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夏夢綺譚  作者: 遠野まひろ
1/6

1図書室と、正月と、蔵の鍵

三十の私から、十七の私へ。


 


 一生に一度しか経験出来ないという事があるとすれば、私は十七歳の夏を思い浮かべるだろう。


 子供から大人へ、刻一刻と景色が変わる道の途中でそんな経験をしたのは、良かったのか悪かったのかは分からないが、それは私の人生においてのマイルストーンとなっている。

 その経験は見る世界を変えた。だから何も知らず、無邪気に過ごしてきた頃と同じ様には生きられないと実感する度に寂しさを覚えるが、それは仕方の無い事だと思うしかない。何故なら時間は過去へ戻らない。未来という前に進むだけであり、それは何より、私が生きている証拠でもあるのだ。


 かつて私には奇妙な友人がいた。十七の夏までの過去を振り返る時、私は決まって友人を思い出す。


 しかし年を重ね、いつの間にか子供でいられなくなるように、彼はあの夏、私の前から消えた。結局彼が何者であったか、名前すら分からなかったが、それらはただの記号であり、私達の友情を築く妨げにはならなかった。私達は君とあなたと呼び合えば全てが足りた。

 共に過ごした時間も僅かなものだ。出会って十年の間に過ごした日々を数えてみれば、一月と少し、それだけだった。短い時間にどれだけの事ができ、どれだけの事が出来なかったのか。過去に想いを馳せる時、後悔は無いとは言えないが、それは同時に私が彼に対する想いの深さを知る時でもあった。

 私は彼を知りたいと思い、どこに居ても帰る場所であると思っていた。彼は私の成長に喜びを見出し、孤独を癒した。私達は同じ方向を向き、偶然繋がった糸を、それぞれの想いを頼りに切れないよう守り続けていたのだ。

 定められていた結末は私にとって何一つ優しくはなかったが、彼が消えたあの夏を私は一生忘れない。彼の存在を伝えるものが全く残っていなくても、私は今もその姿を言葉に変える事が出来る。私が語り続ける事で、何度でも彼は蘇り、そして私は何度でも十七歳の私になれる。

 物事は流転していく。永遠など何処にもない。しかし私が彼を思い出し、見えなくなっただけ、彼は姿を変えたのだと、その存在を信じる時、喪失は永遠に変わる。夢のような幸福な瞬間は消えてしまったが、その夢が覚めた今も、私が一人になる事はない。彼がかつてそこにいた事、私のかけがえのない友人であった事は、決して消えはしない。

 十七の夏、私と彼の物語は終わりを迎えた。随分月日が経った今、消えていった記憶は多くとも、今だからこそ語れる事もあるだろう。私と彼の出会いは、十七の夏から十年ほど遡る。季節は真逆の冬、初日の出が照らす古い家で私たちは出会った。


一.図書室と、正月と、蔵の鍵


私はその古ぼけた家が苦手だった。毎年毎年冬に訪れるせいで、寒さに悩まされたし、廊下なんて吐く息が白く、畳の上を歩けば足の裏が沈み込む。どこも湿っぽく、木の腐りかけのような甘い匂いがした。

 新年ぐらい顔を見せろと言う親戚達の声を無視する訳にもいかず、家族揃ってその古い家に訪れるのだが、たとえお年玉を貰っても我慢料だと思ってしまう。古くて変な匂いがして、寒くて、お湯もまともに出ない、そんな所に二泊するのだから、正直勘弁して欲しい。さらに言えば布団も一応干してくれているらしいが、硬く重い。エアコンはあるものの、一晩動かせばいくら湿っぽいとはいえ乾燥が酷く、それならと切ってみれば朝目覚める時、鼻の頭は氷のように冷え切っている。だから、毎年この時期は私にとって酷く憂鬱だった。

 唯一古ぼけた家の――私にとっては本家というものにあたる――良いところを挙げるとすれば図書室がある事だ。日当たりの悪い場所にあるからなおのこと寒かったけれど、古い本特有の匂いに満ちていて、家のどこに居ても匂う腐りかけの甘い匂いがしなかったのだ。それに私は小さい頃から読書が好きで、ここに篭っていれば好きなだけ本を読めるばかりか、少し面倒な親戚たちとのやり取りもしないで済んだ。

