第五話 夜空の下
帰路についたウチは、夜空の下、豊崎高校と書いてあるバスケットボールに水滴を落としながら唇を噛む。これから誰もおらん寮の部屋に帰ると思うたら、虚無感さえも混み上がってきた。
豊崎高校から約二キロメートル離れた寮の外観を遠くから見上げると、橙色の明かりが漏れとった。夜空のせいで紺色に見える寮と合わせて見ると、唯やんとちぃやんみたいに強く建っとることがよくわかる。
視線を下に向けると、寮の玄関に誰か立っとった。こんな夜遅くに誰やろう。そう思って、ウチは目を凝らす。そしてすぐに足を止めた。
「……なんでここにおるんですか、中崎センパイ」
中崎センパイは、マフラーに埋めていた顔を上げる。
街灯の下、その人の瞳は小さな星を映しとった。
「死ぬほど遅かったな。女がこんな時間まで一人で出歩くな」
ぶっきらぼうな台詞やったけど、中崎センパイの優しさが嬉しくて――滲んだ視界は色を混ぜた。
ウチは無言で中崎センパイの横を通り過ぎようとする。ウチは試合に負けた。中崎センパイに合わせる顔なんてない。……そもそも会ったらあかんのや。
「待て」
ぱしっと腕を掴まれて、二重の意味でウチは驚く。
中崎センパイが他人のウチに触れたこと。街灯に照らされた中崎センパイがウチを逸らさずに見つめていたこと。
泣き顔を見られたくもなかったのにバッチリと見られて、ウチの精神はボロボロになりそうやった。
「……なんでですか」
「話がある」
「ウチにはありません。試合には負けました。……もう、さよならです」
「…………」
大きく中崎センパイが頷いた。わかっとるならウチに優しくせんといて。そういうの、余計に辛いんやから。
「お前にはなくても俺にはある」
そういうの、無駄に期待してしまうんやから。
「黄田から話は聞いた」
なんの、とあえて言わへんのが中崎センパイの気遣いやった。
「だから、昨日の話はなかったことになる」
「……わかっとるなら言わんといてください!」
中崎センパイの手を振り切り、ウチはセンパイを睨んだ。
『試合、惜しかったなぁ』
試合が終わった後、真知がウチに会いに来た。
『嘘つくなや。掠りもしてへんやん』
『せやな。ボロクソに負けとったもんな』
『わかっとるなら言うなや』
『言うて』
ウチの予想もしてなかった返事をした真知は、キコキコと車イスを動かして近づいてきた。
『何度でも言うたるわ。上辺だけの慰めこそいらんやろ?』
わかっとるから何度でも言う。うちは、芽衣の親友やからな。
真知は最後にそう言い残して故郷に帰った。せやけど、真知のそれとセンパイのそれはまったくの別モンやった。
「……それでも俺は言う」
中崎センパイと話せること。嬉しいはずやのに、今はそれが辛い。
「なんでっ……! なんで……」
なんでこんなに心が不安定になっとるんやろ。なんで今日に限って中崎センパイは――。
「…………お前に」
中崎センパイは視線を落として逡巡した。街灯だけでなく月明かりまで中崎センパイを包み込んで、ほんまにかっこええなと思う。
本当は優しくて、豊崎の副主将で、伊澄センパイを支えていて、突き放すようなその心の寂しさに触れていたかった。
次にウチを見つめた時の中崎センパイは、いつも以上に凛々しく見えた。
「――お前に告白する為に」
終わりのない哀しみを、優しく包み込むような声やった。
その声が言った言葉すべてが、傷心状態のウチの妄想やと諦めて。
「……つき合っていい。いや、つき合ってやる、か?」
中崎センパイはそうやって、ウチの諦めを溶かしていった。
「ありがとう、ございます……」
ぼろぼろと涙が溢れてくる。今日の分の涙は試合で枯らしたつもりやったのに。
「……でも、ウチは、試合に」
「負けたな」
はっきりしとったけど、強くはない言い方。負けを知っとる人間の、敗者にかける言葉。
「けど、関係ないだろ。あれはお前が勝手にしたもので、俺からしたら駄目だってことじゃなかっただろ」
こくんとウチは頷いた。中崎センパイの言う通りや、そう思いたくもあったから。
「ウチも、センパイめっちゃ好きです」
中崎センパイは、「知ってるよ」と今にも言いそうな表情で笑う。冷たい風が吹いとるけど、ウチの心は温かかった。
「そういやセンパイ、いつからここにおったんですか?」
「さぁな。覚えてないよ」
ウチはいつの間にか落としとったボールを拾って、中崎センパイの頬を思い切って触ってみる。
びくっと触った頬の肩、右肩が跳ね上がっただけで中崎センパイは大人しくウチに触られとった。
