黒あげは
2002年ころに書いた話です。
医療もので実際にどういうことができそうかな、と思いつつ書いた覚えがあります。
プロローグ ―さやか―
――太田さん、亡くなったんだって
斉藤さやかは出勤するなりその話を聞いた。声の聞こえたほうに顔を向けると、奥のほうで看護婦が三人かたまって着替えている。そのなかに、内科に行ったときによく見る看護婦がいた。
彼女がこちらに気付いて、軽く頭を下げた。さやかもつられて頭を下げたが、なんとなく立ち聞きしたような気まずさがあって、慌てて上着と荷物をロッカーに入れると、白衣を羽織りながら更衣室をあとにした。
「おはよう」
薬剤部に入ると、さやかより四年先輩の安西道人が声をかけてきた。さやかは、おはようございます、と挨拶を返して自分の席に座った。他にはまだ誰も出勤していない。
四年先輩といっても、薬剤部のなかでは安西がいちばんさやかと歳が近く、ここでの仕事をさやかに一通り教えこんだのが安西だった。
大柄で筋肉質の安西だが、高校を出てからは運動らしい運動はやっていない、という。
「昨日はどうでした?」
さやかは机の上に荷物を置きながら、何とはなしに訊いた。
「ああ、そういえば急患が来てたなあ」
いかにも眠そうに安西は言った。「でも、こっちにはそんなに複雑な指示はこなかったな。A型赤血球MAPを払い出しただけだからなあ……あ」
それを聞いた途端、さやかの頭にさっきの更衣室での会話がよみがえってきた。
安西はそんなさやかの様子に気付くこともなく、大きく伸びをしながらあくびをすると、顎を触って、
「あ、俺ちょっとひげ剃ってくる。もし何か来たらおねがい」
そう言って出ていった。はい、と返事をしてさやかは頬杖をついた。
病院に勤めて三年になる。総合病院なので、重病の患者もかなり受診するし、急患も運ばれてくる。病院の中で息を引き取る患者も多い。
さすがに一年も勤めると、そのたびにいちいち動揺することもなくなったが、ふとした瞬間に死者用のエレベーターが動いているのを見てしまったりすると、この仕事、って何のためにあるんだろう、と、とても寂しくなる。さやかはいつもそれを見ながら、自分にはきっと、医師も看護婦もできない、と思う。もし医師になっていたら、それを見たときどういう思考をしていただろうか。
「おはよう。あれ? 今日は斉藤が当直だったかな」
目を瞑ってそんなことをぼんやり考えていたら、川原崎主幹が出勤してきた。
「いえ、私は今来たところです。今日は安西さんが」
川原崎はそれを聞くと、そうだよな、安西だよな。あいつどこにいるんだ、と言った。
四十代の後半になって、すこし太ってきたなあ、と言っているものの、気にしている様子は全くない。今年、息子がさやかの出身高校に入学したようで、最近さやかとよく高校の話をする。
「安西さん、今、顔を洗いに行きましたけど」
さやかが答えると同時に、なに? 俺がどうかした? と声がして、ひげを剃って安西が戻ってきた。
「ああ、安西、この前の件だけど」
川原崎が言いかけると、安西は途中でそれを遮るように、
「ええ、やっぱりこの前お願いした通りにさせてもらおうと思ってます」
と言った。
それを聞いた川原崎は、ひと呼吸置いてから、
「そうか……。それもひとつの選択だ。これからもしっかりやれよ」
と言って、笑顔で安西の両肩をぽんぽん、と叩いた。
安西が、はい、がんばります、と答えているその光景を、さやかはひとりわけがわからず眺めていた。
1 ―碧―
「島田さーん。お入り下さい」
柴山碧はカルテにざっと目を通しながら、患者の名前を呼んだ。カーテンが開けられて、順番待ちの患者たちが並んでいるのが一瞬だけ見えた。月曜と木曜の午前中は、碧がひとりで内科の外来を受け持っている。
患者が入ってきたことがわかると、見向きもせずに、おかけください、と言った。目は相変わらずカルテを追っている。
隣の部屋とは簡単な仕切りがあるだけの部屋だ。部屋というよりただの診察スペースといった方が合っているかもしれない。仕切りの片側には机(よく小学校にあるようなスチールのやつだ)があり、すこしの本と沢山のファイルが並んでいる。碧は机の上にカルテをおいて、今日の日付のはんこを押した。
