第二話 戦車
翌朝、沙織はアタシを見つけて「昨日はどうだった?」と尋ねてきた。アタシは眉を顰めて沙織から視線を逸らす。
「別に。ていうかなんで帰ったのさ」
〝救われていた〟、初めて気づいたその事実に対して今さらながらに感謝をするのは気恥ずかしくてとてもじゃないけれど言い出せない。沙織は不思議そうにまばたきをして、アタシのことをまっすぐに見据えた。
「佐竹先輩なら、私よりも葉月のことをわかっている気がしたの」
一瞬だけ時が止まった。
「そんなこと……あるわけないじゃん。先輩よりもアンタと一緒にいる時間の方が長いし、先輩にアタシの何がわかるの?」
アタシのことを理解してくれなんて言わない。ただ、あの時同じ痛みを経験した沙織に側にいてほしいだけ。情けない言い方をすれば、傷を舐め合ってほしいだけ。
「わかんないよ? 佐竹先輩、なんでもお見通しって感じするし」
だから、そうやってアタシを突き放さないで。
「別にお見通ししてほしくない」
百聞は一見にしかず。何も見ていない人に、知ったような顔をされたくない。
「でも、葉月は何も言わないじゃない。私に何をしてほしいのか言わないじゃない。側にいるだけじゃ、気休めにしかならないよ」
沙織の声が一瞬震えた。沙織の話は的を得ているけれど――
「――気休めでも、いい」
だって、それ以上は望んでいないから。
「そんなの良くない! 葉月、私の気持ちも考えてよ! なんでもないなら〝そんな目〟で世界を見ないでよ!」
顔を上げると、目に涙を貯めた沙織がいた。《愚者》と呼ばれた沙織は、涙でぐしゃぐしゃに濡れた表情で佐竹先輩と同じことを言う。
「なんでもないなら、あの時のように心の底から笑ってよ!」
……〝そんな目〟って、何?
アタシはそんなことも聞けないまま、思わず廊下から逃げ出した。走ってようやく他の生徒の存在に気づく。
お願いだから、〝そんな目〟でアタシを見ないで。それは、アタシが一番嫌っていた目だった。
*
通り名の《戦車》のように勢いよく逃走したアタシは、屋上にいた。既に授業は始まっているのに戻れなくて、大の字で寝ている青原のことが今だけ羨ましいと思う。
「…………」
息を吸い込んだ。まだココロがぐしゃぐしゃしている。
整理なんてそう簡単につけれそうにない。
「なんでこんなに弱いのに……アタシって《戦車》なんだろ」
タロットから来ているアタシらの通り名の意味を、アタシは随分と前に調べていた。
いつまでも純粋で自由な《愚者》の沙織。
知恵と勇気だけは人一倍だった《力》の千恵。
崩壊し誤解された《塔》であり、裏切り者となって《悪魔》と呼ばれることになった奈々。
破滅を導いた《死神》の蛍。
行動力、勝利、独立と解放。それが《戦車》なのに、アタシはどれも持っていない。
太陽が眩しくて手を翳す。しばらくすると、青原が体を起こして伸びをした。
「……おい」
傍らに立っていたアタシに気づいた青原は、眉を顰めて短く舌打ちをする。
「舌打ちしたいのはこっちだっての」
アタシはアタシで呟いて、その場に体育座りをした。青原は、アタシの雰囲気がいつもと違うことに気づいたのか黙っていた。
「――ねぇ、佐竹先輩ってどんな人?」
距離はあったけれど、声が聞こえない距離ではない。頑張ってその音量まで出したのだから、返事くらいしてほしい。
「バケモノ」
「それ以外で」
頭を膝小僧につけていても、青原がぼりぼりと面倒そうに髪を掻いたことだけはわかった。
「性格悪い」
「せめていいところを言ってよ」
青原は「注文多いっつーの」と文句を言った。アタシは「いいでしょ」と催促をした。
「んなの知らねぇよ」
顔を上げると、青峰は空を見上げていた。アタシはそっと立ち上がって、青原の隣に腰を下ろす。
「つーかお前。授業は?」
「サボった。ていうか青原に聞かれたくない」
ますます佐竹先輩のことがわからなくなる。本当に、あの人にはアタシの何がわかると言うのか。
沙織の考えていることがわからなくて、せめてこれだけは答えてもらおうと青原に再び尋ねる。
「アタシ、さっき沙織と……多分初めて喧嘩したんだ」
言葉にして実感する。「で?」と青原に返されて、アタシは自分でも何が言いたかったのかわからなくなって整理した。
