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夏夢綺譚  作者: 遠野まひろ
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5夏の夢、そして終わり

五.夏の夢、そして終わり



 私は蔵の中身について、誰にも言わなかった。言う必要が無かったとまでは言わないが、それよりも遥かに重要な事に気を取られていたのだ。明日やってくる彼との別れ、それをどう受け入れるかばかり考えていた。夜通し考えていた所為で、あまり眠れないまま朝を迎えると、珍しく朝食の席にいた隆史兄さんがいた。目が合った事を思い出し、昨晩の事について何か言われるかと身構えていたが、尾行には気付いていなかったようで、おはようと言われただけだった。

 いっそ露見てしまえば昨晩、隆史兄さんは空っぽの蔵を見てどう思ったのか、何故蔵を叩いてどうして、と呟いたのかと聞けたのだが、仕方ない。

 隆史兄さんと食卓を囲むのは随分久しぶりだった。大きな口を開けて食べるのに、箸の動きや持ち方は綺麗で、よく母や父に隆史兄さんを見習えと言われたものだ。

 そんな事を思っていると、箸の動きを追っているうちにいつの間にか隆史兄さんの顔が目に入った。よく見ると隆史兄さんの目は少し赤かった。瞼も腫れているように見える。蔵の事で一睡もできなかったのかもしれない。

 私も人の事は言えない。昨日の決心、彼の言葉を借りれば、本当に納得できているから形になるというのは嘘で、夜通し悩み、決心は何度も揺らいだ。終わりが来るというが、もしかしてそれは今すぐではないかもしれない、という淡い期待が生まれ、自ら終わりを告げるような事をしなくても良いのではないだろうか、と。

 私の願いは、彼と図書室で言葉を交わし続ける事だ。しかし彼の願いは百年の約束を果たす事で、どちらの願いも同時に叶う事はない。百年なんて酷い約束をしたものだ。せめて私と出会う前に果たされるような年月であったなら良かった。

 しかし、約束の使者は私であるのだから、結局は何も変わらない。ならばこの運命を受け入れるしかないと思ったのだ。それが私の結論だった。


「なあ、明日お前帰るんだよな」

「え、あ、うん。そうだよ」


 少し掠れ気味の声に私は驚いた。隆史兄さんの穏やかな声を聴くのは随分久しぶりだった。話し合いの時も会話らしい会話をしていなかったし、最後は結局喧嘩になってしまったから、一体いつ振りになるのだろう。

 既に父もおじさんも席にはおらず、私達二人しかいなかった。おばさんは台所だが、父たちはどこかへ出掛けて行ってしまったという。私達が明日帰るという事で、今日の夕飯は豪勢なものにしてくれるらしく、おばさんは午後になったら買い出しに出かけると言っていたので、父かおじさんのどちらかは祖母の世話の為に午後には帰ってくるだろう。


「なら、蛍見に行かないか?この近くにはまだいるんだ」

「昔連れて行ってくれた場所?」

「ああ、そう。あの時は蛍がいなかったけどな。それと……話したい事があるんだ。昨日の事で」


 やはり気付かれていた。眠い目が一気に見開く。私の尾行は兄さんにお見通しだった。だから、蔵で目が合ったとき驚かれなかったのだろう。確かに、あんなに足音を鳴らしていたら隠れているとはいい難い。

 私の動揺をよそに、隆史兄さんは表情を変えずに言った。


「お前も蔵の中知りたかったんだろう?一言いえばいいのに。それと、俺が気付かなかったら、お前締め出されてたぞ」

「え、何で?」

「帰る時、蔵に出るドアの鍵、開けておいたんだ。いつもは施錠されてるからな」

「あ……ごめん」

「別にいい。夕飯食ったら、玄関で待ってろ。一時間も掛からない。図書室行くんだろ?」

「分かった」

「じゃあ、後でな」


 棚から牡丹餅というより、怪我の功名とでもいうのか。知りたかった事がこんな簡単に知れるなんて。下手な尾行もしてみるものだ。

 朝食の後、私は図書室へ向かった。勿論、明日発つ事をお互いに知っていたが、私たちは普通に過ごしていた。思い出話は語りつくしてしまったし、好きな本も語りつくした訳ではないが、自然と会話から消えていった。

 昨日、彼が私に触れた事について、お互い何も言わなかったが、あれは私の勘違いでも願望でもない。彼は光を透過させるし、扉をすり抜けるような実体を持たない幽霊だが、物を動かしたり、触れる事が出来る。

 蔵に入った時、彼は電気のスイッチを入れた。あの時蔵は施錠されていたし、隆史兄さんしか鍵は持っておらず、ちゃんと施錠されていた。なら彼がスイッチを点けるしかない。嵌め殺しの窓から電気が漏れるのを私はこの目でしっかり見ている。あの時は他の事で頭がいっぱいで不思議に思わなかったが、彼が願えば、触れる事が出来たのだ。数日前、私の頭を撫でた時、彼がわざと触れなかったのだとすれば、昨日、彼は触れたいと思ったという事になる。だから、あの時私が感じた感覚は彼の指や唇からのものでなく、願いや心そのものだったのだろう。


 記録をとっていたノートの十三日目と書かれたページを見返してみると、最後の日に相応しいとは言えない事ばかり私達は話していた。夏休みが終わったら席替えがあるとか、受験勉強が苦痛だ、とか。隆史兄さんに尾行がばれていた事、そして蛍を見に行く事も言った。

