第二話 《バスチカ》
翌朝、二年の教室の当たりをうろうろ徘徊していると、仁科さんが姿を現した。思っていた通り結構早く学校に来ていて、俺は内心得意気になる。
〝またね〟。
その台詞を何度も何度も脳内で再生させて、俺は偶然を装って話しかけた。
「おはよう」
仁科さんは顔を上げる。耳につけていたイヤホンを外して、すぐに眉を寄せた。
「おーはーよー」
手をメガホンにしてもう一度言う。これで無視されたら相当メンタルに来るが……
「…………ぉは、よぅ……」
……最初と最後の言葉だけ消えるようにそう言って、仁科さんは何故か視線を逸らした。
けれど、少なくとも俺は無視されなくて安堵する。その間にも、仁科さんは例の流れるような動作でイヤホンを鞄に仕舞っていった。
「あのさ」
仕舞い終わるのを待って話題を切り出す。
「男バスの朝練見に来ない?」
仁科さんは当然のように戸惑った表情で俺を見上げて、「朝練?」とまばたきをした。
「君にもっとバスケを知ってほしいからさ」
本音を言ってみる。仁科さんにどう伝わるのかは知らないけれど。
「いつ?」
お、意外にもいい反応かもしれない。それだけでも妙に嬉しい。
「いつでもいいよ。空いてる時間に来てくれればさ」
「わかった」
嘘みたいにすべてが上手くいった。そのことに驚きを隠せない。
心なしか楽しそうな表情で教室に入っていく仁科さんを眺め、俺は小さくガッツポーズをした。
「……何してんだ、米山」
「うっわ、小森?!」
振り返ると、不審者を見るような目で俺を見ていた小森と目が合った。見られていたのか、そう思うと体が芯から熱くなる。
「べ、別に何もしてないけどよ」
「いや、してただろ。ガッツポーズ」
「あ、あれは……女バスの勧誘がいい方向に進んだから……っていうか! 小森はどうなんだよ! 名瀬さんのこと!」
びしっ。小森の動きが想像以上に呆気なく固まった。
「……こ、小森?」
一瞬小森が怖い顔をして、すぐに視線を逸らした。
「……名瀬はもう入部した」
「えっ、もう?」
小森は思っていた以上に早かった、とでも言いそうな表情をする。俺の目には、残念がっているようにも見えた。
*
仁科さんを誘った日の翌朝、朝練をしている最中に何気なくギャラリーに目を向ける。そして、俺は昨日の小森のように固まった。
そこには名瀬さんと……その隣にあの仁科さんがいたのだ。そして、彼女と目が合った。
じいっと互いに固まったまま、互いのことを凝視する。仁科さんは俺を俯瞰して、俺は仁科さんを瞻仰している状態だった。
逸らしたのは、どちらが先だったか。多分同時だったとも思うのだけれど、それはどうでも良いことだった。
「ぼーっとしてると三峰先輩に怒られますよ? 米山先輩」
猫宮とすれ違い様にそう言われて、俺は慌てて背筋を正す。それで特に何かが変わるわけでもないが、姉御に怒られるよりかはマシだ。
普段は天然なところもある姉御だが、姉御と呼ばれている通りバスケのこととなると人が変わる。そんな点も都樹に似ていると言えば似てしまっていた。
再びギャラリーに視線を移すと、また仁科さんと目が合った。
「えっ……?」
まさか、二度も目が合うとは。話してもいないのに、こんなにも距離があるのに、不思議なこともあるものだ。今はただそう思った。
*
人は一人じゃ生きていけないって言うけれど、案外そうでもないと私は思う。
一人は別に悪いことではない。誰にも迷惑をかけない。それでいいでしょ? だから私は黙々とページを捲っていた。
*
「俺がわざわざお前をバスケバカにしてやってんだ! これくらい耐えろよ!」
「はぁ?! ふざけないでよ、あたしのドレイのくせにっ!」
俺はシズクの飛び蹴りを避けた。ぼっちだったからって、頼むからこの手の攻撃を極めないでほしい。
「ドレイじゃねー! コーチだ! わかったら俺の言うことを聞け!」
「ぜったい嫌よ! 言うことを聞くのはそっちでしょ?! わかったらさっさと他の部員を集めて来なさい!」
バスケはチームワークが大切だ。だから、必然的に仲間はできる。けれど――
「……お前の性格じゃ一生仲間なんてできねーよ!」
――俺は言ってしまった。シズクが一番傷つくであろう台詞を、だ。
目の前にいるのにどうしてもシズクの顔が見れなくて、俺は思わずその場から立ち去った。正確には、逃げてしまった。
*
私は顔を上げて本を閉じた。《お前をバスケバカに育てる俺に生涯を誓え》。タイトルには正直引いたけれど、結構共感できるシーンが多くて私は好きだ。
下りる駅が近づいてきて、私は通称を鞄の中に仕舞う。逆にイヤホンを取り出して、耳につけた。
ホームに足をつけて、あのしつこい勧誘男――米山聡司のことを思う。
米山は今日も私に話しかけてくれるのだろうか。米山は今日も私のことを探してくれるのだろうか。
一人でいいのに。
私はここにいる。
だから見つけて。
色んな思考が溢れてきて、米山にまた会いたいと思っている自分がいることに気がついた。最近になって、私はそんな自分を知った。
要するに私は寂しがり屋なのだ。《バスチカ》のヒロイン、ぼっちのシズクのように。
だから、バスケを見たら私も変われるのではないか。
仲間に囲まれている俯瞰少年は、ぼっちの瞻仰少女を変えてくれるのではないか。
