師弟期
変わらない毎日が続く様な工房で、アントニオは側から見れば工房を引き継ぐと言われても不思議ではないくらいに週に三回、ニコロさんが付き添い指導していた。付き添いはジローラモさんの日もある。
指導の細かさは、ひたすらに木材を薄くする事と厚みを感覚として覚える事、木の葉を見本とした自然的な曲線の再現に時間をかけた。その次段階でニコロさんの理想的イメージの具体的な具現化方法を。そして最終的にはニコロさんの作品の完全なる模造をと段階的に指導がより濃くなっていく。作品としてニコロさんの物と遜色の無い模造品を作るのに3年、理想や設計における経験則等の座学はアントニオが理解するには更に2年の月日が必要で、作品を作るたびに習熟は深まるのだった。
1674年。催促の手紙も幾度となく送りつけた主、ビオラ・ダ・ガンバを所持する貴族が馬車ごと工房へと乗り込んだ。
「ニコロよ、出てこい!完成はいつになるのだ!」
庭先で慌てる弟子達と、のそりと現れるニコロ。
「こんなにも騒がれては楽器でさえ怯えるであろうに。以前手紙に書いた通り、まだ期は熟さぬ。」
「貴様の手紙はいつも同じで材料が揃わぬ、製作するには天気が悪い、剰さえ自身が歳で創れぬ、代わりになる程の職人が居らぬとほざく。其れならばワシはいつまで待てば良いのか答えよ!」
すっかり頭部の前線が後退した貴族は捲し立てる。
「その事ならば今年中には形になるやも知れん。やっと職人が見つかったところだ。」
「言ったな?ならば年明けまでに引き渡せ!出来ぬとの申し訳は聞かぬからな!」
「聞かぬ御仁だ、仕方がない。アントニオ・ストラディバリウス!聞こえていただろう。お前が形を造るんだ。」
こうしてビオラ・ダ・ガンバからの改造楽器を創ることとなった。
分解されたガンバの表板のC孔を残してやや細いシルエットで切り出す。表面はまだ何も改造はない。バス音域の大きなガンバだからこそ出来る事だ。
「F字孔は父様に寄っているけれど、幅とかは独創的な容姿だね。」
ジローラモさんが作業を覗いては呟く。
「元々にC字孔が在るから仕方がないよね。」
休憩の合間に来る工房で働く者と雑談をしつつも手を止めず理想とする姿と重ね新造する木板をひたすら削る。裏板も同じくガンバから切り出した。寸法は削った後の表板である。どちらの板もアーチの大きさは大きく変えられないので表板は縁側をより薄く、裏板は全体的に軽くなる様に板の厚みに手を加え、側板は少し塩を加えたお湯で柔らかくしてから整形。パーフリングは薄くしたチェリー材を酢に鉄釘を漬けて置いた液で黒染めしたものと薄くしたポプラ材で作った。ラベルに関しては元のままにした。
ヘッドは大き過ぎる為出来る限り木理の似た楓材で新しく彫った。
ニスはガンバに倣いニコロさんの技法、ブランデーと酢を混ぜた液で表面を拭きアマニ油を数回重ねて色を仕上げた。
途中ニコロさんから透明な液体が渡され、三度乾燥させれば強い保護になる。と勧められた物も温めて三度塗った。
上駒・下駒と指板は栗材から。魂柱はスプルースの根元に近い場所の木材から切り出し、希少な黒檀でペグ とテールピース、エンドブッシュを作り孔に合わす調整をした。テールガットは牛の脚筋を裂いた物。弦は国外の羊の腸で作られた金属線を巻いたガット弦を取り寄せ、駒はニコロさんが楓材から切り出ししてくれた。厚みのある高背物で凛としている。微調整も含めると完成に十ヶ月も費やした。
ニコロが楽器の完成を直ぐに手紙に書くと、ひと月もかからず引き取られた。この大仕事の後はニコロさんが商談をする姿が多くあったとジローラモさんから聞く。
工房に平穏が訪れて数ヶ月。ニコロからのアントニオに掛ける期待は大きいのだろう。任される楽器の製作は半年から一年で一挺と製作量を減らし、代わりに楽弓やペグ 、テールピースの製作技術修得をとニコロさんから指示される。