 尾行がばれていた事は彼も驚いたらしく、君の騒々しい足音の所為だと大真面目に言ったのは思い出す度に異議を申し立てたくなる。

 穏やかな図書室の中で、これが最後だという事を彼も私も分かっていた。しかし、だからと言って無理に振る舞うのも嫌だったし、嫌だ嫌だと泣くのは違う気がした。

 最後だと分かりながら、彼が確信した終わりと私が覚悟した終わりは違う。これから起こる何かについて、私はその時分からなかったし、彼も百年の約束が果たされるとは思っていなかっただろう。私の一番の願いは叶わない。二番目の願いは新年の三日目のようにまた来年、と別れる事だった。そして、また来年と言って扉を閉めるその時に、私が今まで言わなかった事を言おうと思っていた。もう二度と会えないのなら、せめてドアを閉めたあと、消えて欲しい。私の前で消えてしまったら彼の喪失を理解してしまう。また会えるかもしれないという希望を持つぐらい許して欲しい。彼の一番の願いを叶える代わりに、私の少しの我儘に付き合って貰う事にしたのだ。

 私達は今まで一度も喧嘩らしい喧嘩をした事は無かった。一年に三日、しかも本ばかり読んでいたから喧嘩するほど言葉を交わす事は無かったし、彼の物言いに私が怒っても彼は全く取り合わず、私も怒っているのが段々馬鹿らしくなってしまう。そうだったのに、ほんの少し状況が違うだけでいつもと違う事は起きる。きっかけはいつものとおり、彼の言葉だったのに。


「君、蛍を見に行くと言っていたが、山の神社に行くのか?」

「はい、昔一度だけ行った事があって。その時は蛍じゃなくて星が一番綺麗に見える場所だって連れて行ってもらいました」

「そうか。まだ居たんだな。あの蛍は普通の時期とは違って少し遅い時期に見られるんだ。盆の季節までいるから、昔はご先祖様が蛍に身を変えて現れたなんて言っていたんだ。だからこの辺りの家は精霊馬を飾らない」

「へえ、初めて知りました」

「ゆっくり見てくると良い。私も今日はする事がある」

「準備、ですか」

「ああ。やり残した事はないが、少しだけしたい事があるんだ」

「それは……いえ、分かりました。でも必ず顔は出させて下さい」

「無理はしなくていい。君、明日は早いんだろう?わざわざここに来る事もない」


 したい事、それは何ですか。私に手伝える事ですか。明日私は帰るんです。喉元まで出てきた言葉を飲み込む。沢山の言葉を一気に飲み込み、詰まってしまった所為で言葉を続けられなかった。彼の中では昨日が私と過ごす最後の日であったのか。もし、そんな事は無いと分かっているけれど、彼が夜も来てほしいと言ったら隆史兄さんとの約束を破ろうと思っていた。

 今思えば、彼はこれから何が起こるか分かっていたから、私を突き放すような事を言ったのだ。私の性格を彼はよく知っていた。怒らせて、私をここから出ていかせようとしていた。意地っ張りの私は夜も来ないと踏んで。彼はここに来るなと、そう言いたかったのだ。彼は私を助けようとしていた。それに気付けなかった。結局、蔵の中身を知ったところで私は何も変えられなかった。私はずっと蚊帳の外にいたのだ。

 全てを知りながら何もできなかった、この事は暫く私を苦しめた。もっと思慮深かったら、もっと見える事を大切にしていたら、何かを変える事が出来たのではないかと。私一人で何が出来たのか分からない、何もできなかった可能性の方が高いだろう。しかし実際どうであれ、人の心というのはどんなに可能性が低いものでも、実現出来なかった未来ばかりに傾いてしまう。

 あの時ああすれば、こうすれば、自分が望んだ未来が実現できたのではないか。何度も何度もそう思っては、自分を呪った。幾ら泣いて喚いても過ぎ去ってしまった出来事において何が正解だったのか、答え合わせをする事は出来ないから余計にその呪いは強くなる。しかし、今は分かる。私が望んだ未来とあの家にいた他の人たちが望んだ未来は違ったのだ。私一人で変えられるほど、その願いは軽くなかった。

 ある選択をした時、その時において最善であると思っても、いや、確かに最善であっても得られる結末が思い通りではなければ間違いだったと思えてしまう。私にとってこの夏の結末は最悪だった。しかし、彼は約束を果たし、祖母は家を守り、父やおじさん、隆史兄さんは、呪いから解き放たれたのだ。私だけが、大切なもの、彼を失った。

 しかし、失った事でこの夏を過ごしたあの時の私は、今も幽霊のように図書室にいる。心残りが多すぎて、どうしても前に進めなかった私は、それらを切り離し書き記したノートや記憶に閉じ込めた。それは十七のままの私であり、彼を思い出す度、ノートを開く度に何度でもあの夏に戻る事ができた。夏に戻る術を得る事は、自分を救い、生きる事だった。私が死ぬ時、あの夏も短い冬の欠片たちも消える。その時が本当に彼にさよならを告げる時なのだろう。

