第二話 思い出の一つ
目が、合って。私はもちろん、窪田君も視線を逸らさなかった。
「あれ、女バスの子?」
窪田君の視線を追った隣の先輩が、私を見て首を傾げる。
「はい」
慌てることなく落ち着いて声を出した。このまま遠くにいるのも違うような気がして、男バスの集団に近づいていった。
「はじめまして」
名前とクラスを言って軽く頭を下げる。先輩たちは優しく笑って受け入れてくれた。こんな反応をされるのは久しぶりで、なんだか目頭が熱くなった。
訳もなく流しかけた涙を知らない男の先輩たちに見られたくなくて、必死に堪えながら上を向く。
星は都会のせいかまったくなくて、ただただ暗い闇が広がっていた。
「じゃ、俺たちはこっちだから」
複数の足音が遠ざかっていく。見ると正門に着いていたことがわかった。
「なぁ……」
「……窪田君」
よく見ると、正門に残っていたのは私と窪田君だけだった。他の先輩たちはみんな、別の道に行ってしまったらしい。
「……これ、良かったら使えよ」
そう言って窪田君が差し出したのは、可愛い刺繍が施されたハンカチだった。
「え?」
「今、泣いてた……よな?」
「えっ?」
「え?」
なんで。どうしてわかったの? そういうの、なんて言うんだろう。すごく……ずるい。
「あっ、ごめん! 昔から泣きそうになると上を向くクセがあったなぁって思ったから、つい、さっきもそうなのかなぁって……! じろじろ見ててごめん! 痴漢じゃねぇから!」
頭を高速で下げる窪田君の、辛うじて見えた耳が赤みを帯びているような気がした。
「……正解だよ」
認めるつもりなんてまったくなかったのに、窪田君が可哀想に見えて私は口元を手で覆いながら呟いた。
窪田君の瞳が、ゆっくりと私の姿を捉える。
「正解だよ」
問うような目をしていた窪田君にもう一度言うと、彼は恥ずかしさのあまり頬まで真っ赤にしながら「じゃあ」とハンカチを私の手に握らせた。
「……女子力高いなぁ」
窪田君の優しさで流れた嬉し涙を、彼だけに見せながら私はぎこちなく笑う。ぶさいくな笑顔だったと思う。なのに、窪田君はどこか嬉しそうだった。
「……ありがとう、窪田君」
「いやいやいやいや! 俺、たいしたことしてねぇから! ほんとに!」
星なんて見えない夜だけど、私の大切な輝く思い出の一つになった。
誰にも信じてもらえなくても、佐竹先輩が葉月のことを変えられると悟っても、私にだって嬉しい出来事くらい存在する。
どんなに悲しくても、その分笑える強さはカッコイイから――私は、《愚者》と呼ばれても笑い続けられる。
*
インターハイが終わった。やけにあっけなく終わった大会の余韻を感じながら、私は色を変える九月の景色をじいっと眺める。
四月から九月にかけて変わったこと。それはいくつかあるけれど、一番はやっぱり一つだけ。
「葉月ぃー!」
今日も練習に打ち込んでいる葉月に、〝琴梨〟が遠慮なくぶつかっていく。
「あたしも混ぜろ!」
「……好きにすれば?」
変わったことは、琴梨と打ち解けたことだった。琴梨は不器用だから最初は上手くいかなかったけど、バスケが琴梨を語ってくれたんだ。
今では葉月と私の中に自然と溶け込んでいて、彼女は楽しそうに笑っている。その笑顔が好きだった。
「三人とも、自主練はほどほどにねー」
いつも私たちと一定の距離を保っている暁先輩は、ボールの片づけをしていた。側でシュート練習をする笹倉先輩は、多分私たちよりも長く練習したいという意地があるのだろう。なかなか止めない。
「そろそろ切り上げよっか」
「えぇーっ! あたし来たばっ……」
「片づけるの」
琴梨の頭を叩いた葉月は、さっさと切り上げてボールを拾う。見ると、笹倉先輩も手を止めて切り上げていた。
九月にもなると、夜がそれなりに涼しくなる。私たち三人は並びながら正門まで歩いていた。
「あ、直也!」
「えっ?」
「……は?」
琴梨は真っ先に駆け出して、追いついた青原君の頭を鞄で盛大に殴る。
「いってぇなゴリラ!」
「よっ! 珍しいじゃん、直也がこんな時間まで学校にいるなんて!」
青原君を無視した琴梨は笑いながらそう尋ねた。それに答えたのは野村君だった。
