第四話 星の再生
「……ごめんね、ちぃちゃん。迷惑かけて」
「ううん、困った時はお互い様だよ」
「で、でも! 急にお泊まりなんて……やっぱり非常識だよね……?!」
私は今、ちぃちゃんの家にいる。人生初の家出を経験した私は、どうしようもない不安に駆られていた。
「優しいんだね、唯ちゃん」
そんな私の背中をちぃちゃんが撫でる。ちぃちゃんのベッドの上で膝を抱えていた私は、ちぃちゃんのその優しさに涙が出そうになって――ちぃちゃんの言っていることに共感できなかった。
「どうしてそう思うの……?」
「いつもそうだよ。今だって、お父さんのことで大変なのに……そんなこと気にしてるんだもん」
「そんなことないよ……!」
だって、私はちぃちゃんを傷つけた。ちぃちゃんは否定したけど、私がそう思っている限りそうだと思うから――優しいなんてあり得ない。
「ううん。私が出会った人の中で……世界で一番優しい人」
「ちぃちゃーん!」
けれど、ちぃちゃんは聖母のような心で私のことを肯定した。私はちぃちゃんに抱きついて、なんの躊躇いもなくぼろぼろと涙を流す。
「よしよし、辛かったね」
「うん、うん……辛かったぁ!」
「大丈夫だよ。だってここには私がいるんだもん。今お風呂沸いてるし、入って来てもいいんだよ?」
「……うんっ、そうする。今度親御さんにお礼の品を……!」
「律儀だねぇ、唯ちゃん」
「いやいやいやいや!」
「あ、パジャマは私の使っていいよ。サイズはきっと、ぴったりなんじゃないかな?」
「うんっ!」
なんでもかんでも気遣って、優しくしてくれるいい子のちぃちゃん。渡されたパジャマを受け取ると、ちぃちゃんのいい匂いがする。
こんな形でお泊まりするとは思わなかったけれど、彼女は私にとって一番の親友なのだと実感した。
*
「お風呂ありがとー」
ちぃちゃんの部屋に入ると、彼女はスマホをいじっていた。私が入ってきても顔を上げず、ゲームでもしているのか画面に夢中になっている。
「あ、おかえり」
「なんか珍しい。ちぃちゃんがスマホ使ってるなんて」
「そうかな?」
「うん。あんま見たことない」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ」
「もう。唯ちゃんどうしてそんなに突っ込んで聞いてくるの? そんなに珍しくないからね」
「えぇ〜……」
あまりにもしつこいと思ったのか、ちぃちゃんは不満そうな表情で反論する。私はこれ以上ちぃちゃんを怒らせないように引き下がったけれど、次の瞬間のちぃちゃんはけろっとしていた。
……なんなんだ? 今日のちぃちゃんは情緒不安定だなぁ。
「じゃ、そろそろ寝よっか」
「ああああ! お布団まで用意してもらって……!」
「いいっていいって」
「何から何まで本当にありがとう〜!」
電気を消すと、私は布団に。ちぃちゃんはベッドの中に入る。当然互いの顔は見えず、静かな時が流れ始めた。
「ちぃちゃん、起きてる?」
「うん?」
……今なら、聞けるかな。
「あのさ、ちぃちゃんの初恋って……その……」
「……うん、赤星くんだよ」
「だ、だよね。で、でも、終わったって……?」
「今は別の人が気になってて……」
ちぃちゃんは、それ以上何も言わなかった。聞いちゃいけなかったかな? そう思ったけれど、小さな寝息がそれを否定していた。
私も目を閉じ、眠ろうとする。けれどなかなか寝つけなくて、深い眠りにつくちぃちゃんを羨んだ。
赤星よりも気になる人って誰だろう。あの時、あんなに恥ずかしそうに告げてくれたのに。
それに、赤星は運動もできるし、勉強も悪くないし……顔も悪くないし。あいつよりも気になる奴って、どれくらいハードルの高い相手に恋をしてしまったんだ?
