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風邪の床にて

作者: 那由多

 どういうわけか、朝からその日は気分が優れなかった。ほんの些細な事で、社内でも一番仲の良かった後輩の亜由美と大喧嘩した。彼女の目からは涙が溢れていた。彼女は何も言わずに、僕の前から走り去った。

 その後、一日中僕は気分が悪かった。頭も何となく重くて、体も何となくだるかった。


夕方、自分のアパートに帰ってきた僕は疲労感でいっぱいだった。頭も重いし、体もだるい。呼吸するのも何だかしんどい。ちょっと寒くて、そのくせ妙に汗をかいていた。喧嘩して疲れたせいだと思っていた。気分も相変わらず悪い。

 風呂に入って疲れを取ろうと思った。最近はすっかり寒くなってきたから、温かい湯船に体を浸すのはたまらなく気持ちが良い。

 良い筈だったのだけど、その日は何だか余計に体が重くなったような気がした。いつもより短めで風呂を切り上げ、ともかくも風呂場から出る。いつもなら暑くてたまらないはずが、風呂場から出たとたん体に振るえがはしった。

 嫌な予感が頭を掠める。

 気持ちが昂っていたから気付かなかった。判断力は最早皆無に近い状態だったのだろう。自分の体調も見抜くことが出来ないなんて。

 引き出しから体温計を引っ張り出して脇に挟む。アラームを待つまでもなかった。首を捻って見つめる液晶の体温表示がどんどん上がっていく。


 結局、三十八度二分で止まった。風邪に違いない。

 風呂に入るんじゃなかったと、今更後悔が押し寄せてきた。これはまだ序の口の前哨戦。長い経験から行くと、明日からが本当の戦いになることだろう。

 念のため、枕元に体温計と水の入ったペットボトルを置いて、僕は布団にもぐりこんだ。


 妙にリアルでカラフルな悪夢を見た。

翌朝。最悪の状態で目が覚めた。

 体は鉄の塊のように重い。手足の指先は、氷付けにでもなったかのように冷たい。天井はぐるぐる回るし、なんとも言えず息苦しい。体を丸めて目を閉じる。ちょっとでも気を緩めると、意識がどこかへ飛んでいきそうだった。

 熱はどれぐらいあるんだろう。枕元においておいた体温計を布団の中に引っ張り込んで脇に挟む。その冷たさは尋常ではなかった。どうやら、相当熱はあるみたいだ。

 一人暮らしで寝込むというのは本当に辛い。何しろ、家には自分以外誰もいないのだ。今、このままぽっくり行ったとして、発見されるのは何時になるやら。多分、隣人が異臭に気付いてからだから、腐るんだろうな。凄い匂いがするに違いない。考えただけで気分が悪くなった。

 電子音が鳴った。体温計を引っ張り出してみると、九度三分まで熱は上がっていた。恐るべし、お風呂効果。でも、確かに風呂に入るとマラソンをしたときと同じぐらい体は疲れると聞いたことがある。風邪を引いた状態でマラソン。なるほど、悪化するわけだ。

 とりあえず、会社に電話だけ入れて、僕は再び布団の中に潜り込んだ。寒くてたまらなかったけど、やがて僕の意識は再び眠りの世界へと落ちていった。

 夢を見た。

僕は正義の使者で、日夜悪と戦っていた。世界を守ることが出来るのは僕だけ。襲い来る悪を退け、卑劣な作戦を暴く。当然僕は狙われる日々。安息はなかなかやってこない。そんな僕をサポートしてくれる仲間達。ピンチのときには駆けつけてくれる。その中で生まれる一片のロマンス。彼女のためになら、命も投げ出せる。

彼女が悪の組織に捕まった。僕は無我夢中で飛び出す。許さぬ。僕の大事な人にまで手を伸ばすとは。

頑張れ、お前ならやれる。俺達もサポートするから、ピンチになったら呼んでくれ。彼女を頼むぜ。仲間達の熱い言葉。力強く僕は頷く。

今こそ、本当の力を解放するときが来た。待っていて亜由美、今助けに行く。


というところで目が覚めた。薄暗い部屋の中、静かに時計の秒針だけがコチコチと小さな音と共に時を刻んでいる。仲間も、ロマンスも、敵も、何もない。亜由美もここにはいない。全ては夢だったと知る。細く開いたカーテンの隙間から見える空が無駄に青くて、自分が今果てしなく孤独だと知って、何だか涙が出た。

