かみべとり
中心に杉の木が植えられた駅前のバスロータリー、そのコンクリートの敷石で舗装された歩道を、通勤客や通学中の学生が改札へと向かって歩いて行く。首都圏や地方都市の駅では、どこでも見られるような光景であった。
そんな朝の日常風景を切り裂くような高い金属音が駅のコンコースに響き渡る。なんだ、と思う間もなく大きな悲鳴が聞こえた。
今宮ノブオは、ちょうどその時改札を通ったところだった。
学生がふざけ合っているのだろうか。一つ向こうの駅には女子大がある。最近は大学生と言っても子どもっぽいものも多い。けしからんな、などと思いながら改札にICカードを通した。
ノブオはWEBメディアを運営する会社で、部長の職に就いていた。勤務先はこの駅から下り線で5駅のところにある。
ホームへ続く階段へ足を向けると、ざわざわと人が集まり始めていた。
一体なんだというのだろうか。人込みをかき分けるようにして、ノブオはエレベーターの方へ向かった。
ホームの先頭の方にこのエレベーターが設置されたのは6年前、ノブオがこの辺りに越してくる前のことだ。
駅の大規模なリニューアルに合わせて設置されたそうで、それまでは階段しかない上にトイレも汚く、この駅の施設は沿線で最低ではないかと思うぐらい酷いものだったらしい。
エレベーターの「昇る」ボタンを押して、ノブオは箱が下りてくるのを待った。最近はどうにも息が切れやすく、階段を上るのが辛い。医者からは、できるだけ毎日階段を使うよう言われているが、つい乗ってしまっている。
エレベーターを待つ間も、周囲の人だかりやざわめきが大きくなってきていた。
ざわめきの中に「人が落ちた」とか「人身事故」、「バラバラ死体」などという言葉が飛び交っているのが聞こえる。
なるほど、さっきの金属音はブレーキの音で、悲鳴は誰かが飛び降りたのを見てのことだろう、と得心する。
しかし、また人身事故か。ノブオは内心で毒づいた。迷惑なものだ。電車は確実に遅れるだろう。大勢に迷惑をかけて、死ぬならば一人で死ねばいいのに。
そう言えば、去年も似たような時期にあった。気温が不安定で、人が憂鬱になりやすい時期だからだろうか。
エレベーターはすぐに降りてきた。ドアが開き、中に足を踏み入れようとして、ノブオは異常に気が付いた。
床が、赤く染まっている。
その中心に鎮座しているものを見て、ノブオは年甲斐もなく大きな声を上げた。膝から下の力が抜け、尻もちをついて後ずさってしまった。
声を聞きつけて周囲の人々の視線がノブオと、エレベーターの中に向けられた。
どよめきが大きくなる。いくつもの悲鳴が交錯し、駅員が改札やホームから走ってくる足音が聞こえた。
エレベーターの中にあったのは、人間の首だった。
カッと目を見開き、口がぽっかり開いている。怯えたような表情にも見えた。
つい先ほど、ホームから線路へ飛び降りた男の首だった。
◆ ◇ ◆
上辺鳥駅と言われて、沿線の住人以外でどこのどんな駅かすぐに思い当たるのは、よほどの鉄道マニアであろう。
K電鉄・上辺鳥駅は、特徴らしい特徴を持たない、どこにでもあるような駅である。
駅舎は高架となっており、改札へ続く入り口の隣にはコンビニエンスストアとクリーニング店が入っている。その眼前には真新しいバスターミナルとマンションが建つ。
駅の周辺は大都市圏のベッドタウンとして開発されており、そこからの通勤客や買い物客が主な利用者だ。駅から徒歩5分の所には、大きなスーパーが建っている。
プラットホームは島式2面4線、日の乗降者数はのべ27000人ほど。快速と特急は停まらず、通過待ちが行われる駅だ。そのためK電車の利用者ならば、降りたことはなくとも「上辺鳥」という名前は駅のアナウンスでよく聞くことになる。「上辺鳥までは準急が先着いたします」といった具合に。
今回、どこの地方都市にも一つはあるようなこの「無個性な」駅に筆者が注目したのは、この駅では線路に転落する人身事故が、同沿線の他の駅に比べると極めて多いためである。
また、怪奇な噂も多く囁かれている。ホームや駅のトイレで「何か」を見た、という証言が数多く寄せられた。
上辺鳥の駅は6年前に大規模なリニューアル工事が行われた。白く立派な建物と変わったその真新しいコンコースに、一体如何なる闇が潜む余地があるというのか。
本稿では、この駅にまつわる怪奇現象や、人身事故の当事者たる元運転士の証言をいくつか紹介する中で、上辺鳥駅に隠された「異常さ」について解き明かしていきたい。
※ ※ ※