 その時の私は、ただ彼の言葉に落ち込んでいた。彼はそんな私を見て、また間近に迫った別れについてどう思っていたのだろうか。それはノートにも記憶にも残っていない。彼が語らなかった事は、彼のみが知る。もし心が見えたなら、私の記憶はもっと鮮やかになり、思い出す時に、夏の色はより一層濃く図書室に満ちて、彼の声も風の温度も、思い出せたのかもしれない。しかし知る事が出来ない思い、それが私達の距離を作り、若しくはそれが存在する悲しみが私を彼に近づけたのだとしたら、心を知る事は良いとは言えなくなる。――私が少しでも冷静であれば良かった。

 彼との別れに感傷的になりすぎていた私は、拒絶されたのだと思い始めていた。確かに私にとって彼は知らない事の方が多い。だからその知らない部分の方が大切なのだとそう思ってしまったのだ。正直に言ってしまえば、彼が約束した彼女の為に何かをするのだと、嫉妬していた。

 次第に何か言うのも億劫になり、図書室にいるのが耐えられなくなってきた私は、明日の準備があると適当な事を言って図書室を出て行こうとした。まだ昼前で、いつもなら夕飯の前までいるのに、私は自ら下らない感情で彼といる時間を捨てたのだ。

 彼は決して鈍感ではない。突き放すような自分の言葉に私が動揺しているのが分かったのだろう。廊下に出ようとして扉に手を掛けた瞬間、君、と呼び止められた。もしかしたら、この瞬間、私たちはお互いに名前さえ名乗っていなかったのを、彼はようやく思い出したのかもしれない。私は振り向かなかった。自分が酷く子供っぽい事をしている自覚もあったので恥ずかしくてどんな顔をすれば良いのか分からなかったのだ。


「私は、……君がいてくれて良かったと思っている」

「そうですか。ありがとうございます」


 それは私の台詞だ。彼がいてくれて良かった。何をおいても来てしまう程、この図書室がかけがえのないものであるのは彼がいるからだ。だから、私も、と言えば良かった。しかし私はそのまま扉を開け、廊下に出た。

 もう一度君、と呼ぶ声がした。それでも私は振り向かなかった。彼はその時どんな顔をしていたのか、もう永遠に知る事は出来ない。


 その日はそんな事があって、一日中おばさんの手伝いや散歩をして過ごした。昼過ぎになるとおじさんと父は帰ってきたが、夕飯を食べた後にまた集まりがあるとかで、出て行くらしい。

 昼ご飯の後に外に出てみると、図書室に篭っていたせいか、夏の暑さがやけに強く感じた。平地に比べ山間部に近いから少しは涼しい筈だが、年を追うごとに平地との差は無くなっているという。農作業用の大きな麦わら帽子をおばさんに借りたのは、全くの正解だった。南中時刻を過ぎたとは言え、太陽の光は真っ白な光を燦々と降り注いでいる。しかしそんな日差しの下でも、真っ直ぐなあぜ道を抜けて進むと暑さを超えて、どんどん歩いて行けそうな気がした。

 歩くということは人を冷静にさせる。今朝の自分がいかに聞き分けのない子供のような振る舞いをしたのかを思い返すと、日差しより熱いものが頬に宿る。また、彼にだって事情があるのだ。私が知る全てなど、彼のほんの一部にしか過ぎない。引き返して図書室を覗けば、彼は気にする事なく迎えてくれるだろう。しかし、勇気がない私は、きっと彼にも準備があるのだと言い訳をして自分の躊躇いを誤魔化した。

 夕飯まで外にいようと思ったが、暑さに体力がついていかず、結局三時ごろには家に戻った。おばさんも丁度買い出しから帰ってきていて、お茶にしましょうと入れてくれた麦茶がいつもより美味しかった。

 二週間の滞在中、おばさんは私を可愛がってくれた。何かとおばさんが私を側に置きたがったし、私もそれが嫌ではなかったので、図書室にいる時以外はずっとおばさんと一緒にいた気がする。今まで彼との事ばかり書いてきたが、おばさんとの思い出も、この夏には沢山あった。よく覚えているのは、というか何を話していても結局同じ話になってしまうのだが、本当はもう一人、女の子が欲しかったが中々出来ず、結局隆史兄さんを一人っ子にしてしまった、もし妹でもいたら何が変わったんじゃないかと思ってしまう、陽気なおばさんが、笑いながらも時折ため息をつきながらそう言った事だ。この日も、明日帰る事から話が始まったのに、いつの間にか隆史兄さんの話になっていた。


「隆史はあなたを気に入っているみたい。ああ、変な意味じゃなくてね」

「ええ?本当?」

「本当よ。小さい頃から良くあなたの事気にかけていたのよ。でもあの子、どちらかと言うと無口でしょう?あなたが一人で本を読んでいる時なんて話し掛けたくて、仕方なかったみたい」

「あ、でもからかわれたりした時はいつも来てくれた」

「隆史はあなたと似ているところがあるからほっておけなかったのね」

「兄さんと私が?」

「うん。隆史もね、昔は良く図書室にいたの。怒られたりすると必ず図書室で泣いてたわ。あの子ね、本も良く読んだのよ。でもお義母さんがあまり良い顔をしなくて。男なら外で遊べってね。隆史、おばあちゃんっ子だったのよ、だからそれから図書室に行かなくなってね」

