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夏夢綺譚  作者: 遠野まひろ
6/6

6夏の夢の後

六.夏の夢の後



 私と彼の話はもう何も語れる事はないが、それから後の事を少し話そうと思う。まず、火事の被害は大きく、図書室を含む全てが燃えた。ただ、祖母が一番焼きたかったであろう蔵は皮肉な事に、唯一残った部分になった。それでも半分ぐらい燃えて、結局は取り壊され、今は更地になり、かつてそこに何があったかを教えるものはない。

 火元はやはり祖母の部屋だった。隆史兄さんの言うとおり、祖母は自分の手でこの家の幕引きをしたのだ。そして祖母自身の最期も一緒に。

 彼女が最期に何を思ったのかは誰も分からない。それなのに無責任な親戚たちはおじさんやおばさん、隆史兄さんを責めた。的外れな侮辱は、誰の心にも響かず、彼らの自己満足にしか過ぎないと親戚たちは気付いていなかった。結局彼らは他人なのだ。あの夏を過ごした人間だけが、祖母の最期を語る事が出来る。私は、彼女の最期を可哀想だとは思えない。思いたくないのかもしれないが、可哀想という言葉がどうしても似合わなかった。

 祖母の件で親戚達に嫌気がさしたおじさんは土地を売り、今はおばさんと一緒に私たちの家の近くに住むようになった。私は度々遊びに行っているのだが、おじさんは仕事の為不在がちで殆どおばさんに会いに行っているようなものだ。おばさんとはあの夏以来の仲は続いている。家に遊びに行くと、夏でなくても冷蔵庫に麦茶があった。偶然、本家の最寄りにあった同系列のスーパーが近くにあるお蔭で同じ味の麦茶を、あの時のように飲みながら私たちは話していた。

 祖母の世話をしている時より、おばさんは明るくなったと思う。以前のように「もし」の話をしなくなったし、主語のように使っていた「お父さん」という言葉が少なくなった。私との交流だけではなく、色々出掛けているらしく、おばさんの世界は確実に広がっていた。

 しかし、最初からそうだった訳ではなかった。おばさんはあの日の事を忘れた訳ではない。あの日、おばさんは家にいたのだ。祖母を死なせてしまった、後悔してもしきれないと、最初のうちは良く私の前で泣いていた。

 おばさんが無事だったのは、火事の時家にいなかったお蔭だった。火事の直前、ちょうど近くの家に回覧板を回しに行って、話し込んでしまったという。いつもならおばあさんを一人にすると気が気でなかったのに、その時だけ、すっぽり頭から抜け落ちてしまったのよ、と泣きながら何回もおばさんは言っていた。麦茶が涙に変わり、おばさんは泣き続け、私は背中をさするしか出来なかった。

 私もその頃、自分が励ませるような状態では無かったので、一度も励ませなかったし、彼女は、決しておじさんに泣いている姿を見せた事はないだろう。かつて台所に立つと愚痴を零さなかったように。

 ある時から、おばさんは泣かなくなった。おばさんは、いつもなら絶対にならない、あのすっぽり抜けてしまった事を、巻き込まないように神様が配慮してくれたのだと思う事にしたそうだ。それ以来、私はおばさんの涙を見ていない。おばさんは一人で決着をつけたのだ。


 一人留守番をしていた母についても少し語りたい。母にとってもあの二週間は特別なものだった。私を見送る時、帰って来てね、と言った。実は、母は私があの家に行ってしまって帰ってこないのではないか、あの家の子になってしまうのではと心配していたのだ。母は祖母が蔵の鍵を私に渡した時からその意味を分かっていた。鍵を渡す事は家を継ぐ事、祖母が私に家を継がせたいと思っていたのを、母は知っていた。

 それでも何故私を本家に行かせたのかと聞けば、母はこう答えた。お父さんの顔を立てる為にもあるけれど、あの家の事は百合が判断すべき事で、それに百合はあの家が大好きだったから、お嫁に行かせるような気持ちだった、だから帰って来てくれてありがとう、と。