Aさん(仮名)はO女子大学の文学部で学ぶ大学生である。楚々とした外見で、眼鏡をかけた大人しそうな女性だ。K電車を利用して、沿線にある実家から10駅ほど離れたO女子大へ通っている。
O女子大前は上辺鳥駅の下り線における次の駅だ。ここも各駅停車しか停まらない。
つまり、Aさんは毎日の通学で上辺鳥駅を通る電車を利用している。
「わたしが乗っているのは結構お客さんの多い時間帯で、座れないこと多いんです」
その日もロングシートはどれもいっぱいで、Aさんはいつものように座席の前の吊り革につかまっていたという。
「わたし以外にも何人か立っている人はいました。あの長い座席、シートって言うんですか? あれ一つにつき1人か2人が前に立ってるって感じで」
Aさんは半ば吊り革にもたれるようにスマホの画面を見ていたという。
「結構通学時間長くて……。あ、試験とかの前は勉強したりもしてますよ?」
スマホを見ているうちに、電車は上辺鳥駅に到着する。ドアが開き、何人か乗客が乗ってきた気配がしたそうだ。
「特にそっちを見たりとかはしないんですけど、わたしのちょうど後ろに立った気配がして」
前述のように、車両は座席がいっぱいとは言え、立っている乗客はまばらだ。それなのに、わざわざ人の真後ろに立つことに、Aさんはざらっとした意図を感じたという。
「わたし、高校の時も電車通学だったんですけど、その時に同じ高校の子が痴漢に遭ったりしてて、だから何だか嫌な予感がしたんです」
後ろを振り返ると意識していると思われる。そう考えて、Aさんはそっと体をずらすことにした。
「吊り革二つ分、奥に行ったんです。車両と車両をつなぐドアの方に」
すると、気配もそれを追いかけてきたという。
「恐ろしくって。でも、もう動けなかったんです」
これ以上移動して、また追いかけてこられた方が怖い。そう思ったそうだ。
「変に逃げて、『自意識過剰じゃないか』みたいな因縁をつけられるかも、って。そう考えちゃったんです」
走る電車の中では逃げ場はない。他に乗客がいても、助けてくれる人がいるとは必ずしも言えない社会だ。
そんな中で、Aさんの腰に何かが触れた。
「当たった、とかそんな感触ではありませんでした」
明確な意思の伴った「撫でた」であった。
「声が出ませんでした。すごく震えてたと思います」
怖がるAさんの腰から、「撫でる」ものは脇腹から脇の下あたりへと上がってくる。少し手を伸ばされれば胸だ。感触と同時に、耐えがたい怖気と吐き気が湧き上がってきた。
「こんな上の方までくるのか、って思って……」
痴漢とすれば大胆すぎるが、どうも違うのではないか、ともAさんは感じたそうだ。
「胸とかお尻を触るみたいじゃないですか、普通。でも、違ったんです」
手は脇の下から胸ではなく背中に回ったのだ。
「通学用にリュックを背負ってるんですけど、そっちに行ったんです」
財布でも取るつもりなのか。体から感触が離れても、警戒心は変わらない。
リュックの上を何かが這い、それは肩口に戻ってくる。
「両肩に来てるんですよ、いつの間にか」
肩を撫で上げるようにして、それはAさんの首筋に「巻きついた」という。
「突然首にきたんで、わたしもう本当に驚いてしまって……。今まで堪えていた声が一気に出たんです」
ひゃぁっ、と悲鳴を上げると首筋に触れていたそれが、潮が引くようになくなったという。
「声が出て、ちょっと気持ちが楽になったんです。硬直してた体が動いて……」
ほとんど反射的に、Aさんは振り向いたという。
しかし……。
「誰もいなかったんです。わたしの後ろには誰も立っていなかった……」
シートに座っていた人たちが、奇異の目でこちらを見ていたという。
――お嬢ちゃん、どうしたの? 1人で大きな声を出して。
「向かいに座ってたおじいさんが、そう聞いてきたんです」
後ろには誰もいなかった。そして向かいにいた老人は、Aさんが突然悲鳴を上げたと思っている。
では、さっきまで腰やリュックや首筋を触っていたのは……?
「気まずいやら恥ずかしいやら不気味やらで、なんて言ったのかは忘れたんですけど、ちょうど電車がO女前に着いたんで、逃げるように降りましたね」
あれは何だったのだろう? 吊り革に捕まったまま夢でも見たのだろうか。
モヤモヤした気持ちを抱え、O女子大前駅のホームを歩いていると、「ちょっと」と背後から声を掛けられた。
「紫っぽい服を着たおばさんでした。どうも、わたしが立ってた辺りに座ってた人みたいで」
水晶の数珠をつけていたというその女性は、声を潜めてこう言ったという。
――さっきの、わたしは見えてたわよ。
驚いてAさんが聞き返すと、逆にこう質問されたという。
――あなた、上辺鳥で降りることあるの?