「そうだったんだ。なんだか、隆史兄さんとちゃんと話してみたいかも」

「隆史の事、怖い?」

「少し」

「そうよね。でも色々あったけど隆史は悪い子じゃないのよ、本当は。間違えたのは、私達だったのよ」


 おばさんの何度目かのため息に、胸が痛くなった。記憶を辿れば、確かに隆史兄さんは根っからの悪人ではない。おばさんにしてみれば自分の息子なのだから、それは良く分かっている。だから余計にどうしていいか分からないのだ。

 私とおばさんが話す時、いつもテーブルの上に麦茶があった。三日に一度作られるそれは、私たちの主食だった。祖母など何も食べない日があっても必ずこの麦茶は飲んだ。程よく冷えているのか、優しい香ばしさがいいのか、喉を通る度に気持ち良さそうに目を細めていた。

 特別な味がする訳ではない。家から一時間程かかるショッピングモールで買った麦茶のパックだ。それでも渇いた体におばさんお手製の麦茶を飲むと、指先まで水分が満ちていくような気がした。水だと物足りない、ジュースは甘ったるく、烏龍茶だとさっぱりし過ぎている。スポーツ飲料は体液に近いというが、少ししょっぱい。

 そして、私たちの語らいは夕飯の用意をしなきゃね、というおばさんの言葉で終わる。いつもそうだし、この日も同じだった。そのままおばさんの後にくっついて台所にいくのだが、同じような話をおばさんは決してしなかった。

 私達の会話を知るのは、私達と二つの麦茶の入ったコップだけで、麦茶は飲み干してしまえば終わりだし、洗ってしまえばどのコップが愚痴を聞いていたのか分からなくなる。おばさんにとって台所は全てを洗い流す場所であり、私が来るまで、言葉にするのではなく、そうやって色々な感情を流してきたのだろう。


 その日の夕飯は、滞在最後の夜という事もあって豪華だった。私の好きな唐揚げに、出汁巻卵、父たちが買ってきた刺身が並んだ。それに甘いとうもろこしの炊き込みご飯に、お手製のぬか漬け。私はこれから出掛けるというのに、食べ過ぎてしまった。奇妙な程楽しい夜だった。隆史兄さんでさえ冗談を言い、父とおじさんの酒はどこまでも陽気で、私とおばさんは三人を見て笑っていた。今まで起こった事が全て無かったような、幸せな一家団欒がそこにはあって、誰も怒らない、気まずい思いもせず、笑い声が響くような夜だった。作り過ぎたと山盛りのから揚げも、奮発したという刺身も全てがお腹の中に納まってしまった。

 この時、私は彼を忘れることにして、目の前の家族達に全ての心を向けていた。もう朝に感じた嫉妬も拒絶も消え失せて、蛍を見に行った後に、図書室に行こうと決めていたのだ。ごめんなさい、と謝って、今までありがとうと伝えようと。本当の別れは明日、ここを発つ時だが、その時は一番重要な事を言わなければならない。だから、言える事は先に言ってしまいたかった。伝えられなければ、二度と機会はない。ごめんなさい、ありがとう、さようなら。言いたい事は、突き詰めればたった三言、それだけしかない。それだけしかないが、伝えられなければ一生後悔する言葉達でもある。

 夕飯の片づけと祖母の手伝いをしたら、なんとか膨れたお腹もこなれてきて、私は玄関へ向かった。きっと隆史兄さんはもう待っているだろうと思っていたが、玄関先は暗いままで、その代わり何故か仏間から光が漏れていた。いつもは戸が閉まっているはずだが、その夜は開いていた所為だった。

 私はこの仏間が苦手だったので、正月に家族で仏壇に手を合わせる時以外にこの部屋に入った事は無い。小さい頃、代々の遺影が壁に並んでいるのがとても怖かった。五人程並んでいて、視線を感じるような気がしたのだ。大きくなっても、その恐怖心は中々拭えず、祖母の部屋に挨拶する時のように、私は父の背に隠れて俯いて、お鈴の音を合図に手を合わせていた。だから少し勇気を出して覗けば、隆史兄さんが並ぶ遺影の前に立って、それらを見上げていた。

 良かったと胸をなでおろし、隆史兄さん、と声を掛けると、ああ、と短く答えが返ってきた。しかし、視線は遺影から離れる事は無い。仕方なく私も部屋に入り、隣に立ってみたが、やはり白黒の写真たちは苦手だ。ただ何をそんなに熱心に見ているのかは気になったので、そろりと視線を上げると、最初に見えたのは随分若い男性の遺影だった。それ以外は全て年齢を重ねていたものだから、一層目を引いたのだろう。

 写真の男性は穏やかそうな目に、唇は軽く結んである所為か微笑んでいるようにも見えた。この人は、若くして亡くなったという祖母の父だろう。祖母の中にその面影を探すのは難しいが、父に似ていると言われれば確かに目元や雰囲気が似ていた。

 しかし隆史兄さんが見ていたのは、その左隣の遺影だった。曾祖父とは一転して、元々気難しい顔なのか、眼鏡のフレームの丸みすら、柔らかく見せられない程だ。深く刻まれた皺は、老いだけの所為ではないだろう。私はこの中の誰とも会った事はない。生まれる前に皆死んでしまっていたし、隆史兄さんだってそうだろう。しかし、その厳しい面影は何処かで見た事があった。もし、写真の顔がもう少し若かったら、誰なのか、若しくは誰に似ているのか分かったかもしれない。隆史兄さんはその顔を熱心に見ていた。まるで、その目に焼き付けるように。