「……できれば、仲直りしたい。どうすればいいと思う?」
「仲直りなんて俺はしたことねぇけどな」
「は?」
「喧嘩しても、次の日になりゃいつも通りっていうことだ」
青峰は平然と、あり得もしないようなことを言い放つ。
「……喧嘩相手は水樹?」
青原は何も答えなかった。気まずそうに寝転がり、アタシに背を向ける。青原の背中を蹴ったアタシは、別の場所で時間を潰そうとして保健室の方に向かった。
*
部活の時間、アタシは初めて沙織と一切会話をしなかった。そのことを帰り際に暁先輩に指摘され、さらにはそれを聞いていた佐竹先輩に話し相手が変わっていく。
「東藤の場合、まっすぐにぶつからないとなんの解決にもならないんじゃない? なんで喧嘩したんですか?」
まっすぐに、ぶつかる。
隠していた痛いところを突ける佐竹先輩は確かにバケモノで、アタシは避けていたその行動の為にありったけの勇気を振り絞った。
「……アタシが、壁を作っていたから」
それは全部自分の弱さのせいだった。弱さを認めて、アタシは逆に質問をした。
「――〝その目〟って、一体どんな目なんですか?」
佐竹先輩はアタシがそれを聞いたことにわずかながらの驚きを見せる。
「教えてください」
催促する。佐竹先輩は笑っていなかった。
「諦めた目、だろうな。一見暗闇なんだけど、よく見ると熱いモノを秘めたような目とも言える」
「それが、〝そんな目〟?」
「そうだな」
「…………」
沙織はそのことを言っていたんだ。そう思って、同時に佐竹先輩が答えられたことに対してアタシはよくわからない感情を抱く。
「……ありがとうございます。アタシ、ちょっと行ってきます!」
今ならまだ、きっと間に合う。暗闇の中なら、太陽の下よりも自分のことをたくさん話せそうな気がした。
「沙織、待って!」
いつのも帰り道を一人で帰っていた彼女のことを呼び止める。
「ごめん」
この言葉だけじゃすべては伝わらない。拙くても、もっとたくさんの言葉を不器用なアタシは沙織に紡いだ。
「アタシ、自分のことしか考えてなかった。沙織の気持ちなんて、考えたことなかった……」
沙織の言葉を繋げて自分なりに考えた結果、沙織はアタシに救われてほしかったんだと思った。でもアタシは、前に進んでいるように見えてずっと過去に捕らわれ続けていた。
「一番側にいてくれたのに、気づけなくてごめん。理解しようともしないでごめん」
「……ごめんは私もだよ、葉月。思い上がりなんかじゃなくて、本気で私が葉月のことを心の底から笑わせられるって思ってた。〝四天王〟の過去を過去として受け入れさせられるって思ってた」
沙織が笑顔の下でそんなことを考えていたなんて、アタシは知らない。考えもしなかった。
「『できなかった』なんて、言わないでね」
沙織の台詞を予測して言う。大事な人を傷つけ続けるのなら、アタシは自分が傷ついてでも前に進む。
「もう〝四天王〟なんてどうでもいい。アタシはアタシ。成清高校の生徒。だから――」
「「――一緒にやろう」」
言葉が、気持ちが、この時になってようやく繋がったような気がした。
*
どうやったのか、暁先輩はアタシたちが仲間だということを笹倉先輩に認めさせていた。それでも、未だに嫌がられている自覚はある。
アタシは沙織と喧嘩したあの日から、〝琴梨〟とバスケ以外の会話をし始めて――今では〝友だち〟になったと思う。
四月の時点で亀裂が入りまくっていたこのチームは、ようやく纏まろうとしていた。その結果が、インターハイの準優勝だった。
九月の残暑からやる気を奪い返しながら、アタシは自主練をする。インハイで実感したチームの実力は、次のウィンターカップで優勝を狙えるほどに強力だ。だから、ココロもスキルも強くなろうと努力した。
「オーバーワークに気をつけてね」
沙織がアタシにスポドリを差し出しながらそう言った。アタシはスポドリを受け取って、一口飲む。
「葉月って意外とストイックだよなぁ」
「それは琴梨もでしょ?」
視線を笹倉先輩に向けると、先輩も自主練をしていた。それに暁先輩がつき添っているように見える。
「……いや、全員か」
琴梨は口角を上げ、持っていたボールでドリブルを始めた。スリーを決めた刹那、沙織が琴梨にパスをする。