「わたしが『ないですけど』と言ったら、おばさん『ああ、よかったわ』って」
――あそこで降りちゃダメよ。あなたったら、さっきあそこの駅で乗ってきたモノに好かれてるみたいだから。
「それだけ言って、おばさんどっか行っちゃったんです」
モノ、という言い方に、Aさんは底知れない不安を感じたという。
「さっきね、わたし『肩から首筋に巻きついてきた』って言ったじゃないですか」
あれは喩えじゃないんですよ。Aさんは少し暗い顔で続ける。
「本当に巻きついてきたんですよ。ロープとか蛇みたいな、そういう細長いモノが……」
この体験から一年が経つが、Aさんは今でも上辺鳥駅では降りられないという。
「今でも電車に乗ってて、あの駅が近づいてくるとドキッとします。だから、できるだけ友達と乗るようにしています。1人でいると、またあの『モノ』が乗ってくるような気がして……」
※ ※ ※
会社員のB氏(仮名)は、上辺鳥駅のホームで奇妙な現象に行き会ったという。40代で沿線の電機メーカーに勤めるB氏は、飲み会の機会が多いそうだ。
「俺の最寄り駅は上辺鳥駅の一つ向こう、K園でね」
上辺鳥の次の駅は、下り方面がO女子大前、上り方面がK園である。
「上辺鳥の近くには車両基地があって、だから上り方面の最終は上辺鳥止まりの鈍行なんだ」
仕事や飲み会で遅くなった時、B氏は上辺鳥で降りてK園まで歩くそうだ。
「これは今から6年くらい前だから、駅舎が新しくなったくらいの時か」
その日、B氏は会社の飲み会で遅くなり、最終電車である上辺鳥行きの各駅停車に乗った。
「確か忘年会の時期でベロベロに酔っててさ、電車の中でもうつらうつらしてたんだよ」
B氏が乗った駅から上辺鳥までは20分ほど。その間、気持ち悪くて仕方なかったという。
「いやホント、年々飲める量が少なくなってきてるね……。歳だわ……」
それはともかく、上辺鳥についてもフラフラだったB氏は、電車から転げるように降りて、ホームのベンチにすがりついた。
「これは階段降りられないわ、って。いや、新しくできたエレベーターもあるけど、そこまで歩けないわ、ってなってさ」
ちょっと休んでから歩き出そう。そう考えたB氏は、ベンチに座って一息ついた。冬の夜風が身に染みる。
「もう飲まない、二度としない……みたいなこと思ってたら、妙な声が聞こえてきたんだ」
それは耳の底に響くような重低音だったという。
「ボーッ、ボーッてさ、言ってるんだよ」
一定の周期で、その「声」は繰り返されていた。
「そう、『声』なんだよ。機械の音とかじゃ断じてない。昔、山で聞いたフクロウの声を、もっと低くした感じの」
何かいるんじゃないか? 酔った頭を揺らす重低音の正体を探して、B氏はホームを見回した。
「天井に変な鳥でもいるのか、と思ったんだけど特に何もない。じゃあホームの上に何かいるかって言うと、そんなわけもない。……で、気付いたんだ」
B氏がいる向かい側、下りのホーム、その下から聞こえてきている。
ふらふらとB氏は立ち上がり、声の主が何者か確かめようとした。
「酔いが回ってたからかな? 何でだか確かめずにはいられなかったんだよ」
向かいのホームの真下は、時間帯もあってか真っ暗だった。闇が蟠ったようなそこから、声は確かに響いているのだ。
「真っ暗だからさ、全然見えないの。でも、何がいるのかすごく見たくてさ……」
B氏はゆっくりと、ホームの端へと近づいていく。声は大きくなってくる。だが、闇はますます濃くなるようで、その主の姿をはっきりとは捉えられない。
「もうすぐ見える、もうすぐ……って、そう思った時だった」
――危ない!
突然腕を誰かに掴まれたという。
「後ろに引っ張られて、転びそうになったんだけど……」
我に返ったB氏はゾッとしたという。いつの間にか、黄色い点字パネルを越え、せり出したホームの端に立っていたのだ。あと一歩踏み出していたら、線路へ転げ落ちるところだった。
「腕を引いたの駅員さんでね、『お客さん危ないですよ』って、ちょっと青い顔で言うんだよね」
すんません、酔ってて、ありがとう。B氏の謝罪と感謝に、しかし駅員は上の空だったという。
「何だボケっとして、って思ってたら、いきなりその駅員、こんなこと聞いてくるんだよ」
――今、声が聞こえていましたか? 「ボーッ、ボーッ」というような。
「え、ってなってさ。耳を澄ましたんだけど……」
もうその声は聞こえなくなっていたという。
「ならよかった、って。安心したみたいに言うんだよ」
そして、「早くお帰りください」と言い残して駅員は行ってしまったという。
「釈然としないっていうか、ちょっと怖いなっていうか……」
声は酔いが聞かせた幻聴ではないのか。駅員は何故、その声がしていると知っていたのか。そして、「もう聞こえないならよかった」とは? 聞こえ続けていたなら、何が起こったというのか。
「もやもやしてさ、ちょっと下りのホームの方、振り返ったんだよ」
そしてB氏はもう一度驚いたという。