 かつて、先々代ぐらいの主人がこの部屋を作ったらしいが、詳しい事は知らない。ただ、それぐらい昔からある本達がひっそりと息づいて、その部屋の中で誰かに読まれるのを待っていた。

 昔の本は難しい。文章は硬く、単語の意味は難解だ。それでも何とか読めるのは私が読書に慣れて、また、辞書を引く事が苦ではなかったからだろう。そこを見つけたのは小学校一年生の時だった。それ以来ずっと、そこで冬の憂鬱な古い家での三日間を過ごしていた。

 ただ、いつまでも図書室にいる訳にもいかない。日が落ちる前に引き上げないと、窓はあるものの雨戸が降ろされれば冷たい廊下は真っ暗で、どこを歩いているのか分からなくなりそうになるのだ。小さい頃はこの家自体が怖くて、親がいないと、夜間は絶対に一人で行動は出来なかった。どこに立っても、何をしてもギシギシと軋む手洗いは一番恐ろしい。今でも夜中に行きたくなったとしても、朝まで我慢する事を選ぶだろう。

 古い本を読むのは酷く骨が折れるが、文字を追う楽しさがあった。それが一年、二年と年を重ねる毎に、物語を楽しめるようになった。高校生になれば、それなりに読めるようになり、私にとってそれは感慨深いものでもあった。分かる単語を繋げる喜びは子供の遊びの範疇で、高校生になったなら、物語を読み、心を震わせたい、そう思うようになっていった。

 私にとって読書は知らない世界を覗く、魔法の窓だった。どんなに今いる場所が薄暗く寒くても、本を一頁開けば周囲が直ぐに物語の世界へと変わる。物語の世界から戻る時、例えば誰かに呼ばれた時など、鼻の頭や指先が酷く冷たくなっているのに驚いた。肉体的な感覚と意識は、これ程まで繋がっていないのだと。


 「彼」と出会ったのもその図書室だった。あれは私が図書室を見つけた時の事で、選んだ本を読み、読めない漢字や、意味の分からない単語を辞書で引いている時だった。その頃、私は紙の辞書と一緒に電子辞書を使っていた。電子辞書とは中々便利なもので、読めない漢字は漢字辞典で部首や総画から引けばいいが、中々正解にたどり着くのは難しい。そして更に辞書で意味を調べるのは骨が折れる。そんな私を見かねて小学校に上がった時、両親が電子辞書をクリスマスにプレゼントしてくれたのだ。

 その時、襖、という字を調べていた。電子辞書の画面に記号のようなそれを書いていると、突然後ろから、ふすま、と声が降ってきたのだ。驚いて後ろを振り向くと、見たことのない男性が立っていた。

 着物を着て、小難しい顔をした男の人。いくら私が幼くても、この家の中で会っているかいないかは分かる。しかし突然声を掛けられたこと、その上知らない人となれば何に驚けばいいのかすら、分からなかった。


「それは、ふすま、と読む」


 彼は混乱する私に頓着することなく、もう一度同じことを言った。つられて、ふすま、と言うと満足そうにそうだ、と言った。私はますます一体どうしたらいいのか分からなくなった。勿論知らない人が家にいるなら、その場から逃げて大人に言うべきだが、そんな判断をするには冷静でなければならない。その時の私には冷静さはなく、出来る事と言えば現実逃避、再び本に目を落とすだけだった。見られている気配が酷く心地悪かったが、恐ろしくて再び目を向ける事は出来なかった。何度か息を吸って吐いて、襖の個所から読み進めていくと直ぐにまた読めない、意味の分からない単語が出てきた。電子辞書に手を伸ばそうとしたら、また頭の上から声が降ってきた。けんろう、と。