碧はついこのまえ四十を過ぎたものの、三十代の半ばと言っても充分通りそうな端整な顔立ちをしている。それに、ただ端整というだけではなく、一挙一動にどことなく妖艶な魅力が伴っていた。カルテを追う目と、それにつられて動く睫毛に、男性どころか女性患者の中にも見とれてしまう者がいる。
それに加えて診察も丁寧なので、患者の評判もなかなかいい。
患者に言い寄られたり、求婚されたりしたこともたくさんあった。
さすがに歳とともにそんなことはなくなってきたが、ついふた月前に、十九歳の入院患者に付き合って下さい、と言われて、誰かが自分をからかおうとしているんじゃないかと勘ぐったほどだ。
「島田さん、体調はどうですか」
「ええ、変わりないですけど、ここのところちょっと熱っぽくて、咳もすこし出て、もしかしたら風邪でもひいたかと思いまして」
島田と呼ばれた六十過ぎの患者は、ずっとかかっている大腸炎のほうは変わりないが、なんとなく近頃不調だ、と訴えた。
碧は目の前の患者に視線を移して、うんうんと頷きながら話を聞いていた。
今日はいい天気だ。碧の後ろにある窓から柔らかい日差しが入っているのがわかる。
窓から入った光は、診察室の中を散乱して碧の机を普段よりもあかるく見せていた。ペン立て代わりに使っているトムとジェリーのマグカップも、いつもより鮮やかに見える。
直接その光の中に入りたくなる衝動を抑えて、碧は言った。
「そうですか。それじゃあ、いつもの大腸炎のお薬のほかに、風邪薬も出してあげましょうか?」
「ええ、そうしてもらえると助かります」
見た目にも髪の毛のすっかり乏しくなってきている男が、碧に向かって礼を述べた。碧は頷くと、
「それじゃあ、念のため一通り診察しますね」
と言って、服をまくるように指示した。碧は聴診器をはめながら、隣の部屋に向かって、真紀ちゃん、血圧計おねがいー、と言うと、手際良く聴診をはじめた。
後ろを向かせて背中側を聴診しているときに、隣の部屋から血圧計を持って大和真紀が診察室に入ってきた。
真紀は、まだ二十代前半で、この病院に勤めはじめてから三年も経っていない。
碧のように目を奪われるほどの美人ではないけれど、常に溌剌として人と接しているので、患者からはもちろん、医師のあいだでも評判の良い看護婦だった。
碧は真紀に軽く目配せをすると、真紀は頷いて、血圧計を机の上に置いて準備をはじめた。
「はい、それじゃあ服はもういいです。また前を向いて下さい」
患者は、言われた通りに服を正して、また碧と向き合う形になった。「あと、血圧と体温を測りますからね。今度は腕をまくって下さい」
そう言いながら碧がなにやらカルテに記入しているあいだに、真紀は患者の腕に血圧計をセットした。患者の後ろを回ったときに、
「あ、髪の毛ついてますよ」
と言って、真紀は患者の服についていた髪の毛をつまんだ。
「ああ、わざわざすまんねえ」
「いえいえ。それじゃ先生、あとはよろしいでしょうか」
真紀の言葉に、はーい、ごくろうさん、と碧が答えると、お大事にしてください、と患者に言い残して、真紀は再び隣の部屋に消えていった。
「いまどきの子にしては、できた子だねえ」
「そうでしょう。あたしが開業するときには、是非あの子も連れていきたいんだけどねえ。病院の方がうんと言ってくれるかしらねえ……、と……。百五十二の九十四。ちょっと高めですねえ、島田さん」
明るく喋りながら碧はカルテに記録をしていった。患者は不安そうに、高いですか、と訊いた。
「いや、心配するほどじゃないですけどね。気になるようなら、塩分をすこし控えてもらって軽く運動をしてもらえば問題ないですよ。それに、もしかしたら、若くてかわいい子を見たんで緊張しちゃってるだけかもしれないですからね。……それじゃあ、こっちもお願いしますね」
そう言って、碧は体温計を渡すと患者の腕に巻いた血圧計をばりっと剥がした。そして、椅子をくるっと回してパソコンを打ちはじめた。これに処方を打ちこむと、薬剤部に直接処方箋がまわる仕組になっている。
