第五話 恋か鯉か
解散した後、私は会場近くの公園のベンチに座っていた。十二月だというのに寒いとは思わず、ただ冷めない熱に酔っていた。そんな時だった。
足音が聞こえて、隣に誰かが座る。誰かは匂いですぐにわかった。
「お疲れ」
広岡はいつも通りを装っているつもりだろうけれど、いつもよりも少し声のトーンが低い。
「そっちこそ、お疲れなのだ」
「おー。疲れた疲れた」
互いに試合の結果を聞く必要はなかった。興味もなかったし、触れてほしくもなかった。
「茶野先輩から聞いたんだけどさ……」
……また灯センパイか。どんだけお喋りなのだ、あの人は。今度は一体何を喋ったのだ?
「……試合中に『私が拓磨の従妹なんかじゃない! 拓磨が私の従兄なのだっ!』って叫んだってマジ?!」
体が反射的に動く。いつの間にか、肘を広岡の脇腹に入れていた。
「なななな何を言っているのだ広岡! そんなわけないのだ!」
今冷静に考えて思う。私は、だいぶ恥ずかしいことを叫んでしまったのだ。元から熱かった体が芯から発火してしまう。
「それ全然説得力なくない……?」
ベンチに横になるようにして倒れた広岡は、自分の脇腹を大事そうに擦る。余程効いたのかいつもの元気がなく萎れていた。
「……む、むぅ」
な、なんだか私が悪い雰囲気なのだ。なんでなのだ?
「まぁまぁそうしょんぼりするなって」
けれど、広岡は体を起こして励ますように私の頭をよしよしと撫でた。
……本当に、なんなのだ? 試合のことは慰める気なんてないくせに。
「……してないのだ」
……なんでなのだ? どうしてこんなに嬉しいのだ? どうして今、広岡に会えたことが〝泣きたくなるくらい〟嬉しいのだ……?
ぐるぐると疑問が生まれて、ぐちゃぐちゃして、パンクしそうだった。
「してんじゃん、かなり」
「誰のせいだと思ってるのだ」
広岡は、「俺?」なんて言ってふざけて笑って。私は広岡に視線を向けながら、「当たり前なのだ」と涙を溢した。
「えっ?! なになになになに! なんで泣くの?!」
私はぐしぐしと涙を拭う。なんでなんて、こっちが聞きたいのだ。バカ。
「……お、俺のせい?」
その声色に驚いた。ふざけてるわけでもなく、戸惑っているわけでもなく。真剣に、まっすぐな瞳で広岡は私にそう尋ねた。
「……広岡のせいなのだ。広岡と一緒にいると調子が狂うのだ。すごく恥ずかしいのだ。…………嬉しく、なるのだ」
「…………」
「――広岡、この感情はなんなのだ?」
「……緑ちゃん」
日が暮れて、夜になった。広岡は唾を飲み込んで、静かに口を開いた。
「俺と一緒にいると、恥ずかしい?」
「恥ずかしいのだ。からかわれたり、子供扱いされたり……」
「それって、ドキドキみたいな?」
「ドキドキ? …………する、かもしれないのだ」
記憶を必死に辿って答える。なんなのだ、このカウンセリングみたいな質疑応答は。
「本気で言ってる?」
「誰に向かって言ってるのだ」
広岡は一気に吹き出して、「それもそうだな」と口元を手の甲で覆った。バカバカしい。そう思う。瞬間に広岡が告げた言葉は
「――それは〝恋〟だな」
私の頭をぶっすりと刺した。
「鯉、か。……バカなのだ?」
たっぷりと時間を使って考えた答えは、あまりにも酷いものだった。
「そう言って逃げんの?」
……酷いものだった。
多分私は、今までで一番酷い顔をしていると思う。お母さんが死んでしまったあの時よりも、酷い顔を。
「……ごめんなのだ」
いきなり恋だと言われても、特別驚きはしなかった。もしかしたら、心のどこかで気づいていたのかもしれない。それでも自分が恋をするだなんて想像できなかった。
想像できなかったから、心の整理も上手くできなくて。私なんかが恋をしてもいいのかと、静かに項垂れた。
「…………」
広岡はそんな私を見守っていた。何も言わず、何もせず、ただ私が心の整理をつけるのを待っていた。
「広岡は、どこにもいなくならないのだ?」
「俺? 俺がどっか行くように見えんの?」
「かなり」
