第五話 満月と一等星
「だから、みんな仲が良いこのチームで大丈夫かなって不安だった。私なんかが、この輪の中にいていいのかなって」
「それ、私もわかります」
まさか同意されるとは思ってなくて、今度は私が目を見開いた。今、奏歌はなんて?
「私帰国子女なので、日本に来た時は一人ぼっちでずっと不安だったんです。知り合いもいなければ、日米でのズレもちょっとだけあって……」
奏歌は男バスの猫宮とロドリゲスを見て微笑んだ。
「私も皇牙に会う前は、家族みたいな人たちに囲まれていただけだったよ」
「えっ?」
みたいな人たちって、どういう意味だろう。
「捨て子だからさ、私」
平然と、都樹がそう言い放った。なんとも言えない感情が私のことを包んでいく。
「……私も、あまり友達はできなかったです」
奈々が言うことは、なんとなくわかる気がする。私は言うのを我慢して、続きを待った。
「仲間だって、そう長くは続かなかったですし」
今まで黙っていた佳乃は、顔を上げて奈々を見た。そんな佳乃も口を開いた。
「私、友達はいたけど仲間はいなかった」
奈々から逸らさない瞳は、何故だろう、泣きそうだった。
「……私……」
知らなかった、そう思った。と同時に、感じていた私たちの〝共通点〟に気がついた。
――最高の仲間かも、じゃなかった。
もしかしたら、いや、きっともう二度とこんな出逢いなんてないだろう。
私は天井を瞻仰した。雑巾やボールがひっかかっているのがよく見える。
「…………私……」
溢れそうになる涙を堪えた。知ってしまった、人との関わり。人の温もり。
《バスチカ》を読んでこうも上手く行くものかと思っていたけれど、案外こんなに近くにわかり合える人たちがいたのだ。
「ねぇ、この流れで円陣組まない?」
「え、円陣?」
「いいですね、それ!」
「わっ、ちょ……!」
《バスチカ》で知った円陣は、生まれて始めてだった。都樹の合図で、私たちは誰からともなく手を重ねる。
「磐見高校女バス、ファイトー!」
安直な掛け声だったけれど、それが逆に良かったのかもしれない。私たちは頬を緩ませて、手を空高く――天井に向かって上げていた。
*
暗くなってきて、女バスも練習を終わらせた男バスも一緒に帰ることになる。
それぞれがそれぞれの帰路について、なんと。私の隣に立ったのは米山だった。
「どうだった? 円陣」
なんでも知っているような表情だった。
「……まぁ、良かったよ」
何が嬉しいのか、米山はずっと笑っている。そんな態度がちょっと気にくわなくて、私はちょん、と米山の脇腹をつついた。
「うっわ……! 擽った……!?」
夜空に米山の声が響く。むすっと頬を膨らませた米山は、電灯に当たってよく見えた。
「米山」
「ん?」
「好き」
声が夜の町に伝う。遠くの方からコオロギの鳴き声がして、家から漏れた明かりは温かかった。
電灯が当たらない場所にいた私だったから。思ったことはすぐに言ってしまう私だったから。
告白、こうもあっさりとすることができたんだろう。
「…………うん、俺も」
別れ道が来た。そう言っただけで、私たちは別れていく。
遠ざかる足音を聞きながら、私は夜風に当たっていた。火照った体を冷ますそれは優しかった。
……火照った、と思って、緊張していた自分を初めて知った。
*
「なんであたしがバスケを選んだかって?」
仁王立ちをしたシズクが、ステージの上からチームメート全員を見下ろす。
見下ろすなよとは思うが、俺だってシズクがあそこまでバスケにこだわる理由が知りたい。
シズクは何故か俺に視線を移し
「好きな人が一番好きなスポーツで! 一番かっこよく見えるからに決まってるでしょーが!」
そう叫んだ。
*
私は帰りの電車内で小さく微笑んだ。やっぱり同じことを言っていた、と。
その通りだ。あの朝練の日、米山が一番かっこよく見えたんだから。だから私は、決めたんだ――。
*
電車に揺られる。夜ではなくて、朝だった。
私は目を閉じて、昨日のことを思い出す。
『磐見高校女バス、ファイトー!』
『好き』
『…………うん、俺も』
