第五話 キミに近づく
「ジョウは今、誰を見てるんですか?」
びくっと私の肩が震えた。けれどエマさんは俯いていて、私に気づいている様子はない。
「あの頃もそうです」
「……あの頃は、誰も見てなかったよ。それに、エマのこともそういう目で見れなかった」
エマさんは顔を上げて、そしてロドリゲス先輩の視線を追った。追ってしまった。
「……誰ですか?」
エマさんの碧眼が揺れる。二人に見つかってしまった私はもう隠れる意味がなくて、恐る恐る姿を現した。
「オレのコウハイ」
「なら、〝ワルいムシ〟?」
エマさんが私を、ストーカーを見るような目で睨んだ。実際ロドリゲス先輩の言う通り、私たちはただの先輩後輩。そう思われても仕方がないってわかってるけど――辛い。
「まさか。チエが今、エマの言うオレが見てる人だよ」
ロドリゲス先輩はそう言って、私のことを手招きした。
「……えっ?」
「ジョ、ジョウ? 今なんて……」
「オレのコウハイで、好きな人」
「……ッ?!」
目を見開いて、エマさんは私に視線を移した。私だって目を見開いて、ロドリゲス先輩を見つめる。
「そんなところにいないでおいでよ」
「あっ、は、はいっ!」
右手と右足、左手と左足が同時に動く。ロドリゲス先輩はそんな私を面白そうに見下ろして、肩に手を回した。
「ジョウは……ニッポン人が好き?」
エマさんが言葉を絞り出す。
「そうじゃない。チエだから好きになったんだよ」
そんなエマさんに、ロドリゲス先輩ははっきりと告げた。
私は未だに現状を把握し切れなくて、呆然とロドリゲス先輩を見上げた。
「エマと一緒にいるのは楽しかった。けれど、告白された途端に消えてしまったんだ」
「ワタシと一緒、楽しくない……」
じわっ、とエマさんの涙腺が緩んだ。
「ろ、ロドリゲス先輩。どうしてそんなこと……」
……言うんですか。
「はっきり言えって言ったのはエマだからね」
私は何も言えなくなった。確かにそれもそうだけど、もう一つ。ロドリゲス先輩はエマさんにわざと嫌われようとしていた。
それはロドリゲス先輩なりの優しさで、確かにフラれた相手に優しくさせるのは――苦しい。
「Thank you,Joe」
流暢な英語でエマさんは笑って、涙を流した。
「ワタシ、フラれたですけど、ニッポンに来れて良かったです。ジョウやジュンやソウカ、大事なチームメイトに会えてハッピーです! ワタシ、何も間違ってなかったでした!」
ヒマワリのような笑顔を残したエマさんは、そうして背中を向けて去っていった。
ロドリゲス先輩と私は、そんなエマさんの背中を見送ることしかできなかった。ロドリゲス先輩は私のことを好きだと言ってくれたけれど、それが本当かどうか信じられなくて喜べない。
「……本当に、私のこと好きなんですか?」
呟くように尋ねると、ロドリゲス先輩が私の手を握った。
「チエがオレを好きだってことはすぐに気がついたよ。それでエマを思い出して、正直最初はキミに近づきたくもなかった」
距離を置こうとしていたと言われ、だけど私はそれに気づいていなかった。そんな自分の愚かさに恥ずかしくなる。
「けど、見てるうちにエマとは違うって思ったんだ。全然話しかけて来ないしね。同じだったのは一緒にいて楽しいってことだけで、気づいたら好きになってた」
――好きになってた。
「ロドリゲス先輩の言う通り、私も先輩のこと好きです」
誠意には誠意を。すると、さっきよりも強く手を握られた。
「だからこそ、私でいいんですか? って思います」
不安なんだ。すべてがまったく同じ人間なんていないから、ロドリゲス先輩と自分が釣り合ってないように思えてしまう。
かつて〝四天王〟と呼ばれて嫌われた私は、必要以上にそう考えるようになっていた。
「そんなこと考えたらダメだよ」
冷静さの中に熱を込めた瞳で私を貫き、ロドリゲス先輩は指で私の唇を塞いだ。
「ッ?!」
「チエはもっと自分に自信を持つべきだ。チエのことを好きなたくさんの人の為にも、なによりも自分の為にも」
「自信……」
ロドリゲス先輩の言葉を何度も何度も繰り返す。
「……ありがとうございます。私、ロドリゲス先輩のおかげで自分のことが好きになれる気がする」
いつも、大嫌いだった。誰よりも自分が嫌いだった。だからロドリゲス先輩に近づけなかったのかもしれないし、ロドリゲス先輩だったから好きになったのかもしれない。
「こんな私を好きになってくれてありがとうございます」
誰にでも好かれる人はきっといなくて、それでも誰かは好きになってくれる。
それはエマさんにも当てはまることで――。
「ジョウ!」
見ると、エマさんが去っていった方向から奏歌が金髪の男の子を連れて走ってきた。
「ソウカ、ジュン」
「アニキ! こっちに来てたならもっと前からちゃんと言えよ!」
「え? ごめん。会いたくないかなぁって思って」
「なんでだよ!」
「アイツのことがあるし、あ〜……オカアサン? も嫌かなぁって」
「連絡寄越さねぇ方がイヤだわ!」
「あははっ、相変わらずだね二人とも」
「この人って……」
奏歌は私に微笑んで、「ジュン。ジョウの弟なんだよ」と紹介してくれる。
「……あ、やっぱり!」
お互い黒髪よりも金髪に近くて、なんとなくそうかなぁと思っていたけれど――本当に家族だったんだ。
