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夏夢綺譚  作者: 遠野まひろ
3/6

3彼の夏

三.彼の夏


 彼が話すべき事について決心をつけたのは、一日置いた六日目の事だった。私がいつものように図書室へ入ると、話したい事があると言って、椅子を指差した。私は座り、彼を見上げた。あれは、今日みたいな夏の日だった、と遠くを見ながら彼が語り始めた。 一瞬、蝉の声が遠くなり、今度はその鳴き声が二倍になった。煩い。いや、だから彼は窓を開けた私に煩いと言ったのだ。彼にとってこの夏は、彼が今から語り始める夏と重なっているのだろう。また私は白昼夢を見たのだ。夢の中の誰かは、いつかの夏、この図書室に彼といたのだから。彼はいつの時代か語らなかった。ただ、二度と戻れない、彼と友人が過ごした夏の話だ。



 私が彼女と最後に過ごした夏は良く覚えている。彼女の来訪が突然であった事、それに二週間の滞在という今までにない長さだったからだろう。

 彼女と私は同い年であり、幼少期から良くお互いの事を知っていた。私の偏屈な性格と、快活な彼女の性格のどこに一致するものがあるのかいまだに理解できないが、読書という共通の趣味が私たちを結びつける強い役目を果たしていたのは確実であった。男と女という性別の違いはあれど、私たちは良い友人だった。こんな片田舎に同好の士がいた事は暗い幼少期を過ごしていた私にとって僥倖であったのは間違いない。

 彼女は私の親戚であったが、山一つ離れた場所に住んでいたのでそう往来がある方ではなかった。しかし、その遠さのお蔭で彼女の一家が来る時は二、三日宿泊するというのが常であった。

 時代が下がると幼い頃より遥かに交通の便が良くなっていて、その夏、山の向こうから自動車に揺られてやってきたという彼女に酷く驚いた事も良く覚えている。彼女の実家は旅館を数件営んでいて、観光産業の拡大の波に乗りここ数年で随分裕福になった。その流れで外国人相手にも商売もしていたから、そこから購入したのだろう。運転の為に東京からわざわざ人を雇ったのよ、と半ば呆れながら彼女は笑っていた。

 私は彼女の来訪を知らされていた訳ではない。いつも通り図書室で汗をかきながら本を読んでいると、いきなり彼女は現れたのだ。一体どうしたのだ、と聞いても笑ってはぐらかされただけだった。

 後で知ったが、彼女がこの家に来たのは療養に入る前の準備の為だったようで、両親が病を患っている彼女を良く受け入れたと思ったが、その後の暮らし向きを思い起こせば理由が分かった。本家とは名ばかりで、その頃家は既に傾きかけていた。父親が新しく手掛けた果樹園の作物は震災で不渡りになったらしいが、それを持ち越せたのは彼女の父親の援助を使ったからだろう。

 色々思うところはあるが、その時私がどれだけ嬉しかったかというと、彼女が窓を開ける事を許し、煩い蝉の声を我慢してしまえる程だった。私は予想外の来訪が、本当に嬉しかったのだ。

 彼女は聡明で、紫式部ではないが、男に生まれてくればその才を遺憾なく発揮できただろうにと誰しも惜しんでいた。私はその聡明さを尊敬していた。私は境遇によって読書に逃げたが、彼女は生まれ持った才で読書に接していた。羨ましさより、尊敬が勝っていた。だから私は彼女を友人として接していたのだ。ただの男女として所謂、恋仲になる理由が無かった。自分のものにしたい、自分の配下に置きたいと少しでも思う気持ちがあれば、私たちは友人にはなれなかっただろう。

 両親たちは彼女が病になる前は私たちの親密さを喜んでいた。その理由は先ほどの通りだが、彼女も私も、さらさらその気はなかった。私たちが同好の士である限り、永遠にこの友情が続くのであろうと確信していた。

 世間は男女の友情を認めやしない。結果的に私は違う女性と結婚し、彼女は早くに世を去った。だから見方によっては、世間に妨げられる事無く最後まで友人であれたのだ。

 私達の会話は、世の男女のそれとは大きく外れていた。女とすべきではないと書生連中は笑うだろうが、私たちは文学に対して語り合った。

 当時、彼女に言われたのは、男という生き物は、女よりロマンチストであり、女は徹底的なリアリストである、という事だろう。私の父親なんてロマンばかりで、母が会社を切り盛りしているもの、と実例を挙げて私を揶揄った。