……最近の私はなんなんだろう。今までの人生と雲泥の差じゃないか。
そっと《バスチカ》の表紙を撫でる。全部この本のおかげだ、疑うことなくそう言える。私はイヤホンを取り出して、最近気に入っている曲を聞いた。
《Blue Bird》。それがこの歌手の名前で、聞いてる曲の名前は――《恋唄不協和音》。
《Blue Bird》はシンガーソングライターで、本名、年齢、出身地まですべてが謎に包まれている。わかっていることは女性ということだけだ。
デビュー曲《Tears》は青春の歌で、今聞いてる《恋唄不協和音》は女性視点の繊細な歌詞が売りの曲だった。
普段はこういう人の曲は聞かないのだけれど、昨日、無性にラブソングを聞きたくなって検索した。そうして一番上にでてきたのが彼女の歌だった。
学校に着くと、都樹が教室で熱心に本を読んでいるのが見えた。私はイヤホンを外して都樹に近づく。《妹が現在進行形でヤバい》――表紙を見るとそう書いてあった。
「…………《いもヤバ》?」
「ッ!? びっ、びっくりした……」
ぴくっと肩を動かした都樹は、通称から顔を上げる。そして、私の視線に気がついた。
「知ってる? 知ってるよね? だって、《バスチカ》を知ってるんだもんね!?」
「う、うん」
……顔、近い。《いもヤバ》も《バスチカ》も、どちらかと言えばマイナーな作品だ。そもそもライトノベルという時点で知名度は低いのだけれど。
「やっぱり! そうだと思ってた!」
都樹はにこにこと、本当に嬉しそうに笑っている。
私にはそうやって笑える都樹が羨ましく思えた。私も都樹も、同じ無表情をするのにと。
「おはよー!」
振り返ると、入り口で佳乃が手を振っていた。
「佳乃!」
佳乃は私たちのところまで来て、都樹の持つ本に眉を顰める。表紙には、最終巻で腐女子と判明したゆるふわ系の末っ子が描かれていた。
「可愛いよね、シオンちゃん」
「え、し、シオン?」
戸惑う佳乃を見ると、どう考えても引いている。佳乃は普通の女子高校生だった。
「ねぇねぇ、今日は《バスチカ》持ってないの?」
都樹は気づきもせずに、私に輝く瞳を見せる。
……うぅ。観念して《バスチカ》を取り出すと、都樹は文字通り飛びついた。
「うわぁ、シズクちゃんだ!」
「……し、シズク?」
あぁ、佳乃が混乱している。私は都樹の言うことがわかるから、今の佳乃が可哀想に思えてしまった。
なんとなく、女バス二年であるこのメンバーの雰囲気がわかり始めてくる。
嫌ではない。私はこれでも楽しかった。
*
放課後。慌てて部室に行くと、全員――と言っても四人だけだけど揃っていた。
「ご、ごめん、ホームルームが長引いて……!」
息を整える私に、佳乃が目を見開いた。私が目で問うと、佳乃は気まずそうに苦笑いをする。
「えっと、なんか、らしくないって言うか……。こんな必死な顔もするんだなぁって」
「……え、あ」
「顔、赤くなってる。可愛いー」
茶化すような都樹を無視して、私は佳乃のことを見つめる。
私がどうしても聞きたいこと。それは――
「――私、変わったかな?」
私はずっと、変わりたかった。
ここまで来たら、変わるしかない、変わるのも必然だと思っていた。
見回すと、一年の二人も明るく頷く。
「なら、嬉しい」
始まりは《バスチカ》だったけれど、忘れてはいけないことがある。それは、米山のおかげということだった。
いつか、この感謝の気持ちを伝えたい。恩返しだってしたい。私の背中を押した米山だけじゃなくて、引っ張ってくれた女バスのメンバーたちにも。瞬間、部室の扉が開いて監督が仁王立ちをしながら声を上げた。
「ほら、みんな! 準備もあるんだからさっさと着替える!」
「お姉ちゃん、せめてノック……」
「監督とお呼びなさい!」
「……きゃうっ?!」
姉にだけ強気な奈々は、瞬時に一蹴されてしまう。
主に私が焦って着替えを済ませて、終わると同時に手を引かれた。
「一緒に行きましょう、仁科先輩!」
その手は都樹ではなく、意外にも奏歌だった。
彼女は私の〝孤独〟を理解してくれる子。そんな彼女は笑っている。
――頑張ってる子は誰よりも輝く! 一番キレイなの!
