第一話 常花VS月岡
――〝四天王〟。
女バスの世界ではそれが絶対的な悪で。無垢な中学生の私たちは、純粋な悪に汚された。
銀之丞蛍。〝四天王〟を引き連れる《死神》――彼女が私たちの主将であり、道であり、そして諸悪の根源だった。
ラフプレーをしているわけではないのに、誰からも信じてもらえず、試合の後一人で啜り泣く蛍を私は知っている。……私だけが知ってる。
カタ、と音を立ててしまって。
『ッ! だ、誰かいるの?』
『……ごめん、見るつもりはなかったの』
蛍はぐっと眉を顰めて、泣かないようにしている。そんな彼女を誰が責められると言うのか。
『私、約束する』
『……え?』
『高校生になったら、蛍と対戦して怪我人を出さずに蛍を負けさせる!』
『……千恵ちゃん』
絶対だよ、私はがむしゃらに叫んだ。
*
そわそわそわ。ぐるぐるぐる。
「あーっ! もうっ、貴様なんなんだ!」
「すみませぇん!」
主将の茅野先輩が、きれいに染めた金髪のツインテールを振る。肩までのそれはべしっと星宮――あれは愛先輩の方に当たった。
「……厨二、何か遺言は?」
「ないわ! 我を勝手に殺すな愚民!」
ギャーッと芽野先輩が控え室の中央で火を吐く。私は無意識に、着替えていた常花高校女バスのユニホームを握り締めた。
「何か悩み事ですか?」
そう言って、さりげなく私の隣に凜音が座る。
五月から肩までの長さに切っていた藍色の髪は変わらずに、顔つきが大人っぽくなった凜音は私を見据えた。
「……悩み事っていうか。次の対戦相手を考えたら平常心ではいられないよ」
そう。次の対戦相手は月岡高校。私の元主将、蛍が進学した高校だった。
「豊崎との練習試合や、インハイの貝夏戦での怪我人はゼロです。だいじょう……」
「そんなんじゃないよ」
気づけば口走っていた。凜音は言葉を返さずに私の言葉を待つ。
「蛍と約束したの。怪我人ゼロで勝つからって。そのずっと前に、松岡さ……蛍の執事さんとも約束したの。蛍の味方でいる、側で戦うって。でも私、次第に怖くなって青森に逃げちゃった」
「それは逃げではありませんよ」
「……奈々も見てる」
「……千恵」
南田奈々。彼女は〝四天王〟の裏切り者で、誰よりも早く心を壊して逃げた子だった。
その子が今、この会場に来ている。元主将と元チームメイトの対戦。けれど先ほどの豊崎と貝夏戦以上のものが私たち〝四天王〟にはあった。
「見ててほしいって、自分で言ったんでしょう?」
凜音が柔らかく微笑んだ。
「……そうだね」
誰よりも早く心を壊してしまった彼女に、今の私たちを見てほしかったから。
私は次第に自分の心に整理をつけていった。
「ありがとう、凜音。話したらスッキリした」
「なら良かったです」
凜音は視線を前に向ける。そこには芽野先輩と星宮先輩たちがいて、また喧嘩をしていた。
「あの人たちは……!」
凜音が肩を震わせて、注意をしようと立ち上がる。私はそんな凜音を手で制した。
「いいんだよ凜音。先輩たちはあぁでないとダメなんだから」
「……ダメ?」
私は頷いて、高崎先輩の話を思い出した。
それは、なんでもない六月の上旬の出来事だった。自主練の休憩中に高崎先輩から話しかけられて驚いたのを覚えている。
『お前さぁ、四月辺りにあいつらのこと〝羨ましい〟とか〝楽しそう〟とか言ってたよな?』
あいつらというのは、茅野先輩と愛先輩、夢先輩のことだろう。
『……はい。楽しそうだったから』
あの頃の私は、〝四天王〟絡みで疲れていた部分もあって――チームメイト同士喧嘩して笑っている先輩方がそう見えてしまったのだ。
『…………お前には言っとくよ』
高崎先輩は、逡巡した後に口を開いた。
『空は中学三年の時、〝五強〟っていうクソみてぇな総称に押し潰されたんだ』
一瞬、高崎先輩が何を言っているのかわからなかった。
『……どういう意味ですか?』
『そのまんまだ。〝東雲の幻〟に試合で負けて、〝五強〟っていう肩書きに頼るようになってきた無責任なチームメイトに批判されて、自分を否定した』