 私たちは性別だけでなく、好むものも違った。着眼点も、語る言葉も違った。そんな私たちが唯一、一致した見解をみたのが漱石の夢十夜であった。私は彼女のいうとおりロマンチストであったので、殊の外第一夜を好んでいた。無理であろう約束を果たす――少なくとも私はそう感じた――結末は私にとって尊くみえたのだ。しかし現実主義で少し皮肉屋の彼女は第二夜あたりが好きであろう、と考えていたが、意外な事に一番好きなのは第一夜という。


『百年、待っていて下さい。

百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから。』


 私が意外だと言うと、彼女は一節を諳んじてみせた。まるで作中の女の様にいうので、男の台詞を返そうと思ったが、浮かんできたのは台詞でもない、文中の男が問うた「死ぬのかね」と言う言葉だった。未来というのは過去に予兆を送るというが、これも一つの知らせだったのだろうか。

 どこが好きかという話になって、私は約束が守られる事というと、彼女は男が心変わりもせず待ち続けた事だという。

 これが文学談義とは程遠い事は承知している。しかし帝大生と比べられても困るし、ついぞ私は帝都の地を踏むことも、彼女以外に同好の士と巡り合えなかったのだ。

 それから話は発展し、何故男は待ち続けられたのか、という事になった。人の心は移ろいゆくものであり、しかし変わらない部分もある。だが、果たされない約束を守る為に死んだ人間の側に百年もいるのは無理だ。まだ若くロマンチストな私は、結末を指して女との約束を果たしたから、漱石は人の心というものは、そう変わらないと示しているのでは、と言うと彼女はそうかしら、と答えた。


「人というのは変わってしまうものなのか」

「変わってしまうでしょう。人の心は移ろいやすいものですもの」

「君も?」

「さあ。あなただって分かりませんよ。でも、ただ一つだけ心を繋ぎ止める方法はあるわ」

「そんなものがあるのか?」

「ええ。約束をね、一生を支える事が出来る約束をすればいいの。相手がいなくなっても、生きていく理由になるような」


 男にとって、女との約束は生きる意味だったのよ、と彼女が言う。夢のある回答に私は驚き、同じような答えになれた事が嬉しかった。私はこの会話を忘れられなかった。彼女もまた忘れてはいなかった。

 突然の来訪から二週間後、彼女は去って行った。不思議な事だが、私はこの二週間、病の片鱗を見ていない。夢だったのではと思うほど、彼女は健康そのもので毎日図書室に来ては言葉を交わした。逆に母は何度も私を図書室から遠ざけようとしたが、それは毎日の事であったので、滞在中何も彼女の病について明らかになる事はなかった。

 彼女が去る時、私は見送りに白茶けた地面の上に立っていた。既に自慢の自動車は到着しており、東京で雇った運転手がハンドルを握っていた。父親は後部座席に座っていて、彼女はその隣に座った。彼女は分かっていたのだろう、いつまでもいつまでも後ろに誂えられた窓から手を振っていた。白い手はひらひら蝶々のように舞い続け、日差しに目を細めていたのに、その手だけが脳裏に焼き付いている。それが彼女の元気な姿を見た最後であったからだろう。


 私が彼女の病について知ったのは、年が明けた頃だった。夏が過ぎ、いくら季節が巡っても、親戚一同が集まる正月さえも彼女はおろか、彼女の家族が家に来る事はなかった。両親に聞いても忙しいのだ、どうでもよかろうと一蹴されてしまったが、偶然台所を通り過ぎた時に口さがない親戚達がしている噂を聞いて分かったのだ。それとて、彼女の病と、今はどこかのサナトリウムにいる、それだけだった。

 噂は本当なのか、本当なら彼女はどこにいるのか、私は何度も彼女の家に手紙を書いた。使いだけではなく、自ら赴いた。しかし手紙の返事はおろか、私は一度も門をくぐる事が出来なかった。当時の私は、彼女に会うだけが、私にできる事だと考えていた。どうであれ、私は彼女の居場所を探り続けるべきだったのだ。人の心は移ろいやすい。私は、いつの間にか諦めていた。

