第二話 墓参り
夏休みも終わった九月。
夏休み中の強化練習から、いつもの部活へと戻っていく。そのおかげで一学期はキツかった練習にもついていけていた。
「凪沙ちゃん、ちょっといい?」
そんな時、主将の幹先輩に声をかけられた。
「……はい?」
「あのさ、灯から緑ちゃんもスリーが上手いって聞いたんだけど、それって本当?」
ボールをぎゅっと両手いっぱいに掴んだ先輩は、珍しくわくわくしている。それがわかる。
「勝負しない? 灯と春と私と四人で!」
「……は?」
あり得ない。あり得ないのだ。あの消極的な幹先輩から、自由奔放な灯センパイのような台詞を聞けるなんて。
「このチームのスリーの得点率を知りたいの」
幹先輩は、真剣な表情で私に訴える。
「え、いや、まぁ。そこまで言われなくてもやりますけど……」
……一応そっちの方が偉いし。
「本当っ? ありがとう!」
返事をする暇もないまま、ゴールまで引っ張られて他の二人と合流する。
「来たね、凪ちゃん」
「……お先にどうぞ」
にやっと笑った灯センパイと無表情の茎津先輩に促されて、幹先輩から受け取ったボールを私は放った。
――スパァンッ
当然のようにボールがリングを潜る。
「さ、さすがだね」
幹先輩はビビっているのか冷や汗を流した。……かつての〝五強〟で正ポジションのくせに一体何が怖いのだ?
「やっぱシュートする時の凪ちゃんって、拓ちゃんに似てるよね。栞ちゃんだってそう思ったでしょ」
灯センパイが幹先輩の脇腹をつついて、幹先輩は連動するように肩をびくっと上げる。図星だったみたいなのだ。
拓磨みたい、と言われても何も嬉しくない。次に灯センパイがスリーを決めて、幹先輩、茎津先輩も外さなかった。
「……何これ。今までの監督人生の中でスリーが強いチームなんて見たことないんだけど」
呆れているのか感心しているのか、プリン頭の沖田監督が携帯を片手にやって来た。
「頑張れば大抵なんとかなりますから〜」
「灯センパイ。また適当なことを……」
「ガンモドキたいていナットウナルト?」
「……言うととんでもないことになるのだ」
私はエマをどっかの集団の中に入れて、別の練習をさせる。戻ってくると、先輩たちと沖田監督が話をしていた。
「冬まであんま時間ないけど、強化する価値はある。やりたいようにやれば?」
「安定の雑な指導ありがとうございま〜す」
さりげなく毒吐いた灯センパイは、ボールを私に回して沖田監督を追い払う。
私は無言でシュート体勢に入った。ボールがリングを潜ることしか考えなかった。
――スパァンッ
バスケを始めたばかりの頃は、拓磨と一緒にスリーの練習ばかりしていた。フォームが似ているのは、多分そのせいかもしれない。
「うっわ! 今の拓磨くんにそっくりじゃん!」
「みゃうっ?!」
突然聞こえてきた声。振り向くと、広岡が口を半開きにしながら固まっていて――「『みゃう』……?!」と笑い出していた。
「う、うるさいうるさいうるさいのだー!」
「うっわ?!」
なんなのだ広岡は! いっつもタイミングというのが悪い!
