第一話 不思議な力
バスケって、不思議な力を持っていると思う。
いや、もしかしたらバスケだけじゃないかもしれない。妙なところで妙な縁があって、深まっていくキズナ。――そして、出逢い。そんなものがすべて詰まっているような気がした。
そんならしくもないことを俺は瞬時に考える。目の前に落ちていたのは、一冊の本。タイトルは、《お前をバスケバカに育てる俺に生涯を誓え》というものすごい上から目線で無茶苦茶なものだった。
それを拾おうとそっと手を伸ばすと、その本を落とした女の子がいきなり俺の手を払って睨んできた。
「……あ、ごめん。なさい」
咄嗟に敬語をつけ足してしまうほど、その女の子の目力には迫力があった。その子はブルマ姿の可愛らしい女の子が描かれた本を引ったくって、教科書との間に挟む。
「今の忘れて」
早口でそう告げて、女の子は足早に去っていった。
「あっ、ちょっと待って!」
俺は払われた手をもう一度伸ばす。その手は女の子の肩を掴んで、女の子は足を止めざるを得なくなる。瞬間、肩までかからない黒髪が揺れた。
「……何」
明らかな警戒の目を俺に向けて、女の子は振り向く。
「お前、バスケ好きなの?!」
ぐいっと一歩間を詰めて、俺は女の子に問いかけた。女の子は、「……は、はぁ?」と腑抜けた声を出して目を丸くした。
「だってその本、バスケ小説だよな?」
俺は教科書に挟まれて見えなくなった本を指差す。女の子はさっと腕で教科書さえも隠したが、すべては後の祭りだ。
「なぁ、バスケ好きなの?」
もう一度、今度はゆっくりと彼女に尋ねる。
女の子は少しだけ警戒の色を解いて、柔らかそうな唇を開いた。
「確かにこれは……バスケ小説だけど、別に私はバスケなんて好きじゃない」
「じゃあ、興味は?」
すると、迷うように女の子は口を閉ざした。
「ってことは、少しはあるって……」
「ない」
期待を込めた目で見つめたのに、断言されてしまった。
女の子は今度こそこれで終わりだとでも言いたげに、さっさと先を歩いてしまう。俺はその遠ざかっていく背中に向かって
「女バスのスケットしてみない?!」
自分でもびっくりするくらいの大声で呼び掛けた。
女の子は振り返りもしなかったけれど、ぴくっと肩が動いた瞬間だけはこの目にちゃんと焼きついている。
これが、俺――米山聡司と仁科彩芽の、バスケを通じた出逢いだった。
*
「……ってことがあったんだよ」
昼休み。いつものメンバーで食事をしながら、俺はさっきの出来事を全員に話した。
「聡司、それ本当!?」
思った以上に都樹は俺の話に興味を示して、ぐわっと身を乗り出して聞いてくる。都樹の場合、自分に興味のある話題や姉御に関する話題には驚くほどに迷いがなかった。
「本当に《お前をバスケバカに育てる俺に生涯を誓え》だった?!」
「そこ?!」
当然俺だけじゃなく、小森も――まさかの姉御も都樹に突っ込む。当の都樹は、何故総出で突っ込まれたのかわからないという表情で姉御に無理矢理席に座らされた。
「……おい、種島。そいつを本気で仲間にする気か?」
小森が眉間にしわを寄せて、都樹が正気かどうか確かめる。って――
「ちょっと待て、小森。それじゃあ話した俺も狂ってるみたいな言い方になるだろ」
「俺はいいと思うわよ?」
この話の流れを読めているのかいないのか、姉御が卵焼きを頬張りながら賛同する。すると、都樹はすっごく嬉しそうに――姉御の前でしか見せない笑顔をして喜んだ。
「ていうか、俺が誘った子よりも名瀬さんの方が問題なんじゃないのか?」
名瀬さんというのは、俺たちと同中出身の女の子のことだ。噂で聞いただけだけど、試合中に骨折して以来バスケから離れているらしい。
小森は俺の時とは違い、むっとしたが何も言わなかった。
「お前、まだ名瀬さんに話してないんだろ」
嫌味でも言うかのように俺は言った。言ってやった。
小森の反応を見ていたらわかる。それは、俺たちのつき合いが長い故のものだ。
「……そ、そのうち話す」
小森は唇を尖らせて、気まずそうにそっぽを向いた。肝心の都樹はやれやれとでも言いそうな表情で小森を見ていた。
「話を戻すけど、聡司が誘ったその子はなんて?」
「断られたよ」
「ま、だろーな」
「だろうなって何よ、敦也」
未だにこっちを向かない小森を無視して、「けど」と俺は反論する。
「言葉ではそう言っていても、実は興味ありそうな感じだったんだ。だから、もう少し粘ってみようと思って」
白米を頬張って、俺は同い年の二年生だと思われる彼女のことを考えた。
「さっすが聡司! 頼りになる〜!」
「あっ! じゃあ俺も探すわ! もっともっと多い方がいいものね!」
「え〜、皇牙はいいよ」
「えぇ〜、どうしてよぉ」
「だって、皇牙と女の子が必要以上に話してるの見るの嫌だもん」
「えっ、束縛強……」
「マジか種島」
「やだ〜! 妬いてくれるの? 都樹。可愛い〜」
嘘だろ?! 俺たちは言葉にはしなかったが、互いに目を合わせて肩を竦めた。
*
その翌日は、休み時間になる度に二年生の教室を見て回った。名前もクラスも知らない女の子を探すのは至難の技で、俺は見つけることに一日の休み時間をすべて費やす。
「ねぇ!」
真っ正面から堂々と、その女の子に話しかけた。彼女は顔を上げて、不機嫌そうに表情を歪めた。
「俺、男バスの米山聡司っていうんだけど……」