それは、《バスチカ》でシズクが言っていた台詞だった。今の私には、その台詞の真意が痛いくらいにわかってしまった。
*
今日は珍しく、放課後まで米山には会わなかった。だから、体育館に入った瞬間に見えた米山の後ろ姿に胸が高鳴る。
……どれだけ米山のことが好きなのよ、私。
いつの間にか目で追ってしまう。私は部活に集中するように、準備をしようとしていたみんなを呼び止めた。
男バスの方をちらちらと見ていたみんなは、びくっと肩を震わせて振り返った。……みんなもか。
「あの、部活を始める前に言っておきたいことがあるの」
監督の視線も感じた。むしろそれがいい。
「――こんな私を仲間にしてくれて、ありがとう」
そんな私に、「またその話?」と言って笑う都樹に向かって首を横に振る。「ちょっと違う」きょとんとするみんなを見据え、私は言葉を続けた。
「宣誓。私は必ず、チームを引っ張る司令塔になる」
それが女バスのメンバーに対する私なりの恩返しだった。そして、宣誓通りになる為に頑張れる自分になりたかった。
目をまんまるに見開くみんなを見て、私は思わず笑ってしまう。
「チームの為にも、諦めないから」
勿論、自分の為にも。そう心の中で呟いて、私は話は終わりとでも言うような目をした。準備に行こうと思ったのだけれど、何故かそれを佳乃が遮る。
ぎゅむっ
佳乃は私に飛びついて、行く手を阻んだ。私が驚くのも束の間、今度は都樹が――奏歌と奈々を巻き込んで飛びついてきた。
「うぎゃっ?!」
とどめを刺すかのように、後ろから誰か――この香水の匂いは七海監督が抱きついてきた。
「あ、熱い! バカじゃないの?! っていうか、準備! 準備ぃー!」
みんなから逃れようと身をよじっていると、ネットの向こう。米山と目が合った。――米山は、それはもう本当に嬉しそうに笑っていた。
*
今日も、米山と同じ帰り道を歩く。
私と米山が友達だったかと聞かれれば怪しいけれど、これからはそんな関係ではない……はずだ。
だって、米山は昨日、〝俺も〟って言ってくれた。言ってくれた……けれど、不安にはなる。それは――〝つき合って〟なんて、誰も言ってなかったから。
今考えれば、これはかなりの失敗だ。どうしよう。どうすればいい?
「あ、見て。月がきれいだよ」
「ッ!?」
ちょっと待って! 今のは夏目漱石のアレ? アレなの?!
私が内心慌てていると、米山が首を傾げて私を見下ろす。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
私は思い切り首を横に振って、それを否定した。
「本当に? 我慢しないでなんでも言った方がいいよ?」
あぁ、もう。もやもやする。
こういう感情に慣れてないし、好きじゃない。けれど、ここまで来たら私は傷ついてもいいんだ。
息を吸って、私は米山のことを見上げた。
「――私とつき合って」
その声は月夜に吸い込まれる。虫の音がする。空が高い。
米山はさっきのみんなのように目を見開き、「えっ?」と腑抜けたような声を出した。
「……何」
それを聞いて覚悟を決めた。何を言われても傷つかないから、だから早く――
「俺たちって、もうつき合ってるんじゃないの?」
「――……え?」
米山はきょとんと私を見下ろして、私もきょとんと米山を見上げた。
沈黙が、私たちの間に流れる。私はその沈黙と恥ずかしさに耐えられず
「ふんっ!」
「ぐへっ?!」
米山を殴った。
蹌踉めいた米山はなんとかバランスを保ち、何が起こったのかわからないという表情をする。
「し……そんなの知ってたから!」
苦し紛れにそう叫んで、私は急いでそっぽを向いた。
火照った私の一つの体を、秋の空気が――秋の夜風が冷ましてくれる。
「じゃあなんで俺をなぐ……」
「うるさいっ!」
恩返しどころか、殴ってしまった。自分で自分の不器用さを憎んでしまう。
米山は、そんな私を見て吹き出した。笑い声が、駅へと続く道に消えていった。
私は夜空の一等星を見上げる。都会の夜は星があまり見えなくて、輝くのは一握りの星屑だけだ。そんな星屑に自分を重ねた。
米山も私の視線を追って、おんなじ景色を二人で見上げる。
「俺とつき合ってください」
米山に視線を移すと、照れくさそうに笑っていた。
確かに、改めて言うと恥ずかしい……かもしれない。月明かりが米山の真っ赤な頬を照らしている。私はもう一度一等星の方に視線を移した。今宵は、満月だった。
「……返事は、〝はい〟だから」
例えば米山が満月なら、私は一等星でありたいと思う。心からそう思う。
――貴方に出逢えて、本当に良かった。