楽弓については最上級職人のモーシャン、マルージの両氏から今様式の形状を教えてもらう。木材は硬く締まったスネークウッドが最上とされている。毛箱を馬の毛と木材自身の強さで引っ張りあう仕組みだ。
「楽弓はバイオリンとは別の意味で素材勝負。曲がりにくく硬く強い木材が大切だ。細長い形でも折れない木材を選んで作っているので時間も技術も掛かる。そして、馬の毛を取り替えするのもな。」
と、モーシャンさん。
部屋に並べてある楽弓を見るが差が分からない。
「おいおい、楽弓は形状だけじゃ半分も理解していないのと同じだ。持って弾いて初めて知るんだよ。同じ様に見えても感じる重さ、重心点が少しずつどれも違う。名の高き演奏者の要望を知れば知る程、見本と同じモノじゃ満たせなくなる。困ったものだよ、なぁモーシャン?」
呆れにも聞こえたマルージの言葉。
「ま、あんまり気負うな。職人として出来る事をする他はねぇんだ。」
モーシャンさんから渡された練習用木材は肌黒く硬く重い栗材。
「この木材が棹を倣うのには最適と俺たちは思っている。棹先の形、棹の太さ、毛箱の掛け孔、握り。弾き手が望む弓ってのは、長時間持っても疲れず、長い音を出せるものだそうだ。数十年前より少しはよくなっているだろうが、演奏者の要求は高い壁みたいなもんで尽きることが無い。」
見本とする楽弓を二本を作業台の横壁に吊るす。
ひとつは竿先が渡鳥の頭みたくなっている丸軸のもの。もう一つはペディナイフを思わせる竿先で握りが八角形に整えられたもの。
マルージさんから綺麗な丸軸を作るためには正しく各面が均等な多角形を造れなければ出来ないと言われた。長物は途中で歪んでしまうことが多いそうだ。
とは言え最初から栗材で削り出し失敗すれば意味がないので、松材の端材で練習をする。正方形をノコギリで作り、四隅をノコギリで切り落とす。歪な八角形が見た目綺麗になるまで約ひと月。松材より硬い楓材で更に2週間ほど練習し、栗材の長い端材で癖を体験してから本材の加工を開始する。
「えらく慎重じゃねぇか。」
作業に口を出したのはマルージさん。楽弓の製作部屋は私を含めて12人の職人が作業している。
「慎重で良いじゃないですか。要領を掴むまでは役に立ちませんので、慎重にもなるでしょう?」
「そうか。あんたみたいな職人が増えれば、良品も増えるだろうよ。」
マルージさんが少し離れた場所から作業を見つめ小一時間。手を止めて一息つくと毛替えをしていたフランクと言う職人が話しかけてきた。
「アントニオさん、あなたは楽器全品目の全行程出来る職人を目指しているのですか?」
「私はただ楽器が作りたいだけだから、職人を目標としての楽器製作はしていないよ。」
「いやいや。作っているのが楽しいからでは続かないですよ。僕は自身の技術の無さにどれほど失望しているか解らないでしょ?」
「基礎は同じじゃないですか。測り、削る。それの何処が技術だというのです。
「どんな形状の仕上がりでも、イメージした形にブレなく技術を使いこなせる貴方が羨ましい。僕と違って、貴方くらいの優秀な製作者ならば残ってくれと懇願だってあるでしょう?そうなればこの工房のマスターになって」
「フランク。何を言っている?」
マルージさんがフランクを牽制する。
「君の想いは過激すぎないかね?一緒に外で話そうじゃぁないか。」
肩を抱き強引に外へと連れ出す。
部屋の隅で様子を伺っていたマーリオとジュディアはわざわざアントニオの場所にまで着て、
「あいつは楽器に関わりたいって工房入りしたんだけどね。不器用すぎて、楽な事に流されて。今ここに居るって可哀想な奴さ。」
「そんな時に楽器の作製のほとんどを修得した君が楽弓も修めに来た。君の履歴と仕方を見て抱えていた気持ちが暴走したのかなぁ。」
確かに。と、くつくつと笑うジュディア。
「あいつは出来ない理由を工房の教え方が悪いと言って自身と向き合わなかった。あんたは気にしなくていい。これは職人になる誰もが自身と向き合わないといけない事なんだ。正直、俺自身も職人に向いていない人間なんじゃないかといつも疑っている。」