 ただ、私は彼女の死に目には立ち会えた。忘れもしない、彼女の病を知った翌年の夏。二年前と同じ自動車が家の前に突然やってきたのだ。降りてきたのは彼女の父で、私を迎えに来たという。

 彼女の父は君のご両親には私から説明をするから、君は支度をとだけ言って、家に上がっていった。突然の出来事だったが、彼女に会えるのなら両親が何を言おうと、どこに連れて行かれようとも心は決まっていた。

 数十分後、私たちは車中にいた。彼女の父が何と言って説得したのかは聞かない事にした。ただ黙りこくっているのも不自然で、しかし先程からしている嫌な予感を確かめたくもなく、私から口を開く事はしなかった。何故、今まで自分を拒否していた彼らが迎えに来たか、答えは一つだったとしても。

 車は一時間かけ、隣町の駅に着いた。渡された切符は一等席で、それは単に彼らの裕福さ故と、多少の謝罪が含まれていたのかもしれないが、悪い予感をより大きくさせるだけだった。

 列車の中でも、彼女の父親との会話はこれと言って思い出せない。病について話したのは彼女のサナトリウムがどこにあるとかそういう事だけで、彼も病状については触れたくないのか、景色の事ばかり話していた気がする。列車は海沿いに東へと進み、車窓は海と空の青一色、似たような景色ばかり流していった。

 いつも緑ばかり見ているから、海を見るのは好きだった。遠くで空と海が混ざりあい、空より深い青を抱いた海は太陽の眩い光を反射して、私に目を細めさせたが、視界を狭める事は無かった。多すぎる緑は息苦しさを覚えるのに、海は青ばかりなのに果てが無いように見えた。しかし、今の私にはその果てのなさが不安を抱かせた。列車内にいたのが、は私たちだけだったというのもあるのかもしれない。

 自分の荷物に比べ彼女の父は身軽だった。サナトリウムから来たのですか、と問えば、そうです、私は娘と彼処に住んでいるのです、家から結核の者が出てしまったので、奉公人には暇を出してしまって、今は誰も家におりません、と答えが返ってきた。政府が力を入れ始めた観光産業の勢いは彼らの商いに拍車をかけ、やり手だという彼女の母は東京で事業をしているのは知っている。あの家は空っぽだったのだ。それでは手紙も読まれないし、出掛けて行っても意味がない。自分の浅はかさに目の前が暗くなった。

 駅に着くと、辺りは夕暮れ時だった。潮の匂いがして、彼女のいるサナトリウムはもっと海の近くにあるという。旅の疲れは不思議な事に感じていなかった。思考や精神というのは身体を支配するものだ。緊張が体を固くして鈍くなっていたのだろう。病院の迎えが来ていると言われ、提灯をぶら下げている車夫が頭を下げた。ここからはそう遠くないという。気持ちだけが逸る今は、少しの距離も千里に感じる。人力車は二台あった。私は頭を下げた車夫の方へと乗り込む。落ちていく日に感傷はない。海に落ちていく夕日は美しいが、私の心は別にある。ここがどこであるのかすらどうでも良かった。ただ車夫の息遣いと、前を走る彼女の父親が乗る人力車だけが、今の私の現実あった。

 それから暫くして、海を見下ろすように位置する病院に着いた。洋風の、随分大きな白い建物のようで、すっかり真っ暗になった中、その白さだけ薄ぼんやりと浮かび上がっていた。玄関先のランプはガス灯なのか、それだけが明るい。車夫たちは荷物を降ろすと病院の裏手へ回っていった。出迎えの人間はいない。仕方なく荷物を抱えていると、物音が聞こえたのか丁度看護婦が扉から出てきた。――はやく、こちらへ。その声が嫌に低く静かで、この場所をどういう場所なのかを言外に匂わせているように感じた。

 照明が落とされた廊下は、前を歩く背中を見失えば一歩も歩けないような、音を立てるのも許されないような静けさに包まれていた。例外なのは時折聞こえる患者たちの咳の音で、彼らの病の為にここがあるのだと突きつけられる。