「ねえ、この人は?」

「ばあちゃんのじいさんだって」

「何で見てたの?」

「お前が来るまでの暇つぶしだ。さ、行くぞ」

「……うん」


 私の問いははぐらかされ、まるで背を押されるように部屋を出た。振り向いてもう一度、あの厳しい顔を見ようと思ったが、隆史兄さんの背に隠されて見る事も、結局それが誰なのかを思い出す事も出来なかった。その時の私にとってそれは些細な事だった。夕飯の余韻がまだ残っていたのと、蛍を見に行く事に浮かれていた。

 私はこの時、自分の出した結論に酔っていた、もしくは目を背けていたのだろう。彼の言う終わりよりも、私が与える終わりばかりに目を取られ、自分の言葉や思考ばかりに捕らわれていた。もし、少しでも彼の言葉に耳を傾けていたら、そう思うが、現実感がなければ人は身を持って感じる事は出来ない。私にとってその時信じるべきは良く分からない終わりより、明日去る前に約束を果たす事で迎える終わりであり、それが一番望んでいた未来だった。

 私達は仏間を出た後、音を立てないように静かに玄関の戸を引いた。私は父に蛍を見に行くと言っていなかった。隆史兄さんと一緒に行く事へ嫌な顔をされないと思うが、さっきの夕飯の席で蛍の話が出なかったのを考えると、兄さんは誰にも言っていない筈だ。

 それに加えて十七ぐらいになると、親に秘密の外出は普通に出かけるより、心が弾むものだった。


「行くぞ」

「うん」

「これ、足元暗いから持ってろ」


 家の周囲に街灯はないが、月明りのお蔭で多少は明るい。しかし足元は流石に暗かった。大きめな懐中電灯を渡され、隆史兄さんにならって私もスイッチを入れた。そうすると、大きな明るい円がコンクリートを照らし、そこだけスポットライトが当たったようになった。隆史兄さんの円と重ねれば、そこだけ昼よりも明るく、眩しさに目を細める程だった。

 そんな光から逃げるように暗い夜空を見上げれば、そろそろ見慣れてきた、それでも感嘆せずにはいられない満点の星空がある。月が明るくても星が降るような、とでも言えばいいのだろうか。それぞれの星々が瞬き、光を降らせるので、ずっと夜空を見上げていると迷子になった気分になる。特に一人でいると宇宙に投げ出されたような気さえした。

 多少は歩幅を合わせてくれていると思うが、やはり隣で歩くには疲れるので、自然と兄さんの後を着いていく形になった。その所為か道中は殆ど何も話さなかった。あったとしても、段差があるから気を付けろ、とかそれぐらいだった。

 蛍に浮かれていながらも、やはり隆史兄さんの話は気になっていた。蛍を見るのは口実であり、あの空っぽの蔵の事について何か私に話さなければならないのだろう。わざわざ連れ出すぐらいだから、良い話ではないという予想はしていた。

 蛍の住処まで向かう道は悪路ではなかった。夜になると車も走らない道路だが、きっちりコンクリートで舗装されていたので、泥濘や石、側溝に足を取られる心配はなかった。田んぼからの蛙や虫の声が止み、ざりざりという足音に混じって水の流れる音がし始めたと思うと、隆史兄さんは右に曲がった。ほんの少し歩くと直ぐに蛍のいる神社が見えてきた。高い建物が無い中、鬱蒼とした木々は夜空を隠し、そこだけ他とは違う雰囲気があった。神社の後ろは山になっていて、そこから流れる川が蛍の住処になっているという。

 鳥居をくぐり、神社の境内へと階段を昇っていく。ここは私も記憶にあって、以前来た時は暗い中に見える神社が怖かった。隆史兄さんの手をしっかり握っていないと、一生家に帰れなくなる、そんな事を思っていた。流石に今は手を繋がなくても平気だが、前を歩く姿を見失ってしまったら、私は一歩も歩けなくなりそうだ。

 石畳の階段を上ると、再度鳥居が見えてきた。入口とそんな大きさは変わらなく見えたが、満天の星に装飾された鳥居はまさに神域へと誘うようで、恐れよりも惹きつけられる。そこをくぐり中に入っていくと、ただ水の音がさらさらと良く聞こえるだけだった。

 夜空に比べて真黒な神様の住まいには当たり前だが全く人気がない。蛍は神社の裏にいるという。近所の子供がいてもいいのに、誰もいないと何だか酷く罰当たりな事をしているような気がした。神様だけが知る美しい物を盗み見るような、そんな気がしたのだ。私がお賽銭箱の方を見ていると、やはり兄さんも気になったようで、一応お参りしておこうと二人で手を合わせ十円を二枚入れた。子供の頃は夜の暗さに怯えていただけで、そんな事を気にしなかった。子供は半分神様みたいなものだというから、神域に入っても決して招かれざる客ではないのだろう。

 鳥居をくぐれば、神様のいる場所。それは分かっていた。しかし、水音に導かれるよう神社の裏手に回った時、私は眩暈を覚える程の美しさを覚えた。そこにあったのは、神様の夏の宝物。かつて見た時は、こんなに美しかっただろうか。

