第一話 赤髪の少年
私は今でも、入学式の出来事を忘れない。
『来たれ、東雲中女子バスケットボール部へ〜!』
のんびりと間の抜けた声をしているけれど、どこか芯のあるそれが正門付近に響いた。
『えっと、女バスは部員が私だけです。なので、バスケットボール初心者でもだいかんげ〜! バスケ好きはだいだいだいかんげ〜で〜す!』
周囲がお花畑に見えるほど、頭のネジが緩そうな先輩。現に、椅子に乗ってお手製らしきメガホンで勧誘をしている。
『何をしている、灯』
刹那、呆れているような少し怒った声が聞こえてきた。
『あ、拓ちゃん』
見ると、新入生らしき少年が先輩を見上げていた。
『あのね、新入生たちを部活勧誘しているの〜』
『入学式当日に部活動勧誘するバカがいるか。さっさと下りろ』
『えぇ〜。じゃあ拓ちゃんが入部する?』
『断る。そもそも俺は男子で、入部するのは男バスだ』
『あ』
『……灯、早くしろ』
苛々したのか少し声質が鋭くなった。今にも泣き出しそうな先輩は、仔犬みたいで放っておけない。そもそも一人にしたら危ないタイプだと直感で思う。
『…………だって、このままじゃ……本当に廃部しちゃう……』
『あ、灯?』
『……ッ! うわぁ、あぁ……っ』
『ッ!』
急に泣き出した先輩を前にして、言い過ぎたと思ったのか少年は少し狼狽えた。周囲からは保護者も含め、先輩に同情の目を送る人がチラホラと出てくる。
でも、同情するだけで誰も入部するとは言わなかった。だから――。
『あのっ!』
そう言って、職員室に連行されていた先輩を待ち伏せして声をかけた。
『私を女バスに入部させてください!』
意を決して告げたのに、先輩は一向に答えてくれない。
『……ダメ、ですか?』
やっぱり私、身長そんなにないからなぁ。ダメならダメってすぐに断って――
『いいの?!』
――けれど、何故か先輩は物凄く食いついてきた。私は慌てて『しょ、初心者なんですけど……』とつけ足して俯く。
『何言ってるの! だいかんげ〜だよ!』
そんな私の両手を包み込むように握り締め、先輩は笑ってくれた。
『……良かった。私、橙乃唯です。これからよろしくお願いします!』
『茶野灯です。これからよろしくね!』
笑顔が絶えない先輩につられて、私もそんな笑顔を見せた。
*
初夏。私は早くも掻いた汗を拭きながら、体育館の方へと向かう。すると、目の前に見覚えのある少女が姿を現した。
「おーい! ちーちゃーん!」
私が呼ぶと、ちぃちゃんが振り向く。ちなみにちぃちゃんというのは私がつけたうさぎちゃんのあだ名だ。
「唯ちゃん!」
彼女と私には、いくつかの共通点がある。一つは、ちぃちゃんのあだ名の由来である小柄な体型。二つは、同じ一年生で初心者っていうこと。
「おーい、二人ともー!」
正門から走ってきたのは、一年でありながら人数不足で副主将となった琴梨。
「ちょっと、走ると危ないですよ!」
そして、名家出身のお嬢様で一年でありながら人数不足で部長となった凜音。
「おはよー」
「お、おはよう!」
「おっはー!」
「おはようございます」
最後に残ったのは……
「みんな〜! 早いね〜!」
唯一の先輩で、生徒でありながら監督となった茶野先輩。そして、一年生の幽霊部員。これが、今の東雲中学校女子バスケットボール部だった。
体育館に入ってシュート練習をしていると、空になった水筒を洗っていたちぃちゃんが戻ってきた。手を止め見ると、俯きながら水筒を定位置に下ろしている。
「ちぃちゃん? どうしたの?」
どこか様子がおかしい気がして声をかけると、ちぃちゃんは兎のように慌ててこっちを見た。
「……あ、ゆゆゆゆ!」
「本当にどうしたの?!」
何故か、初対面の頃のコミュ障ちぃちゃんに戻っていた。ちぃちゃんは顔を真っ赤にさせて、頬に手を添えながら小声で言う。
「あ、あの、私……好きな人……できた……かも」
「へぇ、ちぃに好きな人ねぇ」
「それは気になりますねぇ」
「だぁれ〜?」
琴梨や凜音、茶野先輩まで集まってきてちぃちゃんの声に耳を澄ませる。……みんな、興味津々過ぎない?
「え、と……赤星くん……」
瞬間、思わず私は前のめりになった。
「えっ?! 赤星くん?!」
「赤星ってあの赤星?!」
「赤星さんですか」
「健ちゃんか〜」
何がどうなったらこの数十分で赤星くんに惚れちゃったの?!
「どうするの?! どうするの?!」
「告白か?!」
「落ち着いてください、告白は早計です」
「アタックするなら手伝うよ〜?」
全中が近いというのに、私たちは恋バナに花を咲かせる。けれど、あのちぃちゃんに春が来たことは私たちにとってとてつもなく喜ばしいことだった。
「そそそそそんな! 無理だよ〜!」
「話しかけるのも?」
「もう無理!」
「その調子だとこの先が思いやられますね」
けれど、この時の私たちは思いもしなかった。私たちに、〝この先〟がないなんて――。
*
『ねぇ、知ってる? 橙乃さんの父親、警察に捕まったんだって』
『え、マジ? それヤバくない?』
『しかも容疑が詐欺なんだって』
『何それウケる。《ペテン師》の肩書きがガチになったってことっしょ?』
――黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇッッ!
