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夏夢綺譚  作者: 遠野まひろ
2/6

2私の夏

二.私の夏


 物語は緩やかに動く時と、急激に展開する時がある。夏休みが来るまで何も起きなかったが、七月の後半に酷く難しい顔をした父に、一緒に本家へ行ってくれと言われたのだ。

 私にとって初めての夏の帰省だった。寒く陰鬱なあの家は、夏になったら表情を変えるのだろうか。いや、夏なら夏で酷く過ごし辛いに違いない。どうしたの、何かあったの、と父に聞くと一言、祖母が体調を崩した、とだけ言った。

 父がその事を言ったのは夕食の席だったので、母を見るとやはり嫌な顔をして、私は行かないわ、とだけ言って黙ってしまった。私はどう答えるべきか迷った。高校三年生の夏なのだ。大学受験に向けてすべき事は沢山ある。しかしあの図書室の事を考えると行きたい気持ちが強まるばかりだった。

 勉強より、友達に会うより、たくさんのイベントより、あの静かな図書室の、夏の表情を知りたかった。いきなり現れて彼を驚かせてみせたかった。――ただ、その場で答えるのは流石に母が怖かったので、母が食器を洗い始める時にこっそり父に耳打ちをした。父は嬉しそうな、安心したような、それでいてどこか、私を連れていく事を迷っているような複雑な顔をしていた。


 本家に出発したのは、それから一週間たった後、八月に入って直ぐだった。大きめの鞄に着替えと濹東綺譚を入れて、父の運転する車の、後部座席ではなく助手席に乗り込んだ。結局母の機嫌は直らず、毎日毎日課題は終わったのか、勉強はどうするのかと小言を言われた。それを避けるため、部屋に籠ったお蔭で、目標を一応は達成する事が出来た。

 出発する時、母は見送りに来てくれた。車に乗り込む前に私を呼んで、ごめんね、帰って来てね、とだけ言って母は私を抱きしめた。私は母の大げさな行動が理解できなかったが、私と父だけに行かせる葛藤など、母も思うところがあるのだろう、そう思う事にした。一緒に暮らしているから分かるが、決して母は不義理な人間ではない。そうでないから、余計に祖母も、また母自身も許せなく、父も無理に連れて行けないのかもしれない。

 そんな母が可哀想で、動き出した車の窓から身を乗り出し、しばらく手を振って小さくなっていく母を見ていた。母はその二週間を一人でどう暮らしていたのか、帰省中何度か思ったし、今でもふと思う時がある。がらんとした家の中で、一人で生活するのは寂しかったかもしれないし、案外平気だったかもしれない。私にとってのあの夏は特別なものだったが、母にとっても特別なものだった。それが分かったのは帰ってきた後の話で、この時の母の気持ちは誰も知る由がなかった。

 いつも母が座る助手席は、後部座席から見える景色よりも広かった。最初は母のいない非日常に心を躍らせていたが、高速に乗ってしばらくたった頃には寝てしまっていて、再び目が覚めた時には、変わらない道路なのに山間の中に埋もれそうな心細ささえ感じる深い自然の中、つまり本家の近くまで来ていた。


「……、ここどこ?」

「もう××町の近くだよ。……お前は夏に来るのは初めてだったな」

「うん。今まで正月しか来た事なかったもん。ねえ、おばあさん、大丈夫かな」

「随分弱ってるらしい。……隆史が帰ってきてから」

「隆史兄さん、帰ってきてるの?」

「ああ。実は母さんが俺たちを呼んだんだ。多分、遺産の話だろう。正直お前を連れていくのは気が進まないが……、これが最後かもしれないし」


 何が、とは聞かなかった。そう、とだけ返し、正月に会った祖母を思い出す。人が死ぬという事はよく分からない。どこか遠い所に行ってしまうのと、何が違うのだろう。私は多分、祖母が死んでも泣かないと思う。

 なら母は、と言おうとしたが、それも聞かなくていい事だ。母は、祖母が死んでも泣かないだろう。――それを冷たいとは思わない。母には母だけの聖域があって、そこは誰も触れられない。祖母との思い出がそこに眠っていて、その思い出が母を本家から遠ざけるのなら、私も父も、誰も非難する事は出来ないのだ。

 たまに感じる母と父との少しの隙間はそこから来ているのだろうか。もしそうなら、なおの事私が口を挟む問題ではない。母と父は私を愛してくれている。けれど、母と父の全てを私は知らない。愛してくれているのならそれだけで充分だと思う。その隙間の所為で私が何か不自由をしているのなら話は別だが、思い返しても二人は隙間があっても手を伸ばしながら、私を育ててくれた。だから私にとってその隙間は存在しないのと同じなのだ。

 一定の速度で車は進んでいる筈なのに、車窓は緑と空の青だけを映す。それ以外は何もない。冬の寒々しい空より濃く、木々の葉によってより鮮やかに映える空は遠い。コンクリートすら覆いそうな、多すぎる緑は恐ろしいが、空が見えるだけで吐く息を逃がす空間を与えてくれる。

 本家に着いたら厄介な事が沢山待っているだろう。出来れば引き返して、母と一緒に父の帰りを待っても良い。ただ、私には会いたい人があの家にいる。

 ――この夏は、何を読もう。夏の盛りの図書室で、濹東綺譚を語った後、私はまた彼と語らう為に本を読もう。三日間だけの滞在では知り得ない事を知ろう。そんな逸りだした気持ちに答えるように、かちかちとウィンカーの音がして、父が左側へと車を寄せていく。風を切る走行音は徐々に静かになっていき、代わりにどこか遠くで蝉の鳴き声がし始めた。

 窓を閉めているから実際はそんな事あり得ないが、私には確かに聞こえていた。鼓膜を震わせて聞こえるのではない。それは不思議な感覚だった。煩いほど鳴いているのを知っていた、とでも言えばいいのか。夏はビル街以外であればどこにいても蝉の声は聞こえる。ただ、この時だけは重なるように聞こえた。