「……めっちゃ冷たいやないですか!」
慌ててバッグの中を漁る。どっかに投げ込んだはずなんやけど……。
「あった! 中崎センパイッ!」
中崎センパイはウチが押しつけたカイロを受け取ってそれを見つめる。
「まだ温かいんであげます!」
「悪いな。貰っとく」
遠慮せんとカイロを受け取ったセンパイは、温かそうに目を細めた。そんなセンパイを見たのは初めてだった。
「えへへ」
「……なんで笑ってんだ?」
中崎センパイが気味悪そうにウチを見て、ウチは視線を泳がせた。
「だってウチ、今、幸せなんですもん」
試合には負けた。それでもウチは、中崎センパイがここに、ウチの側にいてくれるだけでこんなにも幸せになれる。
自分ってほんま、単純なんやなぁ。
「…………そうか」
短く中崎センパイが笑った。
中崎センパイもウチと同じ気持ちやということが、それだけでわかる。
十二月の夜、とても冷えた日の出来事。
白い吐息が揺れて、夜空から白くて冷たいもんが降ってきた。
*
翌日。部室に行くと、部員全員が集まっとった。
「唯やん、ちぃやん!」
「あぁ、やっと来たの。遅かったじゃない」
二人を呼ぶと、唯やんが顔を上げる。四月の頃と比べて髪が伸びた唯やんとちぃやんは、ウチを一番前まで引っ張った。
「え? え? なんなん?」
「いーから」
「ここに立ってね」
二人はそして身を引いて、ウチを見上げた。
「自分ら……」
刹那、両肩を誰かに掴まれて――振り向くとそこには、大津センパイと中原センパイがおった。
「閉じて」
「へ?」
「目」
「え、いや……」
「早く」
「は、はい!」
ぎゅっとウチは言われた通りに目を閉じる。
布と布が擦れるような音。この音はなんなんやろう。
「うん、いいよ」
恐る恐る目を開けた。襷のようなものをかけられた気がしたんやけど、それは間違いではなかった。
「……なんや、これ」
襷に書かれた文字を読む。それは――
「次、主将、小暮芽衣」
――大津センパイの言う通り、《主将》と書かれとった。
「……え、えっ?!」
主将?! ウチが?! なんで?!
混乱するウチを他所に、唯やんたちが一斉に拍手をする。
「おめでと!」
中原センパイに肩を叩かれる。
大津センパイは柔らかく笑って、唯やんとちぃやんの手を引っ張る。
「来年の豊崎を引っ張る三人に、もう一度拍手!」
中原センパイの合図で、二年生までもが手を叩いた。
「……ウチ」
「お願い」
大きすぎない音量で、大津センパイに頼まれる。ウチは振り向いて、大津センパイを問うように見上げた。
「……お願い」
その意思のある瞳を見て、思わず、ウチは無意識に頷いた。
「ありがと」
その言葉を最後に、大津センパイがウチを前に向かせる。ウチはたくさんの部員の前にして、やっぱり思わず目を逸らした。
こんなウチでいいのかわからんかったけど。センパイたちに、みんなに望まれてるならと思うて。
「これ、女バスの伝統なんだって。何か言っときなよ」
「……え、じゃ、じゃあ……こほん。ウチらの新しい横断幕は《一心同体》や。横断幕を忘れんように、これから新しいチームを作っていくで!」
そう叫んで、ウチは拳を突き上げた。
*
「……うへぇ、めっちゃ疲れたわぁ」
肩を回して部室の外に出る。寒い空気が肌を掠めて、白い吐息が空気に溶けた。
「あ」
同じタイミングで姿を現した男バスは、スタメンが全員揃っとる。
黄田クンがすぐさまちぃやんに駆け寄って、唯やんが頬を膨らませながら二人を見つめ。
「――中崎センパイ!」
大津センパイと中原センパイがちょっぴり目を見開いて、目を合わせ。ウチは構わず中崎センパイに駆け寄った。
まるで黄田クンみたいやな、と自嘲して。
「……あぁ」
足を止めた中崎センパイが、ウチの顔よりも下に目を向ける。
「へっ?! せ、センパイ?!」
「……お前、主将になったのか?」
驚きの意味を込めて中崎センパイがそう尋ねた。ウチは、襷をかけたまま出てきたことに今さらながらに気がついた。
「えと、はい……」
照れ臭くて頬を掻く。中崎センパイは滅多に見せない微かな笑みを浮かべ、夜風を受け入れた。
「良かったな」
ウチは笑う。そんなウチらを全員が興味津々といった風に眺めとった。
「帰るぞ」
手を握られて全員がざわつく。体の芯が熱くなって、ウチは俯きながら頷いた。
「じゃ、二人ともまたな!」
中崎センパイの背中を追う。これから、真知に誓った青春が始まる。
中崎センパイに出逢えて、ウチはまた一歩踏み出せる。
――貴方に出逢えて、本当に良かった。