 居るのは分かっていてもこの状態では肩を大げさに見える程震わせてしまう。それでも怒らせるのは怖いから、けんろう、とまた繰り返すと満足そうに頷いた。それを見て、多分、多分だけども、悪い人ではないようだ、と私は思った。どう考えても学校の先生が言う不審者であるが、今のところ何もされていないし、読み方を教えてくれる男の人だ。恐る恐る振り返ってみると、彼は腕を組んで、じっと私を見つめていた。


「百合の花の匂いがすると思ってくれば……ああ、どうした。怖がらせたか」


 彼は私が怖がっている事に今頃気付いたようだった。その事に驚きつつも、私は頭を縦に数回振った。


「私は、この奥に住んでいるんだ。こうやって図書室には来られるが、表に出る事は許されていない。お前は分家の者だろう?なら、初めましてだな」

「……ぶんけ?」

「ここに住んでないって事だ。そうだろう?」


 私は再び頷いた。私は人見知りで、こうやって知らない大人と話すのは怖かった。だから声を出せなかったし、何故表に出られないのかと思っても何も聞けなかった。確かに図書室より奥は、親戚に立ち入りを禁止されていたし、続く廊下は一層薄暗かったので行こうとも思えなかった。只管に伸びていく廊下には窓は一つもなく、足を踏み入れたら二度と戻れないような雰囲気さえあったのだ。

 彼はそんなところに住んでいるという。今なら酷い話だと思うかもしれないが、その頃の私は、彼の持つ不思議な雰囲気に次第にそうなのか、と納得してしまった。

 彼は私の父より若くに見えた。そんな年の人が着物を着ているのは酷く珍しかったし、男の人が「私」というのも彼が言うと似合うのだが、初めて聞いた。私の知る男性に自分の事を私と言う人はいなかったのだ。

 彼とはその後二つ、三つ言葉を交わしたが、本は好きか、と問われて頷いた時に心底嬉しそうに笑った事を良く覚えている。そうして何故か、この人の事は誰にも言わないでおこう、と強く思った。


 図書室に幽霊が出る、と知ったのはその後の事だった。何でも、図書室には呪われた本があり、一文字でも読んでしまうとその瞬間死んでしまうらしく、いつかの当主がその本を読んでしまい図書室で死んでしまったそうだ。死してなお、呪いの本に魅入られ成仏出来ずに図書室にいる、と。これは親戚の子の誰かが言っていたから、私をからかう為の作り話だろうただ、噂には少しの真実があるというから、図書室で誰か死んだのは本当かもしれない。

 噂の真偽はとにかく、彼の存在について口をつぐむという判断は正しかった。図書室に通い始めてから親戚の子らに散々揶揄われたし、大人達も薄気味の悪い図書室へいく事に良い顔をしなかった。だからもし、彼の存在を誰かに言ってしまったら、私は随分気味の悪い子だと思われただろう。

 確かに幽霊話は怖かったが、私が思う幽霊と彼の姿がかけ離れていたお陰で、はっきり幽霊だと認識していなかった。蔵に閉じ込められた可哀想な人。それぐらいにしか思っていなかった。だから皆が口々に彼を否定するのがとても悔しかったし、悲しかった。子供らしくないと、本を読む事を理解して貰えないよりずっと。


 誰に何と言われても私は本家に来る度に、図書室へ通った。お年玉より素晴らしいものがそこには沢山あって、どうして他の子達がここに来ないのか不思議に思っていた。読み詰まると、必ず彼が後ろから読み方を教えてくれるので、電子辞書はいつの間にか使わなくなった。読み方さえ分かれば紙の辞書を引けばいいのだ。文字を追う事、もちろん私はそれを愛していたが、あの辞書独特の薄い紙をめくる感覚や、文字がびっしり詰まっている事に、圧倒されつつ読み終わる事のないだろうという安心感があった。

そうしてたった三日間の奇妙な交流は何年も何年も続いた。小学生から中学生へ、そして高校生まで。成長するに従って、彼について思う所はあったけれど、それを言ってしまえば彼と二度と会えないような気がした。それは彼も同じようで、読み方以外言葉を交わす事は殆ど無かった。


