第二話 夏と春に描く
初夏。俺は普段使っている体育館とは別の体育館に足を運ぶ。
「あ、拓磨さん!」
そして、同い年のチームメイトの拓磨さんの元へと駆け寄った。
「赤星か」
「拓磨さんも女バスを見にきたの?」
けれど、拓磨さんは何故か無言を貫く。
「そういえば、拓磨さんの幼馴染みの先輩って女バスの監督をしてるんだよね?」
「それがどうした」
「女バスって誰がどのポジションでどんな評価されてるの? 教えてほしいなって思ってさ」
「……幼馴染みだからってなんでも知っていると思うなよ」
拓磨さんは嫌そうな表情をしたけれど、俺の目を見て渋々と口を開いた。
「灯は選手兼監督を務めるC。ゴール下から不動で、メンバーに指事をする姿からついた通り名は《暴君》。藍沢は部長で、PG。作戦をすべて考えて勝利へと導く姿からついた通り名は《策士》。副主将の水樹はSGの点取り屋で、高度な手さばきでコートを錯乱させる姿からついた通り名は《魔術師》。気配を消すことに特化した紺野はPF。副部長で、それをパスに利用する姿からついた通り名は《隠者》。試合記録はゼロ。部活にすら顔を出さない幽霊部員の銀之丞。一年で主将を務める初心者の橙乃はSF。圧倒的なフェイントでディフェンスを封じる姿から《ペテン師》という通り名をつけられた。……一部の奴は、《ペテン師少女》とも呼ぶらしい」
拓磨さんはそこで言葉を切る。そして、「お前は何しにここに来たんだ」とため息をついた。
俺たちのいるギャラリーからは、コート全体が良く見える。俺は頬杖をついて拓磨さんに笑みを見せた。
「だって、みんな見てたら面白いじゃん」
理由はそれだけ。俺は拓磨さんに手を振って退散する。拓磨さんは、幼馴染みの先輩のことをずっとずっと見つめていた。
今日はたまたま寄っただけだから中庭を通ってさっさと帰ろう。そう思ったけれど、目の前に巨大な水筒を持った誰かが現れた。目を凝らすと、女バスのジャージを着ているのがわかる。
……夏なのに熱くないのか? そんな疑問が最初に浮かんだ。けれど、小柄なせいで水筒を持ちきれていない姿を見るとそれはすぐに消え去った。俺の予想通り、紺野は足を縺れさせ――
「きゃっ!」
――ドサッと、派手な音を立てて倒れる直前に俺は紺野の下敷きになった。
「ってー! 大丈夫? 紺野」
「あ、あ、あの、だ、だ、だいじょぶ……! ごめんなさい赤星くん!」
長い前髪に隠れていて、紺野の目はまったく見えない。けれど、顔が真っ赤になっているのはわかった。
「はい」
俺は紺野を支えながら、近くに落ちていた水筒を拾って手渡す。
「……あ、あ……」
「ん?」
「……ありが、とう」
ようやく口にした言葉は、ただのお礼だった。
「わ、私、鈍臭くて……迷惑だったよね……」
「なんで? 迷惑だって思ったこと一度もないけど」
「で、でも……鈍臭いのは本当でしょ……?」
「なんで? 女バスで活躍してるのに?」
言うと、紺野が目を見開いたような気がした。
「立てる?」
素早く頷き立ち上がる。そして水筒を持ち、俺が来た方向へと体を向けた。最後に少しだけ振り返り、紺野は律儀にもう一回礼を言って頭を下げた。
「どいたま〜!」
そう返して歩き出す。そして、さっき目に焼きつけた――橙乃を思い浮かべた。
*
私はそのまま手を引かれ、別の体育館に連れ去られる。
「お待たせー!」
そこには、いつもの男バスの面々がいた。
「ちょっ、赤星くん! 急にこんなところに連れてきてなんなの?! バカにしてるの?!」
私を連れ出した赤髪の少年は、赤星くんだった。時々話しかけてくれる男バスの人。私の男友達という感じの人。そして、ちぃちゃんの好きな人。
「まぁまぁまぁまぁ! 俺たち男バスと試合してくれない?」
「……はぁ?」
けれど、そんな彼の思考はまったくわからなかった。
「どういうことだ、赤星」
「だってさ、橙乃って勿体ないじゃん。磨けば光るダイヤの原石って言うの? そんな感じしない?」
「何言ってんだ、お前」
「意味わかんないんだけどぉ」
そのまま彼らが言い合いを始めようとしたその時、私は声を荒らげた。
「そんなの無理だから!」
しん、と場が静まり返る。
「え、無理?」
