第二話 幼馴染み
試合はただ流れるように進んでいった。あれから特筆するような出来事はなく、ブザーがなる。
『91対87で、常花高校の勝ち! 礼!』
「「ありがとうございました!」」
真っ先に顔を上げたのは蛍だった。
唇を真一文字に結んで、泣くことを必死に堪えながら鼻を啜っている。それでも我慢できずに、静かに泣いていた。
「…………」
初めて見た。試合に勝って泣いていた蛍が、試合に負けて泣いた姿を。きっと今まで泣いてきたんだろうけど、私の前で初めて見せたその涙には意味があった。
私が無言で廊下を歩いていると、凜音が瞬時に足を止めた。
「来てたんですか、洸!」
無意識に俯いていた顔を無理矢理上げると、洸くんだけじゃない。男バスの人たちが目の前に立って私たちを待っていた。
「まぁね〜」
「みんな、おめでとう」
にこっとロドリゲス先輩が笑う。その姿に見惚れていると、瞬間に目が合った。
「……え、あ……」
どうしよう、言いたいことはたくさんあるのに上手く言葉にすることができない。
「お疲れ様」
「……ありがとうございます」
結局、そう言うことが今の私の精一杯だった。
「ふっふっふっ、学。我の華麗なる……」
「あーはいはい。見た見た見た見た」
幼馴染みの二人の先輩は先に行ってしまい、他の先輩たちがそれに続く。後には洸くんと凜音、ロドリゲス先輩と私だけが残された。
「じゃあ、オレたちも……」
「――ジョウ!」
日本語に慣れてなくて、だけど何度も呼んで慣れ親しんだ名前だけはきれいな発音で。ロドリゲス先輩が今までにないくらい目を見開いて、ゆっくりと振り返った。
その人は全力でロドリゲス先輩に抱きつき、勢いで二人の顔が私によく見えるような位置に来る。
「会いたかった! ジョウ!」
エマさんは躊躇うことなくきれいな唇をロドリゲス先輩の頬に近づける。私の胸が凍りつく前に、ロドリゲス先輩は人差し指でエマさんの唇を華麗に制した。
「エーマ、キスはダメだよ」
子供に言い聞かせるような口調と微笑みで、ロドリゲス先輩がエマさんに言う。
「キスはダメ? 向こうではいっぱいしてくれましたです!」
「えぇっ?!」
じわっと、急に目頭が熱くなった。どうしよう、エマさんに勝てる気がしない――。
「驚くことでもないですよ。アメリカでは挨拶ですし」
凜音がそうフォローしてくれたけど、キスはキス。結構なダメージを負ったことに代わりはなかった。
ロドリゲス先輩が私に向かって苦笑して、エマさんを引き離す。
「あぅ……」
しょぼーん。捨てられた子犬のようにロドリゲス先輩を見るエマさんのその目は、まさに好きな人を見る目だった。
「ジョウ。ワタシ、留学してしまったジョウの後を追ってニッポンに留学しました。だから……」
きゅっ、とロドリゲス先輩の服の裾を掴んでエマさんが口を開いた。
「……だから、会えて良かったです!」
弾けるような笑顔を残して、エマさんは「また会うです!」と去っていった。その先には貝夏の人たちがエマさんのことを待っていた。
「オレたちも行こう。先輩たちに置いてかれるからね」
ロドリゲス先輩は何もなかったかのように微笑んで、一年の私たちに気遣うように先を歩く。その背中は先輩の背中。手を伸ばせば届く距離なのに、エマさんのこともあってか遠い存在のように感じた。
……それが、苦しかった。
*
ロドリゲス先輩に連れられて、会場の近くにあるホテルへと戻る。青森から来た私たちはここに泊まっていた。
「洸。向こうにこのホテル限定の飴が売っているので一緒に行きませんか?」
「行くー」
すぐさま凜音がそう言って、洸くんのことを連れて行ってしまう。その時にウィンクをされた気がするんだけど……なんでだろう。
「アイザワサンはコウの扱いが上手いよね。さすがガールフレンドって感じだ」
顔を上げると、ロドリゲス先輩と目が合った。瞬時に凜音のウィンクの意味がわかり、体が発火する。
「そ、そうですね!」
裏返らないように。そう心がけて私は答えた。
ロドリゲス先輩はくすっと笑って向こう側を指差す。
「来て」
その短い台詞に驚いて、だけどその驚きが大きすぎて私は無言で頷いた。
「はい」
自販機から出てきた缶を私に差し出して、ロドリゲス先輩はもう一つの缶の蓋を開ける。
「え?」
自販機の前に連れて来られた私は、無駄のない動作で飲み物を買うロドリゲス先輩を見ていることしかできなかった。
「それ、オレの奢りだから」
ロドリゲス先輩はシックな財布をポケットにしまって、常花のジャージを未だに着ている私は恥ずかしくなった。男バスとは微妙に時間がずれているから、試合に来たわけではないロドリゲス先輩は当然私服だ。
「……ありがとうございます」
冬の季節ではレアになる冷たいジュースは、そんな私の火照った体を冷やす。プシュッという音を立てて蓋を開け、一口飲んだ。
それを見届けたロドリゲス先輩も一口飲んで、しばらく沈黙が続く。それに耐えられなかった私は思わずこう口走ってしまった。
「え、エマさんに会えて良かったですね!」
本音じゃない建前を、なんでもない顔でロドリゲス先輩に言いたい。私はそれを実行して泣きたくなった。
