4私達の夏
文章内の『』部分は夏目漱石の夢十夜・第一夜からの引用になります。
四.私達の夏
「正直に言おう、この夏が君に会える最後の機会だと思っている」
全てを語り終えた後、彼はそう言った。彼がこの夏に起こった全てを、二度と戻れない夏に重ねているのは薄々感づいていたが、はっきりと言われると戸惑いが隠せなかった。私は健康そのものだし、どこへ行く予定もない。しかし、何かが起こるならこの夏しかない、と彼は言う。
彼は一体、何を予感しているのだろう。少なくとも何かの不慮の事故でない限り私は死ぬ予定ではない。どちらかというと、彼の方がいなくなってしまう可能性を予感しているのではないか。
家とはずっとあるもの、そう簡単に無くならないもの、ここに来る前はそう思っていた。けれど、家というのは継ぐ人間がいなければ簡単になくなる。おじさん、隆史兄さん、父、という「継ぐべき」誰もがこの家を存続させる意味を持っていない。三人とも、この家を守る理由がないのだ。
正史おじさんが耐えたところで、隆史兄さんへ代が移ってしまえば、この家は無くなってしまうのだろう。この家が無くなるという事は、彼がいなくなる事とイコールだ。外れる可能性があるなら、予感だろうが推測でもしてくれればいい。ただ、彼は確信していた。思っている、と言ったのは私の為かは分からないが、これが最後、と彼の中では断言しているのだ。
私たちは一年にだった三日しか会わない。「彼女」のような親密さとは程遠い。しかし、過ごした時間だけが私たちを結ぶ全てなのか、と問われればそれは否だ。今、彼の喪失について一時の感傷というには抑えきれない感情が生まれていた。夏の暑さが肌を通っていくのに、身体の奥だけが冬の図書室に投げ出されたように冷えていく。私はこの感情を言葉に変える事が出来なかった。
嫌だ、悲しい、辛い、苦しい。そんな言葉ではなく、もっと抉るような、初めての感情だった。そして、彼が終わりを悟ったように、私も一つある事を確信していた。この世界には神様がいるから、全ての出来事に無駄はないという。それは上手く行かない時、自分を慰める為の言葉だと、私はそう思っていた。しかし、彼の過去を聞いた今、私がこの図書室に来たのは偶然では無く、彼女と彼の強い願いが、私をここに導いたのだ。何故なら、私は、約束そのものだったのだ。
私はその時どんな顔をして、彼を見つめていたのか。彼は相変わらずの表情をして、しかし口の端だけが微かに震えているようにも見えた。終わりを迎えるのはやはり彼で、それについて彼は恐れを抱いているのかもしれない。だとしたら、私が訳の分からない感情を振りかざす事は出来なかった。
せめて私がこの家を去るまで、抱いている恐れを取り除く助けが出来ればいいのだろうが、その方法は一つしかない。私自身の望みを言えば出来る限り、失ってしまうこの友人の側にいたい。しかし全てに気付いてしまった今、私は揺れていた。約束を果たす事で彼は幸せになるが、私は彼を失う。私さえ口を閉ざしていれば、私は私の願いを叶えられる。もし今すぐにでも約束を果たしてしまえば、彼は目の前から消えてしまうかもしれない。私は臆病で、自分勝手な人間だった。喪失の恐れに怯え、私は口を閉ざす事を選んだ。
「君と過ごす冬はとても楽しかった。先に礼を言っておこう」
「なんですか、それ。まだ私はここに居ます。あなたが嫌がってもこれから沢山来ます」
「来てどうするんだ」
「……本を読みます。とても難しい本を」
「君はやはり子供だな」
「これからは夜も来ます」
「来れるのか?夜は怖いぞ」
「子供じゃありませんから」
「何を言っている」
ははは、と彼が笑って私の頭に手を伸ばす。彼が私に触れようとしたのは初めての事だった。目でははっきり腕が私に向かって伸びているのが分かるが、頭に乗る手の重さや感触は無かった。私は既に彼が存在しない、つまり幽霊の類である事を知っている。それを確かめる事はしなかったし、その事について私たちが語る事はしなかった。
時に行動は言葉より雄弁だ。彼はこの時から、自分が何者であり、決して私と交差する事がないのだと伝え始めていた。
過ぎ去る思い出を忘却の彼方に追いやらない為には、しっかり見て覚えているという曖昧な方法よりも、書き留めておく方が確実だ。恥ずかしい話、私は記憶力が人より劣る。覚えておくという事が苦手なのだ。それなのに今、思い出してここに記す事が出来ているのは、鮮烈な出来事ばかりだったという理由もあるが、図書室にノートを持ち込んだ事が大きい。もし彼の言う通り、これが最後であるなら残りの日々をどう過ごすか、精一杯考えた結果でもあった。
忘れたくなかったのだ。表情も会話も、浮かんだ瞬間に消える。一瞬一瞬同じものはなく、些細な事でも私はそのノートに書き留めた。会話だけではない。眼鏡の縁の細い事、着物の色、彼の体を透き通る光の刻一刻と変わる様。彼はノートについて一度も言及しなかったが、私が書いている決まってゆっくりと話してくれた。彼は優しさを言葉で表すよりも態度で表す方が多かった。
本当に私は彼との別れが惜しかった。ノートを開くとあの夏の空気が、二度と感じる事の出来ない独特の匂いと共に蘇る。
