第一話 高校生
葉月が私の目の前を歩く。葉月が歩く道は私の道で、私は一歩後ろに下がって笑っていた。
「早く中に入ろう!」
「あ、こら!」
葉月の腕を引っ張って、校舎の中へと入っていく。振り向くと、真新しい成清の制服に身を包んで戸惑った表情を浮かべる葉月と――そよ風に舞う桜の花弁が見えた。
「クラス表は……と」
「別々だ」
「もう見つけたの?!」
「うん」
葉月が指差す方向を見る。私の名前のすぐ下には窪田秋雪と書いてあり、東藤葉月の名前はなかった。
「まぁ、離れていても部活で会えるよね!」
「……そうだね」
素直じゃない葉月は寂しそうに呟いて、一人で教室に向かっていく。私はまた、葉月を笑顔にすることができなかった。
私も私で自分の教室に入り、自席に辿り着いて後ろのクラスメイトを確認する。茶髪が似合う少年は私に見られて目を見開いた。
「えっ、あ、ごめん!」
そしていきなり謝った。
「……はい?」
「後ろの席に座ってた俺が君の後頭部をじろじろと見ていたから視線に気がついてこんなことを……」
「えっ……え?!」
「……でも! 痴漢じゃないんで!」
頭を勢いよく下げる少年の、その顔その口調に覚えがあって、私は何故か無意識に唇を動かした。
「……秋雪君?」
すると、秋雪君の動きが機械のように停止する。秋雪君は頭を上げて私を視認した。何度か唇を動かした秋雪君は、目を見開いた。
「――沙織ちゃん?」
秋雪君は、私の名前を呼んだ。
「秋雪君! やっぱり秋雪君だ!」
「『やっぱり』……って、本物?!」
秋雪君はびくっと肩を上げ、椅子に座ったままひっくり返る。大きな音を立てて頭を床に打った秋雪君は、素早く起き上がって「いってぇ!」と頭を抱えた。
「あ、秋雪君! 恥ずかしいから騒がないで!」
私たちを知らないクラスメイトが不審な目を向けてくる。恥ずかしさのあまりに頭がクラクラしそうだ。秋雪君はようやく口を開くのを止め、恥ずかしそうに俯いた。
私たちの関係はなんでもない、小学校が同じというだけの関係だ。ちょっぴり他の子よりも仲が良くて、ちょっぴり他の子よりもバスケが好きで――
「久しぶりだね」
「あぁ、本当に」
――そんな、なんでもない関係だった。
*
月日は流れ、私たちの生活は日常と化す。放課後になって葉月の教室に行くと、葉月はいつもの諦めたような目で私を見上げた。
繊細なココロを持つ葉月の姿は、ガラス細工のようにも見える。
「帰ろう、葉月」
「そうね」
葉月が鞄を持って立ち上がると、男バスの野村君が葉月の後ろから姿を見せた。
「あれ? 北浜もいたんだ」
「野村君」
野村君は私に手を振り、にこにこと微笑んでいる。相変わらずの馴れ馴れしさだけど、彼はすぐに表情を曇らせた。
「なぁ東藤、このクラスに青原もいるだろ? あいつってどこに行ったかわかるか?」
「青原? いや、知らないけど」
「マジか! あいつ逃げ足早すぎ!」
「他の男バスの人にも聞いてみたら? 秋雪君とか」
「秋雪? あぁ、窪田か」
「沙織、あいつのこと名前で呼んでるの?」
「小学校一緒だったんだろ? 窪田から聞いてる」
「ふぅん。アタシはそれ知らないんだけど」
瞬間に心臓が怯える。だって、私と秋雪君は仲が良くて、それが普通で――なのにそれは普通じゃなかった。それが恥ずかしい。
「ていうか青原だよ。窪田に聞いてみるかぁ」
「青原、ずっと寝てたからもう帰ったんじゃない?」
脳裏に秋雪君が過ぎる。あの頃は〝秋雪君〟なんて普通に呼んでいたけれど、今は呼べないものなのかな。
「帰った?! ごめん、俺ちょっと行ってくる!」
野村君が慌ただしく教室から出ていく。葉月が何かを言っていたけれど、私はそれどころじゃない。
「ねぇ葉月、同級生を名前と君づけで呼んだら変かな?」
「……知らない」
「だよね。葉月に聞いた私がバカだった」
「何それ」
教室を出ると、廊下に桜の花弁が落ちていた。開けっ放しの窓から入る花弁は、薄い桃色だった。
「……アイツ」
「え?」
顔を上げると、水色の髪が教室から出てきて階段を下りるところだった。