「女バスはもう私しかいないの! だから、試合なんてできないって赤星くんもわかってるでしょ?!」
自分で言ってて悲しくなった。今朝見た退部届け。ちぃちゃん。私の居場所は、もうここにはないんだ。認めざるを得なかった。
「……もう帰る」
立ち去ろうとした私の腕を誰かが掴む。
「誰が女バスって言ったんだよ」
「……え?」
「俺は橙乃と試合したいって言ったんだけど?」
「そんなことできるわけないだろう」
「僕もあんまり気が乗らないなぁ〜」
「どうする? 橙乃」
赤い瞳が私を見つめる。そうだ。もう、一人ぼっちなんだ。なら……
「……いいよ」
どうにでもなれ。これが私の最後の試合なのだから。
*
男バスのメンバーは全員一軍になったらしい。三年ではなく同い年のいつものメンバーを私は見据え、唾を飲み込んだ。
笛の音でボールが上げられる。一応跳んでみるけれど、思った通り届かなかった。
……ジャンプボールなんて、始めてかも。それに相手に取られたのも。いつも凜音はこんなものを取っていたんだ。
「あっ」
気づけば点が決まっていた。
「ッ!」
茶野先輩は、いつもあんなのを止めていたの?
「ほら、橙乃のボールだよ」
「わかってる!」
軽く肩を回した後、ドリブルを始める。もう、ゴールしか見ていなかった。
「行かせねぇよ」
「絶対抜く!」
「はぁっ?」
「これが、私の役割だから!」
言い放ち、青原くんを抜く。
「青原を抜いた?!」
「余所見しないで!」
「なっ……!」
「緑川くんも絶対に抜く!」
驚きを隠せない緑川くんに向かってフェイントを仕掛ける。
「拓磨さん、抜かせてあげなよ!」
――タンッ
「え……?」
赤星くんは私を止めようとはせず、あっさりと抜かせてくれた。私はさらに紫村くんも抜き、センターの前までくる。
「あらら」
ここまで来るとは思わなかったようで、黄田くんは目を見開いた。私は黄田くん越しにボールを投げ――
「入れぇぇえぇえぇぇぇッ!」
――ダンッ。思いっ切り的外れな方向に投げてしまった。
「「…………」」
く、空気が重たい。まさか私が外すとは思っていなかったようだ。けれど、私だって入るなんて思っていない。だって、シュートを決めるのはいつだって琴梨だったから。
「はぁっ……はぁっ……」
「行かせてもらうぜ」
ドリブルをする青原くんの前に立ちはだかる。けれど抜かれた。
「ッ!」
いつも――いつもディフェンスは凜音の役割だった。
試合終了の笛が鳴り、味わったことのない疲労感が私を襲う。そのまま両膝を床につき、息を整えた。
試合は結局、一点も入れられずに私が負けた。わかりきったことだった。
「立てる?」
赤星くんが差し伸ばす手を払う。
「ねぇ、男バスに来ない?」
そしてまたわけのわからないことを提案された。
「橙乃には才能があるよ。けれど、女バスは廃部同然。橙乃の才能は開花しない。女バスと違ってここに来ればバスケができるし、悪い話じゃないと思うんだけど」
「…………」
私に、才能なんてあるの? もしそれが本当ならば、私は――
「――嫌」
「いや?」
そして両手まで床につける。だって、私に才能があるのなら――。
「私、諦めてたの。一人だから、これが最後の試合なんだって。けれど、みんなとバスケして楽しくなった。諦めたくなくなった。でも、一人じゃ何もできないって思い知らされた」
凜音がボールを取り、オフェンスを防ぎ。茶野先輩がゴールを守り。私のフェイクとちぃちゃんのパスでディフェンスを攻め。琴梨がゴールを決める。
「みんながみんなの欠点を補っていたことはわかったから、必ず来春までに部員を集めて」
――私は今でも、入学式の出来事を忘れない。
「茶野先輩があそこまでして守りたかった女バスを、廃部になんて絶対にさせない」
私に才能があるのなら。
「女バスは私が絶対に守るから」
「……そっか」
赤星くんは、眩しいものを見るかのように目を細めて微笑した。
「あ、でも」
「ん?」
「楽しかったからまた来てもいい?」
私は自分の気持ちを素直にぶつける。
「あははっ! 勿論、橙乃ならいつでも大歓迎だよ!」
すると、赤星くんは心から笑って快諾してくれた。
「ありがと! 今度は1on1で勝負しよう!」