惜しむべきは彼の声だろう。考えれば当たり前なのだが、録音は出来なかったので、それだけは残す術がなかった。顔つきには似合わない、中音域の声。ふすま、と一言聞いた時から忘れる事は出来ないし、忘れないと思っていた。しかし今、私は彼の声の特徴を答える事が出来ても、どんな声だったかは思い出す事は出来ない。声というのは一番先に記憶から消えていくそうだ。どんなに忘れたくないと思っても、記憶の定めは意志の強さを越えてしまう。彼の声が、私は好きだった。中音域に風鈴の鈴の音のような澄み切った金属音が混じった、涼しげな声だった。
私が彼の声について語っても、誰も分からない。それでいいのだ。彼の声だけは、誰も知らない。誰と語る事も出来ない。だから、私は覚えていなければならないと、ノートの文字の奥にある、思い出達がより一層輝くのだ。
私は今までより足しげく図書室へ通った。夜は怖い廊下に阻まれ行ってなかったが、事情が変わればそれらは些細なものへとなった。夜の廊下は相変わらず暗く、足音をいくら殺しても軋む。少しの恐怖と罪悪感と、一秒でも側にいたいという心が必要以上に足を逸らせた。
この夏を思い出す度、この頃の私は彼に恋をしていたのか、と疑問に思う事がある。彼は友人である、と何度も私は言って来たし、事実あの時はそう思っていた。恋というのは厄介で、同じような感情が、例えば私の恋愛対象ではない女性に向けられていたら友人である、と胸を張って言えただろう。彼は異性で、側にいたい、会いたい、語りたい、尊敬、居心地の良さ、諸々の誰にも抱いた事のない思いを向けていただけだ。
人がそれを恋というなら、恋でも良い。普通恋をしたら付き合いたい、恋人になりたいと思うだろう。しかし、彼には一切そう思った事は無い。
世間の言う恋は窮屈に見える。恋人達がするであろう色々な事をして初めて、私たちの関係が認められるのであれば、このままで良い。恋より激しい気持ちを持っていたには間違いないとしても、私と彼は友人だった。
例えノートに記してなくてもこれだけは忘れない、という出来事が一つある。
夜に通い始め、二日ほど経った日の事だ。夜の廊下は恐ろしかったが、図書室の温度は下がり、気持ちが良く、蝉の声の代わりに鳴く虫の声は、私たちの潜めた声を妨げずに月や星のように夜を飾った。虫除けの為、図書室の電気をつける事は出来なかったので、私はスタンド式の電気を持ち込んで本を読んだ。
風立ちぬを既に読み終えた私は、次に夢十夜を読んでいた。彼は、その頃すっかり読書を止めてしまっていた。彼曰く、消えてしまうのなら続きが気になるような事にしたくないからだそうだ。私は笑ってそれなら、と鉱石辞典を差し出したが、彼の興味を引くことは出来なかった。
その夜は月が細く、星が良く輝く夜だった。私は夢十夜の中で、第一夜が一番好きだった。あの短い文章の中に込められた美しさは醒めたくない程の夢と言えばいいのか、第二夜の皮肉さの方が夢らしくあっても、むしろ夢だからこそ存在出来る物語なのではないか、そんな儚い稀有な物語が確かに存在するという事に惹かれていた。
男は女に会えたのか、百合の花は女なのか、そんな事はどうでもいいのだ。男が百合を女だと認識したら、二人の世界は完結する。約束は果たされた事になる。それで十分だ。
そんな事を私が話していた時、窓に切り取られた夜空に星が一つ流れた。私達は子供のようにそろって窓の外を覗いた。月明りのない、本当に星の綺麗な夜で、一等星は殊更に、六等星ですら瞬きが夜空に良く映えていた。星があまりにも明るかった。その明るさに、これじゃあ暁の星が瞬いても分からない、と彼は言った。百合が咲いた後、男が思わず見た遠い空に瞬いていたという、暁の星の事だ。
『――勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。』
私は答えず第一夜の一節を思い出す。彼にとって百年はもう来ているのか、否かは私の知るところではない。ただ、今まで過ごしてきた日々を思うと、男のように彼女に騙された、もしくは自分のやっている事が酔狂に思えた日もあっただろう。いくつもいくつも日の昇り沈みを勘定しても、誰も語り合う相手がいない。百年なんて言わずに、五十年、いや十年であってもいいはずだ。百年なんてあまりにも長すぎる。
彼は諦めてしまっているのだ。自分の消滅が近づいているのに、百年経つ気配はない。暁の星は見えないと。私には諦めるな、とは言えなかった。
彼の諦めを引き起こしているのは私が原因だ。たった一言告げれば、約束を果たす事ができる。人間というのは愚かなもので、その人を大切に思えば思うほど手放す事を恐れる。例え、手放す事が相手の幸せだと分かっていても。いっその事、彼が私にほんの一言尋ねてくれればいいとすら思う。十年の中、ようやく彼が漏らした弱音は私を大きく揺さぶった。私が抱えている秘密に気付いてくれ、そう願いながら私は言った。
「星が見えなくても、百合が咲きます。花が咲けばあなただって分かる筈です」
女が何故百年と言ったのかは漱石しか分からない。でも、彼女は一生を支える約束として百年と言ったのだ。彼がその生を生き切った時点で約束は果たされているのでは、と私は思うが、彼はそう思わない。百合の花が咲く事、それに固執している。今や約束は彼の全てなのだ。そして固執しているのは私も同じだった。本当に彼の事を思うなら、すべき事はたった一つだけなのに、そうしない私はなんて自分勝手なのだろう。