 私は祖母の意図を知りながら教えてくれなかった母をほんの少し恨みながら、帰るべき場所を新たに見つけた気分になった。図書室は燃え、彼は消えたが、父や母のいる場所が今の私の居場所なのだと。小学校一年生から高校三年生まで私の寄る辺は図書室と彼であった。しかし、私にはまだ寄りかかれる場所、炎の中を探してくれた父と、私の帰りを待っていた母がいた。

 彼の事を誰にも話せない私は、喪失を父と母には分かち合えなかった。やり場のない後悔や悲しみを独りで背負い、独りで解決するべきだと思ってた。それでも、彼らが居場所を与えてくれた事は、日常を笑って過ごせるまで私が悔やみ、悲しむ事を許してくれた。

 父は母に、あの夏の顛末を全て母に語った。本家が無くなったとはいえ、二人の隙間は直ぐには消えなかったし、火事に私が巻き込まれたと知ってから、父と母の隙間は広がった時さえあった。しかし、父と母は今も一緒にいる。

 高校生の時、父と母にある隙間は仕方ないと、目を向けないようにしていたが、夫婦と言っても赤の他人同士、パズルのピースのように完全にぴったり合う訳がない。

 全く生まれも育ちも違う私と彼が友情を築けたのと同じように、隙間があっても手を伸ばしあい繋ぐことで、橋を架ける事が出来る。その橋の名前が友情だったり、愛情だったりするだけの話だ。

 父と母は橋が落ちそうになっても、落ちてしまったとしても、橋を架け合い、橋の真ん中で話し合い、二人の行き先を決め、互いを選び続けている、という事だろう。


 そして、隆史兄さんについて話そう。隆史兄さんは少し私の家に住んだあと、就職して一人暮らしを始めた。今も月に一回は会っている。

 一度だけ、二人で焼け跡に行ったことがあった。

それは祖母の三回忌が終わってすぐの事で、おじさん達は祖母の法事を、地元に戻る事はなく、親戚も呼ばずに全てを済ませたから、田舎に行く機会がなかったのだ。

 焼け跡に行こうと誘ってきたのは隆史兄さんだった。兄さんが車を買ったという理由が大きいが、逃げるように出て来てしまったかつての故郷を、しっかり見たいという気持ちもあっただろう。

 私も丁度二十歳になるという事もあって、一つの節目にしたかった。大学生になったとはいえ――高校三年生というあの夏に、本を読んでばかりいた私が良く大学に受かったと思う――、左程変わってはいないが、何かあの時とは違った事が見えてくるのではないかと思っていた。その頃にはもう、彼を失ったばかりの時のような悲しみに苛まれる事はなかったが、不意にやってくる感情の波を押し込まなければならない時があった。人は簡単に喪失から立ち直れないし、逃れる事も出来ない。それは起こってしまった事に立ち向かう勇気がないからでは決してなく、真正面から受け止めれば受け止める程に、傷が深くなるからだ。

 隆史兄さんが自分の両親ではなく、私を誘ったのは、祖母と兄さんの秘密を知っている人間の方が良いと思ったのだろう。隆史兄さんは祖母を止められなかった事を悔やんでいた。平気な顔をしていても、あの日の事を語る時、不意に生まれる沈黙や、目を伏せる仕草は後悔の深さを感じさせた。きっと私も同じような顔をして、沈黙で後悔を語っているのだろう。

 私達はかつて蛍を見た時と同じように、誰にも言わず、こっそりと落ち合った。私があの家について秘密を持っている事を、隆史兄さんは何となく気付いているようだった。目の前で炎の中に飛び込んだのだ。あの扉から吹き出す炎を、隆史兄さんも見ているのなら、祖母を助けに行った訳ではないと分かっているだろう。

 三年前と同じように、助手席に座った私は一睡も出来ずに、ただ窓の外を流れてゆく深緑と、合間に見える空の青に呼吸を逃がしていた。そんな私が退屈していると思ったのか、隆史兄さんが口を開いた。