「正解が何なのか知らずに目の前の物を真似てるだけで、自信があるなんてとてもじゃないけれど。」
「俺たちは使い手に応える物を作り出せばいいんだ。そんなにも理由を考えなければならないのかな?」
「アントニオさんよ、口ではなんとでも言えるのだけどさ、想像を現実へと可能にする技術を持つ者を前にして持たぬ者には苛酷なんだ。出来ているならもっと楽しいはずだからな。しゃあ見本無しで作ってみろと言われると生み出すのが苦しくて仕方がない。」
マーリオは首を横に振る。
「教会で描かれた天使に、ふさわしい軽くて力強い弓を。ニコロ氏の楽器に対するイメージは正しいのだろう。こうであろうというイメージから形に、現実に転化させるのは突出した才能を持つ者だけだし、せいぜい平凡でしかない俺じゃあねぇ。」
人が増えた気がして周りを見るとモーシャンさんも居て、会話に加わる。
「それぞれ特徴の異なる木材から同じ特徴に仕上げる職人は天才だと言っていい。だが、真似した物を一定以上の性能で作れるっつぅのも必要な才能だ。むしろその才能こそ誰もが持って欲しい技術の核心なんだ。更なる上を見てしまえば気落ちもするがな。」
ジュディアが言葉を挟む。
「完璧であれ。評価が模造がどれだけ上手でもまだ不足と言われると。その不足がどれだけ遠いのか、自分でも解らなくなってしまうんだ。」
「あぁそれはな。作り手が会心の出来と思っていても使われなければいくら会心でも駄目だ。俺が見ているのは作り手と弾き手どちらもが良い物だと認識できる物でなくてはならないんだよ。極論とすれば工房の壁を飾るだけの展示物じゃ自慢できねぇ。独立したとして売れなければ、いずれは作ることも諦めなければならなくなる。マルージがなんと言ってるのか知らないけれど、これなら弾き手に求められそうという良い物を作れと言うしか無い。」
マルージさんはそれぞれの表情を確認して続ける。
「まぁ演奏家が100名居たとして、皆が同じ楽弓を選ぶのか?と言うと30名ぐらいが選ぶ様な楽弓を作れないと独立してはやって行けないと思うぞ。まとめて所有する物でもないしな。毛替えや行方不明になった楽弓の毛箱作りなどメンテナンスもあるけれど、本業は造り売る事だ。売れなければ生活が苦しくなる。音楽の街となっているクレモナであればまだ融通が効くかもしれないけれど、他の土地に行くなら尚更だろう。
安くする為に粗悪な木材や完成度を低くした不適格品作りに手を出してしまうと苦情の絶えない店になっていく。ニコロ氏は危惧しているんだ。そんな職人をアマティ工房から送り出したくは無いってな。」
無言で項垂れるジュディアにマーリオは
「俺は甘えていたのか?」
と、苦虫を噛み潰したような顔をして言葉を吐き出した。
「本来なら当事者になって初めて知るんだ。知らなくて当然だよ。気がつけて良かったな。」
ひと月掛けて丁寧に作られたアントニオの栗材楽弓は丸軸で手元が太くやや重いものの、馬の尻尾毛を詰めた毛箱を引っ掛けると僅かに外側へと膨らむ竿材を二度のオイルフィニッシュを施し、毛箱もぐらつきが無い様に鹿角を加工したブロックを埋め込む細工等見本とした楽弓の平均を再現したと言って良いモノだった。
「重心点が手元寄りか。コントロールのしやすさでの不都合はない。形状も悪くない。次からは棹の太さまで気にすると良いだろう。これよりも良い楽弓は・・・と。」
(製作イメージをどれほど近づけられたのだろうか。可能だと知ればもっと攻めると思う。試してみるか。)
マルージは内心を隠し、自身作の模範楽弓を数本隣に並べた。
「初めてにしては良い。評価としてはそんなところだ。次はこの楽弓のなかから一つ模してみろ。」
次の見本となる楽弓はどれもスネークウッド製で棹の丸軸、八角形かどうか、細さと竿先の形状に違いがあるだけで象牙製の毛箱を引っ掛けても反らない強さを兼ね備えたモノだった。重心点はどれも中央寄りに感じた。