 一度だけ、言い付けを破って図書室より奥に入って見た事がある。足音を忍ばせ、長い長い薄暗い廊下を進んで行くと、ドアがあり、外に出た。さらに渡り廊下が続いて、その先に蔵があった。そして、その蔵には見たことのない程の大きな程の錠で施錠されていた。それは封印と言ってもいい。


 もし彼がここに住んでいたとしても、中から出る事は決して叶わないだろう。それに十年以上経っても変わらない容姿も、時たま差し込む光に透けて見える事も、彼が自分と同じ存在でない事を私に教えた。

 彼の存在を恐ろしく思う時もある。しかし出会った瞬間の方が余程恐ろしかったし、今更何が分かっても彼に対する姿勢が変わることは無かった。

 その博識さと、読み方を告げる声、彼の言葉を繰り返す時の満足そうな表情。それは私の知る誰も持っていない、彼しか持たない心地よいものだった。だから、寒く湿っぽいこの家の中で図書室にいる時だけは何処にいても感じる事のない居心地の良さがあった。


 十七歳になった年のお正月は、今までに増して本家の居心地が良くなかった。結局それが本家での最後のお正月となったのだが、昨年の夏から、祖母の具合があまり良くないという。正月にしか顔を出さない父親も、度々本家に呼び出されて色々と話を聞かされていた。

 私は直接聞かされてはいないが、父と母の口振りから、遺産の関係であるのは明らかだった。祖母というのは昔気質な人で、一度図書室に入り浸っている事を、女のくせにと言われてから苦手だった。それから新年の挨拶もそこそこに図書室へ逃げ込み、食事の時もなるべく遠くに座っていた。だから孫の中で私だけにお年玉がなくても、むしろ有り難くすら感じていた。

 誰も来ない図書室に、彼と二人きり。それだけで良かった。その時が永遠に続けばいいと私はいつも思っていた。たった一年に三日間の時間は、掛け替えのない時間だった。

 その年の正月、私が選んだ本は、濹東綺譚だった。その時初めて永井荷風の作品を読んだが、彼の粋で上品な文章は、女性らしい柔らかさもあって、荷風一流の生き様が文章の合間から浮かんできたのをよく覚えている。濹東綺譚を手に取ったとき、彼にしては珍しく驚いたようで、濹東綺譚か、と言った。


「君は手当たり次第に何でも読むのだな」

「手当たり次第でもないですよ。題名に惹かれて読むことが殆どで」

「昨年は鉱石図鑑だったが」

「鉱石は好きなんです」

「そうか。……濹東綺譚は私の好きな話だ」

「初めて聞いた」

「初めて言ったからな。だが、君でもそれは読むのに骨が折れるだろう。……私は嬉しいがね」

「嬉しい?」

「君は昔に比べれば読めない漢字も意味を知らない言葉も少なくなっただろう。成長は喜ばしいが、私の役目というものが無くなりそうでな」


 自分の顔が、彼の言うところの締まりのない表情へと変わっていくのを感じた。確かにそうなのだ。いつの間にか彼が私を、お前から君と呼ぶようになったのと同じように、いつの間に辞書を引かなくても読書が出来るようになった。それを、寂しいと彼は感じている。彼にしては直接的な物言いに感動すら覚えていた。――初めて、彼の心が動いたのを触れるように感じたのだ。そして、奇妙な事だが、同時に途方も無い寂しさがじわりと心に染みていった。

 彼は側にいても、遠い。何かを語ることはまれだ。お互い名乗った事もない。私だけ成長し、彼は何も変わらない。私の身体は日を遮るが、彼はヴェールのように柔らかく日を通す。同じ趣味を持っているのに、今まで深く語らったことはない。それはとても、寂しい事だと思った。いくら本を読んで、言葉を知っても、語らなければそれを生かす事は出来ない。私は自分達の遠さに寂しさを覚えた。それでも、緩んだ頬は締まる事はない。ほんの少しの寂しさはより、嬉しさを引き立てた。