「付き合わせで悪かったな。お前しか誘えないし……正直、一人で行く自信がなかったんだ」

「ううん、私も行かなきゃと思ってたから。こうやって連れて行ってくれなきゃ、行けないもん」

「そう言ってくれると助かる。…なあ、百合」

「うん?」

「俺さ、ずっとあの家さえ無くなれば楽になれる気がしてた。武史おじさんは俺がこの家の為に我慢してるって思ってたみたいだけど、特にやりたい事があった訳じゃ無くて、ガキの頃からただ嫌だったんだ。ばあちゃんは家を継げしか言わないし、親父は何も意思がない。お袋もお父さん、お父さんばかりでさ。壊れた人形みたいに見えて、皆が正直気持ち悪い時もあった。三人ともこの家にいるからおかしいんだ、俺もいつかこうなるんだって。逃げたかったんだ」

「そうだったんだ」

「ばあちゃんの事があるから、家が無くなって良かったとは言えないし、皆が自分を犠牲にして守ってきた家が何もなくなった責任は俺にもある。ばあちゃんを止められるのは俺しかいなかった。……なあ、百合。俺、お前に謝らないといけないってずっと思ってた。百合はあの家が好きだったんだろう?」

「……うん。でも、隆史兄さんのせいとは思ってないけど」


 私はしばらく考え、頷いた。隆史兄さんにとって、いや、私以外全員、あの家の全てを肯定するのは難しいのに、私だけがあの家を好きであった事を言うのは躊躇いを覚えたのだ。しかし、ここには隆史兄さんしかいないのだから、嘘を言う意味もない。私があの家を好きだったのは、彼と会える唯一の場所だったからだ。たったそれだけ。

 あの火事は、起こるべきして起きたのだと私は思っている。しかし隆史兄さんは、私が言ったところで口先の慰めにしか聞こえないだろう。それだけ、彼の後悔は深かった。


「俺さ、ばあちゃんを止めなきゃ、一生後悔して生きてくって分かってた。でも、あんたはあんたで幸せになれ、私はこの家と死ぬのが願いだって言われたら、ばあちゃんの願いを叶えるのが俺の出来る孝行だって思ったのも本当なんだ。正当化なのかもしれないけれど」

「正当化だなんて、言わないでよ。隆史兄さんだって辛かったんでしょう?」


 あの火事は必然だった。しかし、それと後悔するかしないかは別の話だ。隆史兄さんに言った言葉は、私の為でもある。隆史兄さんが黙って、私をちらりと横目で見た。私はその視線から逃げるように、濃い緑ばかりの景色へと顔を向けた。

 その景色が途切れる事はないが、高速道路の道は終わりがやってきたようだ。ウィンカーの音がして、車は左に逸れていく。私はかつてを思い出し、窓を少し開けた。蝉の声がするのではと思ったが、車の走行音しかしないかった。

 高速道路を降りて、更に数十分。隆史兄さんはもう、何も喋らない。私が火事の夜、全力疾走した広い道を車は進む。この道を進んで、少し坂を登れば、あの家がある。私の記憶はまだ鮮やかだ。この頃には既に彼の声を忘れてしまっていたけれど、昔ながらの大きなあの家はまだ詳細に思い浮かべられた。

 隆史兄さんが、ここだ、と小さくつぶやいた。確かに坂を少し上ったところにある、広場のような場所。それがかつてあの家があった場所だった。車を止め、降りると土の焼ける匂いがして、蝉の声が一斉に耳を塞ぐ。あの夏も、こんな暑くて、蝉の声が煩かった。しかし、見える景色には何一つ思い出を呼び覚ますものはない。

 燃え盛る家の記憶が強すぎて、鎮火された黒焦げの家は覚えていなかった。取り壊しにも私たちは立ち会っていない。炎に飲まれている中でさえ家はあったのに、あの古くて大きな家はどこにもなかった。