前回までの大腸炎の薬はDOで、今回、風邪薬かあ。熱っぽくて咳が出る、って言ってたから、PLとメジコンでも出しておこうか。あとは頓用で解熱剤を出しておけば安心するだろう。
患者の、三十六度八分です、という声を聞いてから、碧はエンターキーを押した。
それからカルテに向かうと、今の体温と症状、処方内容を記入しつつ、さも今考えながら言っているように喋った。
「それじゃあ、いつもの大腸炎のお薬のほかに、今日は風邪薬と咳止めを出しておきますね。あと、熱はないようですけど、出てきたときのために、頓服で解熱剤も出しておきます。それと、島田さん、来月の十日に大腸炎の検査入ってますね。忘れずに来てください。じゃ、お大事に」
碧が一気に喋ると、患者は、ありがとうございました、と言って診察室を出ていった。
患者が、内科からも出ていった気配を感じると、碧はもう一度、カルテをいちばん最初から見返してみた。碧が担当になってからは五年が経っている。
そういえば、碧が初めて薬剤部の安西と話をしたのも五年前くらいだったか。
微熱と咳か……。
碧はちいさく笑うと、島田のカルテをめくり、今日の日付の上に、小さく印をつけた。
――
※DO……前回と同じ処方のこと
※PL……正式名称「PL顆粒」
総合感冒薬。発熱や鼻づまりの改善に用いる。以下の四種成分の混合。
サリチルアミド270mg
アセトアミノフェン150mg
無水カフェイン60mg
メチレンジサリチル酸プロメタジン13.5mg
※メジコン……一般名デキストロメトルファン
鎮咳薬。この成分の入った咳止め薬は、OTCでも取り扱いあり。
2 ―道人―
午前十一時を回った。診察室とは違って、一階の調剤室には窓がない。時計を見て、記号としては認識できるが身体は時刻を理解できない。窓の外と教卓の上の時計を交互に見ていた学生時代は、なんて恵まれていたんだろう、と安西道人は思った。この仕事をはじめてからは、日の光どころか、夏の暑さも冬の寒さも、うまく感じることができない。
道人は、三年前から調剤室全体を一任されている。調剤というのは、薬剤部の仕事としていちばんの基礎、といってもいい。病棟から下りてくる処方箋を見て、ぱっぱ、と要求されている薬を揃えて、検薬係の机に並べる。
軟膏を小瓶につめかえたり、水剤を混ぜたり、散剤を取り分けたり。
次々に来る処方箋の要求に従って機械的に捌いていくと、いつの間にか時間が過ぎている。
この仕事をしていると、充実しているようだが、誰もどこにも向かっていない、という気もする。ただ、要求に沿って果てしなく捌きつづける。誰もどこにも向かっていない。
道人は、患者に手渡すだけの状態になっている薬が溜まっているのを見ると、
「表、手伝ってきます」
と言って、投薬の応援に向かった。室内にいる何人かの薬剤師と、調剤補助の人から、ばらばらと了承の返事が来た。
医薬分業が進んで、院内処方の割合は減ってきたものの、完全にゼロにはならない。入院患者はもちろん院内で出すのだが、他にも、病院で直接薬をもらわないと不安で仕方ない、とわがままを言う患者や、特殊な効果を狙って、普通の使い方とは違った薬の使い方をしているときなど、外の薬局では応対が難しいと思われる処方は、院外にはおいそれと出せない。他には、告知をしていないがん患者、とか。
もちろん、院内処方となるのがそんなケースばかりではない、ということは、いつも調剤室で働いている道人たちにはわかっているのだが、対外的にはそう説明している。院外に出せる処方箋を全て移行してしまったら、いまここで働いている薬剤師を何人か切らなければならない。
道人はカウンターごしに薬の説明をしているさやかの隣に立って、次の患者を呼び出すためのボタンを押した。
高血圧の薬、糖尿病の薬、皮膚炎の薬、抗がん剤。
道人は何も考えずに、それらを片っ端から片付けていった。無機質だが、ひとつひとつを丁寧にこなしていく。
それはいつも道人に、さらさらと積もっていく砂山を連想させた。裾のほうから別の場所に砂を運んでいく。砂山に戻ってみると、上のほうにまた新しい砂が積もっている。それ以上砂山が大きくならないように、また運び出す。