 私はどこで、この場所に響く蝉の声を聴いたのだろう。そんな疑問は直ぐに解消された。彼のいる図書室だ。図書室の窓を開けると、蝉の声が良く響く。そして夜は静かな虫の声がして語る言葉が無い時を埋めてくれた。夏を過ごした事はないが、私は確かに知っていた。

 この不思議な感覚は私を慌てさせる事は無かった。彼の存在を受け入れている私にとって、あの場所は何が起こってもそう不思議ではない。単なる私の妄想だとしても、突拍子もない事だが、かつて、いつかの私が図書室で夏を経験したかもしれない。私が感じた事についてどう思うかは自由だ。もし私が死ぬまで読み切れなかったら、また生まれ変わって読みたい。もし、かつて夏を図書室で過ごした事があるのなら、その時も私はきっと図書室が好きで、本を読み終えられなかったのだ。読み切れるまで何度でも生まれ変われば、彼と幾度でも会える。そう思う程、私はそれ程図書室を気に入っていたし、まだ読み終えてない本が沢山あった。


 私たちが本家に着いた頃、太陽は南中を過ぎたというのに、コンクリートではない筈の地面が白けて、焼けた土のにおいがした。エンジンの音を聞いたのか正史おじさんとおばさんが、よく来たと迎えに来てくれたが、明らかに正月より元気がなかった。

 隆史兄さんが帰ってきたのは本当だったのだ。体調を崩した祖母の世話疲れもあるかもしれないが、二人の表情を見たら何故かはっきりとそれが分かった。

 父の側にいつもより近づきながら、私は玄関を通り、祖母の部屋へと挨拶をするために向かった。正史おじさんが、襖を開けながら母さん、と呼びかける。返事はない。滑るように襖を開ければ、横たわった祖母の姿があった。タオルケットに覆われた胸は上下しているが、瞼はしっかりと閉じている。正月にこの部屋に入った時、日当りのお蔭で私の嫌いな木が腐ったような甘い匂いがなかったが、今は病室を連想させる匂いに満ちていた。消毒薬のような直接的な匂いではなく、病室の匂い。そんな匂いがした。

 もう一度、正史おじさんが、母さんと呼びかけると瞼が二度痙攣し、うっすらと瞳が現れた。落ちきる寸前の夕日のように、それでいてしっかりと光を持った瞳だった。


「母さん、武史達が来たよ。ほら、何か言う事があるんだろう」

「ああ、来たか。良く来たなあ、良く来た。鍵は、まだ持っていてくれているかい?」

「持ってるよ。大切に持ってる」

「それならいい。……散々嫌な思いをさせたのに、お前の家族を巻き込んでしまった。金しか払えないなんて情けない」

「それは……」

「死ぬ前に後悔ばかりするんだなんて、思いもしなかった」


 私はその時、父の背中しか見ていない。いつもの癖で父の後ろに隠れるように座っていた。父は今まで祖母の事を、自分の両親についてあまり語らなかった。良い思い出があまり無かったのだろう。だから父は、そんな事はない、とは言わなかった。言えなかった、と言った方がいいのかもしれない。祖母とおじさんと父は黙った。おばさんが私の肩を叩いた。そっと腕を引かれて、図書室に行ってらっしゃいな、と言われた。ここまで来て蚊帳の外なのは少し心外だが、私は頷いた。

 荷物から取り出した濹東綺譚を抱え、私は蝉の鳴く廊下を歩いた。家の中は窓が開け放たれているせいか湿っぽさは少し減っていたが、相変わらず木の甘い匂いがして、廊下は軋む。昼の熱い風が吹き抜け、涼しさはなく、こんな暑かったかしら、とガラスの向こうに白く熱せられた庭を見ながら図書室へ歩いた。

 祖母の部屋から図書室まではほんの少しの距離だが、図書室に辿り着くまで、随分時間が掛かってしまった。半ば追い出された所為で、先ほどの父と祖母の会話のその後が気になり、私の歩みを度々止まらせたのだ。

 父と本家の折り合いは良くないのは子供の頃から分かっていた。父は穏やかな人で、私のように感情が直ぐ顔にでるような人ではないし、家の中で声を荒げた事は一度もない。それでも言葉の端々に滲む雰囲気は隠せるものではなく、逆にそれ程まで、あの穏やかな父をそうさせる何かがあったのだろう。


 私が直接、父と祖母が言い争っているのを聞いたのはたった一度だけだ。それも皆の前ではなく、祖母の部屋の前を通りかかった時の事で、半ば盗み聞きのようなものだ。

 小学校二年の時、私は祖母からお年玉を貰えなくなった。図書室に入り浸る私は子供らしくなく、可愛げが無かったのだろう。私も嫌味を言われてから、祖母が苦手だった。人から明確な悪意を向けられたのが、祖母からの嫌味が初めてだったというのもある。今なら流して何とか上手くやろうと思えるが、子供というのは向けられた言葉をそのまま受け入れるしか術を持たないものだ。他の子が貰っていて羨ましいとも思ったが、嫌な大人に近づくのを考えると貰わない方が良い、そう思っていた。

 私はそんな風に思っていたが、母はそれが許せなかった。父に随分怒って、この子に我慢させるぐらいなら二度と家に来ないと言い、父もやはり許せなかったのだろう。

 その年の帰る日、祖母に挨拶をした後、私と母は先に部屋から出され、父と祖母だけが部屋に残った。私は母に連れられ一旦は外に出て待っていたものの、寒さのせいでトイレに行きたくなった。再び家に戻り、トイレに行く途中、祖母の部屋の前を通った時、父の声がした。一度も聞いたことのない、低い声だった。


「どうしてあの子にだけ、お年玉を上げなかったのですか」

「私の娘だからですか?」


 祖母が父に対して何と返していたかは覚えていない。いつもと違う父の声が、私の為なのに、とても怖くてそればかりに意識を取られていた。怒鳴り声ではなく、一生懸命怒りを抑えているような声が、父の怒りを雄弁に物語っていた。