「何にもなくなっちまった。少しは分かるかと思ったけどな」

「何も、もう分からないね」

「本当にな。なあ百合、ばあちゃんはお前に鍵を預けたのは何でだと思う?」

「私に家を継いで欲しかったって、お母さんが言ってた」

「なんだ、知ってたのか」

「知ったのは全部終わってからだけどね」

「やっぱり、ばあちゃんは家を守って欲しかったんだ。みんなあの家に嫌な思い出ばかりだったけど、お前は違った。お前なら、幸せになれると思ったんだ。けれど、結局鍵は俺に渡された。蔵の中身を見た夜な、ばあちゃんのところに行ったって言ったろ?ばあちゃん笑って、やっぱりなあ、って言ってた。俺が行かなければ、ばあちゃんは火を点けなかったかもな」

「そんなこと、ない」

「はは、気使うなよ」

「ううん、おばあさんが火を付けた理由はきっと違う。兄さんもそう思うでしょ」

「そうだな。まあ、これも結局正当化してるだけだろうけど……火を点ける事でばあさんは自分のものにしたんだって俺は思う。ばあちゃんはあの家が自分みたいなものだったから」


 祖母は決して可哀想ではないと、私が思う理由は隆史兄さんの言ったとおりだ。祖母は自分の人生を守ったのだ。死ぬ間際、後悔ばかりでは嫌だったのだ。家の為に生きてきた人が、家の所為で家族が苦しめられてきたのを受け入れるのは辛かった筈だろう。

 いくら子供の為と言っても、家を否定するのは自分の人生の大半を否定する事と同じであり、だから家と運命を共にする事は、家だけではなく自分の人生を守る事でもあったのだ。

 生まれた時から家の為に育てられてきて、そんな風にしか生きられなかったとしても、私たちにその人生を否定する事も非難する事も出来ない。


「何にもなくなって辛いけど、ここに来て良かった。ばあちゃんの事、決着がつけられそうな気がする。……お前は?」

「わたし?」

「あんな燃えてる家に飛び込むぐらい、大切な人がいたんだろ?」

「なんで、知ってるの」

「蔵の中見に行った日、お前と誰かが一緒にいるの見たんだ。武史おじさんかなって最初は思ったんだけど、着物着て透けてるし。あの人、図書室の幽霊だろ?俺、本当は図書室に幽霊がいるの知ってたんだ。俺も小さい頃見た事もあるから直ぐに分かった」

「嘘、誰も見たことないって」

「嘘じゃない。俺はあの家の住人だったんだぜ?それに前言ったろ、図書室の幽霊は良い幽霊だって。俺が泣きながら図書室に駆け込むといつも側にいてくれた。本も一緒に読んでくれた。お前が図書室に行く理由、ずっと知ってたんだ。あの人、俺がばあちゃんと話してたの聞いてたんだな、俺のところに来てお前を守ってくれって」

「何で今更」

「ごめん。お前には黙っててくれって言われてたんだ。でもなんつうか、あの人がお前を大切に思ってたのは確かだって知って欲しかったっていうか…」

「でも結局私、何も出来なかった。返せなかった」

「そんな事言うなよ」

「だって私、守られてばっかりだった。隆史兄さんにも、あの人にも」

「お前は不満かもしれないけれど、大切なら守りたい。それじゃ駄目なのか?」

「駄目じゃない、ただ何か、説明できないけど、嬉しいけど悔しい。ああでも、なんでかな。隆史兄さんがあの人を知ってるのが凄い嬉しい。本当に嬉しい」


 私ばかりが彼を見ていたと思っていた。互いの思いの深さを測れば私の方が深く、何故なら死すら超えさせてしまう約束を結んだ彼女を超える事は出来ないと分かっていたからだ。

 それなのにあの火事から随分経った今、新たな事実を、彼の想いをを知る事になるとは。彼が私を守ろうとしていたのは知っていたが、隆史兄さんから改めて大切だったと言われると、全ては彼の本心であり、私は少しでもその心の中に入れたのだと思えて嬉しいのに、それだけ思ってくれていた彼に何も返せなかったという悔しさも同時に生まれた。