「そうそう、血圧が百四十になったのはいいことなんだけど、薬のおかげでそこまで下がってるんだ……。うん、うん……。そうなんだよ、だから、下がったから、って治ったと思って自分で勝手に飲むのやめちゃうと、治るものも治らなくて、また上がってきちゃうと思うよ……。いや、必ずしも一生飲み続けることになる、ってわけじゃないけどね……。うん、長くかかるよ……。だから、毎日きちんと薬を飲んで記録をして、診察のときにそれを先生に見せるようにして、やめるときもね、先生が経過を見ながら、段々に弱い薬にしていくやり方を取ると思うんだ……。うん、そう。だから、自分の判断で薬やめたり、減らしたりすると、余計治りにくくなるから、きっちり飲むようにね。……いいえ。お大事に」
「安西さーん、散剤お願いしますー」
徐々に砂山が減ってきたところに、調剤室から声がかかった。
道人はまた中に戻って、散剤の調製に向かった。調剤室の中もまた忙しさを感じさせている。外来は午前中しか受けていないので、調剤室はお昼前がいちばん忙しくなる。
分包機の前に行くと、これから散剤を調製しなければならない処方箋がたまっていた。奥のほうでは、別の分包機に向かっている薬剤師がいるが、どうやらひとりじゃおっつかなくなってきたらしい。
道人はここでも、決められた順序で、指示通りに、機械的に、薬を準備していった。余分なことを考えない方が、この仕事はうまくいく。
ふたつめの処方箋を手にとって、道人の大きい身体が一瞬止まった。目の前では、道人が手早く準備した散剤を、分包機ががたがたいって取り分けている。
内科からの処方箋だった。医師欄に柴山碧の文字がある。
道人は処方内容を一瞥すると、棚に向かっていき、散剤を取り分けた。次いで、棚の奥から賦形剤にする乳糖を取り出した。
この医師がこういう指示をしてくるのはいつものことだ。
道人はすこし唇の端を歪めて笑った。
柴山の処方箋には、ときどき特殊な指示がある。
あるとき、道人は直接柴山と話をする機会があって、そのときから指示を実行することにした。いや、正確にはそのときに、柴山から話を持ちかけられたのだ。ちょっと特殊な指示をしたいときがあるんだけど、と。
初めて話したとき、道人は柴山のその美貌に単純に驚いた。へぇー、医者やってるにはもったいないくらいの美人じゃないか、自分がこんな美人と話をする機会もあるもんだなあ、と。
今考えてみれば、柴山がその話をもちかけるために、わざわざ道人に近づいてきたんじゃないか、と思えるのだが、柴山という医師に興味が出て、道人はその話に乗った。
処方箋を見てその指示がわかるのは道人だけだが、他の薬剤師たちがそれを見逃したからといって特に問題はない。一回飛ぶだけだ。
道人は薬を分包機に流すと、まるで自分の平静さを取り戻そうとするように、無機質に次の処方箋を捌きはじめた。
――
※検薬……揃えられた薬が本当に処方箋と合致したものかを、別の人が確かめること。
※賦形剤……薬の一回量が少ないとき、嵩を増して分包しやすくするために使われる粉末のこと。主に乳糖が使われる。
3 ―碧―
薬の効果がわかるかもしれませんよ、そう安西に言われて、碧は暗い廊下を歩いていた。非常口を示す緑色の光が一定間隔でぼうっと光っている。
真夜中の病院は、やはりどことなく心細い。
碧は三階の内科から、手早く階段を使ってなるべく足音をさせないようにして地下一階まで下りた。カウンターは一階にあるのに、薬剤部の入り口は地下一階にある。薬の在庫や処方箋、カルテなどを地下に置いて一階をまるまる調剤室に使っているようだ。
ようだ、というのも、碧が薬剤部に入るのは、これが初めてだった。長いこと病棟で医師をやっているのに、入り口で薬剤師と話したことはあっても、これまでいちども薬剤部に入ったことがなかったことに、碧はこのときはじめて気がついた。
安西には勝手に入ってきていい、と言われていたけれど、碧はドアの前で立ち止まって、軽く二回ドアをノックした。
つぎつぎに濃紺が染み出してくる廊下を、その音は、こっ、こっ、と駆け巡った。