「お金の事を言ってるんじゃない!私が気に食わないのなら、私に言えばいいでしょう。妻や娘に言うべきではない。……そんなに私が憎いですか」

「態度が気に入らない?あなたがそうさせてるんだとは思わないんですか?私も子供がいるから分かりますが、私に対するあなたの態度は理解できません」


 最初は冷静だった父も、語気が荒くなっていく。父が知らない人になっていくようで、それがまた私の為である事が悲しかった。諍いも時には必要だが、幼い私にはそれがとても悪い事で、自分のせいで父と祖母の仲が悪くなるのが嫌だった。泣きながら、お父さんやめて、とでも言えば父は収まっただろう。しかし怒っている父が恐ろしく部屋に入る事は出来ず、結局私は泣きながら母の元に戻り、訳も言えないままずっと母にしがみついていた。後にも先にも、父が怒っているのを見たのはあの時以外にはない。

 私はこの家がそれでも好きと言えるのは、年に三日だけの滞在に、図書室と彼の存在が大きかった。私は幸運だった。父や母のように嫌な思い出が良い思い出を上回っている訳ではなく、また大人でもなかったから嫌なもの、祖母から逃げる事が出来た。しかし父は、子供の頃から逃げ場などなかったのだろう。

 少しばかり憂鬱な気分を変える為に、立ち止まったままの足を動かす。外は夏の光に満ちて、冬の様に全てが静かに沈黙している訳ではない。蝉の声に、風が吹くたびざわつく木々、熱せられた外気のせいで冬の寒さが嘘のような廊下。この家に、夏は初めて来た。ワントーン明るく見える全てが、新鮮で、それでも見間違える程ではないのは同級生に学校で会う時と、外で会う時の印象が違うようなものだろう。


 図書室の扉は学校によくあるような引き戸で、嵌められた曇りガラスがあちらとこちらの景色を不透明に歪めている。更にガラスの向こうは光が差し込んでいる為か、全てが白く滲んで良く見えない。彼はいるだろうか。何か本を抱えて、本棚にもたれながら、この眩しさに目を細めているだろうか。

 私は扉を動かした。すると何故か蝉の声が遠くなり、一瞬だけ私の視界は私のものではなくなった扉を開けると彼は思ったとおり、本棚にもたれ本を読んでいたのだが、その体は燦燦と降り注ぐ夏の陽を背に受けて、床に影を作っていた。そうして少し驚いた顔をして、また本へと視線を戻した。

 あり得ない、強い夏の陽に私の目は幻を見たのだろう。次の瞬間には彼は同じように本棚にもたれ、そこにいた。しかし本に視線を戻す事なく、眩しかったのか驚いたのか、一瞬目を細め、私を見ていた。そして床に伸びるのは彼を透過した白い光だけで、床に伸びる影はどこにもなかった。


「おや、君。もう正月が来たのかい?」

「そんな訳ないでしょう。ちょっと用事があって来たんです」

「そうか」

「三日では帰らないですよ、今回は二週間ぐらい居させてもらいますから」

「それはまた随分暇な事だ。母屋は涼しいが、ここは恐ろしく暑い。君も物好きだな」

「そうですか?窓を開ければいいでしょう」

「蝉の声がうるさい」

「偏屈ってよく言われませんか」

「言われ慣れているよ」


 彼は読書の途中だったのか、本を持っていた。指を一本挟んで栞替わりにしながら。そっと近づき、気付かれないように手元を覗く。表紙には題名が書かれていて、夢十夜と読み取れた。正月に読んでいた筈だ。一体何度読んでいるのだろう。確かに気に入っている本は何度も読む事があるが、彼にとって夢十夜はそんな本なのだろうか。

 その事を尋ねるのも良かったが、それより濹東綺譚の事を話したかったので、読み終わった事を告げたが、彼の反応は良くなかった。好きな本と言っていたから少しは反応が返ってくると思ったが、その予想は外れた。彼を喜ばせる為に読んだ訳ではないが、語れるかもしれないという期待、特に周囲に同じ趣味を持つ友人や知り合いがいない私にとって、それは落胆以外の何物でもなかった。

 私が勝手に期待した事だ、仕方ない。しかしまだ子供の私が、表情まで抑える事は出来ない。彼に落胆を悟られないように濹東綺譚を元の棚に戻し、綺麗に並べられた背表紙を指でなぞっていく。濹東綺譚が置いてあった棚は、彼からは丁度見えなかった。

 何を読もう。出来ればここにいるうちに読み終える事が出来るもの。そうすると図鑑がいいのか、もうすっかり時代遅れで意味を為さない百科事典でも良い。思考を塗りつぶすには文字を沢山読むのが私にとって一番の気分転換になる。でも今はどこか違う世界に身を置きたかった。そうするとやはり物語しかない。

 本というのは面白いもので、題名が多くを語り掛けてくる。読む本を決める時、題名とその時の感情が全てだ。並べられた本たちは国語の授業で一度は聞いた事があるものの、今の私にはしっくりこない。濹東綺譚から始まり順々に並べられた本を一つ一つ題名を拾っていく。そして、風立ちぬ、と書かれた本が私の目を引いた。

 本棚から抜いていつもの定位置に行こうとしたが、明るすぎる光は文字を読むのに適していない。私は、彼に習い本棚と本棚の間に椅子をおき、そこに収まった。

 風立ちぬ、いざ生きめやも。――風が吹いた、生きなければ。吹き込む風は、ひと夏の命を精一杯生きる蝉の声を連れてくる。窓を開けた所為で蝉の声が一斉に部屋に響き、初めてこの部屋に命の気配が満ちた。そしてその風は、木陰を通り抜けてくるからか、廊下に吹くものより涼しい。

