信作を見ていってくれ。」
そう言うと、展示されている楽器を2挺指差す。
手に取りじっくり眺める。f字孔の見た目はアンドレア・アマティに寄せている。側板の高さは狭く、表板も裏板そろって丘は高い。
楽器弓を借りて試奏すると、窮屈さを感じるものの意外にも低音は良く響く。この人がビオラを作れば、きっと人気になる。そんな予感をさせる音だった。
「ビオラは無いのですか?」
「この地では求められないのさ。」
「弾く人は居るでしょう?」
「残念だが先達の作品が占有しててな、楽器は足りてしまっている。でなければ我が渾身の
オラが6挺もここに眠るむむ事は無いはずなんだがね。出してくるから少し待っていろ。」
そう言って工房の奥、自宅であろう場所から2挺のビオラを持ち出して来る。
一挺は表板の丘は変わらず高く、裏板はギターの様にほぼ真っ平な楽器。作風が異
なる。
「納得せん顔なのは解るよ。アンドレア・アマティから学んだとされる我が師の形見だ。悔しいが音量と仕上がりも我はこの楽器に追いつけていない。そして、コレが持ち込まれる楽器達を参考に削り出した物の一番新しい
、8年物だ。」
スクロール部分が船のフィギュアヘッドの様に獅子の頭が精巧に彫られ、楓で作られたペグ と指板が感覚の良さを示す。裏板の丘は表板と同じくらいの高さが有るが、肩に置いても苦しくは無い。
「我は楽器を作るより調整する作業が得意なのかもしれん。この工房を訪ねてくる演奏者の楽器を観察してはその違いを探るのだが、どうしようもないくらいにアテが外れる。」
「分解するのか?」
「依頼内容や状況によるな。例えば、虫喰いだとかは分解するしかない。膠が剥がれた時や板が割れている時もそうだ。」
おもむろにボルジャが楽器を構え一曲。誰もが無言で聴き入る。
「教会音楽以外でバイオリンだと弾ける曲を持ってい人なくてな。この地の器楽者ゼハーの夜想曲『語るべかな戦友よ』だ。戦いに赴いたが無事に生き残れた事を、酒を酌み交わして喜び明日も生きよう。そんな願いが込められている。」
工房で過ごす時間は短くも充実し、陽は山陰に隠れ出したと窓からの光が知らせる。
「良い物を見せていただきました。」
「つまらない物の間違いではないのかい?」
そんなやり取りもあったものの、善意を述べて宿泊所へと足を向ける。明日からは伐採が始まる。
翌朝。まだ太陽の光が届かない時間。ドアの叩く音で目を覚ます。宿泊所の表に出ると既にキャストルさんとイサクさんが馬車を待機させていた。
「昨日はお楽しみの様で。」
「そうだな。悪くはなかった。」
笑顔のマルコとキャストル。全員が揃うとイサクさんの先導で進む。朝食は馬車に乗せておいた乾燥肉片と玉ねぎ、塩漬けキャベツ。
時間にして2時間程
だろうか、山の裾野にある小屋で馬車を停める。ここからは歩きだと。
馬番にキャストルさんを残し樵の二人は斧、私達は鋸と太い麻紐、飲料を持って緩やかな斜面を登る。
「
「候補の一本目は樅木だったか。」
ニコロさんが言葉を漏らすと、幹に麻紐と無地の布端が結び付けられている真っ直ぐな木が見
「可能な限り根に近い場所を頼む。」
斧がカーンと音を鳴らして幹に食い込む。
「出来るだけの事は任された。」
と、トールさんは斧の扱いで証明する。
この間に手の空いている私達は、ニコロさんの木材に対する持論を質問を交えて聞いていた。
木理にこだわる理由、どれくらいの年数を重ねた木を選ぶか、産出地による違い。
おおよそ4時間で大木が倒れる。
「しっかりと木理の詰まった木だ。」
若干中央から楕円がかった年輪を指し、イサクさんが汗だくの顔を木の粉を気にせずシャツで拭う。
枝打ちをし3時間かけて丸太材にする為のノコギリをかける。必要部分以外は製材所へ売却する手筈で、工房に送る丸太をトールさんとニコロさんが確認しあい山を降りる。
「明日は今日より先にあるの山の中腹あたり。今日みたいに一日で終わる事はないと覚悟しておくように。」
ニコロさんが言葉を紡ぐと、キャストルさんが馬車を走らせる。トールさんとイサクさんはまだ丸太材の場所で作業をしているそうです。
陽が沈みきる前に宿泊所に到着。明日朝も同じ時間に出発すると確認してキャストルさんに連れられてバルで夕食。
翌朝。小雨が降る中を山裾の小屋を目指して馬車移動。到着するとトールさんとイサクさんは食事をされていて、どうも小屋で寝泊まりしたみたいだ。
「おはよう。今日は生憎の雨だが良天ばかりを待てない場所だ。」
トールさんは雨具を馬に掛けて出発の支度を整える。イサクさんは別行動で昨日の木材を運ぶとの事。