「何が面白い」

「面白いというか、嬉しいというか」

「君が何故」

「だって、あなたがそんな事を言うなんて思わなかったから」


 嬉しいついでからかう様な視線を彼に注ぐ。しまったと、ようやく失態に気付いた彼は途端に不機嫌になるが、滅多に見られない瞬間なのだ。不機嫌な表情が浮かぶ顔の不健康な程の青白さや、鋭いと言えば聞こえがいいが、目付きの悪さと、それを何とか穏やかにしている眼鏡の縁の細さをしっかりと目に焼き付けておいた。

 私はしげしげと見た後に満足して、そのまま失礼な目を、開けたばかりの頁に落とした。しかし彼は嫌味も言わず、言えなかったのかもしれないが、何故かいつまでも私の肩のあたりを見つめていたようだった。

 彼にとっては失態だったかもしれないが、ほんの少しの感情の発露のお蔭で、その時から一年に三日間だけの誰も知らない、冷たい静謐な読書会に初めて温度が灯った。濹東綺譚での物語の始まりが、偶然だったように。

 そして同時に君とあなたと呼び合う私たちは、どこまでも対等な関係になった。私だけが与えられていた訳ではなく、彼も私から与えられていたのだ。彼は陳腐だと決して口にしない、一人では得られないものを。


 彼の言った通り、濹東綺譚は骨の折れる読書になった。断腸亭日乗より遥かに読みやすく、詳細な当時の街並みを歩き、同じ空気を吸っているような感覚は水の様に浸透していくが、道端の石につまずき、ここは冷たい図書室だと気づく。つまり文章の中に難解な部分が多いのだ。物語の好き嫌いとは別に、文章の馴染みやすさ、というものがあると私は思っている。

 永井荷風の生き生きとした描写はその時代を知らない私にとってピントを合わせづらかった。一度合ってしまえば鮮やかな程であるが、躓く度にピントを合わせ直す作業が必要になる。その所為でいつもより多めには後ろから何度も彼の声が降ってきて、濹東綺譚を読み進めるよりも、彼の解説を聞く方が多かった。

 それでも何とか頑張って読み進めてみたものの、文字の上に夕日が差し、そして影で覆われ始めるともう、図書室から帰らなければならない。強い西日に目を細めると、憂鬱さが圧し掛かってくる。電気もあるのだから出来ればここにいたいが、夕飯の皿を並べるぐらいしなければ、祖母だけではなく、この家に集まっている親戚の誰かに嫌味を言われてしまうだろう。

 だから夕飯の支度が始まる前に、読みかけの本と辞書を持って図書室を出る事に決めていた。木の折れるような音が歩くたびにするような廊下に出て、彼にありがとうございました、と礼をして、一人になるのが寂しい訳ではないだろうが、いっそう不機嫌に見える彼が頷くのを見てから、引き戸を閉める。それが私と彼の別れだった。

 まだ西日で明るい廊下を、音を立てながら台所まで歩き、図書室で拝借してきたものを脇に挟みながら、準備に追われる女性陣たちに紛れて皿を置いておく。取り皿は数種類あるし、箸やスプーンもある。そんなものを運んでお手伝いをしています、という顔をしていた。


 夕食の時間は一番苦痛だった。親戚達は陽気だが、少々無神経なところがある。出来るだけ目立たず会話に上らないようにするのは息苦しかった。そして祖母の具合が悪い今は、まだ救いだった陽気ささえも影を潜めている。図書室の寒さは、ただ熱がないだけだが、陽気さを失った彼らが纏う雰囲気はじっとりとした不愉快な冷たさがあった。

 滞在二日目は一日中図書室に篭れるのが嬉しい。一日目は新年明けましておめでとうございます、という事で早朝に自宅を出発して昼前に着くが、挨拶回りやらなんやらで昨日は午後からしか図書室にいられなかった。余談だが、いつも扉を開けると彼は必ずいる。日課なのか素知らぬ顔をして何かを読んでいた。

 昨日の続き、と栞を外し頁を捲る読書中、彼の姿が視界に入る事はない。新年二日目の喧騒はここには届かない。まだ午前の白い光が薄暗い図書室の、採光用の窓の下だけを照らし、そこに収まるように座る。窓枠に辞書を置き――日に焼けると彼は怒るけれど――椅子の上でひたすらに頁を捲る。ただ、やはり進みは遅い。いつもなら固い表紙の重さなど気にしないが、なんだか手首まで疲れてしまった。