 この本を選んだのは当然な気がしてきた。物語の始まりは夏の終わりだが、一文目からしっかりと私を導いてくれた。夏の高原は、この場所と同じように風が気持ちよかっただろう。若い二人は、遠くない未来にやってくる今生の別れをまだ知らなかった。けれど後から振り返ってみた時、一つ一つの仕草や言葉、偶然と思っていたものの意味を知るのだ。そして後悔に押し潰されないように、仕方なかったのだ、運命だったのだと呟く。

 今から八十年程前の夏は、少しだけ温度が低かったのだろうか。それとも、今と変わらないのだろうか。そんな疑問が過った。彼に聞けば知っているかもしれない。彼の知っているかつての夏は、何十年前なのかは知らないが、私より堀辰雄が生きて、書いた時代に近いだろう。


「昔は、こんなに暑かったんですか」


 あの、と声を掛ける必要はなかった。相変わらず眩しそうな目をしながら、彼は私を見ていた。蝉の声が煩いのか、ちっとも読み進められていないようだった。

 何かを思い出すかのように、彼にしてはたっぷり間を空け、こう言った。


「君は……。いや、何でもない。昔は冷房なんて無いし、暑かったと言えば暑かったが、朝晩は今より涼しかった」

「熱帯夜とか無かったんですね」

「暑くて眠れない夜はそう無かったと思うが……、何せ大昔の事だ。忘れてしまったよ。何故そんな事を?」

「これ、読んでいたら何となく」

「風立ちぬか。名作だな。私は少し苦手だが」

「苦手なんてあるんですか」

「人それぞれというものがあるだろう。苦手というか、それはそう何度も読めない」


 君にもそんな本があるだろう、と聞かれ確かに自分にもあると納得した。そういう本というのは、度を越えて涙が止まらない、読んでいて辛すぎてしまう、そんな本だ。

 しかし、まだ読み始めて少ししか経たないが、風立ちぬは、やがてくる別れの日までを、静かな目で見つめ、純粋な気持ちをそのまま美しい文章で表現している。いつかそんな日が私たちにも来るのだと、そして、それは蝋燭の火が燃え尽き消えるように静かなものだと語り掛ける。読者に大きな感情の揺さぶりを与えるような激しさではなく、心に小さな波をいくつもつくるような話だ。


「私も彼の様に出来たら、また違ったのだろう」

「え?」

「何でもないよ。今年は蝉が煩い。君は良く本を読めるな」

「今年はって、私が窓を開けたからでしょう?」

「いや、例年より煩いんだ」

「じゃあ閉めましょうか?暑いですけど」

「別に良い。私は蝉の声でも聞いているよ」


 嫌味かと思っていたら本を閉じ、彼は本当に窓際に行ってしまった。薄暗い図書室の中、相変わらず目を細め外を見ている。わざわざ窓際になんか行ったら眩しいだろうに、そう思って、はた、と自分の思い違いに気付いた。

 何か物思いに彼はふけっているのだ。たった一年に三日間しか一緒にいないのだから、彼の全ての表情を知る訳がない。そういう顔もするのだ。

 これから二週間、何度も何度も知らない彼を知る。それが純粋に嬉しいと私は思った。私しか知り得ないものが、当時はとても貴重だった。大抵は「私しか知らない」というものは成長するにしたがって消えていく。秘密の景色も、押し入れに隠した宝物も、時が経つにつれ価値がなくなり、または存在自体が消えてしまう。しかし彼についての全ては、私しか知らないものだった。結局今は当時の喜びは影を潜め、やがて何度も思い出し、何度も同じように胸が痛むような、私だけの記憶に変わってしまったけれど。


 本家に到着した日、隆史兄さんの姿はどこにもなかった。図書室から半分以上読み終えた風立ちぬを持って、いつも正月に寝泊まりする部屋に戻った時も、夕飯の席にも、日付が変わる直前も、隆史兄さんの姿を見る事はなかった。帰ってきている筈なのに、誰も隆史兄さんの話題を出さなかった。それが気になって夕飯の時や、その後のおばさんとの片づけの時に、聞こうとしたが中々言い出す事は出来なかった。

 やっと隆史兄さんの名が出たのは、高校生の娘なら普通嫌がるかもしれないが、父と布団を並べ、お休みと言い合った後だった。私は父に対して同級生たちのような過剰な毛嫌いは無かった。どちらかというと気恥ずかしさがあったが、一人で眠る方が怖かった。

 かつての兄さんは本当に優しかった。本を読んで他の子達と遊ばない私を、決して邪険に扱う事はなく、とっておきの場所だと蛍を見せてくれるなど、色々と気を使ってくれたものだった薄暗い図書室には幽霊がいるから、実際そうなのだが、そこに籠る私を幽霊の子だと揶揄われた時なんて、言われている私が驚くぐらい怒ってくれた事もある。

 隆史兄さんが変わったのはいつからかと改めて思うと、気が付いたらとしか言いようがない。もともと正月の事件前から家を空けるようになっていたというから、随分前のことだろう。

 田舎の夜というものは暗い。月明かりがあれば良い方だが、今日は月が細かった。その暗さに足を出すのが怖くて、タオルケットに体をすっぽりと包んだ。タオルケットは肌触りがよく、冬場の重い布団とは大違いだった。

 しばらく寝相が決まらず、やっと決まったあたりで、父が起きているか、と声を掛けてきた。起きているよ、と答えると隆史の事だが、と父が思ったより軽い口調で言った。暗い中だったから、半ば独り言のような気分だったのかもしれない。


「隆史がああなってしまったのは、父さん少し分かるんだ」

「なんで?」

「この家は昔気質で、長男以外いらないと母さんによく言われたよ。今の時代に笑えるだろう?昔は親戚も住んでいたから、周りはみんなそんな考えだったよ。隆史もいつも跡取りなんだからって言われてただろ?昔の兄さんを見てるようだった。正直、兄さんが羨ましい時もあった。でも今は逆だ。兄さんはずっとこの家に縛られていたんだ。やりたい事を沢山、俺以上に諦めたんだと思う。でも、だからこそ隆史を自由にしてやらなきゃいけなかったんだ」