 彼女の部屋は廊下の奥にあった。ああそうだ、とドアノブに手を掛けた瞬間、彼女の父親が振り返った。お医者様に病状をお聞きになりますか、という。私は首を横に振った。最早意味はないのだ。彼も愚問だったと気付いたようで、失礼、とだけ言ってドアを開いた。

 部屋は廊下の延長だった。咳は聞こえないものの、耳をすませば息遣いが聞こえる。彼女のものだった。嫌な予感、その中でも最悪の想定は外れたようだ。

 私は荷物を抱えたまま枕頭に近づく。箪笥の上のランプのお蔭で、彼女の表情は良く見れた。橙の光を受けているはずなのに、彼女の肌は不自然に白く、影だけが纏わりついている。今夜か、明日か彼女は死ぬのだな、と何故かはっきりと分かった。


「あなた、来たのね」

「ああ、来たよ」

「心配してくだすったでしょうね」

「当たり前だ。君の父上が私を連れて来てくれた」

「私が頼んだんですもの。ねえ、あなた。これを」


 布団から出ている手を動かすのもままならないのか、彼女の視線だけを追う。寝台の丁度端に、一冊の本が置かれていた。ランプの灯りが届くところにずらせば、夢十夜と題名が浮かび上がってきた。


「忘れないでちょうだい。私を忘れても、今からいう事は決して」


『百年、待っていて下さい。

百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから。』


 彼女があの夏の日のように、一節を諳んじる。その瞬間、死の満ちる病室から、私たちの幸福だった図書室へ全てが変わった。夏の日差しが眩しい。蝉の声が煩い。ただ、時折そよぐ風は驚くほど爽やかで、私たちの間を通り抜けていく。

 諳んじた後、やくそく、彼女はそう言って、瞳を閉じた。そして私は彼女の死が、密やかに私の隣にまでやって来ている事を知った。彼女の枕頭に立ったまま、私は動けなかった。少しでも動けば私の隣にいる死が、彼女を捕らえてしまう気がしていた。しかし、人の死というのは生まれた時から背負っているものだ。私が邪魔できるものではない。私の手は冷え切っていた。熱があるのかと額に触れてみれば、私より高い体温がそこにはあった。それでも彼女は死ぬのだ。冷たさが心地よいのか眉間の皺が緩んだ気がした。しかし、やくそく、と言った唇は再び動く事はなく、朝日が昇る前に彼女は息を引き取った。


 それから予期されていたとはいえ、彼女の死去に伴う色々な手続きがあり、私たち、つまり彼女の両親と私は色々と忙しく動いていた。それらが全て片付いた後、両親と共にサナトリウムを立つ日、荷物の確認をしていると、いつの間にか入れたのか彼女の枕頭に置かれていた、夢十夜がでてきた。彼女の死から数週間経っていたが、あの日から今日の記憶は水の流れのように残っていない。昨日と今日が続いているのは分かっているが、時間の連続性を証明するものが自分の中に存在しなかった。だから、何故この本が手元にあるのか分からなかった。それに、最後まで彼女の側に置いてあった形見を私が持っていてもいいのだろうか、そう思った。

 丁度、彼女の父親が同じ部屋で荷造りしていたところだったので、私は声を掛けた。彼女の形見を返そうとすると、彼はいいのです、君が持っているべきだ、と言った。

 少しでも慰めになるのではと引き下がったが、彼は首を横に振った後、ちらりと自分の妻の方に目を向け、少し外に出かけましょうと私の耳元で囁いた。

 連れ立って外に出ると、眩しさと同時に潮の匂いを感じた。小高い丘の上には同じような白い建物がいくつも並んでいて、隣の病棟に誂えられているバルコニーには患者たちが並び、寝そべっていた。

 私の粗末な知識では潮風は胸に毒だと聞いていたが、違う事をここで知った。海と空しかないここは果てがない。閉塞した気分は嫌でも拡散していく。彼女の死後、幾分心を保てているのは、この潮風や海のお蔭だろう。もし私の家の周囲のような鬱蒼とした緑と向き合っていたら、悲しみを和らげるどころか、悲しみを一層濃くしただろう。さる高名なサナトリウムは高原にあり、眺めの良い所だと聞く。開放的な静けさがこのような場所には必要なのだ。

