第五話 君から私へ
今日だけは、らしくないとわかっていても〝お守り〟を持ってきていた。三峰や米山曰く、これを俺が買った時点でらしくないらしいが。
制服のズボンにつっこんで、今日もまた教室で名瀬を見つける。部活をやるって張り切っていたからか、早くも髪を一つに束ねていた。
「……あ、小森くん! 今日はよろしくね!」
「あぁ、よろしくな」
ほんの少しぎこちなかったかもしれない。
名瀬は不審に思いもしないで、今日初めて会うという監督の話をし始めた。
『頑張れ、小森』
昨日あんなことになってしまった以上、俺は腹をくくり始めていた。腹をくくる――で、三峰と種島を思い出して腹が立った。
「七海さんっていって、奈々ちゃんのお姉さんなんだって」
奈々、と聞いて自己主張に乏しくドジ過ぎる南田のことを思い浮かべる。そして改めて目の前にいる名瀬を見て、不意に疑問に思った。
「……〝お前、大丈夫なのか〟?」
すると、名瀬が「ん?」と心底不思議そうに首を傾げた。
「いや、だから……〝四天王〟が……」
言いづらかった。名瀬のことを考えると、上手く言葉にできなかった。
俺は、あの頃骨折した足を庇いながら登下校していた名瀬を知っているから――。
「あぁ、大丈夫だよ」
だが、名瀬はあっさりとそう答えた。
「だって、奈々ちゃんが私の足を怪我させたわけじゃないしね」
名瀬が優しい笑顔を浮かべる。十年くらい前に泣いていた名瀬は、二年前のあの日も泣いていたのだろうか。……仮に泣いていたとしても、それでも――
「――お前、強いな」
心からそう思って賞賛した。
「え、そ、そんなことないよ」
焦って両手を横に振り、全力で否定をする名瀬。だが、謙遜しなくてもいいと思う。もっと堂々としていた方がいいとも思う。
「少なくとも、あの日に比べたらそうだろ?」
ぴたっと名瀬の手が止まった。何も言って来ないから、恐る恐る名瀬の顔色を伺ってみる。
名瀬は、徐々に徐々にその瞳に涙を溜めていた。
「はっ?!」
それが流れる前に、名瀬はごしごしと目元を拭って「ありがとう」と呟いた。
「な、なんでそうなるんだよ」
慌てて周囲を警戒する。まだ朝早いこともあって人は明らかに少ないが、これからあっという間に増えるだろう。
「ちょっ、ちょっとこっち来い!」
名瀬の手首を握り締め、俺は早歩きで場所を探す。なるべく人が来ない場所を考えていると、逆に俺が引っ張られた。
「うわっ?!」
名瀬に連れてこられた場所は、人気のない一階の廊下の――階段前だった。なんとなくこの光景に見覚えがあって、よくよく考えなくても俺たちが出逢った場所に酷似していることに気づく。
「小三のあの日以来話したことなんてなかったのに、今みたいな日々が嘘みたいだね」
黒髪を耳にかけて、懐かしそうに目を細めた。
「だな」
俺はそんな名瀬に相槌を打ち、苦笑した。
中学の頃、昔とのギャップのせいであっという間に惚れてしまった自分に対してもだ。
「ねぇ、知ってた? 小森くんが私を強くしてくれたんだよ?」
それは、思ってもみなかった台詞だった。頭が混乱する。何をどうしたら俺があいつを強くすることができるのか、考えてもわからなかった。
そのことが表情に出ていたのか、名瀬も苦笑していた。俺はバツが悪くなって視線を逸らした。
「小森くん、あの頃の〝約束〟って……まだ覚えてる?」
「……んなの、忘れるわけねぇだろ」
「それなんだよ? 私、あの約束があったから、泣かないって決めた。あの約束があったから、私は強くなって……私は……」
名瀬は口を閉ざした。血色の良い唇が、何かを伝えたそうにしている。
じわ、と体の芯が熱くなるのを俺は感じた。
「…………私は、小森くんのことがす……」
「待て!」
ぎょっ、と名瀬の目が限界まで見開かれた。俺は咄嗟に動いた口を片手で覆ったが、遅かった。
「……え?」
名瀬は、「どうして」と今にも聞いてきそうな表情をしていた。その瞳は、拒絶された悲しみで満ち溢れていた。
ごしごし、ごしごし、目を擦って。
ごしごし、ごしごし、目を瞑った。
「いやっ、悪い! 違うんだ! これは……」
これは。これは、なんだ。縋る思いでポケットに入れていた〝お守り〟に触れる。幸いにも名瀬は気づいていない。気づいていない、けど。
「だぁっー! くっそ!」
「ッ?!」
びくっと身を仰け反らされた。俺は無我夢中になって、後頭部を左手で掻く。
「こういうのは男から言うモンだろーが!」
自分でも何を叫んでいるのかわからなかった。どうにでもなれ、半ばやけくそ状態だった。
「それって……」
「好きだよ! お前が!」
叫んだ瞬間、反射的に右腕を振り下ろした。すると、何かが俺の手から離れて名瀬の下へと落下する。
最初は気にしていなかったし、気にする余裕も当然なかった。だが、次第に意味のある脂汗が出てくる。
待て。俺は今、何を投げた?