気づけば白い靄が蔓延している場所を歩いていた。何故かすべてがぼやけて見える。すると突然、視界の隅に赤い何かが現れた。
『……赤星』
それは、彼の赤い髪だった。
『久しぶり、橙乃』
『……なんの用?』
相変わらず赤星を前にすると態度が冷たくなる。赤星もそれに気づいているのか悲しそうな笑みを浮かべていた。
背景はぼやけて見えるのに、どうして彼の表情だけこんなに鮮明に見えるのだろう。
『どうしてそんな態度をするんだよ』
その声も、鮮明だった。
『……ッ! し、知らないっ!』
『橙乃は紺野と仲直りしたんだろ? なのになんで未だに俺に冷たく接するんだよ』
『そ、それは……』
確かに赤星の言う通りだ。私が赤星に冷たく接していた理由は、ちぃちゃん。ちぃちゃんが赤星のことを好きだと知っていたからだ。
だけど、それはもう過去の話。ちぃちゃんの話が本当なら、私が赤星に冷たく接する理由にはならない。……私、いつまで経っても素直になれないだけなんだ。
『もう自分を許したら?』
『はぁ?! どうして赤星にそんなこと言われなくちゃいけないの!』
核心を突かれたような気がして逆ギレしてひまう。なのに、赤星は未だに悲しそうに微笑んでいた。
*
目を覚ますと、見慣れない天井が視界に入った。寝惚けている頭を働かせ、昨日のことを思い出す。
「おはよう」
見ると、扉付近にちぃちゃんが立っていた。
「……おはよう、ちぃちゃん」
そうだ。私、家出したんだった。
「今日は学校が休みだから、家に帰ってみたら?」
「でも、お父さんにどんな顔で会えばいいのか……」
「少なくとも、作った顔で会うのは意味ないと思うな」
「…………」
ちぃちゃんの言っていることは難しい。ありのままの表情で会ったらお父さんを傷つけてしまいそうな気がする。
「とりあえず、朝ごはん用意してあるから食べよう?」
「……うん」
階段を下りている途中でちぃちゃんに尋ねる。
「……ねぇ、ちぃちゃん。私、お父さんと……やり直せるかな」
「できるよ。だって、私とやり直せたじゃない」
振り返ったちぃちゃんは、前髪に隠れた瞳をキラキラと輝かせていた。
「それに、お父さんだってやり直したくて帰ってきたんじゃないのかな?」
「……ちぃちゃん、ありがと。私、頑張る」
「うんっ! 頑張れ!」
「ちぃちゃん、大好き〜!」
背後からちぃちゃんを抱き締める。ちぃちゃんは声に出して笑っていたけれど、私はそんなちぃちゃんを今日になるまで知らなかった。
*
「お世話になりました!」
午前。朝食をご馳走してもらった私はちぃちゃん一家に頭を下げる。私を見送りに家の前まで来てくれたちぃちゃん一家は、ご両親お姉さん含めてみんな温かくて優しかった。
嫌な顔一つせず、私が嫌がりそうなことは一切聞かず、温かく包み込むような家庭で育ったちぃちゃんが羨ましい。けれど、そんな家庭で育ったちぃちゃんが好き。
「いいのいいの、またいつでも来てね! あ、でも、今度は家出じゃなくてだよ?」
「いいじゃんいいじゃん、時には喧嘩も必要だよ」
「こがめちゃん、そんなこと言わないの」
「うちは滅多に喧嘩しないからなぁ。羨ましいなぁ」
「ちょっと、お父さんまで……」
「もう! みんな余計なこと言わないでよ〜!」
ちぃちゃん一家は仲がいい。うちも、いつかそうなれるだろうか。
「また来ます!」
心配かけさせないように、精一杯。元気いっぱいで答えて伝える。私はもう、大丈夫だと。
その時、ちぃちゃんが持っていたスマホに視線を落とした。
「あ、じゃあ。ありがとうございました!」
いつまでもここにいたら迷惑だよね。そう思って去ろうとすると、こがめさんに怒られたちぃちゃんが私を呼び止める。
「ゆ、唯ちゃん! ちょっと待って!」
「え?」
駆け寄ってきたちぃちゃんは、スマホをぎゅっと握り締めていた。
「ち、ちぃちゃん? どうしたの?」
「やり直せると良いね」
「へっ? ど、どうしたの急に……」
「お父さんとも、彼とも」
ちぃちゃんは軽く片手を上げる。その手に握られたスマホが光り、私はあの時の赤星を思い出した。
「彼って……」
「いずれわかるんじゃないかな?」
ちぃちゃんにしては珍しく、何か企んだような顔。私はその顔をまじまじと見つめ、ちぃちゃんに背中を押されてしまった。
私の家は、ちぃちゃん家の近所にある。お母さんにはちぃちゃんのお母さんが連絡をしてくれていたらしく、あっという間に家に着いた私は謝ることだけを考えて扉を開いた。
「た、ただいま」
玄関で呟くように声をかけると、お母さんとお父さんが顔を出してきた。
「おかえり、唯」
眉を下げて迎え入れてくれたお母さんと
「…………唯」
申し訳なさそうな表情のお父さん。
「お父さん、昨日は……その……ごめん」
「いや、お父さんこそ……悪かったよ」
「うふふっ、お互い様ね」
その時、お母さんがようやく笑ってくれたような気がした。私も、お父さんも、お母さんの笑顔が見れたことが嬉しくて思わず笑みを零す。
「二人とも、今まで迷惑をかけたね」
「別にいいのよ? 気にしなくても」
「お母さん甘過ぎ」
「そうだな。お母さんは今までずっと苦労してきただろうから」
しばらく親子で話し合った後、私は私服に着替える為に自室に戻る。ついでに荷物整理をしていたら、新しいメッセージが来ていることに気がついた。
「赤星……!」
『今東京に戻ってるんだけど、あの日の返事を今日聞くことってアリ?』
『アリだったら音葉公園に来て! 橙乃が来るまで気長に待ってる!』
『あ、あとお父さんのこと頑張って!』
何もかもわかっているような口調。そんな赤星はいつも狡い。
「ッ! もうっ!」
家を飛び出して、東雲の近くにある音葉公園を目指す。
「はぁっ! はぁっ……!」
どうしてここまで必死になって走っているんだろう。脳裏を過ぎったのは、やっぱり今朝の夢だった。
「なんで……! 何これ正夢……?!」
にしてもこれはおかしすぎる。だって、私は正夢なんか信じない。そんなの絶対にあり得ない。でも、運命ってものを嫌でも感じてしまうのだ。
「って、私リアリストなんだけどなぁ……!」
苦笑しながらも足を動かした。だって、このまま走ればもうすぐそこに――
「…………」
――赤星がいる。
「ッ! あっ、赤星ぃ!」
一瞬驚いて、一瞬笑った赤星の表情。私はそれを、多分一生忘れない。