――散々嫌な思いをさせたのに、お前の家族を巻き込んでしまった。


 祖母の言葉を思い出す。父はそれに対して何も返さなかった。祖母の為、正史おじさんの為ではなく、隆史兄さんの為にこの家に戻ってきたのだ。


「隆史は決まりきった人生に意味がないと思ったんだろうな。逃げ出した、という人もいるかもしれない、長男に生まれたから運命だって。確かに代々続く名家なのかもしれないけど、もう昔の話だ。そもそも、運命なんて言葉は諦める為に使うものでもないし、もしそうなら運命という言葉に騙されてるんだけだよ」

「……お父さんはどうするの」

「蔵の鍵を返して、隆史と正史兄さんと話す。隆史が望むならこっちに来る手助けをしようと思う」

「お母さんは?」

「母さんには言ったよ。鍵を返すなら良いって。それが条件だ。あの人も俺の境遇を知っているから」

「ふうん、なら良いよ」


 その後、父とは二言三言言葉を交わした。私はこの時何故、自分が連れてこられたか、ふと疑問に思った。それは祖母が死ぬ前に会わせておこうという父なりの精一杯な親孝行だったのだと思っていたのだが、それだけではないと感じた。今なら分かる。父が私を連れてきたのは、この家の最後に立ち合わせる為だったのだ。


その夜、こんな夢を見た。


 父と隆史兄さんの話をしていたからか、それともこの家に来てから度々感じている奇妙で、視界を奪うほどの既視感の影響なのか分からないが、夢か現か分からない程の現実味のある夢だった。

 私は誰かで、図書室にいた。暑い。ただ目の前に彼がいるお陰で木陰にいるような心持ちがした。昼間見た幻視の中の彼と同じく、陽の通さない体をしている。――彼が口を開いた。私達は会話をしていた。


――人というのは変わってしまうものなのか。

――変わってしまうでしょう。人の心は移ろいやすいものですもの。

――君も?

――さあ。あなただって分かりませんよ。でも、ただ一つだけ心を繋ぎ止める方法はあるわ。

――そんなものがあるのか?

――ええ。約束をね、一生を支える事が出来る約束をすればいいの。相手がいなくなっても、生きていく理由になるような。


 今より綺麗な図書室で、私はふふ、と笑う。彼は相変わらず不機嫌そうに、しかし彼女の言葉の続きを待っているようだった。どこまでも幸せな夢だった。

 

 次の日も、その次の日も隆史兄さんは帰って来なかった。四日目の昼、私が丁度二回目の風立ちぬを読み終えた後、母屋の方で大きな音がした。隆史兄さんが帰ってきたのか、怒鳴り声と物がガタガタと動く音がした。私は確かめようとしてたが、止めた。多分、お前はあっちに行っていなさいと言われるのは分かっていたからだ。

 図書室の窓は開けていたので、隆史兄さんと正史おじさんの声がはっきりと聞き取れないものの、こちらまで届いていた。彼には何となくこの騒動を聞かせたくなかったが、窓を閉める口実が何もないし、そもそも窓を開けると言い出したのは私だった。いったん切れた集中力は中々戻らない。

 風立ちぬは読み終わってしまったし、しかし今新しく何か読もうとする気は全く起きない。文学談義なんて大層なものではなくて良いから、例えば今読み終わった風立ちぬでも、濹東綺譚でも感想を聞いて欲しい。怒声というものは、心の奥をひやりとさせる。誰かの声、穏やかな起伏のない声が聞きたかったのだ。

 耐え切れなくなって、あの、と声を掛けた。窓際に相変わらず座り、光を透かしている彼は、いつもより薄く見える。現実のようなあの夢で彼に会ったら、透けているか否かで判断すればいいのだ。

 なんだ、と答えた彼にもおじさん達の声は聞こえているはずだが、相変わらず涼しそうな顔をしていた。彼のそんな落ち着いた様子は私を少しばかり安心させた。強張った唇が緩み、そうだ、今こそ濹東綺譚について話そうと思った。


「濹東綺譚の結末なんですが、お雪さんはどうなったんでしょうか」

「どう、とは?」

「何というか、伊豆の踊子を思い出してしまって。結局、女性だけが夢を見て残されたような」

「ほう、君はそう思うのか。それで?」

「お雪さんは頭も顔も良いから、これから誰かのお嫁さんになれるのかもしれないけど、それは歳が離れていても主人公の大江であっても良いと思うし、そうしない理由が言い訳がましいというか……静かな雰囲気は凄く好きですし、当時の事細かな世情というか暮らしが分かるのも楽しかったんですでもそれが引っかかって」

「……私が濹東綺譚を好きなのは、二人が別れるからだよ」

「そうなんですか?」

「ああ、一緒にいるだけが幸せではないし、大江は自分の内面を晒すのを恐れていた。お雪さんと似たような境遇の女と結婚し、上手く行かなかった過去もある。お雪さんは彼にとっての情熱というか、作家人生最後の作品の支柱だったんだ。そんな彼女を汚す訳にはいかなかったんだよ」

「汚すって、結婚が?」

「所謂好きであっても結婚すべき相手ではなかったって事さ。お雪さんが彼のミューズであったから、彼もお雪さんの中で素性の知らない旦那でいたかったんだろう」

「うーん、……私には早かったのかぁ」

「だから言っただろう、君には難しいって」


 彼は眼鏡を直しながら、さらりと言う。何だか馬鹿にされたような、彼は少しもそんな気がないとは知っていたが、そんな気がして、ほぼ反射的にじゃあ、風立ちぬは、と言っていた。何故か私は怒っていた。隆史兄さんと正史おじさんの怒りが伝染してしまったのか、それとも昨日見た夢の所為かもしれない。夢の中の私は物怖じせず彼と対等であった。そんな風に話し合えないと思うと、酷く不愉快だった。