「全然暗くないの。ホームの灯りがさ、底までちゃんと照らしてんのよ。あの声がしてた時みたいに、真っ暗じゃないんだ」
聞こえた声は、あの時見えた闇から鳴っていたのではないか。B氏はそう考えているそうだ。
「あれから終電乗るのが気持ち悪くなったよ。だから、最近はできるだけお酒は控えてる」
※ ※ ※
C氏(仮名)はある医療機器メーカーで営業の職に就いている。少し色白で朴訥そうな雰囲気の30歳前後の男性である。
「上辺鳥駅のことは、あまり思い出したくないですね……」
そう語る彼の前職は駅員だ。駅舎がリニューアルされた年まで上辺鳥駅で働いていたという。
「前の駅舎は非常に古くて、ICカード対応の自動改札機も2台しかないという有様でした」
どの設備も老朽化していたが、とりわけ酷かったのがトイレだという。
「センサー式どころか、和式便器しかないし、お客様からは甚だ不評でした。我々も防犯も兼ねて利用するんですが、まあ嫌でしたね」
それを象徴するエピソードがある。
「改札横の案内所に詰めていると、50代くらいの女性のお客様が『ちょっと』と声を掛けてくるのです」
何でしょう、と尋ね返すと「トイレある?」と聞かれた。
「構内のトイレをご案内すると、『そうじゃないの』と」
その女性は駅の中のトイレが汚いから別の場所にないか、と聞きたかったらしい。
「そんなトイレでしたから、リニューアルできれいになった時は嬉しかったですよ。もう『そこの出口から徒歩5分の所にスーパーがあります』なんて言わなくていいし。我々も日ごろから利用するところですから」
だけど、と苦笑混じりに話していたC氏の顔に影が差す。
「新しくなってから、妙なことが起きたんです」
改装当初、上辺鳥の駅員たちは新しいトイレを喜んで使っていたのだが……。
「リニューアル工事が終わって一か月くらいかな、ある遅番の日のことでした。23時頃で、もう終電間際だったのですが、用を足しに行ったのです」
23時も過ぎるとダイヤはまばらになる。トイレにはC氏以外に人の姿はなかった。
ないはずだった。
「用を済ませて手を洗って、ふと顔を上げたんです」
見るともなしに見た鏡、疲れた自分の顔の後ろ、肩越しに何かがいた。
「ここのところに、ぼやっとしたものがあったんです」
C氏は自分の左肩の辺りを指さした。
「黒い……、細長い影でした」
慌てて振り返ったが、誰もいない。気のせいか、と思った次の瞬間、C氏は目を疑った。
3台並んでいる小便器と奥の個室の便器が、一斉に水を流したのだ。
「小便器の方はセンサー式なんです。人が近づくと流れるタイプの。それが、急に一斉に流れて」
このタイプのものは、施設洗浄のために誰もいないのに流れることがある。だが、そう思いたいC氏の思考を阻んだのが、2台ある個室の便器だ。
「こっちはセンサー式じゃないんです。人が押さないと流れないのに……」
ほとんどパニックになって、C氏はトイレを飛び出したという。
そしてすぐさま、一緒に遅番に入っていた駅長に報告した。あまりにも恐ろしく、誰かに話を聞いてほしかった。
「言ってから、『やっちゃったかな』って思ったんです。そんな話、上司にしないじゃないですか」
話すうちに冷静になって、こんなこと言う必要もなかったのでは、とC氏は後悔した。
しかし。
「駅長は『お前もか』って言ったんです。『お前も見たのか』って」
何人もの駅員がこの一か月、同じような体験をしていると駅長は言ったそうだ。
「おかしな話ですよね。リニューアル前の古いトイレならともかく、新しくなってからこんなことが起こるなんて」
前の古いトイレでは、その手の現象は誰も経験していないという。明るく新しいトイレになってから、というのが実に奇妙であった。
「ホームの下から変な声が聞こえるとか、奇妙なことが何度もあって、結局辞めてしまいました。それで、次の会社はK電車の沿線でないところにしようと」
それほどに、上辺鳥駅での体験には恐怖していたということだろうか。
「完全に縁を切ってしまいたかったんです。降りることはおろか、通過もしたくなくって……」
上辺鳥駅の怪奇現象、その原因に心当たりはありますか? そう尋ねると、C氏は難しい顔をして首をひねる。
「一つ、あるんですけど……」
※ ※ ※
K電鉄で一年前まで運転士をしていたというD氏からも話を聞くことができた。
「上辺鳥駅は、もうその名前も聞きたくないくらいですよ」
それは、彼が運転士を辞めた理由が上辺鳥駅にあるからだ。
「僕は観光系の専門学校を出て、K電鉄の運輸部門に入りました。最初から運転士志望だったんです」
電車の運転士になるのは幼い頃からの夢だったとD氏は話す。
「小さい頃から電車に乗るのが好きで、それで進路も選んだんですよ」
18歳の時の夢を大人になって叶える人間は2割にも満たない、という。そんな「2割」の1人だったはずのD氏が職を辞するような事態とは何だったのか。
「あの日、私はS駅発Y駅行き下りの特急列車に乗務し、上辺鳥駅を通過しようとしていました。通勤通学の時間帯で、どの駅にもお客様がたくさん並んでいました」