「ん、楽しみにしてる!」
私たちは互いに手を取り合い、火花を散らす。負けない。その為には、今よりも練習量を増やさなくちゃ。
*
放課後はいつも通り体育館でシュート練習。相変わらず外してばかりだけど、感覚は掴めてきた。これならいけるかもしれない。
脳内で赤星くんを思い浮かべる。今日も来てくれるのだろうか、そう思うと少し鼓動が早くなった。きっと、戦いたくてウズウズしているんだ。
――ギィッ
「ッ!?」
急いで振り返るけれど、逆光で目が開かなかった。うっすらと開けた目に飛び込んできたのは、同い年くらいの少女。
「……誰?」
「あ、ここにいたんですね! あ、あの私、幽霊部員の……」
私はその言葉を最後まで聞くことがないまま、彼女を抱き締めた。
「えっ? えっ!?」
「ありがとう……。来てくれて、ありがとう……!」
何故不登校だったのかはこの際どうでもいい。
「これからよろしく!」
「お待たせしてすみません……。よろしくね!」
ただ、来てくれただけで嬉しかった。
*
半年後、桜咲く季節。二年生になった私と蛍の勧誘で集まった新入部員は二十名。女バスの存続及び試合には充分な人数だった。
私は、茶野先輩が守りたかった女バスを守れたのだ。それが誇らしかった。
「こんにちはー」
開けた扉の先では男バスが練習をしている。私は女バスが復活しても、ここに来るのはやめなかった。
「あ、橙乃!」
「遅い。早くやるぞ」
「こんにちは、橙乃さん!」
「あ、猫宮。どうも」
猫宮は「頑張ってください!」と私を応援し、私は「男子なんかに負けないんだから!」と応じる。
「最初は誰からやる?」
私の言葉に、みんながやる気に満ちた顔をした。やっぱり、バスケっていいな。心からそう思った。
けれど、その事件が起きたのはいつかの夏の日。
「あれ? 黄田がまだ来てないな」
「ほんとだ。じゃあ私、探してくるね」
いつもいるはずの黄田がいなかった。
「あ、じゃあ頼む!」
女バスにも顔を出しながら、男バスで試合をする日々。私はこの日常が大好きだ。だけど、時々一年前の日常を思い出す。
あれから仲間とは疎遠になった。隣の教室にいるはずなのに、会えない。……いや、会わない。
溜め息を押し殺して私は走った。開け放たれた扉から出た私は、教室に足を運ぶ。彼が姿を現す確率が一番高かったからだ。
ひょこっと黄田のクラスを覗いてみる。誰もいなかったけれど、クーラーがつけっぱなしだった。
不審に思った私は辺りを見回す。すると、隣の教室から音が聞こえた。
「…………なかなか消えないなぁ」
この声は――
「――黄田?」
「ッ!?」
驚いた顔で振り向く黄田は珍しいな、なんて思った。
「何してるの?」
「へっ? い、いや別に」
「怪しいから」
「うっ」
黄田は窓側にある机の一つを必死になって隠している。
「って、黄田! その席は!」
違うクラスでも知っている。その席は、ちぃちゃんの席だ。
「離れてよ!」
扉から一気に駆け上がり、黄田を蹴る。さっきの黄田の態度は、明らかに悪いことをしている態度だったから。
「いった!」
「何よこれ……」
ちぃちゃんの机。そこには、黒いペンで大きく《隠者》と書かれていた。
「……あんたが書いたの?」
声質も、目も、鋭くなる。
「ち、違う!」
「じゃあ」
そこまで言って言葉を切った。黄田の手には、古ぼけた雑巾が握られていた。
「それ……消そうとしてたの?」
「このことは内緒だよ?」
黄田は、私からもその事実を隠そうとした。黄田は、私のことも守ろうとしたかのような悲しそうな表情を珍しく浮かべていた。
「いつから?」
「去年」
「ッ!」
去年から、ちぃちゃんは? なのに私は知らなかった。気づきもしなかった。
「……私の、せい?」
「それは違う! ……俺は、そう思う」
黄田は否定してくれたけど、自信がなさそうなその口調は否定できないということだった。
『――ッ! ……ごめ、ごめんな、さい……。もう、唯ちゃんの側には……いられ、ない』
あれは、私から離れようとしたあれは――やっぱり、そういうこと? ちぃちゃんは私の相棒だったから、私がいない間にそういうものの対象になっていたってこと?