「じゃ、じゃあ!風立ちぬも結末は離れ離れになるじゃないですか」

「君、何をむきになっているんだい?それに何でいきなり風立ちぬになるのか……まぁいい、そもそも風立ちぬは死別だろう?濹東綺譚とは訳が違う。お雪さんと大江は謂わば行きずりの関係で、明日大江がお雪さんの元へ来なくなっても仕方ないんだ。会う度に今日が最後の逢瀬であるという前提がある。でも風立ちぬは例え死期が迫っていても婚約者というのは簡単に切れる関係ではない。だから節子の死が物語の重要なテーマの一つになっているんだ。君はそれぐらい分かると思っていたが、まだ子供だったか」

「ええ、子供ですよ。だから、好きじゃないんですか?」

「支離滅裂だな。確かに君の言う通り、私は風立ちぬが好きではない。婚約者の死にゆく姿を見ながらも、生死を越えた場所で彼らは幸せを感じたと言うんだ。好きじゃないというのは不適切か……私は絶望したんだ。そう出来なかったから」

「出来なかった?」

「出来なかったんだ。かつて私も似たような境遇にあったから、少しは慰めになるかと思ってね。でも実際は違った。そればかりか自分の不甲斐なさが辛くて、苦しくて、もう二度と読む気にはならない」


 そうして彼は最後にこう付け加えた。そもそも、同じような境遇でもなかったんだ、と。

 やっぱり窓を開けておいて良かったと思った。もし今が冬の寒い図書室だったら、この沈黙というか、いたたまれなさに耐えきれなかっただろう。ミンミンゼミの煩さが有難かった。


「あの、ごめんなさい」

「何に対してかい?」

「言いにくい事を、その、言わせてしまったのではないかと思って」

「事実を言ったまでだ。確かにみだりに言う事ではないだろうが、自分で判断して言った。君に強制された訳じゃない」


 婚約者、もしくはそれぐらい大切な人がいたこと、そしてその人とは死別してしまったこと。私の好奇心がその先を知りたがる。しかしそれ以上は何も聞けなかった。勇気がない、というのは不適切だろう。私の好奇心を満たすために彼の過去はある訳ではないのだ。私だけかもしれないが、それでも妙に残る気まずい雰囲気の中、蝉の声すら消し去る怒鳴り声と、あれはおばさんだろうか、悲鳴に近い声がした。もしかして正月と同じ事が起きてしまったのかもしれない、そう思うと無意識のうちに扉の方へ駆け寄っていた。


「いくな」

「で、でも!」

「君は行かなくていい。ここにいるんだ。何も聞かなかった振りをしなさい。それが最善だ」


 彼が、静かに、しかし鋭い声で私を制止した。


「何となく予想はつくが、この家では一体何が起こっているんだ。君が夏に来るなんて今までなかっただろう。そろそろ知りたいと思っていたんだ」


 今度は私が言いにくい事を言う番だった。正月に祖母から大金と鍵を預けられた事、その祖母が危篤である事、おじさん一家と、父の事。私は一つ一つ話していった。話して分かったのは、私は結局蚊帳の外、である事だった。それでも誰かに聞いて欲しかったのだろう、彼の言う通り自分の言葉に変えてみると、正月から心の中にあった靄とその向こうに隠され、言葉にできなかった感情が形になって、しっくりと自分の中に再び帰ってくる。父にも母にも思うところがあったのは分かっている。子供には言うべきではないと彼らが判断したのも妥当なのかもしれない。しかし私は当事者でその経過もこれからやってくる結末も知るべきなのだ。


「もっと、君たちは自由に生きていると思ったよ。その問題を起こしているという君の従兄の名は?」

「隆史です。隆史兄さん、昔は優しかったのに。変わってしまったみたいで」

「そうか」

「知ってるんですか?」

「いや、……昔を思い出してね」


 私の時代は、とそこまで彼は言うとちらりとこちらを見た。私が何も言わずその後を促すように頷けば、何故か安心したような、と言っても目尻が多少下がったように見えただけだが、言葉を続けた。


「私の時代は、運命という言葉に支配されていたんだ。生まれからは逃れられない、というのかな。私も君の父上や叔父上のように生まれた瞬間から進むべき道が決まっていてね。幼少の時分からつまらない人生だと思っていた。そんな私が本を読むのは必然だったと思うよ。本の中なら自由に様々な世界を覗けるし、登場人物の誰にだってなれた。新しい知識は私の新たな目になった。そしてそれを語り合う友も出来た。けれど運命という言葉は呪いだ。そう簡単に解ける筈もない。……しかし、私もその呪いに加担していたのだな」


 彼の言う運命は、きっと父の言う運命と同じものなのだろう。本当なら変えることが出来る、受け入れるしかない訳ではない、そんなものだと。しかし、彼は受け入れた。受け入れ、何があったのか分からないが、ここにいる。身体を失った今も。

 ただ、私は彼が可哀想だと同情する事も、時代や運命の被害者と見る事もしたくなかった。彼は同じ趣味を持つ初めての存在であり、有難い事に本を読む私を、決して褒めなかった。自分では当たり前の事を褒められるのは酷く居心地を悪くさせた。

 そして、どんなに子供に難しい本を選んだとしても、側にいて物語の世界へと手を引いてくれた。――今や私は、彼がどう思っているか知らないが、彼を友人だと思っている。私達の出会いは彼の受け入れた運命の結果の一つだから、私は彼が間違ったと思いたく無かった。


「加担、ってなんで、あなたは関係ないでしょう」

「無関係という訳ではない。……君にいつか話そうかと思っていたんだが、いい機会なのかもしれないな」


 私たちは出会って十年経っている。共に過ごした時間は、出会ってからの長さに比例しない。それでも私が彼を友と呼ぶのは、私にとって「彼のいる」この場所が掛け替えのないものだからだ。