きちんと自分から自己紹介をすると、やはり警戒心を少しずつ解いてくれる。彼女みたいなタイプは、多分こういうのに弱い。
実際、彼女は「仁科彩芽」とだけ答えてくれた。
「昨日の話の続きをしない?」
なかなか首を縦に振らない仁科さんは渋っていて、俺は彼女の返事を待たずにその手を握り締める。
思った以上に柔らかい手のひらに驚いて、俺は思わず言葉を失った。なんて言おうとしたのか一瞬で忘れてしまうほどだった。
「……ッ!」
それは仁科さんも同じだったようで、目を見開いて固まってしまう。なんとも言えない空気が俺たちの間に流れてしまった。
「あれ? ヨネヤマセンパイ、こんなとこで何してんですか?」
「はひゃあっ?!」
咄嗟に乱暴に手を離す。
良いタイミングなのか悪いタイミングなのかはよくわからないが、ロドリゲスが首を傾げて廊下の奥から顔を出した。
「あ、あぁ、なんでもないなんでもない!」
「ん? なんでそんなに焦ってるんですか?」
「だからなんでもないって! またな!」
「えっ?! ちょっと一方的じゃないですか?! なんでですか?! ヨネヤマセンパイ! ヨネヤマセンパーイ! うわっ?!」
俺はロドリゲスの背中を押して、仁科さんにだけ聞こえるような音量で教室の名前を囁く。その結末は、彼女次第だった。
*
ロドリゲスを追っ払って、急いでその教室へと走る。行き交う人々が不審な目で俺を見たりもしたけれど、そんなことはどうでも良かった。
思わず勢い良く自分の教室の扉を開ける。少しの間があって、ゆっくりと仁科さんが顔を上げて俺を見た。……あ、本を読んでいたのか。
一瞬見えた本のタイトルは、やっぱり《お前をバスケバカにする俺に生涯を誓え》。表紙には今回もブルマを履いた女の子が描かれている。
滑らかな無駄のない動作で本を閉じて、仁科さんは座っていた机から下りた。そんな動作でさえ無駄がなくて、しばらくその様を見つめてしまう。
「で、何?」
その台詞で思い出した。何故だろう、仁科さんといると物忘れが激しくなる。
腕を組んで挑むような瞳をする彼女に、俺は今度創部される女バスのことを話した。
「…………だから、女バスのスケットしてみない、か……」
ぼそっと仁科さんが何かを呟いて、口元に当てていた手を下ろした。何を言うのだろう、その聡明な瞳に見つめられて緊張する。
「それってダジャレ?」
「……えっ?」
だ、ダジャレ?
俺は自分の耳を疑った。ダジャレのつもりはなかったが、そう受け取られても仕方のない言葉選びはしたと思う。
「ダジャレなら二点。違うなら誤解を生むような言い方をした自分を恥じて」
強烈な言葉の刃に刺された気がして、俺は無意識に脇腹を擦った。自然と体勢が前屈みになり、気力という気力を根こそぎ奪われていく。
「へ、下手って……」
「二点」
ダジャレじゃないのに、両手両膝を床につけてしまった。俺の精神は今、多分まともなものじゃない。それくらい彼女の言葉には影響力があった。
「あ、安心して。私のは五十点満点だから」
「それでも四点でしょ?! ていうかこれダジャレじゃないから!」
思い出したように言う仁科さんに向かって全力で叫ぶ。余計なことを言う気力――というか度胸は残っていなかった。
「それもそうね」
本を手に持つ仁科さんは、教卓側の出入り口に向かって歩き出す。俺のいる出入り口からは逆側で、退く必要はまったくなかったけれど
「ちょっと待って!」
それでも、まだ、話していたいから。
俺は廊下を走って教卓側の出入り口から顔を出した。仁科さんは、表情をまったく動かさなかった。
「ごめん。でも、まだちゃんと返事を聞いてないからさ」
「返事?」
「女バスのこと。興味あるなら体験だけでも……って、あ、もしかして部活入ってる?」
「一応……文芸部」
仁科さんは、なるべく言いたくなさそうにそう答えた。所属部活を聞いて、納得する部分は多々あったけれど。
「……そうなんだ。じゃあ、ごめんな。いきなりこんなこと言って」
女バスのことなのに。言ってしまえば他人事なのに。
「話だけでも聞いてくれてありがと」
どうしてこんなに、俺は落ち込んでいるんだろう。色々とボロクソ言われたから? 勿論それは否だ。あり得ない。
「……じゃあね」
もう二度と話すことはないだろうから、「またね」なんて言えなくて。たった三文字なのに、簡単に言えないその言葉の重さを初めて知る。気づけば俺は、俯いていた。
思い出したように足を一本下げる。このままどこに行けばいいんだっけ。わからなくなるのも初めてだ。
「……ぁ」
すると、仁科さんが何かを言いかけた。聞き逃しはしないその声の方を思わず見る。ばっちりと目が合って、沈黙だけが数秒続いた。
それでも俺は、仁科さんが何かを言う瞬間を待つ。待っていたから、必ず口を開いてくれると思って疑わなかった。
「…………でも、〝一応〟だから。私、幽霊部員だから」
今度は爪先を俺が元いた出入り口に向けて、早口で告げた。入ってきた情報量が何故だか多く感じてしまって、反応が鈍った。
「――またね」
俺がその言葉の意味を理解する頃には、仁科さんは物凄い勢いで走り去ってしまった後だった。
意外と素早い、そう思った頃には廊下に影さえ見当たらなかった。
「あ、うん。……〝また〟」
誰も聞いていないのに、そう、俺は口に出していた。