「今日だけの特別だけどな。俺と窪田で青原を拘束して無理矢理部活に参加させたんだ!」
本当に嬉しそうに話す野村君に、琴梨が「すっごいじゃん!」と興奮気味に褒める。
「うるせぇよ」
青原君はそっぽを向いて、頬を掻いた。多分それは、照れ隠しだった。
「野村君と窪田君でかぁ。二人ともお手柄だね、お疲れ様!」
本当にすごいことだけど、意識しないと笑えないのはなんでだろう。
「青原君もすごいね!」
だから、ちょっとだけ嬉しそうな葉月の言葉を代弁をした。琴梨も野村君も、何度も言うけど嬉しそう。どちらかと言うと無関心な私はちょっと気持ちが追いつかないくらいだった。
「青原! 野村! 二人とも普通に置いていこうとするのやめろよー!」
「ッ!」
振り向くと、慌てた様子で窪田君が駆け寄ってきた。
窪田君は私たちにも気づいていたようで、来る途中に目が合い、彼の方から軽く会釈をされる。けれど、青原君は早く帰りたいようでさっさと行ってしまった。
「あっ、青原!」
野村君が窪田君に「ごめん!」と謝り、青原君の後を追いかけていく。本当に置いてかれた窪田君は、捨てられた子犬のようにしゅんとした表情を見せてくれた。
葉月も琴梨もあまり面識がない窪田君には興味がないようで、一瞥してから歩き出していく。
「窪田君。一緒に帰ろうか?」
声をかけると、窪田君はちらっと私を見て俯いた。
「窪田君?」
「青原は……」
「ん? なぁに?」
「……青原は、水樹とつき合ってるぞ?」
一瞬、窪田君が何を言いたいのかわからなかった。
「え、うん。……そうなんだ?」
知らなかったけれど、知ったところで私の中の何かが変わるわけではない。窪田君は私の反応が気に入らなかったのか、「だから……!」と慌てたようにもう一度言った。
「……えっと、二人がつき合ってたら何かダメなの?」
「え?」
窪田君は冷や汗を掻きながら、顔を上げて私を瞳を自分の瞳に合わせてくる。
「……え、えっと、沙織ちゃんは青原のことが好きなんじゃ…………え?」
いや、「え?」と言いたいのは私の方だった。まばたきをして、窪田君の顔色が朱色に染まる様を映像のように見つめる。
「ごっ、ごめん! また勘違いした!」
違うよと否定する前に、窪田君が全力で謝った。
「あぁもう、なんでまた勘違いするんだよ……! 俺のバカ……!」
「大丈夫だよ窪田君! 顔を上げて!」
私は窪田君を必死に説得して、自分を責めることにある意味で夢中になっている彼を止めさせる。
正門の方を見ると、葉月と琴梨がこっちを見ていた。そのまま葉月が琴梨の手を引っ張って帰っていくのがわかる。窪田君は顔を真っ赤にさせながら、私の横を通りすぎていった。
「待って!」
このまま行かせてはいけない。私は瞬時にそう思い、声を出した。
「……窪田君」
呼び止めてもそれしか言葉が出なかった。なのに、窪田君は私の名前を呼ぶ。それは、小学生の頃から何も変わらないちゃんづけの呼び名だった。
「……〝秋雪君〟」
微かに窪田君の肩が動いた。
「私、好きな人は今まで一人しかできなかったから」
窪田君は振り向かなかった。私は「ところでさ」と無理矢理話題を変え、窪田君の隣を堂々と歩く。
窪田君はその後一切その話題を掘り起こすことはなく、私が持ち出した話題を楽しそうに聞いていた。
*
気づけばウィンターカップが始まっていた。あれから窪田君とは何事もなく接することができている……はず。
準決勝で常花に勝利した私たち成清は、別ブロックで貝夏に勝利した朱玲と決勝戦をすることが決定していた。けれど、その前には三位決定戦という名の常花対貝夏戦が待っている。
「……なんかさぁ、一年って早いよなぁ」
不意に、コートを見つめていた琴梨が呟いた。
「今さらでしょ、それは」
「そう? アタシは一年が早いって思ったの、今年が初めてだけど?」
葉月はわずかに微笑んだ。こんな葉月は久しぶりに見たかもしれない。
「アタシ、ちょっと〝約束〟があるから席外すね」
すると、そわそわと――緊張しながら葉月はどこかに行ってしまった。確かに、三決が始まるまでまだ時間はある。
「じゃ、私はお手洗いに行こうかな」
「おー、いってら」
ひらひらと手を振る琴梨を背に、私は近くのお手洗いに入った。