 水の流れは奥に繋がっているようで、そこに近づけば近づくほど蛍は多くなる。蛍光とはいうものの、空気に浮かぶ光たちは淡く見え、遥か頭上にある星の光の方がしっかりと輪郭を保っているように見えた。

 水と遊ぶように、また時には休みながら光は踊る。そのうち一匹が私の手にとまって数回光を瞬かせた。手には何も重みが感じられず、光が宿ったようだった。


「綺麗だな」

「本当に、綺麗」

「昔、ここに来たの覚えてるだろ?小さい頃な、どうしてもお前が泣き止まなくて連れてきたんだ」

「そうだったけ?」

「何だよ、忘れたのかよ。大変だったんだぞ?お前、幽霊の子って言われても泣かないのに、幽霊がお前を食べるとかなんとかって揶揄われたら急に怒りながら泣いて暴れるから、寒い中ここまで連れて来たのに」

「隆史兄さん、優しいね」

「優しくなんかない、半分俺の為みたいなもんだったから。図書室は俺にとっても大切な場所だったからな」

「あ、おばさんが小さい頃良く図書室に行ってたって」

「ああ。あそこにいると静かで、本を読んでればいい暇つぶしになった。こう見えて色々読んだな、何せ」

「何せ?」

「いや、何でもない。まあ、お前が通うようになって正直ほっとしたよ。誰も知らないままじゃあ可哀想だ」

「そうだね」


 蛍火が照らす明るさに慣れた頃、隆史兄さんが口を開いた。確かに手を引かれここに来たのは覚えているが、まさか私をあやす為とは覚えていなかった。暗くて怖かった事ばかりが記憶に強く残っている所為で、その時見た筈の星空は何一つ覚えていなかった。

 隆史兄さんは、彼と会った事はないのだろうか。幽霊だから誰にでも見れるとは限らないが、あの寒い図書室に一人で逃げ込んでいたと思うと、彼の姿が見えたならどんなに心強かっただろう。そして、隆史兄さんもあの家を好きになれたかもしれない。

 暗闇にうっすらと浮かぶ顔は蛍が通った時だけほんの少し表情が読み取れた。美しいものを見ているには、固い表情だった。さっきまでの会話は前振りだ。私達は蛍を見に来た訳ではなかった。本題はここからだ。私は蛍から隆史兄さんの方へ視線を向けた。私達の間に蛍は通らない。幻想的な光は消え、あるのは暗闇という現実だった。


「昨日、蔵を見に行ったんだ。知ってるな?」

「うん」

「中は空だった。何にも入ってなかった」

「………そう、だったんだ」

「笑えるよな。ばあちゃん、蔵の鍵をずっと守ってたのに空だったんだぜ?でも、驚いたのは蔵を空にしたのは、ばあちゃんだったんだ」

「え?何で、だって大切に守ってたんじゃないの?」

「お前に鍵を渡す少し前、全部売り払ったって。俺、蔵を見に行った後、ばあちゃんの所に行ったんだ。色々聞いたよ。何で空にしたかって聞いたら、ばあちゃんなんて言ったと思う?……もう自分の代でこの家を終わりにするんだと」

「どういう事?だっておじさんとか、継ぐ人が…」

「継ぐ人間なんて、いないよ。そもそも継ぐ家が無くなるから」


 継ぐ家がなくなる、あまりにも直接的な言葉に嫌な予感がした。蛍が私たちの間を通った。私は隆史兄さんを見ていた。隆史兄さんも私を見ていた。交差した視線の中に彼の言っていた終わりが、はっきりと形になっていくのが見えた。


「私、家に帰らなきゃ」

「駄目だ。お前をここに連れ出したのは、お前を守る為なんだ」

「守るって、」

「ばあちゃんな、もうあの家をお終いにしたいんだ。あの家を無かった事にするって。自分のせいでみんなを苦しめた、一番大切だった子供達が、家があるせいで思うように生きられなかったって」

「そんなの知らないよ!ねえ、隆史兄さん、おばあさんは何するのつもりなの」

「知ってどうするんだ!お前はここにいろ!」

「教えてよ、お願い!私、ここで知らなきゃ一生後悔する」


 その時の私にとって正しいとか、正しくないとかは行動の基準にはならなかった。後悔するか、しないかそれだけだった。今何が起ころうとしているのか、知らなくてはならない。私がいくら大きく隆史兄さんの腕を揺さぶっても、体はびくともしない。しかし必死にすがる私に、何度も頭を振っていた兄さんも辛かったのだ。その秘密は一人で抱え込むには大き過ぎた。

 大きい声を出していたからか、蛍が一斉に私達の周りから消えていた。あの時、それが見えたのは全くの暗闇だったからかもしれない。暗闇がスクリーンに変わり、隆史兄さんの言葉をそこに映し出した。


「ばあちゃん、家を燃やすって」


 暗闇の中に炎を見たのだ。それはガス台のつまみを回せば出てくるような、可愛らしいものではない。理科の実験でガスバーナーを点けた時、最初に立ち上がる炎のような、いや、それさえも凌駕する炎。燃えているのは、間違いなく家だった。私はその時、靄にかかっていた「家が無くなる」意味をはっきりと理解した。確かに、今すぐ家をなくすのなら、方法はたった一つしかない。