私が広岡をキツく睨むと、その後ろから国島先輩がぬっと現れた。
「おい、何女バスでサボってんだお前」
「うわっ?! 国島先輩!」
幹先輩と絶賛熱愛中の国島先輩は、広岡の襟首を掴んで黒い笑みを浮かべている。
「『うわっ』ってなんだよ、殴るぞ」
「すみませんすみませんごめんなさい!」
あの広岡が完全に怯えている。……これは、さっきの幹先輩の比じゃない。
「英二、後輩は大切にしなきゃダメだよ?」
「うわっ?! し、栞! 脅かすなよ!」
すると、その幹先輩が人差し指を立てて国島先輩のことを叱った。
「……『うわっ』」
「『うわっ』だね」
そんな国島先輩に追い打ちをかけるように、二人がひそひそと喋り出す。ぐさっという音が簡単にして、国島先輩は体をくの字に折った。
「広岡。逃げたら私が許さないのだ」
「うぎゃっ! こんなところに伏兵が……!」
広岡の肩を掴んで、この隙に広岡が脱走することを阻止する。私よりも高い位置にある肩。ごつごつとした肩。……私のとは比べ物にならない肩。そうも思った。
*
男バスとの縁もあり、磐見の女バスと練習試合をすることになった十月。エマが奏歌が来ると言って朝からずっとうるさかった。
「ソウカはまだですかっ?」
「もう少しだと思うから、アップしてたら来るんじゃないかな」
「アップ! 了解です!」
ぐいっと何故かエマに腕を引かれて、私も強制的にアップをする羽目になる。まぁ、アップならつき合ってやってもいいのだ。
「奏歌が来るのがそんなに嬉しいのだ?」
「嬉しいです! まだジョウには会えてないですけど、ソウカに会えたら泣きたくなります!」
「…………泣きたくなるのだ?」
「大好きですから!」
にぱっとエマが明るく笑った。大好きだから、会えたら泣きたくなるくらい嬉しい。それは少しだけ私にもわかる。……会えたら、だけど。そんなことを思っていると、磐見のバスケ部がやって来た。
私の中学の先輩だった種島都樹を先頭に、五人が体育館の中に入ってくる。
「凪沙ちゃん! 久しぶりだね!」
どうやら今日は、テンションが高い方の種島先輩らしい。まったく、灯センパイといい私の年上の知り合いは裏表激しすぎなのだ。
「……お久しぶりですのだ」
「ソーカー!」
エマはその後ろにいた奏歌に抱きついてすりすりしている。奏歌はやれやれと肩を竦めて、隣の奈々ら微笑んでいた。
「はじめまして、南田七海です。本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。いい練習試合になることを祈ってます」
監督同士が握手をする中、見たことのない磐見の二人と目が合った。なんとなく会釈をして、私はすぐにアップを終わらせる。
「……意外とうちって貝夏の人と交友あったんだね」
「そうみたい」
そんな会話が聞こえてきた。
結局試合は貝夏の圧勝で、何度繰り返しても磐見が勝ったのはたったの一回だけだった。
「ソウカはまだまだです!」
「……精進します」
アメリカで一緒に育った二人は、姉妹のような会話をしている。隣ではうちの三年と一年浪人した種島先輩がとんでもないオーラを放って話していた。
「次はボコボコにしてあげますね、貝夏さん」
「何言ってるんですかぁ〜。次もうちの圧勝ですよ」
「灯! 変な挑発しないの!」
「……どっちもどっち」
関わりたくないので距離をとる。
「佳乃と彩芽も何かあったら言ってね」
「……悔しいです」
「いい勉強になりました」
「素直で可愛い後輩だ……!」
「……灯と交換して」
「ちょっと! 私先輩ぃー!」
体育館の外に出て、遠くから聞こえてくる声が別世界のものになった頃。別の音が近くから聞こえた。
ボールが壁に当たる音だと思う。私は体育館の壁沿いに歩いてその音を見つけた。そこにいたのは、壁に向かってサッカーボールを蹴っている男子だった。
原因は知れた。すぐに興味がなくなったから、さっさと元の場所に戻ろうとする。きっと磐見はすぐに帰るだろうから、磐見が視界に入らない場所には行けないだろう。
踵を返して歩き出す。
「あぶねぇ!」
よく知っている声が体育館裏に響いて、刹那、後頭部に何かが当たった。倒れる間際にボールだと理解して、重力に逆らえず私は倒れた。
*
「だからいいって言ってるのだ」
「それはこっちの台詞だっての」
サッカーボールが後頭部を直撃しても、漫画のように気を失うわけはなく。何故かその場にいた広岡と体育館に戻ったが、これまた何故か家に送られることになった。
「だいたい怪我なんてしてないのに、みんなも磐見もお節介なのだ」
腕を組んで思い出す。特に幼馴染みの灯センパイが、「大ちゃんに送ってもらいなよ〜」とうるさく――広岡もノリで快諾して今に至るのだ。
「それだけ愛されてんだろ?」
「それはないのだ。そもそも二人乗りなんて恥ずかし過ぎ」
「冗談じゃなくてマジだって」
「…………」
冷たくなった風に季節を感じていると、広岡が背中を向けたままそう言った。私は風のせいで聞こえなかったことにして、紅葉を眺める。
そんなことをしていると、あっという間に家についてしまった。
「意外と早かったなぁ」
感慨深げに高尾が呟く。早くはないと思うのは私だけ?