渡された材料もスネークウッドである。
作業台に戻るとイメージを紙に落書きする。竿先は細長く、強度を持ち軽く。竿は材料が変形に耐える厚さまで毛箱も高さを抑える。毛箱は別の木材で拵える。
落書きの横に見本の主要な寸法を書き写すと
「最低でもこれだけは必要か。」
肩をぐるりと回して今日の仕事を終える。
翌朝、他に必要な材料を準備し木材に写す。毛箱は密度のある栗材にした。
ノコギリで大まかな寸法を切り出すと下書きを取り直してノコギリで更に細くする。正八角形になる様に寸法を調整しカンナで削り出す。
竿先に向かって徐々に細く薄く。
竿が充分形になったところで、毛箱に取り掛かる。出来上がりイメージよりひと回り大きく木材から切り出し、ナイフで大まかな形へと削る。引っ掛けた後の安定感を増す為の隠しブロックは前と同じ鹿の角。
ナイフとカンナを使って見栄えとバランスを整えていく。毛を張って収まりを見ると尚更別物に見え、中央部は膨らみを感じさせない様に外側を少し多めに削る事で視覚的に真っ直ぐになる様にする。部分的に正八角形では無いけれど材料の強度を考えるとかなり削ったと思う。重心点を確認。マルージさんの模範楽弓と比べると弓先から2/3ほどの位置で収まった。それでも見た目が模範楽弓を模したにしては違和感が強い。近づけようと足掻いた結果これ以上手の加えようが無くなってしまい、この状態をモーシャンさんとマルージさんに品評をしてもらう。
「これはスネークウッドの木目に惑わされたな。」
楽器と楽弓を手にしてしたり顔のモーシャンさんと、苦い顔のマルージさん。
「似てないこれの評価を出さないと駄目なのか。モーシャン、どう思う?」
「斬新な形状だが、丁寧に削られているしバランスもいい。強さも充分じゃないか?」
「模せと伝えたんだよ?斬新さなんて要らなかったはずだ。こうなる前に相談してくれればと思うとな。竿の中央が薄くなっている違和感はどうしようか。」
「どうしようかと言われてもな。他を削る事も出来ないし、このままで出すしかないだろう。」
「懸念があるとすれば馬毛が伸びてきた時に棹と干渉しそうで怪しくないか。」
「そうだとしても内側の高さは足りている。それとも管理すらできないずぼら者が干渉するまで放置した楽弓をつかうというのかい?」
「俺たちなら張り替えるが、やむを得ない時だってあるだろうよ。」
一通りの音階と重音を鳴らしてモーシャンは構えを崩す。
「力強さはもっと欲しいところだが、馬毛の張りはこれ以上望めないから充分じゃないか?工房内のスネークウッド作品でも中級品以上だろうな。」
「それは上に見過ぎじゃないか。見本となる楽弓から見れば別物じゃないか。」
「別物が不満か。ならばニコロ氏にも相談しよう。お前の評価が演奏者にどう映るのか。なっ。」
「アントニオ、すまないが評価はしばらく待ってくれ。」
ニコロ氏と相談した結果アマティ工房主催で演奏者と製作家が集う意見交流会が四ヶ月後の休日に開く事になり、隙を見てモーシャンはアントニオ風の弓を三本仕上げていた。
1676年5月。
広い工房の食堂と庭、礼拝室を開放しても狭いと感じるほどの人が集まり近くの広場も急遽使う事となる。その広場では演奏者が即興曲を弾いたり、旅の途中で書いた少人数編成の曲を合わせたり。と、音楽の絶えない賑やかな時を過ごせる場となり。
礼拝室は簡単なバイオリンの弦の交換や楽弓のメンテナンスを行う場となり人の出入りは多い。
食堂の卓にはアマティ工房内の三十四挺のバイオリン、十二挺のビオラ、六挺のチェロと四十八本にもなる楽弓が用意された。クレモナ市内からは六つの工房からバイオリンが計二十挺、楽弓は十本。
ここに演奏者がそれぞれ持つ楽器が集い、音に機能性に多くの話題を尽くす。ある製作者は木材の部位で音は変わるのか弾き比べ、ある演奏者は楽弓を引っ換え引き比べ。松脂は共用である。