上辺鳥駅は2面4線の島式プラットホームを持つことは、前述の通りだ。下りの列車が発着するのは3番線と4番線、D氏の運転する電車も3番線を通過しようとしていた。
「ホームの端に差し掛かった時、前方の線路の辺りに何か黒いものの影が揺らめいていました」
落下物か、とD氏は目を凝らしたが、影はすぐに消えてしまった。
気のせいだったか、とそのまま電車を進める。次の瞬間だった。
「進行方向の端、ホームから人が線路に転落したんです」
D氏は慌ててブレーキを掛けたが、間に合わなかった。
耳の奥をつんざくブレーキ音の後、ガクンという衝撃と何かに乗り上げる感触があった。
今でもそのゾッとする感触が、ありありと蘇るのだろう。D氏は二の腕をさする。
「すぐに駅に連絡したんですが、もう……」
現場は惨憺たる状況であったという。
「僕、もう運転席で震えが止まらなくて……」
本来であるならば、乗務員も確認にあたらねばならない場面だ。だが、その時D氏は運転席からどうしても出られなかった。
「覚悟はしていたはずでした。運転士になれば、人身事故はつきものですから。だけど、その時はどうしても外に出られなかった……」
構内ということもあり、上辺鳥駅の駅員が確認にあたってくれたそうだ。後から話を聞くと、「ものすごく飛び散っていた」という。
「本当にバラバラになっていたみたいで、その……、体の一部が……」
D氏は明言を避けたが、この「体の一部」とは頭のことである。線路の外で発見された、という話を筆者は別の関係者への取材で聞き取っている。
「電車にぶつかっただけであんな風になるのかな、って。それぐらい酷かったって……」
隠語で「マグロ」とも呼ばれる轢死体であるが、その回収作業は凄惨を極める。
だが、D氏が運転席から出られなかったのは、別の理由からだ。
死体が死体となる前、すなわちホームから線路へ飛び込んできた瞬間のことだった。その時に目撃したことが、彼に子供の頃からの夢を諦めさせる原因となった。
「飛び込んできたんじゃないんです、あの女の人」
引き摺り込まれたんです。
真剣な眼差しで、D氏は言った。
「ホームの下から、黒い影のようなものが染み出していたんです……」
植物のツルのように細長く幾本も伸びたその影は、ホームの黄色い線の内側に立っていた女性の足に絡みつき、線路の方へと引っ張った。
「その瞬間を、僕ははっきりと見ました。スローモーションみたいになって、目の中に焼き付いてるんです。死んだ瞬間の顔も、どんな人だったのかも――」
紫色の服を着た中年女性だった、とD氏は克明に記憶している。手首には水晶の数珠をつけていて、それも印象に残っているという。
「あの人、飛び込む気なんてなかった……、線路の上、空中に投げ出されたその時の顔は、怯えて引き攣っていたんです!」
発見された首は恐怖に歪んでいた、という話も筆者は別の取材源から聞いている。
「あれは、絶対自殺なんかじゃないんです!」
殺されたんです!
無念そうに、D氏は唇を噛みしめた。
事故を受けての会社からの聞き取りに、このことを主張したD氏は運転士の任を解かれる。精神的に不安定になっている、というのが上層部の判断だった。
もう運転士はできない。社会的にも、精神的にも。
D氏は退職し、今は精神科に通院している。
「あの駅には何かいるんです。それが人を殺している。その何かが出てきた原因は、一つしかない……」
※ ※ ※
筆者は冒頭で、再三に渡ってこの駅が「無個性な」駅であることを記載した。
熱心な鉄道マニア諸兄の中には、それに違和感を覚えた方もいるだろう。
そう、上辺鳥駅はかつては決して「無個性な」駅などではなかった。
6年前のリニューアルまでは、全国的にも珍しい特徴を持っていたのだ。
プラットホームを貫くように巨木が生えていたのである。その高さと言えば、高架になっている上辺鳥駅の天井をも突き抜ける程だ。
この木は樹齢1000年とも言われる大きな杉で、かつてこの辺りにあった神社の御神木だとも言われている。
リニューアル前までは、そんなシンボルを持つ駅だったのだ。
しかし、今のプラットホームにはその影も形もない。
駅舎からこの杉が除かれてしまったことが、頻発する怪異の原因ではないか。2人の元K電鉄関係者はそう口を揃えた。即ち、「御神木を抜いたために罰が当たった」ということのようだ。なるほど、ありそうな話ではある。
では、何故杉の木は撤去されたのか。
K電鉄に問い合わせても返答がないため、筆者は地元の方に話を聞いた。
「杉の木のことは、本当に残念でした」
上辺鳥駅のあるX町、その地域振興組合の会長であるZ氏はそう語る。
「大樹の生えたホームは、地域の象徴でもありましたから」
リニューアル工事の計画に、地元からは反発の声が上がったという。
「K電鉄さんは、全部の駅をモダンなイメージで統一したいと、そう言うんです」