「次の松はちょっと訳ありでな、珍しい物になる。」
移動中にニコロさんが伝えた。どの様に珍しいかは秘密だとしながらも、想像力を掻き立てられた皆が静まることなくイメージを口にした。
山裾に着く頃になっても雨足も強まる事なく、歩く事2時間ほど。木樵の休む山小屋には先客が居た。
「こんな場所に誰かと思えば、ニコロじゃあないか。」
「その声はアントンか、久しぶりだ。木材の調達時期が重なった様だな。」
再会で花を咲かせる二人。
アントン氏はチェンバロの製作者との事で10年ちょっとぶりだと紹介された。
「ここからだと良天で30分程だ。もしかしたら伐倒が終わるかどうかだろう。」
会話をする二人を置いてトールさんの指示で食糧や飲料を小屋に残し再び山道を行くと、周囲の木々より成育の遅れた木に布が巻き付けられている。
「誰が考えたのかわからないが、周囲と育成年数が異なる木だ。本来なら間引きされても、おかしくない条件だが、想像通りなら相当に、面白い木材になっているはずだ。」
山道を追いかけてきたニコロさんが息を切らしながらもこの木でなければいけない理由を述べた。
説明の上では周囲の木々よりも日光を得られず育成し難い事は解る。だがそれが如何に面白いのか見当もつかなかった者が声に出す。
「他の木よりも成長が遅い事が面白い?」
「そうだ。切らない事には判らないが、至上とも言える材になるやもしれん。」
先程より息が落ち着いたニコロさんはマルコに顔を向ける。
「出来るだけ根本で切り倒し。だったかな?」
斧が幹に食い込む感触にトールさんが口を出す。
「ニコロさん、本当にこの木で良いんですかい?」
黙って頷くニコロさんをトールさんは一見すると黙々と斧を打ち込む。雨は上がり雲の間から覗く陽も傾く頃に木は倒れた。
「今日はここまでにして、残り作業は明日にしよう。」
ニコロさんの宣言でトールさんを先頭に山小屋までの道を歩く。
「木質が硬すぎず、柔らかすぎず、出来るだけ木理の詰まったものを外観から判断するなんて難しくないか?」
マルコさんが小声で話しかけてきた。
「だから木を倒して年輪を見るんじゃないのかな。ニコロさんにとっては答え合わせだろうけれど。」
こちらからも小声で返す。時折小枝を踏み折れる音を鳴らし目の前の小屋に意識を向けた。
夕食。小屋に持ち込んだワインと黒パン、塩漬け肉と塩漬け魚を分け合って食べる。
「さて、ここに連れてきた理由が判るか?」
ニコロさんが全員を見て促す。
「工房の木材はニコロさんが」
「違う。」
「木材一つとして同じで無い」
「違う。」
「育て方一つ」
「違う。」
「これからは自分で探せ とか?」
「惜しいが違う。」
「独立した時の準備だと聞いていた。」
「だとしたら、何なのだ。」
「木を知り、木を識る」
「何が言いたい?」
「良材とは何処にあるのか知ること。」
「まだ足りないな。」
「良材は同業者の奪い合いになる?」
「そうだろうな。だがそれだけでは無い。」
少しの間を空けてマルコさんが発する。
「主の姿を想像し天使を受胎させよ。我らは天の福音の代弁者。なんて言葉を持ち出すんじゃないかい?」
「それは製作の時に使う言葉だ。」
「福音を授かる木を探せって事か?」
「福音とまでは言わん。」
「求める木材の質を森から見つけ出す事。」
「森だけとは限らん。」
「他人に任せるな?」
「任せきれる者が居る場合もあるだろう。」
「あ、良材を見つけるコツなのか。」
「少し違う。」
「使えない木材を選ばない事。硬すぎず、乾燥で収縮しにくい木材の特徴を知る」
「知るだけでは間違える。」
「だから今なのかよ。」
「知るでは足りないのだよ。何を想い、何を求めるのか。私が伝えられるのはこれぐらいしか無い。」
もう一度全員の顔を見ると
「何を知らないのかが判らないのが未熟者、知っててもうまく活用出来ないのが半端者、多くの学びを形にするのが達人と、東方遠くの島では呼ぶそうだ。」
「島ってマルコ=ポーロの空想じゃなかったのかい?」
「120年前その島人に布教を拡げ、今は追い出されているがその件は今はいい。金だけでなく鉄、木工、紙の技術も眼を見張るものがある。」
「その技術って楽器にも使われているのですか?」
「私の産まれる前に試作に使ったとな。ウルシと呼ばれる邪悪を扱うには我々は無力だと父から聞いている。」
「ウルシとは何ですか?」
「島で言う仕上塗りの事だ。艶をもち鮮やかな赤や黒を映す魔性の粘液、その対価に半月ほど何も手に付かないくらいの痒みをもたらすらしい。」