ふらふらしていて、いろんな人に懐いて、可愛がられて。気づいたら遠くにいそうな気は他の誰よりもしていた。
「どこにもいかねーよ」
大好きな人が私の手の届かないところに行くことが怖くて、だから私はたった一言の直球な台詞だけで救われた。
「……なら、私は広岡が好きなのだ」
心の底から笑えた。
広岡の影が私を覆って、温かい感触が唇に触れる。
「これが俺の答え」
すると、笑った広岡は私にピースサインを見せる。瞬間、嵌められたことに気がついた。
「バカ! バカバカバカバカ!」
ぽかぽかと軽く殴りながらも、私は何故か笑えていた。
*
翌日、私たち貝夏は再び会場に足を運んでいた。今日は三位決定戦があるから、まだ私たちの試合は終わっていない。
それは、同じく朱玲に敗退した男バスにも言えることだった。
「ねぇ、三決の前に話があるんだけど」
沖田監督がそう言って私たちを呼び止める。
「泣いても笑ってもこれが最後だから、新体制について少し知っておいてほしいの」
刹那、幹先輩の指先が反応した。
「主将の幹と話し合って決めたことだし、みんなからの反論はないと思う」
見ると、幹先輩は真剣な顔つきで沖田監督を見つめていた。他の三年の先輩方は知っているのか、動揺を見せていない。
「次の主将は、緑川凪沙。彼女を中心としたチームになるから」
「……は?」
私は耳を疑った。
「どっ、どうしてなのだ!」
二年にも一年にも驚きはなく、私だけが動揺していて。二年のエマはまっすぐに私を見つめていた。
「え、エマだっているのに……!」
「いないよ」
誰もが沖田監督の話に耳を傾けている。多分、側にいる男バスもそうだろう。
私は動揺を抑えて気がついた。エマが〝いない〟というその意味に。
「……エマ」
「ワタシ、来年はアメリカに帰ってますから」
上手くなった日本語で、エマはそれを言った。振り向くと、灯センパイや幹先輩――茎津先輩たちが私を見つめていた。
三年もエマもいない来年に、一体何があるのだろう。昨日、大好きだった人が遠くに行くのは嫌だと思った。広岡がそうだと思っていたのに、こんなにも近くにその人たちがいたなんて――。
「だから、私がなのだ?」
なるべく冷静になって声に出した。私は、主将にもエースにも向いていないと思っていたのに。
「昨日の準決勝、緑ちゃんが主将に見えた瞬間が何度もあったし、私は適任だと思う」
「私も〜。今の主将がここまで言ってるんだから、自信持ってよ」
灯センパイが幹先輩の肩を組んだ。茎津先輩は腕を組んでいて、灯センパイが茎津先輩の肩も組む。そしてエマは、私を抱き締めた。
「今日の三決はまだ幹を主将にするけれど、緑川はそのことを念頭に入れておいてほしい。他のみんなも、今日の試合はいつも以上に記憶に焼きつけておいて」
「「はいっ!」」
一斉に声が聞こえる。それは、レギュラーになれなかった二年生と一年生だった。その声が、伸びてくる手が、私を励ます。
頭を撫でてくれる手、拳で気合いを入れてくれる手、どれも力強かった。
「じゃあ、行こうか」
私たちは指定された控え室へと歩き出す。今はまだ、私の歩幅は誰よりも小さい。速度も遅い。誰もがずっと先を行く中、後ろからあいつに呼び止められた。
「……広岡」
「主将なんだって? おめでとう」
なんて答えようか迷う。困って、それでも言うことは一つだということに気がついた。
「ありがとうなのだ」
それだけだった。
「あれ? 今日はなんか素直じゃねぇ?」
「わかるのだ?」
「なになに、何かあった?」
久しぶりに――と言っても一日くらいだろうけれど、広岡は大きな笑顔で私を見下ろす。
「広岡のせい……いや、おかげなのだ」
ありがとう、と言うのはまだ照れくさい。私は誤魔化して、広岡のようにはできないけれど口角を上げた。
「……ッ!」
目を見開いて、広岡は私を凝視する。そして私の名前を呼んだ。
「凪沙って、笑ってる方が可愛いよな」
「ッ!?」
恥ずかしさのあまり思わず広岡の鳩尾を蹴る。それでも内心は嬉しかった。側にいてくれることも、広岡ならば信じられた。
――貴方に出逢えて、本当に良かった。