「私は、分かるのかな。もう勘定しきれないほど日は通り越していったけれど」
「分かりますよ、見えなくても百合は強く香りますから」
「そうだろうか」
私は彼を失いたくない一心で、全て行動していた。彼を約束から解放したくなかった。私に読み方を教える為にいるのではなく、彼は約束を果たす為にここにいる。約束のおかげで私は彼と出会えたのだ。
彼を苦しめ、私もこんなに苦しむならいっそ出会わなければ良かった。失う、とはこんなにも恐ろしいものだったとは、この時まで私は知らなかった。私は私の手で大切な人の孤独を延長している。それなのに罪悪感より、恐ろしさが勝っていた。
彼の諦めたような顔に耐え切れなくなって、スタンドの電気を消した。そして星明りの薄暗い中、私はただ小さくごめんなさい、と呟いた。
突然消した所為で彼は何も見えなかったようで、いきなりどうした、と聞かれた。私の自己満足な謝罪は聞こえかったようだ。私は手が滑った、と彼に嘘をつくしかなかった。
夜の図書室通いを父は咎めなかった。一応、父には図書室へ向かう事は言っていたが、それに対して嫌な顔や小言は一切言われる事はなかった。
この夏に起こった事を考えると大きな意志のようなものを感じる時がある。眉唾ではあるが、無意識に私たちの意識は繋がっていて、一つの結末を迎えようとしていたのではないか、と。例え祖母が亡くなってもこの家が直ぐに無くなる訳ではないし、祖母の死に目に会わせたいと言っても二週間もいる必要はない。どうしても私がここに来たのは彼と別れる為だったのではないかと思ってしまう。
二週間という日数は過去にこの家で起こった事をなぞらせ、彼に別れを予感させた。父が、過去の出来事を知っていた可能性はとても低いし、知っていたとしても踏襲する必要はどこにもない。
この家を無くす事を、叔父家族と父が決めていたとして父はここに私を連れてきたとすれば話は変わるが、父は何も知らなかった。正史おじさんもおばさんも、同じだ。
この家の「最後」を引き起こしたのは祖母だ。祖母はその決心を直前まで隠していた。しかし、誰もがこれから起こる事を全員が知っていたかのように行動していた。
運命を変える事は出来る。けれど、変えられない事もある。それは運命より強く、必定や宿命と呼ばれるものだ。物はいつか壊れる事、人はいつか死ぬこと、出会いがあれば別れがあること。あの家にいた私たちは、それぞれの人生においてあの時だけ同じ宿命の上に立っていた。
九日目の夜、私が布団を引いていると父が難しい顔をして部屋に入って来た。その日は夕飯を食べて片づけ終わった後、私とおばさんはいつも通り祖母の部屋に行ったが、父と正史おじさんはずっとテレビもつけず話していた。おばさんは何を話しているか知っていたようだが、私には何も言わずお風呂先に入ってしまいなさい、とだけ言った。
風呂を上がっても部屋には父が戻っていなかった。流石に何も言わず図書室へ向かうのはバツが悪かったので、参考書を見たり、携帯を触ったり、適当に時間を潰し、それでも父が戻ってこなかったので寝る準備をしていたら、ちょっと茶の間までいいか、と言われた。私が答えを返す前に父は踵を返してしまったので、私は言う通りにするしかなかった。
父はどちらかといえばのんびりしているが、この時は緊張しているようにも思えた。いつもと違う父の様子に胸騒ぎを覚えたが、私も続けて茶の間へと向かった。
茶の間にはおじさん、おばさん、父、そして隆史兄さんがいた。誰もが視線を交わらせないその光景は異様で、私はしばらくどう振る舞えばいいのか分からなかった。
私が入口で戸惑っていると意外な事に、声を掛けてくれたのは隆史兄さんだった。ぶっきらぼうに、よう、と言った後に武史おじさんの隣、と一言だけだが、そう言ってくれた。夕飯の席の通り座れば良かったのだが、戸惑っていた私はそんな事が思い浮かばなかったのだ。
父の隣に座ると、父が脇に置いていた封筒から鍵を取り出した。蔵の鍵だった。家に置いてきたと祖母には言っていたのに、何故鍵がここにあるのか。第一その鍵は隆史兄さんから遺産を守ってほしいと祖母から預かっていた筈だ。封筒は相変わらず分厚いままで、祖母から渡されたお金も入っているのだろう。
父はそのまま何も言わずに、鍵を畳の上に置いた。家の鍵とは形状が異なるそれは重々しく鈍く光っている。父の顔は強張っていたが、おじさん達も同じだった。私だけが困惑していた。
「この鍵を、隆史に渡そうと思う。なぁ隆史、蔵に行って中を開けてみなさい。何が入っているか見てくるといい。お前にとって価値のあるものか判断しなさい」
既に父は話していたのか、おじさんも、おばさんも何も喋らない。隆史兄さんは、膝の上に手を乗せたまま、私と同じような困惑した表情を浮かべていた。
祖母は蔵の中に全財産が置いてあると言ったし、隆史兄さんはそれを寄越すよう暴れたのだと思っていた。だから、私に鍵を預け、隆史兄さんを駄目にしないようにと、渡らない様にしたのではないか。どうして正史おじさんは父に何も言わないのか。