「水樹さんも成清だったんだ」
私が言っても葉月は反応しない。ただじっと、水樹さんのことを見据えていた。
*
数日後。部活動の後、葉月と一緒に男バスが使っている体育館を覗きにいく。葉月は嫌がったけれど、無理矢理私が連れてきた。
「やっぱりいないね、青原君」
「あそこ。野村がいる」
「ホントだ。すっごく挙動不審だね」
「青原いないからね」
先輩の話を聞いている野村君の近くには〝窪田君〟もいて、先輩と楽しそうに談笑していた。
「……水樹もいなかった」
不意に葉月が呟いた。私はすぐに言いたいことを理解して、葉月を見つめる。
「やっぱり辞めたんじゃないかな。私たちがバレーを辞めたみたいに」
「…………あんなにバスケバカだったのに。ま、来なくてもいいけど」
葉月はそうつけ加えてそっぽを向いた。
男バスの方も部活動が終わったらしく、男子がぞろぞろと列をなして出てくる。最後の方で窪田君と野村君が出てきて、私たちに気づいて片手を上げた。
「二人とも、やっぱり男バスに入るの?」
「入るよ? その為に成清に来たんだから」
少し自信ありげに語る窪田君は、今でもバスケが好きなことが伺える。
「俺も。青原がいなきゃ意味ないけどなぁ」
一緒にバスケしたいもん。そう言外に込めた彼の言葉が私には聞こえた。
葉月は興味なさそうに二人の話を聞いていて、視線はずっと中の先輩たちに向いている。
「そっか。ねぇ、途中まで一緒に帰ろう?」
「いいぜ〜」
「俺も」
気軽に返事をして笑ってくれる二人は、いつも葉月の側にいる私にとってあまりにも新鮮に映っていた。
葉月は私の心情を知りもしないで、あまり交流のない二人を観察するように見つめる。窪田君と野村君は出逢ったばかりっぽいけれど、今後のチームメイトだからか良好な関係そうに見えた。
私だけが全員の知り合いだったから、上手く会話を続けることに専念する。けれど、人見知りしない野村君は窪田君と上手く会話できているような気がした。葉月は安定して私以外にはドライだった。
「あ。じゃあ俺、こっちだから」
「アタシも」
中学が近いせいか、野村君と葉月の帰り道が見事に重なった。大丈夫かな、なんて不安があるけれど野村君は早くも葉月の扱いを心得ているように見えた。
「行こう、〝窪田君〟」
「……え?」
きょとんと、立ち止まって聞き返す窪田君を私は見上げる。目が合うと、すぐに「あっ、いやなんでも」と誤魔化された。
「ど、どうしたの?」
「ごめんって! なんでもないから! 本当に!」
そこまで謝られるとそれ以上聞けなくなる。だから私は諦めた。
「そういえば窪田君、私の家の近くだったね」
「そうだな。中学は離れちゃったけど」
苦笑して頬を掻く窪田君は、あの頃よりも顔立ちがはっきりとしている。成長したんだなぁと思うと同時に、少しだけ寂しくなった。
「……?」
すると、窪田君が私を不思議そうに眺める。もしかして、顔に出ていたのかな。
「また会えて嬉しいよ」
笑ってそう言うことで私は誤魔化した。まるで葉月みたいだ。
「え? えっと……うん、俺も嬉しいよ」
急に変なことを言ったせいで、窪田君が慌てて言葉を返す。それでも、ぎこちなくだけれど彼も微笑んでくれたことが嬉しかった。
「じゃ、私こっちだから。また明日ね!」
「あ、おう! また明日!」
何故か背筋をまっすぐに伸ばして、窪田君は手を振る私に手を振り返した。
*
五月になって、私たちは高校生活に慣れてきた。桜が散って新緑がいい色に色づいている。何も変わらないようで、何かが変わっていく毎日だった。
私は葉月が先に部活に行ったと知り、一人で部室に行こうとする。
「……あれ? 窪田君」
部活着を着ていた窪田君は、振り向いて私を瞳に映した。そして顔を綻ばせた。
「部活着姿でどうしたの?」
「実は青原を探していて……」
困ったように笑う窪田君に対して思わず納得する。
「青原君、またいないの?」
「野村と手分けして探してるんだけど、なかなか見つからなくて……」
「野村君と?」
「……ん? そうそう」
