第五話 勝者、恋して
控え室から出た直後、タイミングよくスマホが震えた。歩幅を緩め、私を追い越す仲間を見送りながら電話に出る。
「もしもし?」
『あ、もしもし沙織ちゃん?! 急にごめん、俺だけど!』
やけに懐かしく聞こえるその声は、秋雪君の落ち着いた声で。今は焦るように言葉を私に伝えようとしてくれていた。
「秋雪君! ねぇ、見てた?!」
『もちろん! ちゃんと見てたから――』
そのしっかりとした声に安心した。
完全に足を止めた私は自然と笑顔になるのを知りながら、改めて喜びを噛み締める。
『――優勝おめでとうっ!』
「ありがとう、秋雪君」
それ以外の言葉が出なかった。今はただ、純粋に「ありがとう」を秋雪君に言いたかった。
『やっと呼んでくれたね』
ほっとした笑い声の後、柔らかく微笑む姿が想像できる。私の中の秋雪君は、いつだって心優しい男の子だった。
「……呼んでくれた?」
『あっ、いや! その……』
慌てている秋雪君の姿も簡単に想像できる。秋雪君の言葉を待っている間の、耳元から聞こえてくる秋雪君の息遣いが擽ったかった。
『……名前』
恥ずかしそうに秋雪君が声を漏らす。秋雪君に言われるまで、私は全然気づかなかった。口元を手で覆って、頬が熱くなるのを感じる。
「…………あ、うん。そうだね……うん」
じっとしていると落ち着かなくて、私は道なんて考えずに歩き出した。歩いて歩いて歩きながら、秋雪君の声だけを聞いた。
『そういえば、今どこにいるんですか?』
「えっ?」
秋雪君に言われて足を止めた。恐る恐る辺りを見回して、秋雪君には見えないはずなのに首を傾げる。
「……どこ、だろ?」
『えっ?!』
秋雪君の声が大きくて、私は思わず耳元からスマホを離した。
『それって迷子?! さっ、沙織ちゃん大丈夫?!』
離していてもよく聞こえる秋雪君の声を聞いて、私はようやく実感した。
「迷子になっちゃった……」
『えぇっ?! 一応会場内にいるんだよね?!』
「それは……もちろん! 会場からは出てないよ!」
スマホを耳元に寄せると、秋雪君は安堵した声を漏らした。私はその声に背中を押され、必死に辺りを見回して自分の居場所を確認する。
「うん、大丈夫。大丈夫、大丈夫……」
『全然大丈夫そうに聞こえないから!』
「……大丈夫だって! だってまだ会場の中だし! 誰かに聞いたり……案内板だってあるはずだし!」
ただの長い廊下に人も案内板もなかったけれど、私は落ち着きを取り戻していた。電話越しだけど近くに秋雪君がいるような気がして、それだけで安心できる。
『でも……』
「秋雪君はどこにいるの? 私、そっちに行くからさ」
すると、秋雪君が何故か黙った。その沈黙が怖かった。
『俺が沙織ちゃんのところに行くから!』
「え?」
『決勝戦の後で疲れてるはずだし、俺が必ず沙織ちゃんを迎えに行くから!』
はっきりと聞こえてきた秋雪君の声。私は視線を上に移して、前に秋雪君に言われた台詞を思い出した。
目頭が熱いことに気づく。泣きそうになったら上を向く、秋雪君曰くそれが私のクセらしかった。
「じゃあ……お言葉に甘えて待ってるね」
待っているのは嫌なタイプなんだけれど、今は待ってもいい――待ちたいと思った。
『うん! 待って! すぐに行くから!』
電話は切らなかった。今日は珍しく秋雪君がかっこ良くて、とても不思議な感じがする。それと同時に頼もしく思えた。
弟みたいだった秋雪君が、私の居場所なんてわからないのに走り回っている。それが電話を通じてよくわかる。それでも息を切らさないのは、さすが成清の男バス部員というかなんというか。壁際に座り込んだ私は、気づけば笑みを零していた。
「あ、そういえば秋雪君」
『えっ、何?!』
びくっとした反応が返ってきた。私は微笑みから苦笑に表情を変えてこう尋ねる。
「……三決、どっちが勝ったの?」
聞きたいような、聞きたくないような。矛盾していて、気にもなって落ち着かない。
『……常花だよ』
それでも、結果を秋雪君の口から聞けて良かった。
「常花かぁ」
同じ〝四天王〟だった千恵がいる常花は、準決勝で私たちが勝った相手でもあったからほっとした。貝夏は泣いたのかな、なんてちょっと意地悪なことを考える。
『あ』