私はこの席にいる理由が分からなくなって、早く図書室に逃げ出したくなっていた。隆史兄さんはどうするのだろう。私はちらりと横顔を盗み見ると、その目は鍵を見たまま動かない。
この家に来る前も、今も隆史兄さんが何をしているのかは分からないが、ろくに働かずお金に困っているというより、今のところ家に寄り付きたくないという気持ちが強いのではないだろうか。
もし兄さんがお金に困っていたら、その鍵は喉から手が出る程欲しいだろう。それともプライドが手を伸ばさせないのか。誰かが、もらっておきなさい、と背中を押してくれるのをまっているのだろうか。私には分からない。ただ妙な緊張感だけがあって、それは全て隆史兄さんの決断に向けられていた。
「どうせ、蔵の中なんて何もないんだろ?だから俺に渡すんだろ?」
「いや、誰も知らない。俺も武史も、ここにいる全員知らないんだ」
「母さんはこの家の全財産と言っていたが、兄さんの言う通り、俺も見た事はない。そもそもこの鍵だって母さんに渡されて初めて見たんだ」
「でも、そんな全財産が入ってる蔵の鍵をこんな俺に渡していいのかよ?おじさん、頭おかしいんじゃねえの?」
「隆史!」
「いいよ、正史兄さん。おかしくないさ、だってあれは君のものになるんだから。君がこの家を継げば」
「俺は継がねえって言ってるだろ!うるせえな、そんなに言うんだったら鍵だけ貰うぜ。後で蔵が空っぽになっても知らねえからな!」
父の挑発にのった隆史兄さんが鍵をひったくるように取り、そのまま座布団を蹴って茶の間を飛び出してしまった。力一杯に閉められた所為で、建てつけの悪い障子に嵌っているガラスが悲鳴をあげるような割れる寸前の音を出す。
おじさん達と私は思わず父を見た。私は理解が出来なかったし、おじさん達は少し非難するような視線が混じっていた気がする。父は祖母の言いつけを破り、隆史兄さんに蔵の鍵を渡してしまった。本当に蔵が空っぽになってしまうかもしれない。
父だけが隆史兄さんの行ってしまった方を見ていた。父には父の考えがあるのだろうが、今や私だけでなく、おじさんもおばさんも蚊帳の外にいた。
結局その日は図書室に行かなかった。父に聞きたい事が、隆史兄さんや蔵の鍵、父の言動について、沢山あったからだ。
布団に潜り込んで、電気を消した後に私は父に話しかけた。暗い方が聞きやすいのは、互いの顔が見えないからだ。困惑しても黙ってしまうのも許される気がする。
「お父さん」
「うん?」
「隆史兄さんの事なんだけど、蔵の鍵、渡して良かったの?」
「良かったのかは隆史次第だから何とも言えないなあ」
「言えないって、だって、おばあさんは隆史兄さんに渡らないように私たちに渡したんだよね」
「まぁそうなんだけど……蔵の中には何が入ってると思う?」
「財産っていうから、お金とかじゃないの?ねえ、お父さんは本当に知らないの?」
「知らないよ。親父が死んだ時も財産の話になったんだ。でも親父は婿入りだからお袋が鍵をずっと持ってたし、結局開けてくれなかった。だから兄さんも俺も知らない。もしかしたら親父も知らなかったかもな」
「でも、おばあさんを裏切る事にならない?」
「あの蔵は呪いの象徴みたいなもんなんだ。お前は知らないけれども、代々あの鍵を当主に渡してきたとかで、お袋は後生大事にあの鍵を持ってたんだ。一度俺が鍵を見せてくれって頼んでも、鍵はこの家の人間のもんだって言われた事もあったな。そもそもこの家に最初に生まれたから家を継ぐ運命なんだ、そう生きろっていうのもおかしいだろう?継ぎたい人間がいるなら継げばいい。それだけだよ。生まれてきた順番なんかどうだっていいんだ。隆史は呪われてるんだ。この家を継がなければお袋や正史兄さんがしてきた事を無駄にしてしまう、決められた道を歩むべきだ、ここで生きていくしかないって。だけど自分は継ぎたくない。その狭間で苦しんで、どうしていいか分からなくなっているんだよ。少しでも楽にしてやれるなら裏切っても良いさ。……まあ、隆史もだからって迷惑を掛けて良い訳でもないんだけどな」
父も暗い中では安心するのかいつもより雄弁だった。父は隆史兄さんを自分と重ねているようだった。きっと正史おじさんも父と同じで、自由になりたいのだろう。だから鍵を渡す事に何も言わなかったのだ。しかしまだ父のようにはっきりと決まった訳ではなく、強制されたとは言え、自分が守ってきた家や、積み上げてきた事を否定されているように感じている部分もあるのかもしれない。家を守る事も立派な仕事だし、それは誇りに思える事だ。しかし、誰かの犠牲の上に成り立っているなら、代償は大きい。
この家の行く末は、徐々に一つの方向へ決まっていた。後は隆史兄さん次第だ。そして、その方向へ進む中で、彼を失うのだと思った。蔵が呪いで、呪いが解かれたら、彼も消えてしまう気がする。何故なら彼は自分も呪いに加担していたのだと言っていた。
私はこの時まで彼の言う別離を心底信じていなかった。受け入れがたい所為もあるし、彼の予感が外れる事を祈っていた。しかし、正月から始まっていた一連の漣はここに来て大きなうねりに変わった。私も彼も抗えない大きな渦の中に引き込まれていた。
今晩、彼はどう過ごしているのだろう。一人で窓際に座っているか、凭れている彼を思う。私だけが寂しいのかもしれないが、誰かが側にいれば少しは気が紛れるだろう。彼はずっとあの場所で彼女を待っている。