ふう、と息を抜き、固まった肩を解す。小学生の時は言葉探しが楽しかったが、物語をさまよう楽しさを知った今は、つまずきが少ない方が良い物語に没頭すれば私の身体は消えて、他の誰か、もしくは誰でもない透明な存在になり、まるで夢を見ているようにその物語の時代や匂いを吸う事が出来る。――濹東綺譚は手強かった。


 だが、という事は、だ。私は頁から指を抜いた。という事は、彼の出番がない方が良いという事になってしまうのではないか。


 頁から指を離した私は文字の海から、物語の海から顔を出す。もし彼が必要なくなって、一人の、誰もいない図書室で読書をするのはどういう感じなのだろう。

 一人でも本は読める。読めない漢字はまた電子辞書を引けばいい。彼の側にいる意味はあるのだろうか。何故自分はここに通い続けるのだろう。

 おずおずと後ろを振り返ると、本棚に身体を預けるよう立っていたらしい彼も、こちらを見ていたのか視線が合った。彼は何も言わなかった。お互い物語の途中で息継ぎをした瞬間が合ったのだろう。その手にある本は薄暗くて、題名は分からない。

 何を読んでいるのかと尋ねれば、漱石の夢十夜という。何夜目が好きかと問えば意外な事に彼は、第一夜が好きと言った。私も好きです、と言えば、そうだろうな、とだけ返された。

 彼は再び文字の水面に飛び込んでしまった。私はその気にはなれず、先ほどまで考えていた、一人の図書室を想像する。寒さは変わらないだろうし、読みたいものも変わらないだろう。ただ、そこに彼が現れるとあるべきものがある、それで完成というか、パズルのピースが全て埋まったような気がした。そんな事を彼に言えば、どうせ私は絵の端にある欠片だろう、と言うかもしれない。しかし、どんなに端でも欠片が揃わなければ、絵は完成しない。そして、私にとって彼の存在は隅ではなく、絵の中央の欠片だ。私が全てを読みこなせても、彼はここにいるべき存在なのだ。


 お正月三が日の最終日、つまり三日目はもう帰らなくてはいけない。昼には自宅へと出るから、結局午前中の一、二時間程しか図書室にはいられなかった。

 濹東綺譚は読み終わらなかった。去年読んでいたのは鉱石辞典だったので最初から拾い読みのつもりだったが、読み終わらない時がほとんどで、そういう時は本を家に持って帰らせてもらっていた。だから帰りの鞄には一冊分の重さが加わる。前は家の人に一言断っていたが、あの図書室の価値を親戚たちは見出していないようで、私としては有難かったが、好きにしなさいと言ってくれているので、もう何も言わなかった。

 三日目はありがとうございましたの後に、また来年、と言葉を付け加えて図書室を出る。何故だか寂しいと思ったことはない。彼は絶対そこにいる。この家が無くならない限り、たとえ私が来られなくなっても、彼はそこにいる。子供にとって、家はそう簡単になくなるものではなく、ずっとあるものだった。だから、妙な安心感があったのだろう。

 いくら嫌と言っても、家の主人に挨拶もしないで帰るのは失礼だと言う両親に連れられ祖母に挨拶してこの古ぼけた家を出る。その年も渋々両親の後ろに付いて、祖母の部屋に出向いた。私は一言も話さず、両親が頭を下げるタイミングで頭を下げるだけだ。

 しかしこの年は少し変わった事があった。決して今まで私に目すら向けようともしなかった祖母が、手招きをしたのだ。戸惑いながらも近寄れば、皆がどうして祖母が危ないと言っているのか分からない程、弱々しさの欠片もなかった。

 また嫌味でも言われるのかと思っていたら、何も言われず、ただ封筒を渡された。ずっしりと重く、分厚いそれは、紙束と何かごつごつとしたものが入っているようだった。開けてご覧、と言われ開けてみれば、高校生には不相応な札束と鍵が入っていた。