 けれどそれよりも、彼の存在を私以外に知る人がいる事実が強く私を揺さぶった。それは地面と景色を揺らし、私を覆っていた壁が壊れていく。それは彼に対する好意や尊敬、後悔や痛み、記憶は誰とも分かち合えないと、自分が築き上げた壁だ。一生その壁は崩れない筈だったのに、あっけなく崩れていった。砂埃に目を細め、崩壊した壁の向こう側を覗けば見える景色は思っていたより温かく、綺麗なものだった。

 彼は私だけの知る存在、私の秘密だ。それだからこそ、価値がある。そう思っていた。しかし、隆史兄さんの中には彼の記憶が少しだけ存在する、それがこんなにも嬉しい。家が燃え、更地になったこの場所に立ち、彼が存在した事は、彼を知っている私や隆史兄さんしか証明できないと、その時気付いた。隆史兄さんの知る彼と、私の知る彼は存在が同じでも、記憶に存在する彼は違う。私が語る時しか、彼はもう存在しない。だから、隆史兄さんの中にも彼が存在すると分かった今、彼の存在が強くなった気がして、それがこんなにも嬉しいのだろう。私だけの存在である、という価値なんてちっぽけなものだった。

 語りたい事は沢山あるが、どこから語ればいいか、一緒に過ごした時間は短かかった筈なのに、聞いて欲しい思い出が沢山あった。そんな思い出たちが喉に詰まって、言葉にするのが難しい。私は一度それらを飲み込んだ。出てきた言葉は単純で、全てだった。私にとって彼は、彼がそう言ってくれたように大切だった、その一言でいい。


「そうか。俺、図書室に通わなくなってからずっと気になってたんだ。あの人は一人で今もいるのかなって。いつも寂しそうな顔してたから。でも、お前が図書室に通ってくれて、本当に良かったって思ってた。なあ、あの人はやっぱり……」

「もういなくなっちゃったよ」

「火事の所為だよな」

「違うよ」

「違う訳ないだろ」

「違うって。きっとそうなるのが決まってたんだって思う。私が図書室を見つけた日から」


 彼が消えたのは約束が果たされたからだ。火事のせいではない。けれど、私が名を告げる決心をしたのは、彼が約束を果たせず消えるのを望まなかったからだ。そして、彼がこの家の終わりを確信したのは、祖母が空にした蔵のせいだった。鍵を渡された時から別れは始まっていたのだ。やはり誰がどう振る舞おうと、振り返ってみると、全ては必然だった。

 必然、その言葉が私の全てに融けていく。口では何度でも言っても、それは言い聞かせているだけで、理性が受け入れても、心は受け入れられていなかった。もしも、なんて夢より儚い。何度も何度も思い描いた「もしも」が、あり得ない事だと、何もなくなったこの場所が教えてくれたのだ。

 かつて、確かにここには家があって、家には図書室があった。その図書室に彼はいた。十年間、私の人生に彼は確かにいたのだ。それだけで、充分だった。隆史兄さんはここに来て良かったというが、私は良かったというより、長い夢から覚めたような気がしていた。夢は覚めたら終わりだが、夢を見ていた事は事実に変わりない。


「ここに来てようやく、目が覚めたみたい」

「そうか」

「うん」

「そう言えば、俺、あの人が誰かって言ってないよな」

「あー、いいや、聞かない」

「何で?」

「図書室のお兄さんでいて欲しいから」

「ふうん。なら言わない。……じゃあ、俺今から泣くから」

「急にどうしたの」

「今まで泣く暇が無かったし、泣く場所も無かった。ここならいいかなって。ここに来たのはそれもあるんだ。お前は泣かないのか?」

「泣かないよ。今更泣いたって意味ないもん。それに泣いたからって会いに来てくれるような人じゃないし」

「なんだそれ。違うだろ、自分の為に泣くんだよ。会いたいなら会いたいって泣けばいい。何か変える為に泣く訳じゃない」

「隆史兄さんも?」

「そうだ。とにかく今から泣くから。百合、後ろ向いてろ」

「何それ」


 隆史兄さんが後ろを向いた。冗談だろうとその背を見ていたら、小さく肩が震えていた。まさか、と思いながら私は後ろを向いていると嗚咽を噛み殺しているのか、小さく漏れる声が聞こえてきた。

