第四話 お守りの力
俺の初恋は中学生の頃。多分、理由なんてなかったと思う。
真っ白な世界が広がっていて、そこにある甘酸っぱい何かがとてつもなく大切で。簡単に触れてはいけないようなそれは、本当に触れなかったら結局は何も起こらなかった。……あぁ、初恋って呆気ねぇなとすぐに思った。
けれど、幸運なことにその相手とは高校も同じだった。少なくともあと三年は一緒にいられるんだと思うと、すぐに小さくガッツポーズをした。ただ、欲を言えばこの関係を少しでも新展させたくて――インターハイが終わってしまった二年の夏に、地元の夏祭り限定で売られている胡散臭いお守りを買いに行った。
――今思えば、すべてはこのお守りのせいなのだろう。
教室に戻ると、思った通り名瀬が自席に座っていた。何故か一回目が合って、何故かすぐに逸らされる。……まさか、さっきのを根に持っているのだろうか。
わけがわからないまま一限目が始まり、新学期初の授業だからか席替えが行われる。すると、隣の席になったのは名瀬だった。
必要以上に怒らせないようにしようと、なるべく名瀬を見ないようにやり過ごす。これが仁科だったらどんなに楽かと一瞬思った。
当然向こうから話しかけてくることはなく、俺は一人で安堵した。
『小森!』
怒ったような、呆れたような――それらの感情を綯い交ぜにさせた声が聞こえてきた。俺はシュート練習を止め、米山の方へと視線を向ける。
それは、中学の頃。部活後に自主練習をしていた時の話だった。
『……なんだよ』
『なんだよじゃないだろ。いい加減休めって』
タオルを投げつけられ、俺は顔を顰めながらも落ちないようにそれを受け取る。けれど、俺が手を止めても止まらない音がそこにはあった。
米山は一瞬だけ仕切られた向こうのコートの向こう側を見、困ったように眉を下げる。米山の視線の先には、俺と同じようにたった一人で練習をする女子の姿があった。
米山は俺が何かを言う前に
『そこのお前もいい加減にしないと過剰練習になるぞー!』
そう叫んで俺を睨んだ。まるで、俺のせいだとでも言いたげな表情だ。そこで俺は、ようやく練習をしている隣人に視線を移す。
一瞬、目を疑った。そこにいたのは、俺がかつて泣き虫だと認識したあの名瀬だったのだ。その名瀬は手を止めて、俺と米山に視線を移す。が、すぐに視線を逸らした。ただ、手は止めたままだった。
泣き虫女は堂々とそこに立っている。今まで隣で練習をしていたのに、俺は一度も名瀬の存在に気づけなかった。
脳裏にかつての〝約束〟が浮かんできて、徐々に泣き虫女との記憶を思い出していく。そして気づいた。
泣き虫は、もうどこにもいないのだと――。
米山を見ると、米山は「なんだよ」と眉を顰める。動き出した心臓の鼓動は、今は、よくわからなかった。
「……小森くん?」
一気に現実へと引き戻された。隣には、あの頃よりも大人っぽく成長した名瀬がいた。
「……わ、わりぃ。ぼーっとしてたわ……。で、なんの用だ?」
「もう授業終わったよ?」
くすっと笑って、名瀬はゆっくりと立ち上がった。
「あ、あぁ。そっか」
俺も立ち上がってそう答える。笑っていた――ということは、怒っていなかったということだろうか。
俺も教科書を持ち上げて、ロッカーへと向かおうとする。
「あ、そうだ。小森くん」
「ん?」
名瀬は俺のことを見上げて
「明日から女バスが部活をすることになったの」
ほんの少し、嬉しそうに笑って言った。
「だから、もしかしたら同じ体育館で部活をするかもね」
「へぇ。そうなのか」
「うん。だから……」
「だから?」
名瀬が言葉を詰まらせた。何を言えばいいのかと考えているような、そんな表情だった。
「……これからもよろしく」
そうして意味深な言葉を残して、自席へと戻っていった。
*
放課後になっていつものように部活をしていると、三峰が話しかけてきた。
「そういえば、敦也」
「んだよ」
「〝例のお守り〟は買えたの?」
「はぁっ?!」
危うくボールを落としそうになった。俺は咄嗟に片手で口元を覆いながら、「ま、まぁ」とだけ答える。
「……へぇ、良かったじゃない。で、そこで佳乃ちゃんに会ったんでしょう?」
だが、今度こそ本当にボールを落とした。
「なっ、なんで三峰がそのこと知ってんだよ!」
三峰はにやにやと笑って、「本人から聞いたのよぉ」とだけしか答えない。俺は後頭部を掻いてボールを拾った。
「あのお守りの力も馬鹿にならないわねぇ」
「……そうだな」
最初は信じていなかったが、ここまで幸運が続くと逆に身震いをしてしまう。
「……そういえば、なんであの時名瀬は神社にいたんだ?」
「ん?」
三峰がこてんと首を傾げる。俺は「なんでもない」とだけ答えて、シュートを入れた。
「ナイスシュート」
「あら、都樹!」
「明日の部活に備えて見学に来たんだけど、大丈夫?」
「……あぁ。今朝もそんな理由で何人か来てたぞ」
ギャラリーにいたその内の一人が名瀬だったことは、無意識に伏せた。
「そうなの?」
種島は意外そうに目を見開いて、「それって……」と名瀬の名前を口に出した。
「そうよ?」
「あ、やっぱり……って、敦也?」
種島が不審そうに俺を見上げた。……と言っても、名瀬とは違ってあまり身長差がないせいで女子らしさは感じない。
「好きなの? 佳乃のこと」
唐突に、そして平然と種島はそれを口に出した。
「はぁっ?!」
思わず体中が熱くなったのがわかる。変な汗も当然出てきた。
「ちょっと、都樹?!」
「図星? ねぇ、皇牙もそう思うよね?」
真顔でそれを言うものだから、焦りも次第に失せてきた。自分をなるべく落ち着かせて――「やっぱり図星なんだ」「種島ァ!」それでも一応女子だから、頬を引っ張るだけに抑えておいた。それでも三峰に怒られて、当然のように言い争う。
近くにいた米山の静止で俺たちはようやく止まったが
「……話はなんとなく聞いてたけどさ、小森お前、もう腹をくくったら?」
三峰と種島の前であるにも関わらず、それを言い放たれてしまった。
「うっそ、お腹をどうやってくくるのよ……!」
「お腹壊れないの……?!」
「バカか! お前らはちょっと黙ってろよ!」
「怖いなぁ、三人とも。色々怖いよぉ」
三峰を足蹴りして米山に向き直ると、米山は今にも笑いそうなほどに頬を引き攣らせていた。
「……なんだよ」
「……いや? 長かったなぁって」
たったそれだけの会話だった。種島は何を思ったのか、それとも何も思わなかったのか――倒れた三峰の元へと駆け寄って、俺たちに背中を向けた。
「――大変だよなぁ、人を好きになるって」
呟くようなその声は、わざとなのか俺だけに聞こえるような音量だった。他の連中は、何も知らないで練習に打ち込んでいた。
「頑張れ、小森」
米山のその声が、何故かずっと耳に残っていた。
バッシュの音、シュートの音、仲間の声、全部が体育館の中に詰まっている。けれど、今の俺の耳には何一つ届いていなかった。