 私はその札束に呆然とし、少し離れた所で見ていた両親、特に父親はこんなの、と慌てたが、祖母は、アンタにこの家で一番価値のあるもんを預けよう、それは手間賃だ、とからから笑うだけだった。

 押し問答の末、祖母は頑なに譲らず、結局札束も鍵も受け取る羽目になった。鍵というのは随分大きく、錆びているから持っていると鉄の匂いがした。札束が幾らだったのか、確かめる前に両親が私から取り上げてしまったから分からない。ただ、両親が面倒な事になった、と言って、本家の長男である正史おじさんと話をする為に出発が一時間遅れた。

 父親達が話している間、私はどうして自分を嫌っている祖母が大金を渡したのか、そして一緒に入っていた鍵はどこの鍵なのかを確かめる為、祖母の部屋に向かった。

 祖母の部屋は日当たりが良く、湿っぽく甘ったるい腐った木の匂いがあまりしなかった。もし祖母を好いていたら、ここに入り浸っていたかもしれない。


 どうやって呼びかけよう、襖の前で私は立ち止まる。他の親戚の子達は、ばあちゃんと呼んでいるが、そんな気安い仲ではない。逡巡して、大して変わりないがおばあさん、と呼ぶ事にした。


 名乗ってから、おばあさん、と呼ぶと、歳にしては張りのある声が返ってきた。おずおずと襖を開けると、祖母はまるで私の来訪を知っていたように、正座してこちらを見ていた。

 座りなさい、と祖母の前に座るよう言われ、嫌だったが、同じように正座をして座った。あの封筒の事か、と可笑しそうに笑いながら祖母が言う。私は頷くしか出来なかった。昔から困ってしまった時や、苦手な人と話す時、どうしても口下手になってしまう。話すのも嫌だが、自分の反応によって相手に困惑や嫌いなのがばれてしまうのがもっと嫌だった。口下手や人見知りなのだと思われた方がお互いに良い様な気がする。祖母は何がおかしいのかひとしきり笑い、さっき言っただろうに、と今度はつまらなそうに言った。


「あれは、蔵の鍵だよ。アンタも知ってるだろう?図書室の奥にある。あそこにウチの財産全部置いてあるんだ」

「そんなもの、簡単に渡すなんて」

「そんな事分かってるさ。だから、預けるんだよ。アンタは嫌な人間から金を貰うより、本を読んでる方が好きな子だ。それに、家も遠いからそうしょっちゅうは来られない。預けておくのに丁度良い。そんなに持っているのが嫌なら私が死んだ後に、処分してしまえばいい」

「でも、」

「うるさい子だねぇ。……最近になってよく隆史が帰ってくる、って言えばいいかい?」

「隆史兄さんが?」

「そうだ。そこまで言えばアンタも分かるだろう」


 ぐっと言葉に詰まる。隆史兄さんとは、正史おじさんの一人息子で、私とは従兄弟にあたる。昔は優しくよく遊んで貰っていたが、成長するにつれ、いつも不機嫌で苛ついている、というイメージに変わっていった。何が彼をそうさせたのか分からないが、昔の隆史兄さんはもう何処にもいない。

 確かに祖母が財産の心配をするのは仕方のない事だった。数年前の正月、詳しく教えてもらってないが、酒に酔った隆史兄さんが祖母の部屋で大暴れした事があった。私は奥の部屋にいなさいと母に連れられたので詳しい事は分からないが、親戚達が集まって取り押さえ、それ以降、隆史兄さんの姿を見なくなった。そのまま家出をしたと言うが、何処に行って、何をしていているのかは知らない

 その隆史兄さんが帰ってくるという。もう二十五、六になっているのだろうか。祖母は、諦めているのか相変わらずつまらなそうな顔をしていた。


「隆史がああなった責任は私にもある。あの子に大金を渡してしまったら今度こそあの子は終わるよ。長くは生きられないから、出来る事なんてこれしかないんだ」


 この時、祖母は嘘を付いていた。それは隆史兄さんを思っての事でもあり、私を蔑ろにし続けた彼女がプライドを捨てた瞬間でもあった。

 彼女の嘘について分かったのは全てが終わった後だったが、もし、隆史兄さんはお金目当てに動く人間ではないと、この時少しでも思えていれば嘘を見抜けたかもしれない。私の記憶には優しい姿が殆どなのに、ここ最近の印象が強く、さもありなんと思ってしまったのだ。