「棗はさぁ、どっちが優勝すると思う?」
瞬間、声が聞こえてきた。
「…………?」
手を洗っている二人は鏡越しに私を見つけて振り返る。茶髪と黒髪の二人は、確か敗退した豊崎の三年生だ。
「あ、その……」
「うちの一年に何か用ですか?」
唐突な声に思わず振り向いて、私はゆっくりと視線を上げる。そこには主将の暁先輩が立っていた。
「用ってほどのことは別に。ね? なつ……」
「勝て」
脈絡もなく、黒髪の人が暁先輩を指差してそう言った。茶髪の人は瞬時に笑って、「棗は成清に優勝してほしいんだってさ」と代弁する。まるで、私と葉月みたいだ。
「そうですか。言われなくても優勝しますよ」
豊崎の二人は暁先輩の両肩に軽く手を置いて、そのままお手洗いから出ていった。
「暁先輩……」
「だってそうでしょ? 私たちは全員優勝する気でいるじゃない」
暁先輩は四月の時より伸びてしまった黒髪に触れた。バスケ選手としては長すぎるその髪は、いつも一つにくくられている。
「この髪ね、二年間伸ばしっぱなしなんだ」
「二年間? どうしてですか?」
「願掛け。一年の時に優勝できなかったから、優勝するまで髪は切らないってね。だって、長いと邪魔じゃない」
「……そうですね」
知らなかった。私の驚きを他所に、暁先輩は話を続ける。
「柚ちゃんもだよ」
「ッ?!」
暁先輩は、ここに来た目的を果たす為に個室に入っていった。私も同じことをして、暁先輩の言葉を再生させる。
先輩たちの優勝に対する三年間の努力と、琴梨の勝利に対する飢えと、純粋な才能と。葉月の誰かに認められたいという渇望と努力。
私は。私は……?
瞬間、自分が誰よりも空っぽであることに気がついた。
*
六年は一年よりも圧倒的に長い。それでも思い返せば一瞬だった。
『秋雪君、絵上手だねー』
『へっ?! あ、その……急に何?!』
『あ、ごめんごめん。だって本当に上手だもん』
『じょ、上手……』
同じクラスの秋雪君は、他の子と比べたら圧倒的に大人しい男の子だった。そんな秋雪君の側が一番居心地が良かったのだ。
『ねぇ、秋雪君。昼休みにまたバスケしようよ』
『え、また?!』
『いいでしょ?』
『……はい』
秋雪君は縮こまりながらこくんっと頷く。身長だって私の方が大きかったし、秋雪君は当時の私にとって弟みたいな存在だった。
『やったぁ!』
弱々しい秋雪君だけど、バスケの時はカッコいいんだ。私はそれを知ってるからこそ、本当に嬉しくて楽しかった。
昼休みになる度に秋雪君の手を引いて、私は開放されている体育館へと急ぐ。秋雪君は『そんなに急がなくても……』と困惑した表情で言った。
『なんで? 私、秋雪君とたくさんバスケしたいもん。早く行きたいに決まってるじゃん』
『……うぅ』
体育館に着くのは、いっつも私と秋雪君が一番。そんな二人でボールを出して、シュートをし合う。ちなみに、秋雪君はシュートも上手い。
『そうだ、秋雪君。今度のウィンターカップいっしょに見に行こうよ』
『え……? それって高校生の?』
『うん』
『マジで?! 行きたい!』
考える暇もなく、秋雪君にしては珍しく興奮気味に声を張り上げた。高校生のバスケを生で見れるんだもん。それはそうだよね。
『やったぁ! じゃあ、待ち合わせは……』
思えば、これが私の人生初のデートだった。
小学生二人がウィンターカップの会場に足を運ぶ。当時の私たちからしたら会場は異様に大きくて、選手は巨人だらけだった。
『決勝戦だもんね、みんなワクワクしてる……って、秋雪君?』
『えっ、何!?』
何を緊張しているのか、秋雪君は声を強ばらせていた。私はそれ以上気にもしないで、秋雪君を席へと連れていく。
連れていった席に座った途端、会場の壮大さに私は思わずこう言葉を漏らしていた。
『いつか私たちもここに来るんだよね』
信じていた。そうなると信じ切っていた。
『……そうだな』
声変わりしていない秋雪君も、ちょっと低めにそう言って。さっきまでの緊張はどこに行ったのか、お互いに真剣にコートを見つめていた。
何か小学生の私たちでも思い出になるようなこたを作りたくて、私は言葉をさらに繋げる。
『ねぇ、せっかくだしさぁ――……』