多くの参加者の関心が高かった事はアマティ工房製のアーチの高さを従来よりも低くした音に鋭さのあるバイオリンと隣国オーストリア公国のシュナイダー工房で作られたアーチが更に高くとられた音に深みのあるバイオリンの比較、神聖ローマ帝国の国内外で作られた楽弓の形状と演奏者からの要望。
モーシャンさんとマルージさんに於いては、
「楽弓は更なる要望が残されている。」
「あぁ。隣国の公国製も悪く無いと言われると、なんとか差を生み出さなければならないからな。」
と、意気高く。参加者は何かしらの得る物があった意見交換会だったみたいだ。
翌日の事。全ての職人が食堂に集められる。
「昨日の意見交流会を支えてくれた事を感謝する。多くの演奏者が集い、ここクレモナが如何に音楽溢れる都市か思うところもあるだろう。持ち込まれた数々の楽器を実際に見て感じたのだが、国内外の各地で楽器が模造れ、楽器工房の先駆者たる時代に新しい音楽を支えてきた。今やどの楽器工房も私こそが最新で最高作であると自信を持って演奏者に託している。貴族に教会に、少しずつだが民衆にもだ。故に私は思うのだよ。私の先を進む者が誰であれ、託す事に全力を尽くす事も夢の続きなのだと。産まれてから80年を迎え、工房をジローラモに譲り製作と職人育成に力を注ぐ。」
運営の引退宣言をするニコロさんにどよめきは止まる事はない。
「皆の者、静かに。私は楽器の作り方を伝える者として多くの職人を送り出したと自負している。これからも変わらず、時には新しい技術を重ね、新しい作風が職人達から生まれると信じる。以上だ。」
どよめきで聞こえなかった部分もあるかもしれないが、一番伝えたいメッセージは言い切った。
意見交流会を開催し、楽器も多様化していくだろう。隣国で自身の作品よりも完成度の高いと評価される楽器が生み出されている事が確認できたのはきっと神思し召しなのだろう。
その後の弓の製作工房にて。
奏者による弓の評価は弓先まで弾きやすいが音にもっと音の反応が欲しい。馬毛を少し長めにとった緩めの楽弓も弾きやすいがもたついた感じがして意図した音にならないとの事だった。とモーシャンさんは教えてくれた。
「しかしだなジローラモ・アマティが工房を率いるとなるとしばらくは荒れるぞ?」
モーシャンさんの表情は複雑な心内を現している。自室から持ち出したワインに瓶のままくぃっと煽ると
「工房から出て行く奴もいるだろうし、ニコロの指導頼みってのが工房としてどうかってのもある。意見交流会(サロン」に立ち会って改めて感じた事だが、この工房が最先端とは言えなくなっているのも気がかりだな。」
このクレモナは街人も楽器を弾く人が多いが、貴族とカトリック教会に楽器を納めている国は我らがミラノ公国、同じ神聖ローマ帝国領のオーストリア公国、戦争の火種たるフランス王国。製作の基礎さえ覚えれば後は何処までも広がる。楽器製作という巨木に職人と言う枝が増え続ければ起こり得る後世の事をサロンでニコロ氏が話していたと言う。
「最先端で無くとも、この工房の熱意は劣るまいが。」
モーシャンさんは独立するのか聞いてみると、
「俺は生木の目利きと馬車旅が苦手でな。ニコロ氏みたいに木材の目利きも凄いと話は別もの何だろうが。」
自身でも残念だよと笑いながら、アントニオはどうするんだと同じ内容を聞かれた。
「まだ何も。何もかもが足りないですよ。この工房に居る以上はジローラモさんの考えもありますね。」
「そうだな。これは愚問だった。」
そう言って再びワインを煽るモーシャンさん。
「しかしな、アントニオの作った作品は目を惹くものがある。」
いつになく真面目な顔で、
「君が独立する時には腕の確かな弓職人を紹介しよう。一人で全てを熟すよりはずっと役に立つはずだ。」
「それは了承を得てから言うべきものだよ。それともモーシャン。君が自ら就くと言うのかい?」
途中から聞いていたらしいマルージさんが加わる。
「ふん。歳を考えろ。俺の残り時間がさせてくれないだろう。」
「その誘いが私なら喜ぶところだよ。アントニオ、君の希望はどうなんだい?」