「そういえば、さっきエマに会ったんだけど『またね』ってジョウに伝えてって言われてさ」
「アイツ、オレたちでパーティやろうとかなんとか……」
「パーティ?」
ロドリゲス先輩が目を見開く。それは私だって同じだった。
「エマって昔から何もなくてもパーティしたがる人だったでしょう? ほら、家族みんなでって言って」
楽しそうに奏歌が笑った。見上げると、ロドリゲス先輩が目を細めて微笑んでいる。
家族みんなでと言えるエマさんはとても強い人で、奏歌もジュン君という人もきっとエマさんが好きなんだろう。ロドリゲス先輩だって恋愛対象として見れないだけで、エマさんのことは嫌いじゃない。その証拠は――
「いいね。エマとオレが向こうに帰る前にやろう」
――そう曇りなく言えるロドリゲス先輩の中にあった。
*
気配がして顔を上げると、エマが戻ってきていた。
「おかえり」
私が言うと、エマは「聞かないですか?」と尋ねる。
「別に興味ないのだ」
素直にそう言う。エマはくしゃっ、と笑って伸びをした。
「思ってたのと同じでした。ワタシフラれました」
聞いてないんだけど。けど、エマにそれを言っても聞かないから言わないでおく。
「でもジョウ、思ってた以上に幸せそうでした。だからワタシも幸せです」
自分に言い聞かせるように、エマが私に語る。エマは好きな人の幸せを願える人らしい。私だったら絶対無理だ。
「……そ。次は試合だけど、いけるの?」
「何言ってるですか! 気持ちは別々です!」
うちの主将は恋愛柄みで試合に影響を及ぼしてたけど。そうならないように、私もエマと同じように気持ちを切り換える。
「二人とも〜! そろそろ行こ〜」
呑気な灯センパイの声が聞こえてきた。あの人がわざと呑気に言っていることは知っているから、それに救われるなんて凄く不愉快だけど。
捻くれた私はエマと一緒に歩き出す。茎津先輩と幹先輩もそこにいて、私は次を見つめた。
*
私はロドリゲス先輩と歩きながら、凜音からのメールに書かれた集合場所に向かう。その間は他愛もない話に花を咲かせて盛り上がっていた。すると前の方に、私の元主将の蛍と元チームメイトの奈々が一緒にいるのが見えた。意外過ぎる組み合わせに目を丸くすると、二人も私のことに気づく。
「ちょうど良かった! あのね、昨日の試合すっごく良かったよって蛍ちゃんに言ってたところなんだ!」
「奈々ちゃんの誉め言葉、凄く擽ったいよ」
熱弁する奈々に、困った表情で笑う蛍。見たことのない二人の素顔が私の脳裏を焦がしていた。
「ご、ごめん、もっと話したいけど試合の時間があるから行くね!」
驚いて、試合時間を言い訳に黙って見守っていたロドリゲス先輩の元へと急ぐ。
自己主張できず、心を壊した奈々。
病弱以外は何不自由なく生きてきた蛍。
人は変われるんだなって本気で思って、私もそうありたいと思った。
『また試合しようねー!』
『次は私とも試合してねー!』
慌てて振り返ると、二人が楽しそうに手を振っていた。
私は立ち止まってそんな二人に向かって叫ぶ。言うつもりなんてなかったけれど、そうしたくなった。
「私ッ! 〝四天王〟でいることが怖くて青森に逃げたの! そこで今のチームメイトに出逢って、凄く凄く楽しくってしょうがなくって!」
逃げたのが青森なのは、ただ単に推薦が来ていたから。それさえなかったら私はロドリゲス先輩にも出逢えてない。
「青森に……行って良かった! みんなとももう一度会えて、ちゃんと話せて本当に良かった!」
決して近道とは言えなくて、遠回りばかりだったけれども。私はその道を選んで良かったと思った。エマさんも日本に来る選択をして良かったと言った。
「この道を選んで良かった! 試合、絶対またしようね!」
二人の返事を聞かずにロドリゲス先輩の手を引いて走り出した。廊下の冷たい空気が私の流す嬉し涙を撫でた。
「――――」
「ッ!?」
刹那、風に乗ってロドリゲス先輩が私の名前を呼ぶ。無理矢理走る足を止められて、バランスを崩した私をすぐさまロドリゲス先輩が支えてくれた。
「ここに来てくれてありがとう」
私の涙を指で掬って伝えてくる。
「選んでくれてありがとう」
今、私とロドリゲス先輩がこうしているのは――すべて日々の選択から成り立っている。
たくさんの〝もしも〟が私の脳内を占領した。一つでも違っていたら、私はロドリゲス先輩に想いを伝えるどころか出逢えてすらいなかった。それは想像もできないほど大きな話で。
「ロドリゲス先輩こそありがとうございます」
何が、と聞かれたら、全部、と曇りなく答えられる。私は泣かないで笑っていたくて、頬を緩ませた。
ロドリゲス先輩の瞳にそんな私が映って、途端に恥ずかしくなり顔を伏せた。ふっとロドリゲス先輩は笑みを溢し、私は身を縮ませる。
「顔を上げなよ」
甘い、好きな人の声が頭上から降ってくる。いやいやと子供のように首を横に振ると、顎にきれいな指がそっと当てられた。
「ッ!?」
予想通りに上を向かされて、さっきよりも近くなったロドリゲス先輩の顔に驚く。
「目、閉じて」
その言葉の意味は知っていた。私は迷うことなく素直に目を閉じた。音もなく唇に熱が触れて、それは私を満たしていく。
……ロドリゲス先輩。恥ずかしいから口には出さないけれど、私は――。
――貴方に出逢えて、本当に良かった。