確かに今のK電鉄の駅舎は、リニューアルの済んでいない一部の駅を除き、都会的でシンプルな意匠にまとめられているようだ
「それに、木の立っとる場所にエレベーターを付けたいとも」
杉の木は旧駅舎の奥、下りホームの先頭側にあった。そこにエレベーターがつけば、確かに便利にはなるだろう。バリアフリーの観点からも有用だ。
「そういうところを持ち出されると、こっちも折れんわけにはいかなくなります」
ただ、とZ氏は続ける。
「こちらの熱意も伝わったんでしょうね。杉は伐採やのうて、別の場所に移植されることになりました」
そうなのだ。杉は駅舎から除かれたが、決して伐採されたわけではない。新たに整備されたバスロータリー、その中央に今もその偉容を持って立っているのだ。
「X町の再開発も、K電鉄さんのとこの不動産屋がやってまして、新たな街とこれまでの街を橋渡しするシンボルにしたい、と言ってくれまして」
不動産部門からの後押しもあって、現在の姿になったようだ。
では、何故C氏もD氏も「杉の祟り」のようなことを言ったのか。
「御神木ですからね。特別に思う人もおるということでしょう」
Z氏はこう言うが、何となく歯切れの悪さを感じる。
筆者は取材を続け、杉の植樹の際に起きた「ある事件」について、やはり地元の男性に話を聞くことができた。
「ここだけの話にしてください。絶対に名前は出さないと約束してください」
喫茶店で待ち合わせたその人物、E氏は何度もそう念を押してきた。
「駅舎のリニューアルには早い段階から関わっていました」
詳しいことも話してくれたが、特定を避けるため、E氏がどのような仕事に携わったかについては、ここでは触れないでおく。
「杉を移そうということで、まず木の周囲を掘ることになったんです」
木がしっかり根を張って土と根が一塊のようになったもののことを、「根鉢」という。
この根鉢の部分に重機でフォークを刺し、アタッチメントで樹の幹を固定する。そのまま持ち上げ、移植先へ移送して植え替える。この時の植樹はそういう手順で行われた。
根がどこまで張っているかを、フォークを刺す前に人の手で確かめていたのだが……。
「作業員から突然悲鳴が上がったんです」
E氏らが何事かと近づくと、土の中から白骨がのぞいていたという。
「髑髏ですよ。頭蓋骨」
かなり古いものに見えた、とE氏は言う。
「そうなるとね、警察を呼ばないといけないんですけど……」
この時はそうしなかった。E氏は声を落とした。
「そのまま、続けたんですよ。頭蓋骨は放っておいてね」
ままあることだ、とE氏は誤魔化すように言った。工期に間に合わせるために、遺跡が見つかっても埋め戻して続行することもあるそうだ。
「あの骨は古いものだった。事件性なんて絶対ないですよ」
でも、とE氏の顔をゆがめる。
「本当に恐ろしかったのはここからなんです」
杉の木を中心に円形に土が掘り返された。そこに専用のフォークを車体前方に装備したブルドーザーのような重機が近づいていく。
「根鉢にフォークが刺さり、樹の幹と重機がアタッチメントで固定されました」
そのまま持ち上げるのだが、E氏ら工事関係者の顔色を青くさせる事態が起こった。
「バラバラ、って根鉢から土が落ちるんですけど、その中にね、混ざってるんです……」
頭蓋骨が。
黒い土に混じった無数の髑髏が、持ち上げられた根鉢から零れ落ちたという。
「20、いや30か……。それぐらいはありましたね……」
一体ここで何があったのか。そんな疑問を覚えながらも、E氏たち工事関係者はその事実を握りつぶしたという。
「恐ろしいのは昔の死体よりも、今の工期です。既に遅れが出ていて、これ以上は伸ばせなかった……」
E氏らは頭蓋骨を埋め直し、工事を続けたそうだ。
筆者は、怪奇な現象が上辺鳥駅で頻発していることを伝えた。E氏は一瞬たじろいだかのように目を泳がせ、しかしこう言った。
「妙な現象や人身事故が我々のせいだなんて、言いがかりも甚だしいですよ。我々は、我々の仕事をしただけです」
※ ※ ※
杉の樹の下から出た髑髏の主は、一体何者なのだろう。
木が取り去られることで、その霊が暴れ出したとでも言うのだろうか。
…… …… ……
…… ……
……
◆ ◇ ◆
薄暗いオフィスの中、書きかけの原稿が映るディスプレイから顔を上げ、野田ナナエは深いため息をついた。かけていたブルーレイカットのメガネを外し、両目の間をつまむ。
もう少し、もう少しで完成だったのに。
オフィスの中にはもう誰もいない。ナナエ一人である。既に22時を回っていた。
一連のこの原稿を書いたのは、ナナエではない。
フリーライターの芦原という男だった。
芦原が、ナナエの勤める会社にこの話を持ち込んできたのは、三か月ほど前のことだった。
ナナエの勤める会社は主婦向けWEBメディア「ファン・ファン・ファム」を運営している。芦原はナナエの大学時代の先輩で、同じ新聞サークルに所属していた。その誼で、「ファム」に原稿を載せてほしい、と頼んできた。