野村君一人で充分な気がするんだけど、窪田君には言えなかった。
「私も探そうか?」
「はぁ?! そんな、悪いからいいよ!」
ぶんぶんと首と手を振りまくる窪田君は、「悪いって!」を繰り返して私を拒む。
「本当に俺と野村で充分だから! 北浜さんは部活に行けよ!」
「そ、そう……?」
私は窪田君に負けて、部室へと足先を向けた。自分でも、窪田君に対してだけはどうしても押しが弱くなるって思っている。小さくため息をついて、何気なく窓から外に目を向けた。
「……あ!」
青い髪がそよ風にさらさらと靡いている。青原君は中庭で横になっていた。野村君を探してみるけれど、彼はどこにもいない。
「…………」
一瞬だけ悩んだけれど、私は部室じゃなくて中庭に向かった。
*
「青原君!」
私は青原君の寝顔を覗き込む。すると、寝息が聞こえてきた。
「……ほんとに寝てる。あーおーはーらーくーん!」
しゃがんで青原君を揺さぶると、青原君はゆっくりと目を開けた。鋭い眼球が私を捉えて眉間にしわが寄る。
「……なんでお前がここにいるんだよ」
面倒臭そうに言った青原君は、大きなあくびをした。
「窪田君が探してたよ。あと野村君が」
「……んなのほっとけよ」
「ほっとけないからみんな探してるんでしょ? ほら起きて」
「いーやーだ」
ごろっと一回転して、青原君は私の手から逃れようとする。そのままごろごろと坂を下っていった。
「青原君ッ!?」
「いってぇ!」
……あ、やっぱり事故なんだ。
「大丈夫?!」
ほんの少ししかない坂を下りると、青原君はむくりと起き上がった。
「怪我してない……よね?」
「してねぇよ」
「ほんと? よ、良かったぁ……」
ほっと息を吐く。青原君は立ち上がって、ぼりぼりと乱暴に髪を掻いた。
「……あ?」
瞬間に青原君が茂みを睨んだ。動物的本能だったのだろう。「ひぃっ?!」と声を上げて出てきたのは、窪田君と野村君だった。
「……あ」
「ごめんっ! ごめんタンマ! べっ、別に覗きをしていたわけじゃないから!」
「そ、そうだよ! 俺たち本当に何も見てないからね!?」
「野村君、その言い方何かあったように聞こえるからやめて!」
青原君は長いため息をついてどこかに行こうとする。それを窪田君が「えっ?! 何かあったんですか?!」と叫んで止めていた。
「何もねぇ」
「うんうん、そうだよ何もないよ!」
「何もないなら良かったけど……。見つけてくれてありがとう」
「ううん。私、たいしたことしてないから……」
本当にたいしたことなんてしていない。むしろ青原君を傷つけた? し、二人がいつから私たちのことを見ていたのかがとても気になる。
「ほら、青原行くよ!」
野村君も青原君をしっかりと捕まえて、窪田君と一緒に歩き出した。そんな三人を見送っていると、不意に窪田君が振り向いた。私を小学校からの呼び名である「沙織ちゃん」と呼んだ窪田君は、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。また明日な!」
「……あ、うん! またね!」
見えなくなるまで三人の後ろ姿を見送った私は、不意に何かを忘れていることに気づく。
「あっ! 部活だ!」
慌てて着替えて体育館に行ってもやっぱり遅刻してしまった私は、葉月や梅咲監督よりも笹倉先輩に怒られた。
*
インターハイ予選前に梅咲監督から正式なレギュラーを発表された。その中には私や葉月もいて、二人で喜び合う。
その日の帰り、部室から出ると佐竹先輩とすれ違った。
「ん、おぉ? 久しぶり〜」
「……どうも」
葉月が答えると、佐竹先輩が笑ったように見えた。私は早くも野村君より葉月の扱いを心得ている佐竹先輩に、わずかながらの嫉妬を抱きながらその場を離れる。葉月はもっといろんな人と関わった方がいい、そう思ったから。
正門までの道のりを歩いていると、男バスの集団に出逢った。その中には窪田君もいて、先輩らしき人たちと話している。
「はいっ! すみません!」
……話しているんだよね? 私が離れた場所から見ていると、視線を感じたのか窪田君が振り向いた。