「何と答えればいいのか、独立は未だ遥かに先の事になるでしょう。目の前の仕事に集中するだけです。」
「他の職人ならもっと感情をもって語るんだがな。欲のない奴だ。」
「まったくだよ。」
マルージは驚きを、モーシャンは苦笑いをすると他の職人まで集まり出す。
「モーシャンさん聞こえましたよ?俺らが欲深いって失礼じゃあないですか。何時だって愛されていたいのですよ。」
「ならば、もっと愛情を製作に注ぐべきだな。具体的には演奏者に指名される程の道具にしてみるんだ。さてと。俺たちも仕事を始めるか。」
手を叩きモーシャンが促す。これからは挑戦しかないのだと。
乾いた空気の夏が到来。
お昼になろうとする少し前に、ジローラモさんが弓工房に現れた。
「工房長としてどんな感じで話せば良いのか、まだよくわからないんだよね。」
と、小声でアントニオに話しかけると苦笑い。
この後モーシャンさんとマルージさんを廊下に呼び話をしていた。
三十分程経った頃、
「メトルォーネ。ちょっと来てくれ。」
ドアを開けてモーシャンさんが呼ぶ。
「今回は木材の見極めと余材部の取引をニコロ氏と同行して覚えて貰いたいのだが、どうする?」
「メトルォーネは良い機会だし行ってこい。楽弓材だって見極めが必要だからな。」
「私一人ですか?アントニオさんも一緒に行けると嬉しいのですが。」
「彼もか?」
マルージさんは意外だとばかりに言葉を漏らすとモーシャンさんが
「案外、悪くないかもな。」
と返す。
「弓工房に来て期間の短いアントニオさんでなくても良いのではないでしょうか?」
ジローラモさんは暗に代員を要望する。
「メトルォーネ、彼じゃ無いといけないのか?」
「強いて言えばニコロ氏が隊に居られるからです。アントニオさんは優秀じゃないですか。」
「確かに秀た人物ですけれど、父の代わりに工房に残っていて欲しいところなんです。」
ジローラモの舌戦は不調であった。
「マルージ、アントニオを呼ぶか?」
「そうだな。呼ぼう。」
呼ばれてしばらくの間、ジローラモさんから説明があった。要約すると木材の調達に修了予定者を数名集めている。と。
「それで、だ。予定ではアントニオ 君は工房で製作をするとしていたのだけれども、
木材の調達に行きたいか?それとも製作していたいか?」
モーシャンさんはどちらでも良いと付け加えた。
「できるなら木材の産地を目で見たい。この時を逃すと数年は調達が無いのではないかと思うのです。」
ジローラモさんの表情は曇る。
「次回の調達がこの後直ぐに無いのは確かにそうだけど。」
「ジローラモ工房長、何か問題でも?」
「工房に早急を求める依頼が来た時に」
「どうにかするのが工房長だろ?」
畳み込むように被せたのはモーシャン。
「出来る事、出来ない事、苦手な事が誰にもあるでしょ?」
「出来ない事は経験や知識が足りない事から起こる。苦手な事もな。頭だけで考えるんじゃない。指先がそれを知っているとばかりに造りあげる事こそ真の理解ではないのか。」
モーシャンは続ける。
「人を育てるってのなら興味が高い時期を逃すと成長は遅れる。それを差配するのが。いや、俺が口を出せるのはここまでか。」
「私は全ては結果論でしかないと常に思っている。あの時、あの場所、あの人との出会い。複雑に関係して今があるのだと。ジローラモ工房長の心労は俺たちには想像も出来ない。だからこそ必要だと思われる時には、助力を求めて欲しい。」
マルージも続く。
「そうですね。父と相談してどうするかを伝えにくるとします。」
予定調和とならないジローラモは、精いっぱいの笑顔を作ることしか出来なかった。
実史に出来るだけ沿うように努力はしていますが、難しい。
1620年ニコロ・アマティ作「ex Vatican Stradivarius」と呼ばれるビオラ・ダ・ガンバをチェロにするお話。
1700年アントニオ・ストラディバリウス作 王チャールズ4世の弓 へ繋げるための導入 です。