 父、おじさん、おばさん、祖母、そして――。私は気付くと走っていた。階段を駆け下り、硬い道を灯りもつけず、星の降る夜空の下、瞼の裏に燃える炎を追い、呼吸さえ忘れ走った。普段走るような事をしないせいで、全ての身体の動きが上手くいかず、いつの間にか乾いた唇や喉が痛くなる。足も重いが、動くなら動かし続けるしかない。

 何も見えなかった。暗いせいではなく、網膜を通して映る全てが意味を持たないせいだ。神社から家までほぼ一本道であったのは本当に良かった。一度しか歩いていないのに、迷うことなく勝手に足が進む。ただ家に近づくにつれ、夜風に冷たさはなく、熱と焦げ臭さばかりを私の元に運んでくる。それは私を家から遠ざけるように呼吸を奪った。それを振り切り、走り、ごうごうと地響きのような音がしたと思えば家に着いていた。

 昔ながらの、お湯も出ない、冬は寒いだけで、畳は沈み、木の腐った甘い匂いがして、私が心から愛した図書室があって、そして彼がいる家が、燃えていた。

 火というものはこんなに恐ろしいものだっただろうか。少し距離を取っていても肌を焼きそうな温度を感じる。しかしそれより辛いのは、空気の組成を変えてしまうような煙だった。臭いも鼻を侵していく。全てが死を連想させ、本能的な恐ろしさに身体が硬直していく。

 誰か、既に消防には連絡していたようで、遠くからサイレンが聞こえてきた。彼がまだこの中にいるが、母屋にはもう入れない。開け放された玄関からは火が吹き出して、飛び込む勇気がどうしても出なかった。しかし、母屋から少し離れた、蔵に続く廊下の方、つまり図書室の辺りには火の手が回っていない。サイレンではなく、今度は私を追いかけてきた隆史兄さんの声が聞こえた。隆史兄さんに抑えられたら、私は動けない。そう思った瞬間、心に天秤があったなら、大きく振れたに違いない。炎も恐ろしいが、彼をこのまま失う事の方が私にとってより恐ろしいと、そう思ったのだ。

 まだこの時間ならおばさんは戸締りをしていない事を思い出せたのも僥倖だった。さっきまで強張っていたはずの身体は、不思議な事にしなやかに動いてくれた。私は、燃え盛る家へと走り出した。

 火はまだ回ってなくても、煙は家に近づくと一層濃くなり、私の呼吸だけではなく視界さえも奪った。それでも、ただ中に入る事しか考えられず、半ば手探りで窓を開けた時、頭にあったのは彼の事だけで、死という言葉が思いつかなかった。


 図書室へ初めて入った日を、一生私は忘れない。小学校の図書室のように本棚が並び、見た事のない本達が息づいて、本の匂いに満ちたそこに足を踏み入れた時、生まれて初めて心臓が大きく脈打った。幼い私は言葉に出来なかったが、私が望んでいた世界がそこにあったと言えばいいのだろうか。

 図書室の扉は、沢山の世界へと繋ぐ入口だった。そして、そこに住む彼は私を導く灯台だった。私が迷わないように、溺れないように彼は決して明かりを絶やす事は無く、だから私は彼を目指し、彼を追って文字の海を泳ぐことが出来た。


「言っただろう、これが最後の夏になると」


 家の中は窓が閉められていたせいで、炎より先に煙が廊下を満たしていた。口を押さえていても粘膜が刺激され、私が咳き込みながら図書室に入ると、彼はいつも通り涼しげな顔をしてそう言った。

 私はこの時になって、朝、私に来なくてもいいと言ったのは火事に巻き込まれないようにという彼の精一杯のメッセージだったのだ事に気付いた。後悔に似た感情が胸を締め付ける。しかし、過ぎていく一秒一秒を、今は無駄に出来ない。後悔は後で悔やむから後悔なのだ。なら、今すべきことは後悔ではない。


「何故、ここに来た。君は彼と、」

「炎が見えたんです。一生懸命走ってきました。こんな終わり、私は嫌ですから」

「だからと言って、自分の命を危険にさらしてまで来る意味はあるのか?私は幽霊だ。既に死んでいる。君のように咳き込むことも、暑くもない。この図書室が無くなれば消えるだけだ」

「幽霊とか関係ないんです、消えるんですよね?一生会えなくなるんですよ?さよならも言えないで別れたら一生後悔するんです」

「君は馬鹿か!死んだら終わりなんだ!何故分からない?君には両親がいるだろう、置いていかれるというのは君が想像するより辛いんだ」

「あなただって私を置いていくじゃないですか!私はここに来なきゃいけないんです」


 こんな結末がやってくるなんて、私は知らなかった。ただ彼が消える理由はまだ変えられる。彼が消えるのは、約束を果たしてからでなくてはいけない。私達が出会った意味は運命だと流してしまってよいものでは決してない。私の手によって彼は消える。それが私達の別れなのだ。

 身体が熱い。走ってきたからだけではない。地響きのような音は相変わらず聞こえていて、強さが弱まる事はない。私の勇気は家に入る事で果ててしまったのか、このまま炎に飲まれてしまうのではないか、という恐怖で身体が震えていたのも事実だった。それでも逃げ出さなかったのは、後悔したくないという大きな気持ちだけが、私を支えていたからだった。