 感情は側にいればいる程、伝染するようで、何もなくなってしまった場所を見ていると、だんだん雨が降り始めたように見えている景色の輪郭が流れていく。

 会いたい気持ちはいつでもあった。いなくなった姿をどこでも探していた。この場所に来れば会えるのではないかと、ほんの僅かでも期待していなかったと言えば嘘だった。

 あの時もう二度と会えないと心の底から理解したはずなのに、会いたいという願いは消えなかったのだ。今もどこかで私が本を読んでいる時、読めない字があれば後ろから声が聞こえる気がする。それは現実を直視していないからだと思って、ずっとその気持ちを無視していた。しかし、会えないと分かっていながらこんなにも会いたいと思うのは、彼が私の一生に一度の存在である証明に他ならない。

 もう数年経っているというのに、私は彼に会いたい。それは決して現実を受け入れていないからではなかったのだ。そう思うと泣くのは簡単だった。隆史兄さんの泣き声につられ、私も声を上げて泣いた。泣いても泣いても、彼は現れず、その時よくあるように、風が吹いて彼の声が聞こえた、とかそういう事は起きなかった。それで良かった。

 私は私の為だけに泣いた。彼に会えた事は奇跡だ。二度と同じ奇跡は起こらない。同じ夢が二度と見られないのと一緒のように。

 しかし夢から覚めた私は、語るという事を知った。それは何度でも彼の姿を蘇らせられる。誰かに伝える事だけではなく、思い起こし、想像の中で夏のあの家を歩く事も語る事だ。私の悲しみや後悔は、ここに来てようやく一つの形に変わったのだ。

 それは私の中で、もう一人の、あの家で夏の二週間を過ごしている私を生み出した。私はいつまでも十七で、あの家を歩き、読み切れない程の本を彼と共に読んでいる。あの二週間には戻れないが、私の中では生きている限り、語り続ける限りそれが永遠に続く。

 語ることについて、今こうして詳細に思い出せるのは、書き留めたノートが無事だった事が大きい。彼との別れ、家の焼失という結末へ進む道筋の中で、何一つ自分の思い通りにはならなかったが、唯一このノートだけは、帰る支度の為車に入れておいたから無事だったのだ。

 ノートは私が書き記したものだが、跡形もなく消えた彼の置き土産だと、語り始めた私はそう思うようになった。自分がそう思うと楽になれたからそう思っているだけなのかもしれない。実際はただの偶然だろうから。

 数え切れない後悔の先に、隆史兄さんが諦め、おばさんが神様の配慮と思ったのと同じ事だ。生きている限り、過去の出来事に、一つだけ出来ることがあるとすれば、それは納得ではなく、折り合いをつけることだ。

 語ることは楽しい事や懐かしい事ばかりではない。それは全てを思い出すことだから、後悔に息が詰まりそうになる時もある。彼にその名を聞かなかった、というのはあまり後悔していない。彼が誰であるかは私達にとって、お互いの距離を縮めるものではなかったのだ。それよりも、自分が出来なかった事、してあげれなかった事ばかりが浮かんできた。最後にあの図書室で語るべき事は沢山あったのでは、いや、その他にもっとするべき事があったのではと。そしてその時は決まって、身体の奥底が掴まれるような痛みに全身の自由を奪われる。それでも私は今もこうして語り続けているのは、そうしなければ、彼に会えないからだ。

 時を遡れない私は、一歩一歩、彼のいた過去から遠ざかっていく。今までも、そしてこれからも風に背を押され歩く時もあるだろうし、風に耐えながら前に進む時もあるだろう。二度と戻れない、二度と会えない痛みは生きている限り癒せはしないが、歩いていくしかない。何故なら、彼はこう言ったからだ。

――風が吹いた。君は生きろ、と。


 餞とは、一生を支える約束でもあった。彼の言葉は今も私の足元を照らしている。

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