1話 プロローグ
定員割れの公立高校。
ここなら俺でも馴染めるかなと思ったが、そんな事は無かった。
だから、今日も放課後に誰もいない自習室で本を読む。
元々勉学に熱心な生徒が少ない事に加えて、受験シーズンが程遠い事も手伝ってか、誰とも出くわす事は無かった。
まるで世界に一人だけ取り残されたような気分になれる、素晴らしい空間。この自習室は、俺にとって心のオアシスだ。
机の左右と前方が、木の衝立に囲まれているのがまたいい。
しかし、そんな俺の安住の地はぼんやりと打ち破られた。
放課後に入室して5分足らずで、引き戸が開く音が響く。
同じ4組の土師良子。
殆ど誰とも話さず、いつも一人で本を読んでいる大人しい女子だ。
最近、そんな土師さんが自習室にやって来るようになってしまった。
彼女はこうやって、埴輪のキーホルダーをカバンにぶら下げながら、暗く冷たい無表情で俺の聖域を無遠慮に荒らしにやって来るのだ。
俺は俯き歩く侵略者にぼんやり一瞥をくれてやり、侵略者は無視して窓際の席に向かう。いつもの事だった。
この時の俺は、俺の聖域を侵しに来る土師さんの事を快く思っていなかった。
しかし、一週間程侵略され続けると、俺は土師さんに奇妙な友情を抱くようになっていった。
土師さんは俺に声を掛けて来たりしないし、俺も土師さんに声を掛けたりしない。
お互いその必要も感じていないし、そうするつもりもない。
なのに、同じ空間を共有している。
窓沿いの並びは衝立に隠れて見えないが、薄っぺらな木目の向こうに、確かに土師さんは存在してくれている。
何も期待せず、何も求めず、ただただ俺の存在を許容してくれている。俺も土師さんの事を同じように許容している。お互いに許容し合っている。
その事実が、不思議と心地よかった。
今日も引き戸の開く音と共に、土師さんが自習室にやって来る。
気だるさを湛えたような一重まぶたの小さな目に、細い鼻筋。薄い唇。
小柄で華奢な体系。
高校生にしては少し幼い、典型的弥生人のような土師さんの姿にも、俺は段々と愛着が湧きつつあった。
そして土師さんが、自習室の隅を横切り、ゆっくり窓沿いの席に進んで行く。
立ち並ぶ衝立の向こうに彼女の姿が隠れる。俺は胸が苦しくなる。
多分、俺は土師さんの事が好きになっている。
土師さんとどうこうしたい、という訳では無かったが、土師さんの事を考えたら幸せな気持ちになるし、土師さんに幸せになって欲しかった。
だからきっと、俺は土師さんの事が好きなんだ。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
俺と土師さんが放課後に同じ空間を共有するようになって、一か月が経った。
その間、一度も話した事も無かったが、それでも、俺は土師さんとすっかり大親友になったような気分になっていた。
「さよなら。土師さん」
だから、本来引っ込み思案な俺が、埴輪のキーホルダーを揺らしながら自習室を出ていく土師さんに声を掛けるのも、そんなに難しい事ではなかった。
「えっ……あっ……さようなら……」
一瞬だけ土師さんが顔を上げて、小さな、気の弱そうな擦れ声で、そう返してくれた。
慌てたように顔を逸らして、そのまま土師さんは帰って行った。
暗黙の了解であった筈の相互不干渉条約を破ってしまった焦燥感が今更になって湧き上がってくる。
もしかして、土師さんは条約違反に怒って、自習室に来なくなってしまうかも知れない。
そんな不安もあったが、幸いな事に杞憂だった。
土師さんは次の日も自習室にやって来た。
それから、俺と土師さんは、毎回帰り際に挨拶を交わすようになった。
「じゃあね。土師さん」
「あっ……さよなら……藤宮君」
最初はぎこちなかった土師さんの挨拶が、少しずつ透き通って行くのが心地よかった。
そして今日も、いつものように自習室の扉を開く。
今日は珍しく、土師さんが先に自習室に来ていた。
それも窓沿いの席ではなく、いつもの俺の席と同じ並びの、中央の席に陣取っている。俺がいつも座る席の、三つ隣の席だった。
そして、目が合った。
「あっ……えっと……藤宮君……」
「どうしたの?」
「あっ……ごめんなさい……あの……ここ……」
「いいよ。そこに座っても」
「あっ……ありがとう……」
それから、俺と土師さんは同じ並びの、三つ隣の席に座るようになった。
加えて俺は、土師さんが自習室に来る度にちょっとした会話を持ちかけるようになった。
今日は天気が良かったね、とか、朝礼長かったね、とか。
そんな当たり障りのない会話だ。
土師さんは、「はい」とか、「そうですね」とか、返してくるだけなので、すぐに会話は終わってしまう。それでも俺は土師さんと会話できるのが嬉しかった。
放課後に土師さんと自習室で会うのが、今まで以上に待ち遠しくて堪らなくなった。
いつも通り挨拶を交わして帰ろうとすると、
「あっ……あのっ……藤宮君……」
呼び止める土師さんの声がした。
紅潮しきった顔と、小さく結んだ唇からは、土師さんの極度の緊張が痛いほど感じ取れた。
「藤宮君……あっ……えっと……」
「待つから、ゆっくりでいいよ」
「あっ……はい……ありがとう……えっと……」
俺は口だけ笑みを作った無表情で、土師さんのお腹の辺りをぼんやりと見つめた。
俺が土師さんだったら、多分こうされるのが一番話しやすいからだ。
それにしても、土師さんは一体俺に何を言うつもりなのだろう。
胸の鼓動が、勝手に高鳴って行く。
そうやって2分だか5分だかの沈黙が流れ、土師さんがそれを破った。
「えっと……藤宮君って……不死身なの?」
「――えっ?」
「……あの……前に……デンチュウ君が言ってて、デンチュウ君とあと、谷崎君なんだけど、その二人が話してるのが聞こえてきて、昼休みにだけど……二人が話してるのが聞こえてきて……学校の七不思議があって、それの一つで、藤宮っていう名前の人が4組に入ったら不死身になっちゃうっていうのがあって……藤宮君は藤宮って苗字だし、4組だから、七不思議が正しいなら不死身って事になって……どうしても気になっちゃって……藤宮君が不死身になってるかずっと聞きたくて……」
「だから自習室に来るようになったの?」
「うん……ごめん……気持ち悪いよね……ストーカーみたいで……でも私気になったら眠れなくなっちゃって……だから……どうしても教えてほしくて……藤宮君が……不死身なのかどうか……」
「ごめん。死んでみないと不死身かどうかは分からないな」
「……あっ……そっか……そうだよね。でも、体の変化とかはなかった? あの……例えば……入学して4組に入ってから、体が軽くなったりとか、逆にだるくなったりとか」
「別に無いかな」
「そっか……そうだよね。ごめんね変な事聞いちゃって……」
「気にしなくていいよ。話し掛けてくれてありがとう」
「えっ……えっと……うん……私も、ありがとう」
「じゃあ、さよなら。また来週ね。土師さん」
「うん。……さよなら……藤宮君……また話そうね。あと……もし藤宮君が不死身になったと思ったら、その時は絶対教えてね」