碧は、ちいさいころから暗闇が好きだった。どことなくもの寂しい空間。押入れにこもってじっと座っていると、自分の手も足も見えなくなった。碧は本当にそれがそこに存在しているのか確かめようとして、なんども足や顔をぺたぺたと触った。
暗闇の中では、視覚が働かないぶん、触覚や聴覚が鋭くなっている。自分の顔を触る手の感覚、押入れの中までかす微かに届いてくる、台所の包丁の音。
そんなひとり遊びを続けていて、いつか碧は、暗闇の中でわざと自分の指にちいさく傷をつけた。指を口に含むと、その鮮明な鉄の味は、いっぺんに碧の口じゅうに広がった。明るいところで感じた血の味と、あきらかに違った、暗闇の血の味。
暫く待ったけれど何も反応がないので、碧はゆっくりと部屋の中に入った。思ったより大きい音を立てて、かちゃ、とドアが閉まった。
部屋の電気は必要最低限しかつけられていないようで、廊下よりは明るいものの部屋の隅までは見渡せない。碧は、蛍光灯に導かれるように部屋の中まで進むと、階段の上に向かって声をかけた。それに対するように、あがってきてくださいー、とやけに大きな安西の声が返ってきた。
一階に上がると、蛍光灯の明かりが碧の目にまぶしく入りこんだ。
「病棟の方は大丈夫なんですか?」
碧の方を見向きもせずに安西が訊いた。トレーナーにジーンズという恰好の安西が乳鉢の中の白い粉をかき回すと、規則的に、しゃっ、しゃっ、しゃり、しゃっ、しゃっ、という音が生まれて、それはとても小気味良く調剤室に響いた。
「真紀ちゃんに頼んであるから。急患が出たらここに連絡くれるように、って」
それを聞くと安西は動作を止めて、先生もやってみます? と言って乳鉢を碧の前によこした。碧は手渡された乳鉢を片手で支えて、安西がやっていたように乳鉢を回してみた。ごろごろごろ、という音をさせて、粉がすこし舞った。
「これを使ってるんですよ。先生からの指示のときに」
安西は笑いながら白衣を羽織ると、調剤台に別の器具を次々と揃えていった。
「へえ。これ、あたし用のなんだ」
碧は、いかにも楽しそうに笑うと、ちょっとなめてみてもいい? と安西に訊いた。
「どうぞ。でも、なにも味しないですよ」
「うん、それは知ってる」
碧は、掌にその白い粉をすこし落とすと、それを舌先ですくいとった。口の中に粉の感触がひろがった。小麦粉でもなめているような感じだ。
そうして、碧が口をもぞもぞと動かしていると、ほーっ、と安西が溜息をついた。
「ん、なに?」
碧は顔をあげて訊いた。安西はにやにやしながら、
「いや、白衣を着た女性が薬をなめている状況、ってすごくセクシーですよ」
碧は思わず、なによ、と言ったけれど、突然恥ずかしくなって顔が火照った。
そんな碧に気付かず、安西は作業に戻りながら言った。
「あ、それ終わったらそこの褐色瓶に、それ詰めておいてもらえますか?」
碧はもういちど、なによ、とつぶやくと、『乳糖.』とラベルの貼ってある茶色の容器に、スパーテル薬さじを使って、器用に移していった。
「さて」
碧が乳糖を移し終わったころ、準備を終えた安西がつぶやいた。「試料は持ってきました?」
「これよ」
碧は白衣のポケットから、それぞれラベリングされたちいさい試験管をみっつ取り出した。碧の小指よりもひとまわりちいさいその試験管に、髪の毛が一本ずつ入っている。
安西は頷くと、そうですね、それじゃまずこれでやってみましょうか、と言って、たったいまつめ終えたばかりの乳糖の瓶をあけて、ほんのすこし試験管に落とした。
4 ―道人―
道人は、乳糖と濃硫酸を手早く混ぜると、そこに水を加えて発熱させた。これで目的物がイオンの形になって検出できるようになる。精製水できっちり希釈してから、道人は次の段階に移った。
「こんなのでわかっちゃうんだ」
となりに座った柴山が、感心するようにちいさな声で言った。普段では聞き取れないような大きさの声だったけれど、夜の調剤室では充分に聞き取れる大きさだった。道人もそれにつられてちいさな声で返した。