『――しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。』
女を待つ男は、やがて疑問を持った。不義理だとは思わない。百年など待つには長すぎる。彼は約束が果たされる不安を語っても、待つ不安を語らなかった。今まで何も思わなかった一文が今は私の胸を酷く締め付ける。私はその切なさを吐き出すように、少しの希望を混ぜて父に話しかけた。目先の安堵の為に、根拠など無くていいからただ肯定して欲しかった。
「ねえ、お父さん。来年のお正月もさ、この家に来られるよね?」
父は仰向けだった身体を私に背を向けて、ああ、と小さく答えた。
私たちの夏は、瞬く間に過ぎていく。明々後日、明後日と言えば遠く聞こえるが、四日、三日と確実に別れの日は迫っていた。昼の図書室は相変わらず蝉の声が響いて、夜の図書室は家の軋む音や虫の声、蚊の羽音が響いた。
夢十夜を読み終えてしまったあと、私は読書を止めた。彼と同じ理由だった。私達、主に私だが、ひたすら過去に読んだ本を語り、その頃の私達についてああでもなかった、こうでもなかったと話し続けた。
時間がなくなれば無くなる程、語りたい事は増えていく。明々後日の朝にはこの家を出ていくのに、差し迫って来れば来るほどに、別れが遠く感じた。かつてない程、私たちが側にいたからだろう。
十二日目の晩、私は彼に夢十夜の第一夜を読んでくれと頼んだ。あの不思議で美しい物語を独りで読むのも良いものだが、彼の声によって語られる物語を聞いてみたくなったのだ。
その日は夜風がなく、涼しげな声が特に心地よく聞こえたので、そんな突拍子もない事を思ったのだろう。彼は嫌がったが、結局は頼み込んだ私に根負けをしたのだ。彼は案外押しに弱かった。
『こんな夢を見た。腕組みをして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。』
風鈴の鳴るような涼やかさが、彼の声から生まれた。淡々とした語りは風が吹かない所為で、昼の熱を孕んだままのこの夜には一層心地よく、その声は風のように感じられた。
そして耳にそよぐ声は、私を不思議な感覚に導いた。もし今、私の黒目を覗けばスタンドの電気に浮かぶ夢十夜と、それを持つ細い指に、彼の眼鏡の縁、そして白い顔が映っているだろう。目を開けて夢を見ている、とでも言えばいいのか、実際に見ていたのは男と女だ。図書室はどこかの部屋に変わり、彼の語りが男と女へ次々に息を吹き込む。ドラマを見ている時と同じような感覚に近い。その時私が見ていたのは、目に映るものではなく、彼の言葉や声だった。
『自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。 ――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
自分は黙っていた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓のに坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」』
私は次第に彼の口を押さえたい衝動に駆られた。この物語を終わらせたくなかったのだ。物語は不変だが、彼の声によって彼に語られる第一夜は今この瞬間しか存在しない。全てを語り終わった瞬間、夢のように消えてしまうのだ。しかし水の流れのように、彼の言葉は淀みなく進み、無情にも物語は進んでいく。
女が死に、男は貝殻で穴を掘る。夜空に昇る月だけが、男の姿と貝殻を照らしていた。土は柔らかかっただろう、固かったなら柔らかな土になるまで、男は掘り続けたに違いない。私は男の後ろに回り、そっとその手と貝を見た。月明りの中で見た男の手は汚れておらず、貝ばかりが汚れていた。昼に空気を漂っていた水滴は夜になると姿を変え、土に帰る。だから、辺りは湿った冷たい土の香りがたち始めていた。柔らかな土の中に女を寝かす時には、辺りは濃い土の匂いで一杯だった。
土の香りは華やかでも、鼻につく匂いでもない。ただ、全てを覆うには丁度いい匂いをしている。――男は一掬いずつ土をかけていく。埋めるのではない、布団を掛けてやるのと同じように、柔らかな土を一掬いずつ掛けていく。男の涙は見えなかった。ただ、月が貝の裏を照らす度に、真珠のような丸い光を放った。
そうして男は女を埋め、星の欠片を墓標にし、日が昇り落ちるのをまった。私はそれを彼の後ろから見ていた。一つ、と男が勘定する声がした。その声は紛れもなく彼の声だった。
男の、彼の百年に私は決して介入する事は出来ない。寂しかったのか、疑心を抱いたのか、私には分からない。知ろうと思っても、彼は決して語らない。彼の意志でそうなら、私が知るべき事ではないのだと思う。私も彼に語らず秘めている事があるのだから。もし私がそれを語れば、彼は消えてしまうかもしれない秘密を。勘定してもし尽くせない日が昇り、どれくらい私達は待ったのか、今度は花の匂いが空気に満ちる。土の匂いはとうに消えていた。