「そっちもオーバーワークに気をつけなよ?」
アタシはため息をついて、しばらくの間休憩した。インハイが終わった今でも一年と三年の間には微妙な溝があって、とにかく信頼というものがない。
別に仲良しこよしがしたいわけじゃない。どうせウィンターカップが終われば三年は引退だ。……それは、佐竹先輩もだってわかっている。
*
週に一度の休みの日である月曜日、アタシは三年の教室前にいた。用があるのは暁先輩でも笹倉先輩でもなく――
「佐竹先輩」
――一人でいた先輩に声をかける。他の先輩とは交流がないせいでこの人に頼るしかない自分の人脈のなさを呪った。
「ん? なんだよ、珍しいな」
「話したいことがあるので、この後いいですか」
放課後に呼び止めたアタシは、遠慮がちになる自分を奮い立たせてそう尋ねる。佐竹先輩はにやっと笑って「どうしましょうかねぇ」と腕を組んだ。
「そういうのいいですから」
「それが人にモノを頼む態度?」
「お願いします」
かなりキレ気味に言ったけれど、佐竹先輩はそれで満足したようで軽く頷いた。
アタシらは食堂に行って端の方の席に座る。アタシ――多分、佐竹先輩もこの席の方が落ち着くのだろう。座った瞬間に詰まった息を吐いたアタシたちは多分似ていた。
「なんか食べる?」
「結構です。本題に入っていいですか?」
佐竹先輩は「せっかちだなぁ」とぼやいたけれど、アタシは構わずに話をし始めた。
「どうしたら、男バスのようなチームになれますか?」
アタシが尋ねると、佐竹先輩は開いた双眸をアタシに見せた。
「今なんて?」
余程衝撃的だったのか、佐竹先輩はアタシに聞き返す。
「スッキリしないんですよね、今のチーム。でも、男バスはアタシらと同じようなチームなのに全然違うから……」
「それは東藤が気にすることじゃなくて、暁が気にすることだろ」
佐竹先輩が言うこともわかる。アタシだけが気にしたってしょうがないのかもしれない。
「……アタシは、今のチームを大事にしたいんです」
前のチームで散々傷ついたからこそ、切実に願うことだった。
「どんなに相性が悪くても、最後はこのチームで良かったって思いたいんです」
佐竹先輩は目を細めてアタシを見つめた。アタシは微動だにしないでその視線を受け止めた。
「相談できる人が佐竹先輩しかいないんです、だから……」
アタシが言葉を切ると、佐竹先輩が長いため息をついた。なんでだろう。どうして?
「そんなの、ぶっちゃけて言いますけど男女の差ってだけでしょうね」
そして予想通りすぐに返答した。
「……男女の差?」
アタシは佐竹先輩の台詞を繰り返す。佐竹先輩は「別に差別的なことを言ってるんじゃないけど」とつけ足した。
「男は単純ですからねぇ〜」
説得力がないと思うのはアタシだけだろうか。まぁ、でも。言いたいことは伝わった。
「男子っていいですね。……羨ましい」
女子は面倒臭い。沙織のことは好きだけど、琴梨はそれほどでもないし、笹倉先輩や暁先輩は本当に本当に面倒臭い。
もしアタシが男子だったら、青原のことも面倒臭いんだろうけど――遠慮なく殴れる分には楽なのかもしれない。
「アタシ、男に生まれたかったです」
「男に生まれたところでなんのメリットもないだろうけどねぇ」
佐竹先輩はやれやれと肩を上げて首を横に振った。
「東藤はそのまま女でいろよ」
最後にそうつけ足して、佐竹先輩は去ってしまった。
*
「……だってさ、柚ちゃん」
私は目の前にいる柚ちゃんに反応を求めた。柚ちゃんは眉間にしわを寄せ、自販機で買った牛乳のストローを噛む。
観葉植物に隠れて後ろを見ると、佐竹君も葉月ちゃんも席を立って帰っていた。
「私は葉月ちゃんのこと嫌いじゃないけどなー」
「……そ」
「いじっぱり」
「…………」
私は柚ちゃんを言葉で刺した。柚ちゃんは視線を上げて「……悪い顔」とだけ呟いた。
「〝柚〟だって、本当に嫌いなのは葉月ちゃんじゃなくて天才なんでしょう?」
中学の頃、秀才だらけのチームの中に一人だけ天才がいた。その子は早々に〝天才〟と〝秀才〟の違いに気づいて辞めてしまい、そしてそれに気づいたのは私と柚だけだった。
「そうだよ」
怒りを込めて柚は言った。「……本当に大嫌い」と、柚のココロは泣いていた。