「そうですよ。ちょっと調べたら、分析キットが売られてたんですよ。……それで、この乳糖には、100グラム中に1ミリグラム混ぜてるから……、だいたい1・0ppmですね」
しゃべりながら道人は手順書通りに、ヨウ化カリウムと塩化スズ、亜鉛末の順でキットからとりだし、それぞれをさっさっ、と量りとって試験管に入れていった。
「へえー。インターネット?」
「そうですね」
「いや、あたしにはよくわからない世の中になってきちゃったなあ」
天井をあおぐ柴山に向かって道人は、先生だってコンピュータ使ってるじゃないですか、あれを使えるくらいならネットなんてすぐできるようになりますよ、と言いながら試験管を置いた。
「このまま五分待つようです」
「ふーん、手際いいわね」
「……大学時代は製造化学をやってたんですよ。もう、延々と混ぜたり熱したり冷やしたり分離したり」
「医学部とはだいぶ違うのね……。もっともあたしのいた頃と今とじゃ、それこそ全然ちがうんだろうけど」
柴山はとてもきれいな顔をして笑った。とてもこんなことを思いつくような人には見えない。医師としての信頼もあって、手腕もある。……でも、こっそり世の中と遊ぶのは、いつの時代も優等生なのかもしれない。
「ん? どうしたの?」
そんなことを考えていたら、柴山が道人の顔をのぞきこんだ。
「いや、頭のいい人のいたずら、ってすごいなあ、と思ってただけですよ。俺ならとてもこんなこと、思いつかない」
柴山はそれを聞くと、ふふっ、と下を向いて笑った。揺れる睫毛に、道人は一瞬みとれていた。
沸きあがりそうになった何かの感情を打ち消すように、道人は試験管にセットした臭化水銀紙を引き抜いた。それは、あきらかな黄色に呈色していた。
「おおーっ、ちゃんと反応するんだ」
柴山は、いかにも感心したように言った。「でも、こんなに色でちゃうくらいなのに、全然影響ないんだね」
「……そりゃ、この濃度の水を飲食用にしていたら、すぐに……、っていっても半年くらいはかかるでしょうけど、効果は現れてくると思いますよ。これを更に小分けして、患者に出すときにはもっと薄くなってますしね。人によっては、全然影響されない人もいるんじゃないですか?」
道人の言葉を聞きながら柴山は楽しそうに、椅子の上で体を揺らしつつ、そうね、と呟いた。
そんな柴山を見ていると、突如道人は自分もこのゲームに参加していることが楽しくなってきた。もう、抑えられなかった。
こんな話、普段だったら断っていたはずだ。けれど、柴山からもちかけられたこの話を、道人は断ることができなかった。
彼女に惚れてしまったからかもしれない。いままではずっとそう思ってきた。けれど、柴山の美貌や魅力のせいだけではなかった。つまり、自分もそういう人間だったのだ。そこまで道人の思考が到達すると、ふっと肩から力が抜けた。
「まったく。この人、何を考えてるんだか」
「え? なに?」
「……いや、ひとりごとですよ。そうだ、それより、カルテ見てみますか? 持ってきたサンプル、誰のです?」
道人はそう言いながら、スクリーンセーバーの立ち上がっていたパソコンのマウスをぐりぐり動かした。自分の声は、いままでよりもあきらかに楽しげに響いている。
「でも、よくこんな方法、考えましたよね」
「そう? 安西くんがあたしのパソコンのプログラムいじってくれなかったら、実行できなかったけどね」
そう言う柴山の顔を見て、道人は目を閉じて笑った。
三人のカルテを見ると、ここ五年くらいは、断続的に柴山からの指示がついていた。
大抵の薬名の後ろに、ちいさくピリオドがついている。ピリオドがついているとき、道人が調剤をしていれば、指示通りの乳糖を使う。他の人が担当していれば、どうなるかはわからない。この『乳糖.』は、なるべく棚の奥に置くように心がけているが、もちろん、誰かが指示と関係なしに使う可能性も、ある。
危険を冒してまで砒素を手に入れてもなんの効果もあがらないかもしれないのに、医師が患者に毒を飲ませるようなことをなぜするのか、そんな疑問をずっと抱いていた。そして、道人はこのゲームに参加しつつ、一方で罪悪感を抱えていた。