(雑誌が廃刊になって放り出されて、半端な記事で食いつないできたが、これは久々にすごいネタなんだよ――)
ナナエを呼び出したバーで、芦原は彼女にそう語った。
芦原はかつていた編集プロダクションで、ある出版社の鉄道雑誌の制作を扱っていた。しかし、この不況の中で雑誌は廃刊となる。それを契機に、芦原は編プロをやめてフリーになったのだ。
(上辺鳥駅には何かある。あの駅だけ、K電の沿線の中で妙に人身事故が多い。ほとんど定期的に起こってるんだ。しかも、駅舎をリニューアルしてから増えてる――)
その口ぶりと芦原の経歴から、ナナエは「K電鉄叩きになるなら載せられない」と応じた。
「ファム」は、沿線の企業ということで電車内に小さな広告を出している。そういう関係があるため、寄稿記事の中であっても悪くは書けない。
第一、そういう社会問題の記事は「ファム」のカラーにはそぐわないため、ボツになる可能性の方が高い。「うちはもっとゆるい記事でないと」と難色を示すと、芦原は苦笑する。
(知ってるよ。よその家の嫁姑問題が一番アクセスを集めるサイトだもんな。大丈夫だ、別にK電鉄を告発しようって話じゃない)
もっと非現実的な話さ。芦原は両手を胸の前でだらりと垂らした。
(オカルトネタだ。リニューアルで引っこ抜かれた御神木。それがカギになる――)
「ファム」では毎年夏ごろに心霊特集を行う。そこでいいなら、とナナエは会社に話を持ち帰ることにした。
上司の今宮ノブオに話を持ちかけると、「やってみよう」と前向きな返事があった。今宮自身、2年ほど前に上辺鳥駅の最寄に引っ越しているため、「ちょっと気持ち悪くは思うけど」と苦笑混じりであったが。
こうして、芦原は三か月ほど取材を行い、記事をまとめ上げきた。
K電車の利用客から始まり、元駅員や乗務員、更には工事に関わった業者にまで肉薄した力作である。「ファム」に載せるには男性の登場人物が多すぎるのが気にかかるが、草稿を見た時点で上司の今宮は「この方向性で」と了承している。
しかし、ここへ来て原稿は宙ぶらりんになっている。
芦原が原稿を完成させる前に死んでしまったためだ。
上辺鳥駅の下り線ホームから飛び降り、命を落とした。二日前のことだった。
未完成の原稿を置いて、何故? 一週間前に会った時は、「追い込みは大変だが、何としても完成させてみせる」と意気込んでいたのに。
芦原は金銭問題を抱えていた。方々に借金があった、という話も聞いたことがある。返済に行き詰っていたのかもしれない。それ以上は、ナナエにも分からなかった。
今、ナナエの手元には、原稿のデータや取材ノート、メモ、芦原の仕事用の携帯電話などがある。すべて芦原のものだ。警察に無理を言って持ってきた。
せめて、これらを元にナナエの手で原稿を完成させようと思っていたのだが――。
(駄目だ。この件はもう載せない――)
部長の今宮は態度を一変させていた。何故です、とナナエが問いただすと、彼は声を抑えてこう言うのだ。
(ご遺体を見せつけられたんだ――)
電車に轢かれた芦原の体は、どういう潜り込み方をしたのか頭部が切断されており、現場からも消えていた。
この頭部の発見者になってしまったのが今宮だった。どういうわけか、エレベーターの中に転がり込んでいたという。
(これは祟りだ。この件には触れちゃいけなかったんだよ――)
今宮は、上辺鳥駅にいる「何か」が警告として自分に芦原の頭を見せつけてきたのだと信じている。お祓いで有名な神社を誰か知らないか、などとそわそわしていた。
芦原の気持ちを考えると、原稿を完成させてやりたい。これだけのメモを遺してくれているならば、自分が跡を継げば何とでもなる。今宮部長は……まあ、一緒にお祓いでも行ってやれば落ち着くだろう。
問題は、芦原がどういう結論をつけようとしていたか、だ。
草稿の段階では、杉の木の下に埋まっていた髑髏に怪奇現象の原因を求めていた。
しかし、取材ノートを見てみるとこんな走り書きがあった。
杉の木 封じていた 犠牲者 生にえ
ページの右上には、死の前日の日付が書かれている。芦原が最後に遺したメモと言ってもいいだろう。
これがどうも引っかかる。芦原は、最初の結論と変えようとしていたのではないだろうか。
そんなことを考えていたら、携帯電話の着信音が響いた。
ナナエのものではない。デスクの上に置かれた、芦原が取材相手とのやり取りに使っていたものだ。
「はい」
電話口の相手は一瞬怯んだようだったが、『あの……』と息を飲んで続ける。
『福島と申しますけれども、芦原さんのお電話ですか――?』
その名を聞いて、ナナエはすぐに思い当たった。
「ああ、O女子大の……」
原稿では「Aさん」という仮名で載っていた、電車の中で「何か」に体を触られた女子大生だ。
『そうですけど、ええっと……』
福島は電話口に出た女性の声に戸惑っているようだった。ナナエはそれを察知し、芦原との関係を話した。
『え、芦原さん亡くなったんですか?』
「はい。それで、わたしが原稿を引き継ぐことになりまして……」