「……米山ってほんとバカ」
私になんかに目をつけてしまったから。そう、朝早い時間のホームで呟いた。
体育館の扉を開けて、見つからないように二階へと急ぐ。階段をあと少しで登り終えるというところで
「……あ、先客がいたんだ」
思わずそう口に出してしまった。
肩まである黒髪の女子――名瀬は、「ど、どうも?」と軽く会釈をする。私も同じように頭を下げて、柵ギリギリまで近づいた。
「そっちは何しにここに来たの?」
「理由は色々かな。一応、女バスとして見学するって言ったけど」
「女バス?」
じゃあ、この先客は――私と同じチーム、つまり仲間になるということだろうか。私の返答を誤解したのか
「あ。実は新しく創部されることに……」
そう言って名瀬が説明し出す。
「うん、知ってる」
私は無意識の内にブラウンのセーターの裾を伸ばした。
「セーター伸びるよ?」
「……つい、癖で」
すぐにそれを離す。刹那、米山がきれいなシュートを決めた。
「そっちはなんでここに?」
「米山がしつこいから」
反射的にそう答えてしまった。
事実なのだけれど、米山のせいで私も《バスチカ》のヒロイン――シズクのようになれるのではないかと思ってしまったのだ。
高飛車で協調性のないシズクにも、仲間はできる。
現実ではどんな目に遭うか考えようとは思わなかったけれど、私は信じてしまったのだ。
「名瀬はバスケをどう思う?」
何気ない質問だけれど、重要と言えば重要なその問いに。
「――……す、好きな人が、一番好きで頑張れる素敵なスポーツ?」
その答えに思わず目を見開いてしまった。
……好きな人が、一番好きで頑張れる素敵なスポーツ。
それは、《バスチカ》の中でシズクが主人公に対して言った台詞でもあった。そしてそれは、米山から視線を動かさなかった私の中に浸透していく。
「その答え、嫌いじゃない」
とは言ったけれど、実は私の中では最上級の誉め言葉だった。名瀬の瞳に私が映って、思わず互いに微笑み合う。
あまり話したことはなかったけれど、名瀬とは上手くやって行けそうな気がした。
*
見つからないように体育館から立ち去って、立ち寄った職員室から入部届けをもらう。兼部が駄目なら文芸部を辞めるつもりだった。
「他の女バスの部員は?」
顧問になるらしい先生は、机から名簿表を取り出してそれを眺める。
「あぁ、二年B組の種島都樹と二年A組の名瀬佳乃がいるな」
私はその名前を口の中で何度か繰り返して、先生に一礼をしてから職員室を出た。
その帰りに二年B組に寄って、出入り口付近の人にタネシマトキという人を呼んでもらう。タネシマトキはすぐに来て、私のことを見下ろした。
「どちら様?」
私に負けないくらいの無表情で、淡々と聞いてくるタネシマトキ。すべてが読めない彼女はなんだか怖かった。
「女バスの部長に挨拶をと思って」
「女バス!?」
「ッ?!」
「本当に?!」
ぐいっと一気に距離を詰められて、好奇心に輝く瞳が近づく。自分の目の前にいる人は、さっきの人と同一人物なのか疑いたくなるほどの変わり様だった。
「もしかして入部希望者?!」
「は、はい」
「〜ッ!」
言葉にならない声を出して、タネシマトキは大いに喜ぶ。なんだか、米山があれだけしつこかった理由もなんとなくわかる気がした。
「私、種島都樹! これからよろしくね!」
それは、温かな微笑みだった。わけがわからない。どれが本物の彼女なのだろう。
「よろしく」
肩の関節が外れるんじゃないかと思うほどに激しい握手をして、私は教室へと戻っていった。
明日から部活ができる。なら、今のうちに文芸部の退部届けでも書いておこう。
私は密かにそう思いながら、鞄の中に仕舞っていた《バスチカ》を取り出した。そして、ブルマを履いたシズクが描かれている表紙を隠しながら読み進めた。
*
昼休み、再び《バスチカ》を読んでいると。
「あっ、いた!」
聞き覚えのある声がして顔を上げる。そこでは米山が私を見つめて手招きをしていた。
《バスチカ》を閉じて米山の元へと歩く。
「何?」
訝しげに問うと、米山は驚きと喜びを綯い交ぜにさせた表情で私の両肩を掴んだ。
「種島さんから聞いたんだけど、女バスに入部したのって……!」
そのことか。
米山には事後報告になってしまったけれど、時間がなかったのだから仕方がない。
「うん。それ私」
「やっぱり!」
瞬間、くしゃっと米山が笑った。
「ッ!」
今まで見たことがない、弾けるような彼の笑顔。
――好きな人が、一番好きで頑張れる素敵なスポーツ。
不意にそれを思い出した。
「っと、どうした? ボーッとして」
「あ、いや。別に」
いい加減自覚し始めていた。私は米山聡司のことが好きだ。
誤魔化せないし、誤魔化すつもりもない。
「よね……」
「ねぇ、お昼まだなら一緒に食べない?」
告げるタイミングを失って、私はゆっくりと口を閉じた。
「……まだ」
「あれ、なんでちょっと怒ってるの?」
「怒ってないけど」
「いやいや、絶対不機嫌でしょ」
背中を向ける私に対して焦りを覚えたのか、米山はしきりに謝ってくる。自席に戻った私は弁当箱を持って、米山に見えるようにとりあえず掲げた。
ポカンとする米山に
「一緒に食べるんじゃないの?」
と尋ねると、米山は安堵するように笑った。