自分が自由に動けない。それだけで心はどんどん暗くなる。そんな気持ちの弱さも手伝って、妄想はどんどんマイナス方向に傾いていく。どうしよう、このまま二度と起き上がれなかったら。風邪なんかじゃなくて、もっと酷い病気だったら。誰にも気付かれないままで死ぬのかな。誰が悲しんでくれるんだろう。亜由美は悲しんでくれるだろうか。

ふと時計を見ると、お昼を回っていた。今頃、多分昼飯を食べているんだろうな。それから、いつもだったら応接室でこっそり昼寝かな。僕が休んでいること、どう思っているんだろう。

携帯電話にメールは届いていない。やっぱり怒ってるのかな、昨日のこと。喧嘩なんてしなけりゃ良かった。両面コピーの余白なんかで怒らなきゃ良かったんだ。

売り言葉に買い言葉。普段い言いたいことを言い合っているだけに、自制が効かなくなっていた。やばい、と思っていたときには亜由美の目に涙が浮かんでた。

嫌われたかなぁ。休んでいるのをいい気味って思っていたら嫌だな。せっかく仲良くしてきたんだし、仲直りしたいな。謝ったら許してくれるかな。


重たい体を無理矢理起こして、水を一口飲んだ。お腹は減っていたけど、何も食べたくなかった。少しだけあいていたカーテンをきちんと閉めて、空が見えないようにした。それから僕はもう一度布団に潜り込んだ。食欲がないのはやばいな。

ああ、死にたくないな。

そう思いながら、僕は目を閉じた。


夢の中で、僕は荒れ果てた荒野を独りで歩いていた。仲間も、恋人もいない。杖を頼りにひたすら歩き続けていた。疲労は限界。今にも倒れそうなおぼつかない足取り。行く先に一輪のつぼみ。僕はそれに駆け寄った。つぼみが目の前でゆっくりと開く。中には携帯電話が入っていた。携帯電話が鳴っていた。僕はそれを取った。

「もしもし……」

「あ、やっと出た」

 亜由美だった。

「へ……」

「もしもし?起きてますか?生きてますか?」

「……うん」

 間抜けな声だった。意識が、急激に浮かび上がった。本当の電話だ。僕は携帯電話を目の前に持ってきた。暗くなった部屋の中で、携帯電話のディスプレイだけが光っていた。通話中の名前は「亜由美」。

「もしもし、もしもし!?もう、寝ぼけてるなら切りますよ」

「あ、ごめん」

「もう、具合はどうですか?」

「大分、酷いかな……」

「やっぱり」

 亜由美の呆れたような声。謝らなくちゃ。僕の頭にひらめいた。

「昨日、ごめん」

「あ、ああ。うん。良いです。あの後考えたんですけど、調子悪かったんでしょ?つい売り言葉に買い言葉だったけど、あのときの先輩、後から考えたら変だったもの」

「え……」

「私もちょっと言いすぎて、止めたいのに止まらなくなって、そしたらなんか泣いちゃって。私もごめんなさい」

 そうだったのか。そんな事、ちっとも気付かなかった。

「本当は昼間にお電話したかったんですけど、ちょっと忙しくて。定時に帰ろうと思ったら、どうしても昼休みに仕事するしかなくて」

「え……?」

「先輩、多分本気で寝込んでると思ったから」

「何で?」

「昨日、風邪引いてるって自分でも気付いてないみたいだったし、そしたら疲れたからって風呂に入って、おまけに湯船に浸かっちゃったりなんかして、んで拗らせてるんじゃないかなって」

「凄いな……」

「ま、長い間後輩してますから」

 亜由美はそう言って電話の向こうでからからと笑った。さっぱりした優しい子なのだ。

「今から行きますね。何か欲しいものありますか?」

「え……あ、果物……かな」

「りょうかーい。じゃ、一時間ほどで行きますから、死なないでくださいねぇ」

 電話が切れる。

 暗闇の中で、その電話の通話履歴を見る。

 亜由美の名前が一番上にあって、僕の空耳やうわ言じゃなかったことが証明された。

 一人じゃない。それだけで、たまらなく嬉しかった。

 嬉しくて、何だか涙か出た。


 きっかり一時間後。玄関のチャイムが鳴った。


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