 いつの間にか私はバルコニーの中に彼女の姿を探している事に気付いた。この目で彼女の死を看取り、頭は理解している筈なのに、廊下でも病室でも、始終私は彼女の姿を探していた。ここに来て直ぐに彼女は死んでしまったから、私は彼女がどうここで過ごしていたかを詳しくは知らなかった。しかし患者達の生活を知るにつれ、何故かその中に彼女がいる気がしてならなかったのだ。

 そしてそれは、私の悲しみ方だった。記憶の連続性が曖昧な今、彼女の死と生きていた日々がずれてしまっていたのだ。

 バルコニーに目を向けていると、名前を呼ばれ我に返る。随分彼女の父は先に行ってしまっていた。病院の敷地内で一番高い場所へ、私達は向かっていた。そこは一等眺めが良く、滞在中海が見たい時、私は度々そこに行って気の済むまで、太陽によって変わる海の様を見ていた。


「呼び出して済まないね、あれに聞かれるのは少し具合が悪くて」

「いえ、私こそ失礼な真似をしてしまいました」

「謝らなくていい。あの本は君が持つべきだ。私や妻より君の方が相応しい」


 彼は、彼女が亡くなってから涙を流す事はなかった。男子たるもの涙など、というより、どこか清々しささえ感じる時もあり、妻との落差を彼は気にしていたのだ。彼女の側にずっといたのは正しく彼であり、最愛の娘の喪失という悲しみや後悔よりも、最期まで看取った、愛しんだという気持ちの方が今は大きいのだろう。それが徐々に逆転し、悲しみが顔を出した時、彼はきっと涙を流すのかもしれない。悲しみ方というのは人により、誰に左右されるものでもないのだ。

 その日、海からの風は弱かった。点々とある建物は漁師の家が殆どで、一軒ほど小さな旅館があるという。私はずっとここに居ながら、何も周囲を知らない事に気付いた。もう数時間後にはここを発つが、多分もう一生この場所には来ないだろう。緑に混じらない、純粋な潮風を胸一杯に吸い込めば、微かに塩辛い。涙も塩の味がするというが、私が涙せずに済んでいるのはこの風の味のお蔭かもしれない。風が吹く度に、涙の味を私は吸い込んでいたのだ。


「あの子は、若くして死んでしまったが、幸せだったと思う。君という人に会えて、生きた証を残せたから」

「生きた証?」

「約束のことだよ。娘はそう言っていた」

「約束、ですか。……私はもっと生きていて欲しかった」

「それを言ったら君、いけないよ。人の生き死にや別れだけは私達がどうする事も出来ない。私達に出来るのは限られた時間の中で、後悔を出来るだけ少なくする事だけだよ」

「私には、後悔しかありません」

「そんなに自分を責めるのではないよ、娘に会いに来てくれたじゃないか。そして、約束をしてくれた」

「しかし、」

「約束を果たしてくれ。君は生きて、娘の願いを叶えるんだ」

「約束……、それを果たしたら彼女に会えるのでしょうか。本当に、私には後悔しかないんです」

「後悔だなんて、」

「いえ、良いんです。約束を私は果たします。絶対に彼女ともう一度会えるまで」


 彼女との約束を再び思い出す。彼女は死に、私は残り、日は数回昇って沈んだが百年には程遠い。約束は人の心を繋ぐものというなら、約束が果たされるまで、私の中で彼女は生きている。それは確かに一生を支えるだろう。しかし私が与えられた生を全うし、死んだら、約束は果たされた事になるのだろうか。彼女が私の中に生きているのなら、私の死は彼女の死である。

 百年経て、百合の姿になり彼女が私に会いに来てくれるのなら、私は会いたいと思う。会って、出来なかった事を全てしたい。約束と言った彼女の真意は分かっているが、あまりにも後悔が深すぎた。生きていく為の約束だった筈なのに、私の後悔によってそれは姿を変えてしまったのだ。彼女が百合の花ならば、蜜を吸う虫けらでも、彼女の為に降る雫でもいい。私を生かすための約束が、呪いに変わってしまった。それ故に今も図書室にとどまり続けているのだろう。

 あの夏に縛られているのは私も分かっている。私にとってこの図書室の窓は誰が来ずとも夏になれば開かれている。そうしてあの年の蝉がずっと鳴き続け、私の読書を妨げるのだ。

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