なら、と福島は少し安心したようにこう言った。
『あの、芦原さんに、取材を受けた内容について、気付いたことがあったら連絡してほしいって言われてて、それで連絡したんですけど……』
まだ何かあるのか、とナナエは目を見開く。
『というか、色々考えたことがあるんです。原稿の役に立つかは分からないんですけど、それを聞いてほしくて――』
福島アキが指定したのは、O女子大近くの喫茶店だった。
お待ちしていました、とボックス席でナナエを出迎えた彼女は、芦原の原稿にあったように楚々とした印象の女性だった。
「改めまして、野田ナナエです。『ファン・ファン・ファム』の編集をしています」
「これはご丁寧に……。すみません、お忙しいところ……」
少しぎこちない動作で頭を下げ、アキはナナエの名刺を受け取った。
「就活の最中?」
「あ、はい……」
ぎこちなさを指摘されたように感じたのか、アキは少し赤くなる。
「ビジネスマナーとか、そっちだとやいやい言われるだろうけど、今日はそんな固くならなくていいからね」
「はい、すみません……」
ペコペコと頭を下げて、アキはすっかり恐縮した様子だった。
緊張をほぐしてやらないと、と思い、ナナエは世間話から入ることにした。
「O女子大ってどんなところ?」
「ええと……」
他愛もない会話を続ける中で、徐々にアキの委縮した態度がほぐれてきた。
大学のこと、就活のこと、友達のこと、変な教授のこと、サークルのこと……。ナナエはしばらくぶりに自分も女子大生に戻ったような気分だった。
だが、それにばかり浸ってはいられない。
「……みたいな感じで。だからもうサークルって懲り懲りだなっていうか」
「そっかー、人間関係って難しいもんね。それで……」
話したいことっていうのは? そう水を向けると、アキは「そうでした」と膝を打ち、傍らに置いたリュックから一冊のノートを取り出す。
「わたしね、さっきも言いましたけど、国文学科で、古文の講義も取ってたんですけど……」
テーブルの上に開かれたノートはその時のものだろうか。見覚えのある、ややこしい内容が細い字で書きこまれている。
「上辺鳥駅って名前について、ちょっと思いついたことがあって……」
ノートの余白にアキは「上辺鳥」と「かみべとり」を上下に並べて書いた。
「上辺だと、川の上流の方って意味になるんですけど、あの辺りって平野じゃないですか」
確かに、とナナエはうなずく。どちらかと言えば下流の方であろう。
「不思議に思ってたんですけど、これは当て字なんじゃないかって思って……」
余白に書いたひらがなの方ををアキは指した。
「ウ音便ってご存じですか?」
聞いたことはあるけど、とナナエは首を横に振った。
「古文で発音と表記が違うことってあるじゃないですか。例えば、昔は妹って『いもひと』って書いたんですけど、発音上は『いもうと』なんですよ。そういう風に、『ひ』とか『く』とか『み』が、『う』の音になるのがウ音便なんです」
アキは「かみべとり」の下に「かうべとり」と書いた。
「それで、『かうべ』だと『こうべ』と発音するんですけど、この言葉は……」
「かうべ」の下に書かれた漢字を見て、ナナエは思わず声を上げそうになった。
「元はこういう意味だったんじゃないか、って。鳥も、そのものじゃなくて当て字の可能性がありますよね」
……えっと、野田さん? アキにそう呼びかけられても、口元に手を当てたまま、ナナエはノートから目が離せなかった。
頭とり。
ナナエの脳裏を、芦原が原稿が駆け巡る。
アキの首元に伸びた「何か」の手。D氏が運転士をやめることになった事故で、線路外から発見されたという身体の部分。杉の樹の下から見つかった大量の髑髏。
そして、芦原自身がたどった末路、今宮が目撃したエレベーターの中の……。
「野田さん……?」
「ごめんね、少し、驚いてしまって……。すごいね、多分合ってると思う……」
ありがとう、とナナエは伝票を掴んで立ち上がる。
「ちょっと、戻らないといけなくて。また、何かあったら……」
「はい、ありがとう、ございました……」
挨拶もそこそこに、ナナエは席を後にした。
会計を済ませながら、頭の中に渦巻いていたのは、ある考えだった。
上辺鳥に潜む闇は、埋められた髑髏の主たちではない。むしろ、彼らは被害者なのだ。あの駅で電車に轢かれた、芦原をはじめとした人々と同じように。
そう、生贄なのだ。闇色の「何か」の。
杉の木は封じていたのだ。あの場所が「こうべとり」と呼ばれていた頃から潜んでいた闇を。だから御神木と呼ばれた。それを退かしてはいけなかったのだ。
芦原の出した結論は、これだったに違いない。
喫茶店を出て、ナナエはO女子大前の駅を見上げる。画一的な真っ白な駅舎を見て思うのは、一つ隣の駅のことだ。
芦原がこの結論に行き着いたのは、死の間際だ。もしかすると、あの駅に潜む闇が、自らの正体を知った芦原を消したのかもしれない。
だとしたら。
わたしは、上辺鳥の駅を生きて通過できるだろうか。
〈かみべとり 了〉