『すると石の下から斜に自分の方へ向いていたが伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりとぐのに、心持首をけていた細長い一輪のが、ふっくらとを開いた。真白なが鼻の先で骨にえるほど匂った。』
男はいつの間にか、肉を持たぬ骨の身に変わっていた。眼鏡は朽ちなかったのかそのままなのがおかしい。かける耳はないのに、それは体の一部になっていたのだろう。百合の花と同じような真白な骨が、それはかつて指先だったものが、花弁をなぞる。もはや接吻を、と願っても唇も、それを悲観して流す涙もでない。
ああ、と彼の声で髑髏はため息をつく。そうして嘆き見上げた空には赤い日ではなく、星が一つ瞬いていた。そうして彼は気付く。百年は――、
「君、電気を消してくれ」
物語は突如姿を消し、私の目に映るものと世界が一致した。彼が突然語りを止めてしまったのだ。瞬きをしても髑髏の彼や、星は消えて、薄暗い図書室しか見えなかった。私たちは元々ここにいたのだから当たり前だが、ただ花の匂いだけがどこか夢の残滓のように香っていた。
私は訳が分からないまま、彼に促されて電気を消した。満月に近い月のお蔭で目が慣れた頃には全くの闇ではなく、窓周辺は朧げながらも、何があるのかは見える。彼は半身が闇に溶けたような曖昧な姿になっていた。
「どうしたんです、良いところだったのに」
「声を小さくしなさい、誰か来る」
耳をすませば、廊下の窓ガラスが揺れる音がした。人が通るたびその振動でガラスが揺れるのだ。それは一定のリズムで鳴り、同じように床が軋む音がする。そして徐々に音は大きくなっていた。
こっちへ、と彼が手招きして私たちは廊下からは死角になる本棚の影へ隠れた。父かもしれない、と言ったが彼は首を横に振り、少し見てくるからと言って、ドアを開ける事無く、そのまますり抜けて外へ出てしまった。彼が幽霊らしい事をしたのは初めてだった。
足音は既に近くまで来ていた。進むのを躊躇っているのか、酷くその歩みは遅い。彼が離れた途端、薄暗さが怖くなる。見えない部分の闇が深くなり、一歩でも踏み出せば闇に足を取られそうで、誰が来るのか見ようと思っても、好奇心より恐怖心が私の足を動けなくさせていた。何か小さくても光源があればいい。いつも携帯のライトで足元を照らして母屋に戻るが、あいにく携帯は机の上だった。
やがて図書室の前まで足音は迫り、よくある怖い話のように立ち止まりはしなかった。変わりに、再び音もなく彼が扉をすり抜けて戻ってきた。闇の中でぼう、と浮かんで見える姿は中々に恐ろしい。初めて出会ったのが明るい時間で本当に良かった。
そんな事を思っていると、また手招きをされた。今のうちに帰れ、という事かと思って机の上にある携帯を取り、母屋の方向に向かおうとすると違うという。
「どこへ行く、蔵の方だよ。私も行くから」
「いや、無理です。暗いし、足音で絶対気付かれますよ」
「今日は月も明るい。窓がある分、図書室より廊下は明るいだろう?君のその明るい電気を発するものも不必要なぐらいだ」
「それでも行く理由なんてないじゃないですか」
「あるだろう、ほら」
確かに廊下は明るかった。庭の方へ向く窓は雨戸が閉められてなく、夜ながら灯りがなくても闇に慣れた目なら十分に歩けた。しかし、蔵へと続く先は何も見えない。いや、彼が指差す先、うっすらと一筋の光が漏れているのは、蔵へと続く扉が閉まり切っていないから、つまり誰かが蔵に入ったのだ。蔵は鍵がないと入る事は出来ない。一度行った事があるから、それは確かだ。それなら、蔵に向かったのは隆史兄さんしかいない。という事は兄さんは蔵の中身を見ているのだ。
何をしているのか確かめたいという気持ちが沸き始めた。蔵の中身も出来れば見てみたかった。祖母が後生大事に蔵の鍵を持っていたのなら、そして、全ての財産があの中にあるというなら、手に入れる気持ちは無いが、どんな価値のあるものが眠っているのか知りたかった。もし知れたのなら、何かを変えられるのではないか。例えば、彼との別れを避けられるかもしれない、そう思った。
「行く必要は十分にあるだろう?君だってあの蔵の中身を知るべきだ。一度は鍵を託されたんだから」
「行ったら、何か変わりますか」
「何を変える必要があるのか私には分からないが、何も知らなければ何も変わらない。全ては行動ありきだ」
ほら、彼が帰ってくる前に、そう言って半透明の体は私の前にゆらりと進む。私はそれを追いかけた。軋む音より心音がいつの間にか耳を塞いでいた。
閉まり切っていないドアをなるべく音がしないようにそっと開けると、一応屋根があるが、ほぼ吹き曝しの廊下に出る。その先が蔵で、蔵の扉は大きくあけ放たれていた。奥でぼんやり動く灯りは隆史兄さんのものだろうが、もう少し近づかなければ此処からは何も見えない。
もう少し近づきたかったが、隆史兄さんが出てきた時に鉢合わせになってしまう。廊下にはどこも隠れる場所がなく、図書室まで戻らなければならない。
「蔵には電灯があったはずだが、何故あいつは点けない」
「場所が分からないんじゃないですか。でもこれじゃあ何も見れないですね」
「なら、仕方ない。足の裏が多少汚れても構わないか?」
「ええ、もうこの時点で真っ黒だと思いますから」