けれど、なんのことはない。人間の命が、自分たちの選択によって左右される快感の方が、自分に植えつけられた道徳よりも上だったのだ。
そして、そのことは柴山に見抜かれていたんだろう。だから柴山は断られることを考えもせずに道人に声をかけてきたんじゃないのか……。
「これ見ると、一目瞭然ね」
カルテを眺めていた柴山が言った。
「そうですか?」
「うん。太田さんと島田さんはここ四、五年くらいずっとこの薬がいってる。もう一人の細野さんは、あんまり安西くんが担当してないみたいね」
蛍光灯に照らされた柴山の顔が、ものすごく美しく見えた。それは、道人がこどもの頃に心を奪われた黒あげはのようだった。道人は、その横顔を永遠に目に焼きつけようとして、じっと見つめていた。
そして、三人分の髪の毛を続けて検査した。試料が少なかったので希釈は一切しなかった。
髪の毛を検査した臭化水銀紙は、ふたつがはっきりと褐色に呈色したが、残りのひとつはほとんど呈色しなかった。
砒素の致死量は、亜砒酸として100ミリグラムから300ミリグラム。
それよりもはるかに少ない量を摂取しても、特に問題はない。飲料水などにもごく少量の砒素が検出されることがある。
けれど、一定量を継続的に摂取しつづけた場合、慢性的な中毒になり、微熱や咳といった風邪に似た症状が現れる。そのまま気づかずに摂取しつづけると死に至る場合もある。
安西が口を開きかけたとき、内線電話が鳴った。
電話は、三階の内科病棟からだった。真紀の声が道人に急患を告げた。
「先生、急患ですって」
道人は落ち着き払って言った。
「あら。こんなときに。大変な患者だと嫌ね」
「大丈夫ですよ……。患者さんの名前、島田、って言ってましたから」
「あら、そうなの」
道人と柴山は視線を交わして、どちらからともなく笑った。
「それじゃ、一応いかなきゃね」
柴山はそう言って腰を上げたが、「ああ、そういえば、さっき言いかけたこと、なに?」と道人の方を振りかえった。
「いや、どうして俺をこのゲームに誘ったのか訊こうと思ったんですよ」
柴山は、とてもやさしく笑って、
「だって、あたしたち、おなじ種類の人間じゃない。はじめて会った瞬間、わからなかった?」
その言葉に、やっぱり見抜かれていたのか、と道人は思い、「かないませんね、先生には」と言って両手を上げた。
「もしかして、大和さんもですか?」
「真紀ちゃん? そうね。あの子はあたしたちとはちょっと違うみたいだけど……、あたしにとっては忠実で優秀な部下ね」
柴山はそれだけ言うと、手をひらひら振りながら調剤室を出ていった。道人は、その後ろ姿に、はじめて一点も疑念のない笑顔を向けた。
でも、もうすべてが遅かった。
もうすこし早く、自分がそういう人間なんだ、と気づいていたら。いままでの教育で身につけてしまったほんのすこしの正義感……、いや、偽善といったほうがいいだろうか。それとも、変にねじまがった罪悪感。
どこかで楽しんでいた、と気づいたものの、道人はこの行為にはっきりと追いつめられていた。
道人はかるくひとつ咳をすると、調剤台に寄りかかった。
そして、そのままじっと目をつぶって、内科からくるであろう指示を待ちつづけた。
五分後、数種類の注射薬の払い出し指示が内科から出された。
エピローグ ―さやか―
目の前で安西の送別会が行われている。内科の柴山と組んで開業する、と先日聞いた。明日からはさやかが調剤室全般を受け持つことになっている。
安西は、ここで学んだことを生かして次に繋げていきたい、と挨拶をした。安西は風邪気味らしく、どこかだるそうで、ときどき咳をしていた。
河原崎主幹と武田薬剤部長が激励をして、すこしだがみんなでアルコールを飲んだ。
安西がさやかの隣にきて、これからがんばれよ、と言ったとき、さやかはなんだかとても寂しくなってしまった。
安西さんいなくなったら、調剤室の空気が少し濃くなりそうですよ、とさやかが返すと、安西は豪快に笑って、なんだよそれ、と言った。さやかも一緒に笑った。
――
砒素分析キット参考ページ
http://www.asia-arsenic.net/askit14y/715aan.htm