俺の動作に呆然とした名瀬は、視線を落としてそれを認識する。「……あ」というような声がどちらかから漏れた。
まずい。非常にまずい。他の奴だったら大丈夫な奴もいただろうが、名瀬は俺と地元が同じだから余計にまずい。
名瀬は、無言で〝お守り〟を拾った。
瞬時にいくつもの言い訳を思いついては、泡となって消えていく。どれも当然無理があった。
見ていられなくて、だけど逸らすこともできずに名瀬を見ていると――すべてが理解できたかのような表情で微笑む。俺の心境も知らずに大事そうにそれを握り締め、ゆっくりと顔を上げた。
穴があったら入りたい。本当に。
「――私も好き」
そのせいか言われた台詞がよくわからなかった。それでも徐々に理解できて、視線が合って。それだけで互いに声を出して笑い合った。
そんな笑いが自然と消えて、名瀬は再びお守りに視線を落とす。
「あっ、待てそれは……」
「小森くん、このお守り買ったんだ」
「い、いやだから、その、あれだ。それは……」
「…………」
しどろもどろになる自分を恨みながら、なんとか頭を働かす。気味悪がられただろうか。それだけなら、嫌われるよりかはマシかもしれない。
「実はね、私もあの日これを買おうとしたんだよ」
嬉しそうな表情は、俺の思考を一蹴した。
「え?」
だけど、それで辻褄が合った。俺と名瀬があの場所で会った理由が。
「結局小森くんに会っちゃって買えなかったけれど、そっかぁ。やっぱりすごいね、このお守り」
「買った直後だったからな。……効果ありすぎだろ」
「ん?」
「あ、いや。なんでもねぇ」
なんでもねぇつったのに、名瀬は面白がってしばらく俺に根掘り葉掘り聞いてくる。だが、それを邪魔したのはチャイムだった。
*
お守りを拾ったまま授業を受けてしまった私は、授業を終えて小森くんにそれを返そうとする。
その為に取り出したそれをしげしげと眺める私を見て、「……やるよ、それ」と小森くんがそう言った。
「えっ?! どうして?!」
「もう俺には必要ねぇしな。それに、これは勝負事にも強いんだろ?」
照れくさそうに笑う小森くんは、お守りを持つ私の手を握り締める。
「で、でも……いいの?」
「これからの為にもそうしとけ」
「これから……」
「女バスがもう始まるからな」
確かにそうだ。インターハイは終わったし、ウィンターカップには出られない。けれど、当たり前のように練習試合はちゃんとある。
「ありがとう、小森くん」
「だから、俺にはもう必要ないんだって」
「それでもお礼は言わなくちゃ」
「律儀だな、お前」
律儀だよ。だって、小森くんが相手だもん。
さりげなく握ってくれた手を見つめ、私は思わず頬を緩ませる。
――貴方に出逢えて、本当に良かった。