廊下には外履きがなく、ざらざらと砂埃の感触がした。今日は月が明るい夜で本当に良かった。もぞもぞと動く何かが廊下のあちらこちらに潜んでいる。足がない彼が今は羨ましい。
私の嫌味を流したまま、彼は廊下から蔵へ続く石段を上り、横に逸れた。幸いな事に地面ではなく石が回りを囲んでいるようで、足の裏はひんやりと冷たい感覚に包まれた。
蔵には嵌め殺しの窓が何個かあるようで、いつから放置されているか分からないコンクリートのブロックが良い場所に積んであった。暗闇でも分かるが、苔が生えている。なるべく足が汚れないようにと、無駄な抵抗だが、苔のないところを選んで登った。
窓から見える範囲を丁度隆史兄さんも見ていたのか、懐中電灯の光が一面を照らした。水滴の後や埃で見にくいが、照らされたところは何もなかった。箪笥のようなものも、葛籠も、段ボールの箱も何一つなかった。その様子は綺麗に片づけられている、というには奇妙だった。
隆史兄さんは焦っているのか、懐中電灯の灯りがせわしなく動いていた。できる限り見えるように覗き込んだが、私が見えた範囲には何も置いていなかった。そして一通り見終わったのか、隆史兄さんがもう一度同じ場所を照らしても、やはり何もない。隣で同じように様子を伺っていた彼は険しい顔をしていた。彼は蔵に何があるのか知っていたのだ。
やがて隆史兄さんが蔵から出てきた。私はブロックの上に立ったまま、壁から顔の半分だけだしてその様子を見ていた。一瞬隆史兄さんと目があった気がしたが、勘違いだろう。こちら側に向けられた視線は直ぐに扉へと戻る。壁に近い耳から重い音が響く。隆史兄さんが扉を閉めたのだ。そして錠を落とし、金属の落ちるような、何かがはまる音が続けてした。
兄さんはそのまま扉を拳で叩いた。扉を閉めた時より、もっと重くて響く音がした。そうして、ただぽつりと、どうして、とだけ言って、もう一度扉を拳で叩いた。
隆史兄さんは何を見たのだろう。携帯のライトを窓から照らしたが、やはり何も見えない。私は隣の彼を見た。聞くべきは彼しかいないだろう。
「私の記憶では、それなりに価値があるものが眠っていたよ。図書室に居着くようになってからは見ていないがね。ここから見える一角は箪笥が置いてあって、母の着物が入っていた。しかし箪笥自体無いとなると処分したのか……?」
私の視線を受けて彼が答えた。それなりに思い入れがあるものだったのか、少し落胆した様子だった。中を見たくても、鍵は隆史兄さんが持っているし、他に入れそうな場所はない。
そういえば先ほど、彼は図書室の扉をすり抜けていた。なら、蔵の扉もすり抜ける事が出来るのではないだろうか。この際彼がどんな存在なのかはもうどうでも良い。使えるものは何でも使わなければならない時だってある。
「あの」
「なんだ」
「さっきみたいに扉をすり抜けたり、とか」
「見ていたのか。暗いから見えないと思っていたんだが。いや、確かに私も気になるから、ここで少し待っていてくれ」
彼は律儀に扉の前まで行くと、手を伸ばした。扉はびくともしないが、その代わり木の継ぎ目に溶けていくように手が、足が、上体と頭が順々に扉の向こうへと消えていく。
私はブロックの上から降りて、扉をノックした。今彼が本当に蔵の中にいるのか知りたかったのもあるし、何となく姿が見えなくなった事に不安を覚えていた。返事があれば少しはほっとするものだが、あいにく彼は返事を寄越す事はない。その代わり隆史兄さんが点けられなかった電気のスイッチを押したのか、蔵の正面の屋根の下にある窓から明かりが漏れた。
山の夜というのは夏でもそれなりに涼しい。半袖よりも長袖、出来れば羽織るものがある方が良い。そして何より人が立てる音が一切聞こえず、虫の声だけが喧しい。独りで彼を待っていると、彼はこんな夜を何度過ごしたのだろうか、寂しいと思わなかったのかと決して答えてくれない問いが再び浮かぶ。昼は蝉の声を聴き、日が沈むのを待ち、夜は何か分からぬ多数の虫の声を聴く。星を数え、星座を追い、それでもたった一日なのだ。春は、秋は、冬は。一体どんな年月を過ごしてきたのだろう。彼と出会ってから十年と少しだが、三千回を超える日の巡りを、私は誰かしらと過ごしてきた。しかし彼はたった一人で、男のように日の動きを数えていたのだ。
そう思うと、いかに自分が理不尽な事を彼に強いているのが分かる。彼は私の友人だが、そんな大切な存在を孤独にしておきながら、どうして友人と名乗れるのか。失うという恐怖は、私を捕らえて離さないが、私の寂しさより、彼の方がずっと寂しかったはずだ。この家がどうなろうとも、約束を果たす方法を私が持っているとするならば、それを為す事が、友人である証明だ。
立っているのにすっかり疲れてしまった私は石段の上に腰かけた。彼は出てこない。手持ち無沙汰になって携帯の画面を見れば日付がもう直ぐ変わりそうだし、そうなったら心配になった父が探しに来てしまうかもしれない。
蔵の前にいたら変な誤解をされるだろう。虫よけの効果も切れてきたのか蚊の羽音がさっきよりも煩い。どろどろになった足も洗わなくてはならない。なにをやっているのかしら、そう思ってもう一度分厚い扉をノックしようとしたとき、ぬっと指先が数本出てきた。次に足、顔、身体と、彼が現れた。