私は、外から聞こえてきた言葉に心で反抗した。
二学期が始まってまもなくの頃、私のお父さんは詐欺容疑で捕まった。変わったことは、お母さんが仕事を始めたこと。私が引き篭もったこと。周囲から孤立したこと。《ペテン師》という通り名が汚名に変わったこと。
私は、ただただ唇を噛み締めていた。
「ただいま〜」
私の気持ちとは裏腹に、呑気な声でお母さんが帰ってくる。おかえりなんて、もう言う気力もない。私が黙っていると、お母さんがこう尋ねていた。
「部活はいいの?」
「ッ?! な、なんで……」
思わず顔を上げてしまう。
「だって、人数足りないんでしょう? それに、唯は主将じゃない」
「ッ! ……そ、それは」
そして、無意識に顔を伏せてしまった。
みんなには悪いと思っている。けれど、無理なものは無理。
「きっと、みんな唯のこと待ってるわ。……だって、あんなに仲が良かったんだから」
お母さんが笑う。生涯の愛を誓った人が捕まったというのに、やっぱりお母さんは呑気だなぁ。……だから、茶野先輩を放っておけなかったのかなぁ。
「……うん。だけど、今は……まだ」
私はここから動けない。けれど、待ってて。私は必ず、あの場所へと戻るから。
そう決意して、私が家から出ることができたのはその日から二週間後のことだった。
『おい、あれって……』
『……あぁ、《ペテン師》だ』
『うっそ、なんで学校来てんの?』
『よく来れたよねぇー』
――あぁ、煩い。
私は涙を堪えて踏ん張った。ここで帰ったら、この話はあっという間に学校に広まってみんなから笑いものにされてしまう。……そんなのは嫌だった。
震える足を動かすことに専念する。二学期が始まって一ヶ月が経過した頃に登校したけれど、ほとぼりはまったく冷めていなかった。
人間とはなんて醜い存在なのだろう。今なら本気でそう思える。
途中で仲間に合わなかったのが幸か不幸かわからないけれど、なんとか職員室に辿り着けた。
ほんの少しの達成感と安心感を押し込んで、私は顧問の先生を探す。案外すぐに見つかって、私はすぐに先生を呼んだ。
「……ん? なんだ、橙乃。来れたのか」
私たちの顧問――小塚礼二先生は、ほんの少しやる気がないのが特徴的な人だ。
先生は最後に見た日とまったく変わらない外見で、少しだけ話しやすくなったことに安堵する。
「…………はい。あ、あの、女バスは今どうなってますか? 試合とか……」
「試合も何も、あいつら全員退部したからなぁ……」
「…………え?」
一瞬、聞き間違いかと思った。いや、そうであってほしいと願った。けれど――
「藍沢、水樹、紺野は退部。茶野は全中が終わってすぐに引退だったからな、残ったのはお前と幽霊部員の銀之丞だけだ」
「い、いや、嘘ですよね?! そうですよね?! そんなわけないですよね?!」
「そう思うなら、ほら」
小塚先生が机の引き出しから引っ張り出したのは、三枚の封筒だった。それぞれにきちんと、退部届けと書いてある。それは、見間違えるはずのない大好きな三人の筆跡だった。
「お前も銀之丞も不登校だし、試合なんてできるわけねぇだろ……。この一二週間は活動さえしてなかったんだからな」
残念そうに言った小塚先生の言葉を脳内で反芻させる。何も考えられなくなって廊下を宛もなくさ迷っていたら、懐かしい香りが私の鼻腔を擽った。
「…………ちぃ、ちゃん?」
「…………ぁ」
ビクッと、体を震わせたちぃちゃんの顔色は真っ青だった。
「ち、ちぃちゃん、どうして……」
一歩歩くと、一歩下がられる。
「ご、ごめ、ごめんなさい……」
ちぃちゃんはただ、『ごめんなさい』ばかりを繰り返した。
「……何が? ねぇ、ちぃちゃん。何がごめんなさいなの? ……女バスを辞めたこと?」
「――ッ! ……ごめ、ごめんな、さい……。もう、唯ちゃんの側には……いられ、ない」
「ッ!?」
「……ごめんなさい」
ちぃちゃんは、それだけ告げて廊下を走り去ってしまった。
*
――シュッ!
放課後、久しぶりのシュート練習。
――ガコンッ
私以外は誰もいない、静かな体育館だった。
私は無言で外れたボールの後を追う。フェイント以外平均的な私だから、毎日欠かさず練習をしていた。なのに、あの日から私の中のすべては狂って――
「ッ!?」
瞬間、体育館の扉が開く音がして振り返る。開いた扉の先は、逆光で霞んで見えた。
「あ! いたいた橙乃!」
「……だ、誰?」
聞き覚えはあるけれど、誰だったか忘れてしまった少年の声。
「俺だよ俺! なんで忘れてんの?」
「……は?」
「まぁいいや、とにかく行こう! みんな待ってる!」
逆光があまりにも眩しくて、目を細める私が微かに見たのは――私に手を差し伸ばす、赤髪の少年だった。