 偏屈で、耳あたりの良い言葉はくれなくても、私を本の虫でいさせてくれるそんな彼について何も無関心だった訳じゃない、ただ初めて出会った日、親にも言うまいと決めた。無意識に私は、彼について今以上知る事、そして誰かに知られてしまうと、私たちの関係が壊れてしまうのだと思っていた。それはあながち間違いではないと思う。出来るならば今のままの二人でいたい。


「少し、考えさせてくれないか。何から話せばいいのか、私も整理したい」


 しかし彼は私の話を聞いて、知るべきだと判断した。私がその背を押し、判断させてしまったのだ。彼に会いたくて、この家に来た。けれど、私たちは年に三日だけの方が良かったのかもしれない。彼について知る事は喜ばしい事だけではなかったのだ。私が今ここに来てしまった事で、私たちの関係は変わる。彼に感じていた遠さが、決定的なものになってしまうような気がしていた。


 夕飯の席に、隆史兄さんの茶碗は置いてあった。しかし、本人が現れる事はなかった。食卓に父と二人きりになった時を見計らって隆史兄さんは、と聞けば部屋で寝ているみたいだ、と教えてくれた。

 隆史兄さんにとって、この家は自分の家ではなく、寛げる実家でもない。牢屋みたいなものなのだろう。帰りたくないのに、帰らなくては、そこで一生を過ごさなければならない場所になってしまった。

 二週間も世話になる事もあって、私はなるべくおばさんの手伝いをするようにしていた。その一つが、夕飯が終わるとおばさんと一緒に、祖母の部屋へ行き、夕飯を食べさせたり、着替えさせたりすることだった。これが思った以上の重労働だった。祖母は小さくなってしまったが、それなりの重さはあり、また、意識がある。人形の着替えのようにする訳にはいかない。快適な温度が保たれているはずの部屋でも、作業をしていると汗が出てきた。私が、おばさん、毎日大変だね、と一通り作業が終わった後言うと、少し困った風に笑いながら、でもね、と前置きしてこう言った。下の世話はお父さんがやってくれるから、と。何に対して、おばさんが、でも、と言ったのか、私には分からない。私はただおばさんを労わりたかっただけだし、何も否定していない。ただ、でも、という声に疲れが滲んでいた事は確かだった。

 いつの夕飯の世話をしている時か定かではないが、祖母との会話で心に残っている事がある。正月と比べれば元気は殆ど無いに等しい祖母だったが、意識はしっかりして、同じ事を何度も言うという事などはない。喋るという動作が疲れるようで、おばさんの問い掛けに、首を縦か横に振るだけだった。

 そんな状態の祖母が、ある時私に話しかけたのだ。水差しで口に水を含んだ後だったから、多少口内が滑らかになった所為かもしれないが、祖母が、まだ図書室に行っているのか、と私に言った。

 直ぐに以前の嫌味を思い出し、また嫌味を言われるのか、と思ったが、どうであれ折角祖母が話しかけてくれたのだ。私は、はい、行ってますと答えた。すると、今度はおばさんの方へ向き、この子と二人きりにしてくれと言った。

 おばさんは驚いた顔をして私と祖母の顔を交互に見たが、分かりました、終わったら呼んで下さいね、と出て行ってしまった。二人きりになったのは正月以来で、私はまた黙るしかなかった。祖母が水差し、と口先だけで言ったので、おばさんの見様見真似で僅かに空いた唇の隙間に水差しの先端を入れ、ゆっくりと傾けた。どれぐらい注げばいいのか分からなかったし、咽させたりしたら大変だと随分緊張したのを良く覚えている。祖母の体に触れたのはこの時が初めてだった。随分冷たくて、布を挟んで素肌があるとは思えない、というのか、重みはあるのに存在の輪郭が酷くあやふやに感じた。

 祖母は再び水を含んだ後、言葉を続けた。部屋に二人きりになった所為かその声は幾分、先ほどより聞こえた。小さいと言うより、静かな声だった。


「図書室は、好きかい?」

「はい」

「私は嫌いだよ。私の祖父はね、毎日毎日図書室に籠って碌にこの家の主人らしい事はしなかった。父は早くに亡くなってしまって、子供は私だけだったから母は随分苦労してね。酷い時なんか図書室に妾でも囲ってるなんて言う人間だっていた。男であれば良かったと何度思った事か。だから、あんたが図書室に行くのを知った時、祖父を思い出して憎たらしいと思ったよ。何十年も経って、もう忘れたと思っていたのに」


 長く話せば話す程、口内が乾くのか静かな声が掠れていく。言葉が終わるのを私は待ち、再び水差しを傾けた。祖母の声は小さいが、水のように染み、私の中に波紋を作った。

 水差しの中身はただの麦茶であったが、それは祖母の言葉を引き出し、私を揺らす雫に変わっていく。私は未だかつてない程、耳を傾けていた。


「本が好きなんだろう?」

「はい」

「私も本が好きだったら良かった。そしたら何か違ったのかもしれない」

「そんなこと、」

「お前がこの家の子だったら良かった。いや、自業自得か。どんな理由があっても、あんたには嫌な思いを沢山させた。済まなかったね」


 祖母はそう言うと、瞼を閉じた。水差しを口元に持っていっても小さく顔を横に振るだけで、唇が僅かにも開かれることはなく、それっきり、何も話さなかった。また、それが最初で最後の会話になった。

 私は祖母に良い感情を持っていなかった。嫌味を言われてからずっとそうだし、父や母の事も相まって、今も彼女が良い祖母であったとは言えない。しかしこの時から、祖母に対して持っていた感情の温度が少し上がった。祖母の本心を知れた事や、過去に触れた事は、不思議だが、彼とは反対に距離を縮められた。これが私の持つ祖母の唯一の良い記憶だが、僅かでもそんな記憶を作れたのは、良かったと思う。


 あの夏は本当に色々な事があったのだ。


 この家に泊まってから、変な夢をよく見るようになった。最初の日、まるで過去の事を思い出すかのような鮮やかな夢を見たことを皮切りに、毎晩毎晩私は誰かになって、この家のどこかで彼と話す夢を見た。