「どうして?」
「……え?」
「どうしてチエはそう思うの?」
静かに、ロドリゲス先輩が私を見つめる。笑っていない、けれど怒ってもいない表情だった。
「だって、二人は幼馴染みじゃないですか」
代わりに私が笑う。こうなったらやけくそで、泣きたいとは思わなくなった。
「……素直じゃないんだね」
ロドリゲス先輩は、いつもの微笑みで飲み干した缶をゴミ箱に捨てた。
「じゃあ、また」
軽く手を振って、ロドリゲス先輩はエレベーターの方へと歩いていった。
私はまだ中身のある缶を片手に、女バスが泊まっているフロアの一角へと向かう。自分の部屋に入ると、同室の凜音はもちろん何故か星宮先輩たちがいた。
「先輩?」
「あー、来た来た」
「待ちくたびれた」
ベッドの上でトランプをしていた三人は、私も入れるように場所を開ける。私は開いた場所に座って、トランプを片付ける様子を見ていた。
「……で。話というのはなんですか?」
星宮先輩たちに視線を向けると、私たちに話があるらしい先輩たちは二人揃って口を開いた。
「実は、誕生日会をやりたいんだ」
「厨二病……いや、芽野先輩のね」
それって、もしかして――。
「確か今日ですよね? 誕生日。だから試合の時にらしくないことを言ったんですか?」
私が思ったことをそのまま口に出した凜音に、二人はむっとした表情で頷いた。らしくないことを言った事実を認めたくないらしい。
そんなところが二人はそっくりで、さすが双子だなと私は思った。
「こっ、これは先輩命令だからなっ! あんたらに拒否権なんてないんだぞっ!」
わたわたと夢先輩が私たちに向かって指を差す。
試合の時のパスよりも、今の方が自己中だと思うんですけど――なんて言えるわけがなかった。
誕生日会をすることに異論はなかったし、凜音も否定的な態度じゃないのはわかる。
「詳しい話を聞かせてください」
夢先輩は瞬時に黙って、愛先輩に次の言葉を譲った。直感で動く夢先輩より、損得で動く愛先輩の方が説明には向いていると私も思った。
「今日の九時から十時まで、私たちが泊まっている部屋でやる。誕生日プレゼントは私たちが用意したから心配しないで」
「割り勘ですか?」
「奢りだし! それと、高崎先輩とか招待したいから二人で今すぐ行ってきて! 早くしないとあの人らすぐ寝るから!」
「了解です」
凜音と私は部屋を出て、すぐに男バスが泊まっているフロアへと目指す。
「そういえば、高崎先輩の部屋ってどこだろうね」
「そんなの男バスに聞けば一発二発でわかるでしょう」
……一発二発? 突っ込もうか悩んだけれど、私は結局流した。
角を曲がり、男バスが泊まっている部屋がある廊下を歩く。ロドリゲス先輩が偶然いたりしないかな、なんて考えていると――手前の部屋の扉が開いた。高崎先輩は私と凜音に気がついて、私たちよりも先に話しかけてくれる。
「どうしたお前ら。この辺は男バスの部屋だぞ?」
「知っています。高崎先輩に用があって来ました」
「俺に?」
そう首を傾げる先輩に向かって、今度は私が口を開く。
「はい。今夜、主将――茅野先輩の誕生日会をすることになって、高崎先輩を招待しに来ました」
「空の? ……そういやあいつ、今日誕生日だったな」
思い出すように目を細めた高崎先輩は、けれど何故か渋り始める。
「先輩?」
「……その誕生日会、俺以外に男子来るのか?」
「今の段階ではなんとも。夢先輩は高崎先輩とかと言っていたので、他にも招待していいと思いますよ」
高崎先輩は一瞬考えて、隣の部屋の扉を叩く。顔を出したのは、私がさりげなく姿を探していたロドリゲス先輩だった。
「あれ、どうしたんですか?」
「お前さぁ、今夜暇?」
「……はい?」
腑抜けた声を出してロドリゲス先輩が目を丸くする。そんなロドリゲス先輩に覆い被さるようにして出てきたのは、洸くんだった。
「あ、やっぱリンだ」
おんぶされるように背中にのしかかってくる洸くんを押し退け、ロドリゲス先輩は高崎先輩の言葉を待つ。
「今夜空……茅野の誕生日会があんだけど、お前らも来るか?」
高崎先輩の誘いに、私は早くも心の中でガッツポーズをした。
「オレは暇ですけど……。いいんですか? オレ、カヤノセンパイと接点ないですよ?」
「いいんだよなくても! 祝う気持ちがありゃ充分だ!」
高崎先輩がロドリゲス先輩の肩を組んで熱弁する。洸くんはいつの間にか凜音の側にいて、ぎゅうっと抱き締めていた。
「洸も来ますか? 誕生日会」
凜音が洸くんにしか見せない笑顔で尋ねるけれど、洸くんはそんな貴重な笑顔を見ても動じなかった。
「面倒そうだからヤダ」
「飴もありますよ?」
「じゃあ行くけどさぁ」
うわぁ即答。高崎先輩はぐいぐいとロドリゲス先輩を引っ張って、私たちがいる廊下に連れ出した。
「紫村もあぁ言ってんだからお前も来い! 先輩命令だ!」
夢先輩と同じことを言う高崎先輩は、なんとしても男子の数を増やしたいらしい。異性の幼馴染みの誕生日会に自分一人が行くのは相当嫌なのだろう。
最終的にはロドリゲス先輩が折れて、その場は丸く収まった。