何かありましたか、と聞いても彼は答えない。言いあぐねていたと言った方が良いのかもしれない。何かを判じ兼ねているようにも見えた。何かを見たのだろうが、それがどんな意味であってどんな言葉で伝えるべきか、判断できないようだった。暫く待ったが、再びどうでした、とじれったくなって聞いても、図書室に戻ろうと言うだけだった。
丁度吹き曝しの廊下から家へ続くドアのところに水道があった。ズボンをたくし上げ足を洗う。夏である事が嘘のように水は冷たかった。脛の部分まで水を流したが、生憎タオルなどはない。仕方なく足をぶらつかせ水滴を落とした。廊下に足跡が残ってしまうが、このまま眠るより断然良い。
あなたもどうですか、と言いそうになったが、全く汚れていない足が目に入ったお蔭で失言を避けられた。足がないと言ったが、実際に彼の体はどこにも欠けている部分はない。良く言われるような幽霊のように血まみれでもない。親戚の子達が噂していた図書室の幽霊はもっとおどろおどろしいものであった。だから私は余計に幽霊の子だと揶揄われていた。そう言えば、隆史兄さんだけが違う、家には化け物はいない、いたとしても良い幽霊だと庇ってくれた。実際、彼はそのとおりで体が透けてなければ私と何も変わらなかった。誰も、彼の姿を見た事が無いのだろう。
図書室へ行くまで、彼はずっと黙っていた。蔵からそんなに距離がある訳ではないが、夜は余計に窓や廊下の軋む音が響くから沈黙が際立って気になるのかもしれない。
すでに日付は変わり、数回程、欠伸を噛み殺している。図書室へ着いたが椅子に座ってしまえば睡魔に襲われてしまう気がしたので、私はずっと彼の隣に立って、何かを語ってくれるのを待っていた。数回程腕を組み変えた後、彼はやっと口を開いた。
「蔵には何もなかった」
「何もなかったって、金目のものがですか?」
「言葉通りだよ、蔵には何も置いてなかった。着物の一枚も、掛軸の一幅もね」
「空っぽって事ですか」
「そうだ。正にそうだった。電気を点けたら何もなかったんだ。蔵の中があんなに広かったとは思わなかった」
そんな事、と言おうとしたが、彼が嘘を吐く訳がない。それが事実なのだ。返す言葉が見つからない。いったいいつのタイミングで蔵の中は空になったのだろう。出来るのは祖母ぐらいしかいない。祖母は大金と一緒に空の蔵の鍵を私に渡した。もしかして、その大金が蔵の中を処分した一部だったのだろうか。蔵の中身がない事が確かなら、隆史兄さんが継ぐメリットも理由も何も無くなってしまう。父は蔵が呪いの象徴だと言ったが、中に大切なものがあるから価値があるのであって、蔵そのものには何も価値はない。この家は本当に、終わりへと向かっているのだ。
「自分で言う言葉は、自分が納得しているから形になると思っていたんだが、そうでもないのだな」
「どういう意味ですか」
「いや、本当にお終いなのだと思ってね。君に二度と会えなくなるのは、どうやら本当だった」
「……ずっとそう言っていたじゃないですか。私は信じていませんけど」
「ははは、そうだな。私も信じたくなかったが、蔵の中を見て確信してしまったよ。君だって、分かっているだろう?運命論者ではないが、全てを考えるとこうなる事は決まっていたんだな」
「まだ、分からないじゃないですか」
「いや、違うよ。出会えば別れる。それが今になってやって来たんだ。君、少しこちらへ。そう、そしたら私の方へ顔を上げてくれないか」
私は半歩、彼に近寄って、彼の言う通り顔を上げる。すると、ぽたり、と、どこからか頬に雫が落ちた。冷たくもなく、人肌のような温もりをもつそれに不快感はない。そしてそれを拭うように彼の指が伸びてきた。温度を分かちあう事も、実際にこの雫を拭ってくれる事もない、そのはずだった。――ひやりとした温度、触れられた感覚が頬に生まれる。彼の指先は確かに私の頬に触れていた。彼が私を見つめ、顔の角度が変わった拍子に月が彼の顔を照らす。雫は遥の上からではなく、彼の瞳から落ちたのだ。真珠貝のような、淡い輝きが瞳に宿っていた。それは私が知っている乱れた事のない静かな湖面とは程遠い。
頬から指が離れ、今度は唇がそこに降りた。それは指より幾分温かく柔らかい。子供たちが戯れにする接吻のように、一瞬のものだ。思考を奪うような情熱さはなく、求めるようなものでもない。例えるなら、神に祈りを込めて触れるような接吻だった。
私は超能力者でもないし、彼の心を読める程近くはなく、人の心に敏くもない。ただその瞬間だけは、彼の心を知るのに言葉など一つも必要なかった。彼は、私が百合の花であれば、約束の証であれば良かったのに、そう思っていた。だから、第一夜の男が百合にしたように振る舞ったのだろう。私は約束の、彼女の代わりにされたのだ。しかし、私はそれに怒る事は出来ない。
何故なら、私は約束そのものだ。私が、彼を独りで図書室に閉じ込めていた。以前のように、たった三日だけの友なら知らなかったで済んだだろう。しかし彼の約束を知ってからは、私は敢えてそれを隠した。初めて会った時から、百合の花は咲いていた。
――明日、暁の星が昇る。彼にとっての百年がやってくる。それは誰の手でもなく、私によってもたらされるのだ。私はようやく、彼との別れを決意した。