『あ、あの、私……好きな人……できた……かも』
『え、と……赤星くん……』
「……もしかして、あれも……」
思わず飛び出す。私は知らない間に何度も何度もちぃちゃんのことを傷つけていた。不甲斐ない。相棒失格だ。
数日後、私は退部届けを出した。小塚先生は離任してしまったから、まったく知らない先生に渡した。
*
私は退部した後、一度も男バスに行かなかった。もちろん赤星との接触も避けた。これで、ちぃちゃんは赤星に近づける。根拠はないけどそう思うことで心を癒した。
そして、私たちはそのまま卒業した。
春休み。自室にいた私はイヤホンから流れる歌に合わせて口ずさむ。すると、手元のスマホにメッセージが届いた。
友達じゃない人からのメッセージ。だけど、表示された名前と内容が誰からなのかを物語っている。
「あかほし……?」
『卒業おめでとー、橙乃! 俺の進学先って神戸だからさ、明日出発しなきゃいけないんだよね。だから見送りに来てくれない?』
多分、私は赤星にとって大勢いる友達の中の一人だ。明日はきっとみんな来る。なのに。
「……どうしよ」
迷う。
「何が?」
「ッ!? 何しに来たのお母さん!」
「良いこと教えてあげようか?」
「は、はぁ?」
お母さんは笑みを浮かべ、「後悔だけはしないでね」と告げる。それは、すべてを見透かしたような瞳だった。
*
「あっ、橙乃ー!」
手を振られた。赤星に指定された場所には、何故か赤星しかいなかった。
「来てくれてありがと!」
「……別に」
「来ると思ってたよ!」
東京駅は、春休みとあってか混雑していた。雑音をBGMに、ホームで私と赤星は対面する。
「会うのはあの日以来だな」
あの日。私がちぃちゃんを傷つけていたと知ったあの日。
《ペテン師》の相棒故に苛められて。その《ペテン師》が好きな人の側にずっといて。傷つかない人がいるだろうか?
「私は二度と赤星には会わない」
「えっ、なんで?」
「これ以上、相棒を……親友を傷つけたくない」
ちぃちゃんはもう、親友とも思ってないだろうけど。
「…………」
「まぁ、赤星が神戸に行くなら話は別。必然的にさようなら」
この場から早く立ち去りたくて、早口になってしまう。これは私の悪い癖の一つだろう。そして、ホームには新幹線が着いたアナウンスが響いた。
「車内清掃も終わったようだし、さっさと入れば?」
「いや、ギリギリまでいる」
「なんでよ」
「…………」
赤星くんは無言だった。だからだろうか。時間がとても長く感じる。
「……そろそろ行こうかな」
「ッ!」
「好きだよ、橙乃」
「……え?」
赤星は口角を上げ、車内に飛び込む。すると、すぐに扉が閉まった。
赤星は振り向きスマホを取り出す。そしてそれを私に見せつけ、次の瞬間私のスマホがメッセージを受信した。
「ッ!」
慌てて取り出し、メッセージを確認する。
『返事はまた会った時にな』
同時に新幹線が走り出した。私も反射的に走り出す。ホームギリギリまで走るけれど、新幹線は既に点。私は少し息を整えた。
胸の動悸は、走ったからだと信じて。