「それは演奏者も、ですか?」
「多分そうであろう。」
沈黙は想像した証なのだろう。
「さて、初日の木材と今日の木材では楽器に使う場所が異なる。具体的に言えば、初日の樅木木材は駒やバスバーに使えるが表板には向いていない。今日の木材は表板に適性があると見た。どの木材をどの場所に適性があるのか判断出来なければいけないのだよ。それを伝えたかった。」
そう言うと席を立ちトールさんと小屋の外へ。
「はぁ、ニコロさんに認めるにはまだ足りないって言われたみたいだ。」
ディディの呟きは強いイメージで焼き付き、この日の後の事は記憶に残っていない。
早朝。昨夜と同じ食事を取りランタンの明かりで切り倒した木の元へ。枝を払い丸太材に仕上げると、
「年輪をどの方向から見ても均等に広がるこの木こそ最上だと言えよう。」
と満面の笑みをもって語るニコロさんを先頭に山を降りると太陽はまだ真上にはなっていない。
「最後の木材、楓は別の街だ。」
キャストルさんの御する馬車がブレシアに到着すると皆でお風呂を浴びる事になった。
「次は何処へ行くんだろう。」
メトルォーネさんはキャストルさんとニコロさんに聞こえる様に言ったが、答えは帰ってこなかった。
早朝から馬車を走らせる事丸一日。マントヴァに到着。宿泊宿で一泊し、翌朝に街の南ボルゴフォルテという自治領へ。この地にある材木商が目的地だった。
「良い木材が届いたと聞いたのだが。」
「数週間前のオスマン帝国を相手にした私掠品の事だな。」
ニコロさんは店を取り仕切る者と商談を始める。
ポー川を遡って届けられた木材が何十本と乾燥の為に陸上げされ種類別に並べられていた。
「表皮からその木がどの種類に属するのかも判らなくちゃならないのかよ。」
マルコはうんざりした表情で呟くとキャストルさんは説明をし始めた。
「製作の諸々の知識より容易だぞ?直立松でも表皮の溝が深く分厚いのが樅木、反対に溝が浅く薄い物が唐檜とニコロさんに倣っているが、板にすると唐檜は木理が細かい事が多い。」
少し歩いては見るべき要点を述べる。
「楓は寒い地域で産出された物が良いとニコロさんは言っていたが、俺は年輪を見て選んでいる。」
そう言って一本の木材の年輪を指差す。
「寒さ、栄養の薄い土地、太陽光が当たらない。条件が重なり過酷な環境ほど成長は遅くなり、年輪の幅は密になり密なほど硬く締まる。他にも根本側が柔らかい種類の木、瘤をつくりその部分が更に硬くなる木と色々だ。」
少し間をとって、
「どんな木が楽器に適しているのか。これはもう好みみたいなもんだ。巨匠の様に適度に硬く木材とは思えない柔軟性を持ちうる木材だけを用いるのも目指す音がソレなら正しいのであろう。」
「せっかく店に来たんだ。俺や木材店の店員が判る範囲で産出地や木材種を覚えられるだけ覚えれば役に立つだろう。」
そのあとに何か数語をボソりと呟くと首を軽く左右に振るキャストルさんと目が合った。
「あん?聞こえたか?」
「言葉はわからなかった。」
「なら気にしないでくれ。」
十分なほど木材店を周回してもニコロさんの交渉はまだ終わらないみたいで、事務所から出てくる気配は無い。
「ニコロさんが追い求める音か。」
マルコさんが空を見上げて発すると、
「僕たちの求める音ってなんだろう。」
と、メトルォーネさんが返す。
「演奏者が良い音だ。って言う事じゃないか?」
ディディさんが乗り、
「楽器が手に取られなければ話にならん。」
キャストルさんは潰しにかかる。
「時代は変わるんだよ。魅力的な楽器を求めて。」
マルコさんが抗い、
「私たちが作り変えていくんだ。」
と意思を言葉にする。
「変わんねーよ。」
「キャストルさんは変わらないかもしれないけれどね。僕たちは超えていく。」
メトルォーネさんは力強く、
「キャストルさんが変わらないなら、追い越してみせるよ。」
「目指すのはニコロさんだ。小者と比較する必要はないさ。」
ディディ、マルコは此方を見る。
「欲張らないで、ひたすら丁寧に作るだけだよ。」
毒気を抜かれたのか、キャストルさんがなんとも言えない表情になっている。
「どいつもこいつも。と言おうとした所でスカしやがって。俺を超えて行け。その時には俺の同門後進だと自慢してやる。」
その声に怒気は含まれていない。
それからしばらくすると事務所からニコロさんが姿を現し、
「良い交渉が出来た。」
と一言。キャストルさんは馬車の支度を始め、材木商の店員が見送りに並ぶ。
帰路は馬を急かしたみたいで、日が沈み夕食の時間にアマティ工房へ到着した。
木材調達だけで一話となりました。