前編
緋色。それは、葉月にとって全てを奪う色だった。
「弥生!!」
男は、縋り付くように冷たい骸となった妻の体を抱きしめた。
「どうして……弥生!」
命を落としてからそれほど時間が経っていないのか、弥生の体からは赤い血が流れ続けていた。
「……御影様、血が……」
悲痛そのものの声で叫ぶ男に傍にいた村人が声をかけるものの、男にとって妻がどれほど大切だったのかを知っているせいか、その声には力が無い。
「弥生……どうして、お前が……」
男の言葉に、その場にいた誰かが口を開いた。
「御影様、弥生様は瘴気に……呑まれたのです」
言い辛そうにも告げられた言葉に、男は目を見開いて言葉を発した者を見つめた。
「瘴気に呑まれ、完全に同一化されて傀儡となる前に自らそのお命を絶ちました」
「弥生が……瘴気に……?」
驚きに言葉を失う男に、村人は続けた。
「弥生様は「先に逝って、ごめんなさい」と……」
その言葉に男は自分が抱きしめている弥生に視線を戻すと、涙を流しながら縋り付くようにいっそう強く妻を抱きしめた。
「弥生……弥生!!」
血を吐き続けるかのような悲痛そのものの声。
父である男の声を聞きながら、葉月は呆然とその光景を見つめていた。
横では深月が葉月に縋り付きながら涙を流しているというのに、どうしてか葉月は涙を流すことができなかった。
ただ呆然と、母が死んだという事実を受け止めることしかできなかった。
××××
男は最愛の妻を失った。
それでも狂うことなく現実の世界に存在し続けることができたのは、妻の遺した二人の娘がいたからだった。
この世界でただ一人、男が愛した『弥生』の血を引く双子の姉妹。
特に双子の姉である深月は、生き写しのように弥生に瓜二つだった。
弥生を失った御影は、深月を心の支えにしながらも、狂うことなく生き続けていた。
深月の双子の妹、葉月を視界に入れることなく。
二卵性双生児のため弥生に全く似ていなかった葉月は母を失った瞬間、父の意識からも次第に疎外されるようになっていった。
××××
いつからその名で呼ばれるようになったのか、知っているものはいない。
その村は「水無鬼」と呼ばれていた。
深い山々と切り立った崖に囲まれた、天然要塞の役目を果たす、特別秀でたものの無い田舎の村。
だがその村、水無鬼は周囲の村に住む者たちからは過剰なほど警戒されていた。
なぜならば、水無鬼に住む住人たちの多くは、周囲の村人たちには理解しがたい異能をもっていたことが原因だろう。
大衆に理解されなかった彼らは忌み嫌われ、恐れられ、次第に孤立していくようになっていた。
悪いことは全て彼らのせいにされ、いわれなき迫害を受けるようになった彼らは、いつしか「吸血鬼」と呼ばれていた。
殺されることを危惧した当時の水無鬼の長は、余人の目に付かぬよう水無鬼を閉じ、村の場所を隠した。
だから彼らのほとんどは、狭い村の中で生きることになった。
だから彼らの持つ異端な能力は、彼らの意識の中では持っていて当然の能力だったことから、異端という意識がほとんど無い。
そして彼らは知らない。
この村が他の村と異なり、深く呪われているのを。
だがそれを知ったとして、彼らは何も変わらないだろう。
この村が呪われていたとして、瘴気と呼ばれるものが徘徊することは彼らにとってはすでに日常――当たり前の光景でしかない。
彼らにとって瘴気と呼ばれるものは、注意すべき「傍らにある脅威」でしかないのだから。
だからそんな難しいことを村人たちは考えない。ただ、瘴気と呼ばれるものに呑まれないように注意するだけだ。
瘴気の危険性を知っているのは、瘴気と対峙することのできる水無鬼の長の一族「央雅」と、央雅の血を持つ守人たちだけ……。
村人たちの間にある「危機感」は、その程度で認識されるものだった。
さて、そんな水無鬼の住人たちの多くが居を構える「集落」とでも言うべき場所からだいぶ離れた森の中、水無鬼にある結界内の湖の近くで暮らしている家族がいた。
水無鬼に住む住人たちが異能を持っているのは当たり前で、この村では誰かを迫害することなど無い。
それなのに集落を離れた場所に居を構えているということは、よほどの理由があるかよほど人付き合いが得意ではないか、そのどちらかだ。
そしてこの家族――特に一家の大黒柱である父親は、そのどちらにも該当した。
その男は央雅の分家筋でありながら、この村で唯一鍛冶屋を営む鍛冶師だった。
火を扱う職業であるがゆえに、男は民家にさほど影響の無い、それでいて水場の近いこの場所を選んだ。
家とは呼べない、元々は鍛冶のための工房だったのかもしれないこの場所で暮らしているのは、男を含めて三人。父である男と、年頃の二人の娘。
娘たちはどちらも大変美しかったが、一人は栗色の長い髪を丁寧に紐で結い、深い藍色の瞳はどこまでも慈愛に満ち、儚げな印象が付いて回った。
もう一人は漆黒の長い髪を無造作に後ろで一つに結び、光の角度によっては深い緑にも見えるその瞳はいつも影を宿していた。
深月と葉月。
幼くして母を亡くした二人は、父と共に三人だけで暮らし始めてから十年ほどの月日が過ぎていた。
××××
葉月は深く溜息をつくと、竃の前で何かを作り続けている男の背中に向かって声をかけた。
「お父さん、食事を置いておくから早めに食べてね?」
「……」
まるで葉月の言葉など聞こえていないかのように没頭し続ける父に眉を寄せると、葉月は台所へ戻ろうとして視界の端に映ったものに深く溜息を吐いた。