 祖母にとって私に鍵を託すという決心はどれだけの事だったのか、今考えても想像が付かない。その時、この家において蔵の鍵というのは、家を継ぐ人間に渡される大切なものだと私は知らなかった。これを預かるという意味がどれだけ重いか、分からずに受け取ってしまったのだ。故意に何も説明しない事は、やはり捨てきれなかったプライドか、そこまでが自分の許せる譲歩だったのかは分からない。

 ただ、祖母は昔気質の人間だったが、決して浅慮という訳ではない。私に本当の理由を言わず、鍵を預ける事は彼女の自身の為でもあっただろうが、それだけでなく、私への優しさでもあった筈だ。この家の呪いを、私に背負わせないように。

 彼女の中には優しさと、それを表す方法が人より少なかった。それも長い人生の中ですり減らされてしまったのだろう。


 もし祖母と父の仲が良ければ、物事の道筋は大きく変わった筈だ。祖母も嘘など吐かず、はっきりと彼女の思うままを父に言っただろうし、それを受け入れるかは別だが、選択肢は大きく広がった。そうしたら、私は今持っているものを幾つか引き換えに、図書室を、彼を守る事が出来たのかもしれないが、それはあり得ない未来だ。

 とにかくそれが、その年の始まりだった。波乱万丈とは大袈裟かもしれないが、非日常的な事が起きると立て続けに色々な事が付随してやってくる。二度あることは三度ある、そういう事だ。あの年は彼にもう一度会う事が出来た。その季節は少し先の夏の事で、一生忘れる事が出来ない二週間はここから始まっていたのだ。


 両親は蔵の鍵と大金を何処かに預けたらしい。お金と蔵の鍵の件を父が正史おじさんに言ったとき、むしろ受け取ってくれ、と言われたらしい。母はとても不満だったそうだが――父方の家の事というのも相まって――父がここは堪えてくれと随分頼み込んでいた。

 蔵の鍵を預かる事は、避けていた遺産の問題に首を突っ込む事になってしまうので、父は相当悩んだのではないか。正月にしか顔を出さなかったのも、その問題から逃げる為だった。しかし隆史兄さんの事を考えると、という事だろう。隆史兄さんが暴れた時、祖母は幸いにも怪我をしなかった。ただあの件で何を仕出かすか分からない存在になった隆史兄さんは、最早可愛い子供でも、甥っ子でも孫でもない。本家の人にとって、今は私たち家族にとってもだが、酷く厄介な恐ろしい存在になっていた。

 とは言うものの、離れて暮らす私たちは日に日にその恐怖も薄れてきて、春が過ぎた頃にはすっかり蔵の鍵も大金の事も忘れてしまっていた。祖母はまだ元気なようで、本家からの連絡は一切来ない。

 私はその頃、濹東綺譚を読み終わらせ、二度目の読み直しをしていた。二度目になると最初はつまずいた言葉もなくなり、物語の世界へ没頭する事が出来る。

 濹東綺譚を一言で表すとするなら、川だと私は思う。清濁併せ持つ男女が、ふとしたきっかけで一緒になり、やがて分かれていく。それが濁る事無く美しいのは、緩やかに、しかし絶えずに流れているからだ。男女の仲を醜悪に書くのは簡単だが、ここまで澄んだように書けるのは、永井荷風その人がそのように生き、それを表現できる文豪だったからだろう。

 年齢的にこの本は私にとって早いし、真に理解するのは難しい。思うところもあるが、私はこの本を好きだと思う。そしてこの本を好きだと言った彼が何について感動し、好みだと言ったのか知りたかった。あの日宿った図書室の温度はまだ冷めていない。私と彼の数少ない接点をより深いもの、確かなものへと変えたかった。まだ遠い冬を、待つだけしか出来ない私はただもどかしかった。


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