どこか遠くを見るような目で、高崎先輩はそう語る。〝東雲の幻〟は凜音がその中の一人だな、なんて一瞬考えて
『だからどこか変になって、最終的に厨二病になることで自分を肯定したんだろうな』
高崎先輩から語られる茅野先輩の過去に震えた。
『俺は空じゃねぇからわかんねぇけどよ』
そこで言葉を切って、じっと私を見つめた。
『楽しそうに見えたのは、星宮たちが空に本音でぶつかり合っていたからじゃねぇの? 才能に妬みながら建前で接してた元チームメイトと違ってさ』
私は目を細めた。そうでもしないと泣きそうだった。
『まぁ、お前が楽しそうって言ったから俺が勝手にそう思っただけなんだけどな』
高崎先輩が自嘲気味に笑った。凜音が一瞬だけ唇を噛んだ。
「だからいいの。先輩たちはあのままで」
そして私は口を閉ざす。その時、控え室の扉が開いた。
「遅くなったな」
「うぇう、監督……」
「なんだその反応は」
ため息をついて、杖をつく初老の監督が部員全員をじっくりと見回す。
「時間だ、行くぞ」
「「はい!」」
監督と茅野先輩を筆頭に、私たちが続いていく。すると、星宮先輩たちが私と凜音を阻むように前を歩いた。
「なんですか」
凜音がすぐに眉を寄せてそう尋ねる。
「この試合……頑張ろーな」
「えっ?」
夢先輩が振り向いて、恥ずかしそうに唇を尖らす。愛先輩は無表情のまま振り向いて、指で茅野先輩を差した。
「あの人、一応三年だから」
せめていい試合にさせてあげたいでしょ? そんな風に言っているように聞こえた。
いつも芽野先輩と不機嫌そうに話す愛先輩からは、想像もつかないような台詞だった。
「確かにその通りですが、意外ですね。どんな心境の変化ですか?」
「心境の変化なんてものはない。だいぶ前からそうだった」
凜音の質問に即答した愛先輩は、話は終わりだとでも言うように前を向いた。
「あの人はあれでも、初めて僕らを認めてくれた人だから」
「夢、喋りすぎ」
ぐいーっと、愛先輩が夢先輩の頬を引っ張る。夢先輩は「いひゃいぃぃ」とギブアップの意思をすぐさま伝えた。
「……三人とも、支えあってここまで来たんですね」
私の思ったことを、凜音がそのまま言葉にして囁いた。
「すごいよね。……尊敬する」
「頑張らないといけませんね」
苦笑した凜音は、どこか嬉しそうだった。
不意に前方から気配がして、監督と茅野先輩が左側に逸れる。星宮先輩たちもそれに続くと、前から来た集団の顔がよく見えた。
「……ッ!」
私は無意識に警戒心を抱いて、凜音はその人から目を離せないでいる。
「あ〜、凜ちゃんだ〜!」
貝夏のエースで、私と凜音の中学の先輩だった茶野先輩は集団の中央から楽しそうに手を振っていた。
「試合頑張ってね〜」
「……頑張らない試合なんてありませんよ」
私はそんな二人の会話なんて聞けずに、一人の金髪の少女を見つめる。名前はエマ・ブラウン。ロドリゲス先輩の幼馴染みだ。
ずきっと胸が一瞬痛む。
あぁ、私、幼馴染みってだけで嫉妬しちゃうんだ。新たな自分の一面――いや、弱さを私は思い知った。
*
『それではこれより、常花高校対月岡高校の試合を始めます』
「「よろしくお願いします!」」
息を呑むほどに美しい銀髪がさらりと揺れた。
試合の時だけポニーテールにしているそれの持ち主は、紅い瞳を私に向けている。
「あの日の約束、果たしに来たよ」
「ありがとう。……でもね、私たちは負けないよ?」
蛍はにこっと微笑んだ。ベンチに目を向けると、松岡さんが月岡の監督として座っている。
「松岡の為にも、チームの為にも。……私にできることは、今度こそ――正々堂々と試合をすることだから」
寂しいな、一瞬だけそう思った。松岡さんとの約束がなくても、蛍はもう大丈夫だって思い知る。
「――試合……開始!」
ジャンプボールをとったのは、凜音ではなく〝五強〟の一人――枝松さんだった。
枝松さんはボールをすぐさま蛍に回す。蛍のポジションはSG――シューターだから、スリーを投げるのかと一瞬思って……その雰囲気に何も言えなくなった。