「……お父さん、食事をする時間が無いほど忙しいのは分かるけど、食べないと深月が心配するよ?」
「……」
昨日の夜、夜食にと持ってきたはずの食事は手付かずのまま、置いた場所から少しも動かずにその場にあった。
まるで葉月の存在自体に気づかないように没頭する男に、葉月は悲しげに目を伏せてから顔を上げた。
「今朝はね、久しぶりに深月が食事を作ったの……後で深月が下げに来るから、その前に食べてあげてね」
少し誇張しすぎるかのように深月の名前を告げると、男はそこで始めて自分に声が掛けられていたかのように顔を上げ、立ち上がった。
「……深月が作ったのか」
まるで葉月の存在なんていないも同然といった父の態度に傷つきながらも、葉月は気づかれないように息を零した。
「そう、最近お父さんがすごく疲れているようだから……って……ちゃんと食べてあげてね」
言葉の半分以上も聞いていないことは理解していながら、葉月は父に告げると手付かずの夜食を持ったまま背を向けた。
元々子供とべったり一緒にすごすような人ではなかった父は、最愛の母を失ってからますます自分の殻に閉じこもるようになった。
今では母に瓜二つの深月が作った食事以外は、ろくに口に運ばない。
自分は必要ない。
そう言われているような疎外感を感じて、葉月は深く息を吐いた。
「……どうして」
思わずといったように葉月の口から零れたのは、亡くなった母への言葉。
美しい栗色の長い髪を丁寧に結い上げ、儚いながらもキラキラと藍色の瞳を輝かせていた弥生は、誰が言わなくても深月ととてもよく似ていた。
正確には、深月が弥生によく似て生まれてきた。
一方葉月は、父方の血を色濃く引いた。
“吸血鬼”と呼ばれる水無鬼の民を治める立場にある一族のため、その外見は美しいものが多い。
そんな央雅の血を濃く引いているため美人ではあったが、色素も父方の色をばっちり受け継いでいた。
そんな葉月と深月は、二卵性双生児であるために全く似ていない。
「似てなさ過ぎる双子、か……」
ここまで似ていない双子も珍しいとまで言われたことを思い出し、葉月はまた深く溜息を吐こうとして、近づいてくる気配にゆっくりと息を吐くだけに留めた。
「おはよう、葉月ちゃん」
「おはよう、深月」
それまで考えていたことを悟られないように、にっこりと微笑を浮べて振り返る。
台所を見下ろす居間には、きちんと身だしなみを整えて、綺麗に髪を結っている深月の姿があった。
「葉月ちゃん、朝ごはん待っててくれたの?」
首を傾げて小動物のように問いかける深月に、葉月は苦笑した。
「だって深月が「ご飯は一人じゃおいしくない」って言ったんじゃない」
「むぅ……だって一人じゃ味気ないんだもん」
葉月の言葉に頬を膨らませながら、深月は食卓に座った。
そんな深月に苦笑しながら葉月は台所から居間に上がり、それまできていた割烹着をたたんで横に置いた。
「「いただきます」」
向かい合って言うと、葉月は箸をつける前にお茶を淹れながら最初に言っておくことにした。
「あ、最近お父さんが食事をまともに摂らなくなったのね、で……」
「今日は私が下げに行けばいい?」
全てを言い終える前に訊ねられ、葉月は頷いた。
「うん、ありがとう。お願い」
深月の前にお茶を置きながら言うと、深月は軽く溜息を吐いた。
「でもどうしてかな……葉月ちゃんの作るご飯の方がおいしいのに」
父の心情をあまり深く考えたくない葉月は、深月の言葉に何も答えず苦笑して、話題を変えることにした。
「そういえば深月、嫁入り支度は終わったの?」
「……っ」
からかうように葉月が告げると、不意打ちだったせいもあって深月の顔は真っ赤に染まった。
「相変わらず朔尋様との仲は睦まじいのね、少し安心」
「……支度は一応……終わってるけど」
なんて事の無いように告げると、深月は真っ赤になったままうつむいて囁くような声音で答えた。
「深……姉さん。今、幸せ?」
恥じ入っている姉にまじめな表情で聞くと深月は一瞬、驚いたように目を瞬かせて次の瞬間、幸せそうな微笑を浮べた。
「えぇ。幸せよ」
――深月を嫌いなはずはない。だって深月は、私の半身……
「葉月ちゃん、夕食と明日の朝食、私の分はいらないから」
今朝、父に深月が作ったと偽って渡した朝食の膳を持って戻ってくるなり、食器を洗っている葉月の背中に深月は言った。
「朔尋様のところに行くの?」
視線も向けずにさらりと告げると、見なくても深月が頬を染めるのが葉月には分かった。
「うぇ……う、うん」
「今更照れることも無いのに……あ、ありがとう。良かった、お父さん全部食べてくれたんだ」
深月が手にしていた膳に視線を走らせ、綺麗に片付けられていることに安堵の息を漏らすと葉月は膳を受け取り、洗い始めた。
「……そういえば緋央の所に刀を届けるように頼まれていたのがあるから、私も今日は村に行こうと思っているのだけど」
「あ、それなら私が……緋央様、もたぶん朔尋様の所にいると思うし」
僅かに首をかしげながら告げられた言葉に、葉月は逡巡したものの頷いた。
「う……ん、じゃあ頼んじゃおうかな。実は2、3日後から由菜に呼ばれていて、しばらく……というか深月の結婚式まで家を空けることが多くなると思うの」
「そうなの? 分かったわ。とりあえず緋央様の刀はきちんと届けます」
近くにあった布巾で手を拭くと、葉月は深月に頼まれていた刀を手渡した。
「確かにお預かりしました」
「それじゃあお願いします」
図らずも重なった声に微笑みあいながら、葉月は深月が出かけるのを見送った。