「……一応礼を言うのだ、広岡」
広岡はそんな私を見、「礼を言われるようなことはしてねーよ」と笑う。
「上がって茶でも飲むのだ?」
社交辞令として聞いてみる。広岡のことだから、多分――。
「本当ですか?! 飲む飲む!」
――予想通りの台詞が返ってきて、私は苦笑しながら広岡を家に招き入れた。
リビングに通してしばらく待ってもらう。その間に私は緑茶を冷蔵庫から出してコップに注いだ。
「広岡」
リビングに入ると、何故か広岡がいなかった。
私は微妙に開いている襖を見つけて、隣の和室に足を向ける。すると、広岡は電気もつけずにそこにいた。
「広岡」
「……ッ! み、緑ちゃ……」
慌てる広岡を見ても、私はやけに落ち着いていた。もう心の整理はついているからだろうか。
「お母さんなのだ」
そう言うと、仏壇の前にいた広岡はわずかに俯いた。
会えたら泣きたくなるほどに嬉しい。それは会えたらの話で。
「え、っと。勝手に入ってごめ……」
「気にしてないのだ」
私は広岡にコップを差し出して、「飲むのだ?」と尋ねる。広岡は珍しく低いテンションのまま頷いて、一口飲んだ。
「……今の広岡はうざいのだ」
広岡の表情は、暗くてよく見えなかった。リビングから漏れる明かりが、微かに震える広岡の背中を捉えている。
「どうしてそんな反応をするのだ? ……私は、いつも通りでいてほしい。いつも通り広岡には馬鹿みたいに笑っていてほしいのだ」
私のお母さんは、広岡みたいな人だった。広岡が側にいてくれたら、お母さんが側にいるみたいで本当は嬉しかった。
「それが望みなら、笑っててやるよ」
大事なことを言葉にできないまま、振り向いた広岡は笑っていた。灯センパイの裏に何かを隠したようなそれと、エマのまっすぐなそれを、足して二で割ったような笑顔だった。
*
ウィンターカップの予選が始まる十一月、私は週一の休みを利用してある場所に来ていた。
「なんで広岡もついてくるのだ」
隣を一瞥すると、広岡が曇天下の太陽のような笑顔で答えた。
「一応挨拶しようと思って!」
「しなくていいのだ、馬鹿」
「おっ、今の拓磨くんそっくごめんなさい」
私が睨むと広岡は即座に謝罪して、両腕を後頭部に持っていく。それでも笑っている広岡は、広岡曰く私の望みを叶えてくれていた。
「もういいのだ。それよりもなんで今日だって知ってるのだ?」
今日はお母さんの命日だった。偶然にも休みだった今日の墓参りは、曇天がさらに気分を暗くさせている。
「茶野先輩が教えてくれたんだよ。あ、別に聞いたわけじゃなくて……」
「灯センパイなら聞かなくても勝手に言うからいいのだ」
お節介でお喋りなとこ。あの人は昔から変わっていなくて、お母さんそっくりだった。
私が引っ越して拓磨の家と疎遠になったのは、お母さんの病気が原因だった。癌の治療の為に別の地に行き、お母さんがいなくなってからもしばらくそこで暮らしていた。
その時に通っていた中学の先輩が磐見の種島先輩と三峰先輩だったけれど、今はどうでもいい話だろう。
「お母さんに挨拶して広岡になんの得があるのだ?」
何気なく聞いてみる。
「別に損得で動いてねーよ。ほら、理屈じゃなくて本能だってよく言うだろ?」
微妙に違うと思ったけれど、広岡は迷うことなくそう答えた。
「……そう」
「どうした? 今日はそっちがらしくないんだな」
「う、うざいのだ?」
「んなことは思わないけど」
私にデコピンした広岡は、不意に墓の前で足を止めた。
「……ここなのだ」
内心では驚きながらも、私は表に出さなかった。広岡は、刻まれた名前さえ見ずに止まったように見えたから。
「……なんか思ってたよりきれいだな」
「どうせ私たちの前に誰か来たのだ」
「そっか」
広岡は短く答えて、墓の下部分にある線香を確認した。後ろから私も見ると、新しいそれらが立っている。
「ほら」
少し得意気に言う。広岡は笑顔のまま振り向いて、私に手を差し伸ばした。
「じゃ、俺らもやりますか」
「…………」
私は無言で頷いた。持っていた線香を広岡に手渡して、再び何故広岡は他人の墓参りにここまで真剣になれるのだろうと思う。
結局、私は聞けなかった。