すると、秋雪君が声を漏らして足を止めた。そして歩き出し、同時に廊下の奥からそんな足音が聞こえてくる。そっちを向くと、そこにはスマホを片手に持った私服姿の秋雪君がいた。
「……秋雪君!」
汗ばむ手からスマホを落とす。慌てて拾って、駆け寄ってくる秋雪君のことを知りながら立ち上がった。
瞬間に体全体が火照る。私服姿の秋雪君とは違う、部活のジャージ姿をした自分が恥ずかしかった。試合後ということもあって、汗臭くないのかとかすごくすごく気になって。そしてこんな時に限って思い出す感情――。
「遅くなってごめん! 不安だった?! どんだけ待った?!」
〝見つかって良かった〟とは決して言わず、私のことを心配してばかりの秋雪君は――小学校の頃とは当然だけど全然違う。
「私こそ、迷子になった上に探してもらってごめんね」
顔を上げた秋雪君は、ずっと頭を下げていたせいかさらに大きく見えた。
「いや、俺がちゃんとしてなかったのが原因だから! 本当に!」
秋雪君はもう一回だけ頭を下げて
「沙織ちゃんがまた迷子になったら、俺が何度でも探すから」
そうして笑った。
泣きそうな顔で何度も何度も私のことを心配して、不意にそうやって笑うんだ。秋雪君はそんな優しい人だから、本当に不意打ちすぎて心臓に悪い。これを言うとまた心配させそうだから絶対に言わないけれど。
「戻ろ? 多分他の人たち心配してるし」
「うん。来た道は覚えてるよね?」
「もちろん! 沙織ちゃん、俺別にそこまでポンコツじゃないから!」
ちょっと心外そうな表情で秋雪君が頬を膨らます。かと思えば、「あ、そういえば――」と思い出したように足を止めた。
「――改めて、優勝おめでとうございます」
「あははっ、何度もありがとう」
「あっ、ごめん! しつこかった?! そんなつもりはなかったんだけど……!」
あぁ、また困ったような表情をしている。どうしようかと戸惑っていると、それは案外すぐに終わりを見せて
「……でも、何度でも言いたいから」
しゅんっと秋雪君が視線を落とした。
「あ、ありがとう」
また負けた。私はやっぱり秋雪君のそんなところにとっても弱い。
秋雪君は照れたようにはにかんで足を止めた。よく見ると、廊下の奥の方が開けていて――帰ろうとする人が大勢その場に集っている。
「……あのさ」
足を止めたことに意味はあったらしく、秋雪君は視線をさ迷わせてもう一度私を見据えた。
「ん?」
未だにジャージ姿なのが恥ずかしい。早くみんなと合流して恥ずかしさを紛らわしたいのに。
「少しだけ、俺に時間をくれる?」
「え? ……うん、いいよ」
改まってどうしたんだろう。前置きするほどのことをこれからするのかな。
「――俺、沙織ちゃんのこと好きなんだよね」
前置きするほどのことが、今私たちの身に起こっていた。息を吸い込む。体の芯から熱が溢れてくるのがわかる。
試合では考えられない、試合とはまったく違った熱に酔う。
『私が好きになった人は一人しかいないから』
その一人は、随分と前から私の心にいた。それは、今私の目の前で頬を赤らめている秋雪君だ。
「……鈍感……」
なんで気づかないかなぁ。私も秋雪君も、互いになんらかのサインは出していたはずなのに。言われるまで二人ともまったく気づかないなんて。
「…………え?」
秋雪君は私の呟きが聞こえなかったようで、慌てた表情でハテナマークを飛ばしてくる。
「――私も好きだよ」
いつも、いつの間にか、気づいたら――貴方が好きだった。
「……ッ!」
「私とつき合ってください」
言わなきゃ何も始まらない。だから、この一歩は私が口にした。私の返事に表情を緩める秋雪君は、「俺の台詞盗らないでよ」と言いながらも笑っている。
「二人とも、ここにいたのかよー」
「うわっ?!」
「……ッ!」
見ると、開けた場所から琴梨が私たちのことを呼んでいた。
「電話しても繋がんないから、何してんのかと思えば……。こんなとこでいちゃつくな」
「えっ、ごめん! 東藤さん、痛いからそんなに叩かないで……!」
秋雪君との通話を切ると、琴梨や葉月からの着信が大量に来ていた。
「心配してくれてありがと。今行くね」
葉月は「心配してないし」と照れて琴梨と先に行ってしまう。私を見た秋雪君ははにかんで、私も彼に微笑みを返した。
――貴方に出逢えて、本当に良かった。