 その中でも、隆史兄さんが帰ってきた日に見た夢だけは違った。風立ちぬを二度も読んだからそんな夢を見たのかもしれない。二度三度同じ誰かになっていると、私と誰かは同一人物になり、そこでの誰かの思考や痛みは私のものであった。


こんな夢を見た。


 とても寂しい場所で広い部屋に一人寝ていた。肌寒さに季節感を一瞬見失うが、虫の声が今は夏だと教えてくれた。ずり落ちた掛け布団に手を伸ばそうとして、身体が酷くだるい事に気が付いた。この寒さは悪寒だったのだ。額にのせた手は高い熱を一瞬だけ和らげたが、直ぐに冷たさを追いやってしまった。

 分厚いカーテンのお蔭で、部屋の中はぼんやりとしか見えないが、目を瞑ってもどこに何があるか分かるし、歩ける。それ程私はここにいるし、足を取られるような部屋の調度品は少ない。それらは全く必要なかったのだ。

 私はもうすぐ、何もいらなくなる。食事も水も、呼吸さえ。心臓が止まり、私は私でなくなる。しかし身体のどこにも属さないものはどこへ行くのだろう。何も考えられなくなる事は残念だが、恐れを感じるにはあまりにも死は近すぎて、むしろ生きている事、今こうして体の不調を感じているのも不思議な程だ。

 さっきまで寝ていたのに、目覚めたというのは、予兆だ。肺の奥から嫌なものが湧き上がってくる感覚がしてきた。咳の発作が始まるのだ。嫌な感覚がじわじわと肺を覆い、特有の音を立てて喉から咽上げてくる。それ程大きな音でもないのに、直ぐに寝台から見えるドアが開いて、隣の部屋から、これは父だ、父が、看護婦を呼ぶベルを鳴らした。何度もこの発作を経験しているが、ただひたすらに苦しい。慣れる事は無く、これが始まってしまったらもうどうにもならない。

 どうにもならない咳を諦めているように、私自身はこの場で果てる事について運命だと受け入れている。運命より強い、生まれてきた時から背負っていた変えられない定めだと。やりたいこともあった筈なのに、体力だけではなく気力も奪われたのか、今は遠くに見える。すべてが緩やかに色あせていく日々の先、全ての色を失った時が死ぬときなのだろう。そんな私の中にもまだ、一つだけ色鮮やかなものがある。それは彼の事だった。

 思い出が多い所為か、彼の事を考える時だけ、私は色を見る事が出来る。そして過去の事ばかりでなく、今彼が何をしているかという現在も、私が知る事の出来ない未来について考えてしまう。あの家で何も知らずにいる彼、自分の人生を諦めている友人を思うと、人生を見守れない定めが酷く恨めしい。

 何も成し遂げず、死んでいくのは怖くない。家族や彼など、大切な人に忘れられることだってそうだ。しかし、もし今の私に何か残せるものながあるのなら、彼を支えるものの一番小さきものでも良いから、彼が幸せだったと言える人生を導けるものを残したい。諦めと共に生きるには、きっと彼の人生は長すぎる筈だ。

 ひゅうひゅうと喘ぐ呼吸が苦しい。合間に息を吸う瞬間だけ、私の思考を思い通りにする事が出来る。走馬灯のように記憶と思い出が巡り、残された時間の少なさを教えられる。忘れたくない、輝いていたものは沢山あったのに、巡るものはやがて彼と最後に過ごした夏の日だけになる。本当に幸せな時間だった。短い人生であれほど彼と同じ時を過ごした事もなく、どこまでも友人として私達は側にいられた。私を憐れんだ神様がくれた奇跡のような時間だった。

 息をあまり吸えない所為か、ぼんやりし始めた頭の中で駆け巡る記憶が止まった。揺れる意識の中、私は全てをその記憶へ委ねた。徐々に景色が変わっていって、私はあの図書室にいた。蝉の声で満ちた薄暗い図書室に、彼もいる。そして私達の間には一冊の本、夢十夜があった。咳で話せない筈の私は、彼にこう言った。


――ええ。約束をね、一生を支える事が出来る約束をすればいいの。相手がいなくなっても、生きていく理由になるような。


 今なら分かる。女は男に自分を待っていて欲しかった訳ではない。こんなにも愛してくれた、男の愛の深さを知っていて、死んだ後の絶望を少しでも救うためにあんな途方もない約束をしたのだ。

 人は生きてこそだ。何があっても、死なない限り全ては流転し、望めば世界は答えてくれる。男が死別という絶望を抱えながらも生き、男が望んだ再会を得たように。あの人が人生に諦めさえしなければいい。だから生き抜く理由を、約束をしよう。唯一私たち二人の意見があった、あの物語にかけて。

 咳で逸る心臓が、一層と高鳴る。私はこの言葉を彼に伝える為に生まれてきたのかもしれない。だとしたら、短い人生であっても何も不満はないし、例え私の病があってこそ、この役目を与えられたとしても、その宿命を喜びたい。生まれてきた意味を私は彼によって見出せたのだ。

 もしこの発作を無事に乗り越えられる事ができたら、父に最期の頼みをしよう。だから、隣に立つ死に私は願った。死こそが祈る神だった。しかしそれは私に近づいたのか、咳は激しくなっていく。

 父と、呼びに行ったであろう看護婦だろうか、足音がした。意識がどんどん薄れていく。死ぬのかと思った。嘘のように咳が止まり、苦しさが薄れていく。いや、違う。これは夢が終わるのだ。私は誰かの意識と離れた。部屋に私だった誰かの苦しそうな息に混じり、声が聞こえた。


――約束を、叶えてあげて。百年はもう来ているのだから。


 夢が覚めても、私は暫く体を動かす事が出来なかった。まだ夢の余韻が残っているのか、酷くだるい。それでも、夢の内容ははっきり残っていたし、夢の終わりで聞こえた言葉は私の頭の中で響いていた。



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