 彼は少し黙って眼鏡を外した。眼鏡のせいで目つきの悪さを隠していると思っていたが、今さら違う事に気付いた。彼はいつも気難しい表情を浮かべているだけだった。どこか清々しいのは、終わりが見えているからだろうか。

 遠くで炎の音に混じり、誰かの声が聞こえた。しかし私は答えない。図書室の、この瞬間はただ、私と彼の為だけにあった。例え数分後には炎に飲まれ、私たちが愛した本が燃えても、それだけは確かだった。

 彼は目を伏せ、私は瞳の代わりに睫毛の一房がつくる影を見ていた。その影は震えていた。二人の呼吸が同じリズムに溶け、私は彼が唇を動かす前に言葉が生まれるのが分かった。そしてその言葉が二度と聞く事が出来ない彼の本心である事も。少しだけ、話させてくれ、と彼は言った。


「彼女との約束を果たすために留まれたのは後悔していない。でも、寂しかった。家の人間が図書室に幽霊がいるとは言うものの、実際私をはっきり見たのは君ぐらいだ。図書室に人が訪れる度、私は期待して裏切られた。日の昇り沈みを数えるだけ、そんな終わりが見えない日々は疲弊を重ねるだけだった。生きていた時は約束に縋っていたというのに、酷い男だろう?約束など果たされずとえてしまえれば、そう思う日もあった。でも、そんな毎日に君が現れた。それがどれだけ私を喜ばせたか、君は分からないだろう。本を読む幼い君は、訳も分からず一生懸命読んで、私が読み方を教えると嬉しそうにして。……君がいる三日間は幸せだった」

「ふすま、ってあなたは教えてくれた」

「ああ、ふすま。その一言だよ。それを言った時、私の声が聞こえるなんて信じられなかった。……君は全く年齢にそぐわない本ばかり探して、でも私はそれが嬉しくてね。君が大きくなるにつれ読めない言葉が減るのは寂しかった。一年重ねるごと、ああ、また一人になる時が近づいたと再会する度胸が痛んだ。だから、その痛みを忘れなければ、この時が来ても大丈夫だとずっと思っていた。……しかし友人と別れるのは、二回目でも慣れないな。置いていかれても、置いていっても」


 言葉が途切れるのと同時に、震える睫毛の先に留まっていた一滴が落ちた。それが合図になった。彼に触れられた夜、私は彼の願望を映す鏡でしかなかった。しかし今、私は虚像ではなく、現実で果たす事が出来る。


「私、あなたに一つ言ってなかった事があります」

「ああ、そう言えば私も君に聞きたい事があるんだ。今日の朝聞こうと思っていたんだが聞き損ねて。それで言っていなかった事とは?」

「私の名前です」

「奇遇だな、私も君の名前を聞こうと思っていたんだ。最後に知りたかった。教えてくれるね?」

「ええ」


 言ってしまえば、幕は下りる。その一言こそが、私と彼の別れを導くのだ。火事でもなく、彼の消滅ではなく。抑えきれない一番の願いが、彼との全てを思い出させ、喉が涙で詰まりそうになるが、言わなければならない。私と出会ったとき、彼はこう言った。百合の香りがする、と。


「百合です。花の百合と同じ字を書きます」


 図書室はいつも土の匂いがした。彼が傍らに携えていた本は、まるで真珠貝のように見えた。苔の上に座り、まるい石を眺め、赤い日を数えていた日々はもう終わる。日が昇り、沈むだけの空に、ようやく暁の星が昇ったのだ。


「……百年は、百年はもう来ていたんだな」

「とっくに来ていました。もっと早く言えば良かった。彼女の話を聞いてから、あなたが消えるのが怖くてどうしても言えなかったんです。本当にごめんなさい」

「いや、いいよ。確かに彼女を待つ時間は寂しいものだったが、君が来てくれたじゃないか。百合の匂いを纏って」

「気付いてたんですか?」

「気付いていたよ、とっくに。だがね、もう誰も寂しい者はいない。百合、お行き。君の待っている人のところへ。私も行かなければね」


 今度ははっきりと、私を呼ぶ声が聞こえた。ゆり、ゆり、と父の声だった。本当は分かっていた。徐々に煙が隙間を這って私達を霞めていくのも、肌を焼くような熱を連れて炎がそこまで迫っているのも。しかし、私は聞き分けのない子供だ。手を伸ばして、消えゆく彼の手をつかもうとした。しかし、私の手をすり抜け、その手は閉じていた窓を開け放した。逃げ道を彼は作ってくれたのだ。窓から吹き込む風は凶暴な熱を孕んでいる筈だが、私たちの間を通るときは、この二週間、蝉の声と夜の静けさを図書室に運んだ風と同じだった。


「風が吹いた。君は生きろ」


 餞だ、忘れるなよと彼は笑う。苦手だったんじゃないんですか、と彼に返したが、彼はそのまま笑っているだけで、何も答えなかった。いつものように、もう扉から出られない。私は窓枠に足をかけ、半身を外へ向けた。外は火の手が嘘のように静かだった。お父さん、と大きな声で叫ぶと、父が私を見つけ、こちらに向かってきた。


――約束じゃなくて、はなむけ、だなんて。


 私はその時振り向かなかった。彼の消える瞬間は見ていない。しかし彼とは二度と会えないのだと、心の底から理解した。



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