「一本!」
人差し指を立てるそれは、明らかにシューターのそれではない。
蛍はドリブルで切り込んで、主将の楠木さんにパスを回す。
「にゃははぁ〜! 蛍たんナイスぅ!」
乱暴にゴールに近づく楠木さんを、星宮先輩が二人がかりで止めに入る。
双子の力でボールをとった愛先輩は、凜音にパスを回して――凜音は瞬間に眉を顰めた。……凜音のマークについたのは、蛍だった。
「……まさか貴方、PGに?」
「はい、その通りです。さすが藍沢さんですね」
「……え?」
聞こえてきた会話に耳を疑う。今の話が事実なら、蛍はインハイからウィンターカップの間にポジションを変更したということだ。
松岡さんを見ると、彼は口角を上げて笑っていた。
「大胆なことをしますね……ッ!」
凜音がアイコンタクトもせずに投げた場所には茅野先輩がいて、刹那に私は全力でゴールに向かって走り出す。
茅野先輩がシュートしたボールはリングに当たり、私は月岡のCよりも早く飛んでボールをゴールに押し込んだ。
『常花が先制点!』
『反応はえー。つか、《死神》ポジション変わってね……?』
跳ねるボールを見つめながら、何故か蛍は楽しそうに笑う。
『……もう、試合で泣かないで』
これは、かつて私が蛍に言った台詞だった。そんな彼女が今、笑っている。涙を堪えて、私は枝松さんから始まったボールだけに集中した。
蛍の手のひらに収まったボールは、巧妙に楠木さんに回っていく。その技術は凜音といい勝負になりそうだった。
もしかしたら蛍は、シューターよりも司令塔の方に才能があったのかもしれない。今さらながらにそう思って、きっとそれを発見したであろう松岡さんの凄さに戦慄する。
「とーう!」
ぶんっと無造作に投げられたボールはコートを切って、月岡のSGへと繋がった。
「……ッ!」
けれど、夢先輩が真剣な表情で目を見開いてボールをカットした。ボールは偶然か否か愛先輩の元へと飛んでいって
――パシンッ
ボールの行方を計算した凜音の手に収まった。まるで司令塔が三人いるかのようなプレイに、味方の私でさえ魂が震える。
「あん……凜音! パスくれ!」
「決めてください!」
相手がカットできないギリギリのコースを貫いたパスは、ゴール付近まで走ってきた夢先輩に繋がった。
夢先輩はパスが来たことに一瞬だけ驚いて、スリーを決めた。
観客が湧く中、夢先輩は今にも泣きそうな表情で自分の手のひらをじっと見つめる。愛先輩がそっと夢先輩に近づいて、二人が小さくハイタッチをしたのを私は見逃さなかった。
*
――ビー。
『第2Q終了ー!』
私は流れた汗を拭った。48対44で、私たち常花の方が優勢になっている。
十分休憩の為に控え室に行こうとすると、蛍と松岡さんが視界に入った。一言では表せない絆がある二人は、視線だけで自分のすべてを語っている。すると、信じられないことが起きた。
あれほど蛍を溺愛していた松岡さんが、蛍の肩に手を置いたのだ。
「どうしたんですか?」
「……凜音」
「全員行ってしまいましたよ」
「うん、ごめんね」
私は凜音の後を追って、あの二人と同じ控え室には行けないのだと今さらながらに実感した。
「凜音」
控え室に入った途端、夢先輩が凜音に話しかけた。斜め後ろには愛先輩がいて、双子の妹を見守っている。
「あのさ、あの時、パ、パス……」
「パスがなんですか。はっきりと言ってください」
いつも物事をはっきりさせる夢先輩らしくない。私はそう思って、愛先輩は戸惑った瞳を見せた。
「……は、はっきり言っていいのか?」
「なんで駄目なんですか」
「じっ、じこちゅーとか! 言わない?!」
「言いませんよ」
呆れた表情の凜音に対して、夢先輩は唾を飲み込んだ。
「……パスくれて、ありがと……」
一瞬の間があって
「当たり前でしょう、仲間なんですから」
凜音はそう答えた。
そんな当たり前のことに対してありがとうと礼を言うこと。茅野先輩が初めて認めてくれた人だと言うこと。
私はふと、誰もが何かしらの――傷のついた過去があるということを知った。