第三話 好きな人が
その人――小森敦也は、小三の頃に出逢った同じクラスの男の子だった。最初はただのクラスメイトだったはずなのに、気づけば目で追っている自分がいた。
当時学級委員だった私のある日の出来事。
『うぅ……っ!』
クラスのみんながなかなか言うことを聞いてくれなくて、悔しくて人気のない階段で膝を抱えて泣いていた。
耳だけは澄まして、誰かの足音が聞こえたらなんでもないように立ち去ればいい。
そう思っていた私は甘かった。
階段の上から足音が聞こえてきて、下に座っていた私は当然立ち上がる。その時、なんと隣の階段の下から上がってきた小森くんと鉢合わせしてしまっのだ。
拭ぐっていなかった涙をばっちりと見られて、何秒沈黙していただろう。上からの足音が大きくなって、私は慌てて小森くんの横を駆け下りた。
昼休みのこの時間だ。どこに行っても生徒がいそうで、下りた先で呆然としていた。焦りもあったのかもしれない。
『ど、どうしよ、みられた? あの人、たしかクラスメ……』
『おまえ、学級委員のやつだよな?』
『ッ?!』
瞬間、後ろから声がかかってきて、再度慌てて涙を拭う。それでも振り返りたくはなかった。そんな気持ちを察したのか
『別にこっちみなくてもいいけどよ、なんかあったのか?』
『……な、なんもない』
自分の弱さを他人に見せたくなくて、小三の私は意地を張った。
『なら、なんで泣いてたんだ?』
『……えと、目にごみが……』
『声、うらがえってる』
言い返せなくて、私は口を噤んだ。とてつもなく悔しかった。
『ほんとのこと言えないの?』
何も言えなくて黙って頷いた。
『なんで?』
『…………ぜったいバカにする』
『しねぇよ』
『そんなのわかんないよ?』
『じゃあせめてこっち向けよ』
『…………』
私は考える暇もなく振り返った。小森くんの視線が私のものとぶつかって、小森くんは一瞬だけ息を飲んだ。
『じゃあ、やくそくしてやるよ』
『……やくそく?』
『おまえが何もいわねぇのがわるいんだよ』
『えぇ……?』
意味がわからない。私が何も言わないから、約束をするって?
『おれだけはおまえをなかさねぇ! ぜったいだ!』
両手を腰に当てて、小森くんは遥か高い階段の上から階下の私にそう言い放った。
一目惚れではないはずだ。だって、私はその〝約束〟で恋に落ちたのだから。
「原因がわからないから、少なくとも俺はお前を泣かさない。そういう意味だと思うんだけど、都樹はどう思う?」
都樹はカップを置いて、ずい、と身を乗り出した。
「それ、すっごくイケメンだと思う」
「……わかったから近いよ」
都樹は身を乗り出すのを止めて、笑みを零した。話している間に運ばれてきたケーキを口に入れ、頬を綻ばせている。
「とりあえず食べなよ」
口をつけていなかった私のミニパフェを指差して、私はそこでようやくスプーンを手に取る。アイスをすくって口内に含むと、チョコ味のそれは濃厚だけど後味がいいことがよくわかった。
「これ、美味しい」
「本当? 交換しようよ」
都樹はケーキをスプーンですくって、私の口元へと勝手に持ってきた。断ることを許さないかのようなその行動力の早さは、本当になんなのだろう。
私はその日、都樹と小一時間話し合った。小森くんとの出逢いを話したのは、都樹が初めてだった。
*
翌朝は早めに学校に来た。理由は、男バスの朝練を見に行くというなんとも不純な理由である。けれど、私にはとっておきの言い訳があった。
体育館に行くと、既に練習が始まっていた。この時間よりも早くやっているとは思わなくて、しばらく呆気にとられてしまう。
すると、三峰くんが私に気づいて中に入れてくれた。練習をしていた小森くんにも気づかれて、私は軽く手を上げる。
「どうしたのよ、朝早くから」
「えっとね、女バスで活動する前に、男バスの練習を見学したいなって思って。……あ、急でごめんね?」
脳内で何度も何度も繰り返した台詞は、思った通り効果抜群だった。三峰くんから快く返事を貰えて、私は「ありがとう」と礼を言う。そして、二階のギャラリーに足を運んだ。
ここからだと、下が悲しいほどによく見えた。なんの話をしているのかはわからないけれど、練習中なのに小森くんと奏歌ちゃん、奈々ちゃんたちがしょっちゅう話をしているのが見える。その回数は、他の部員の比ではなかった。
小森くんの隣には、あの頃も今も別の女の子たちがいる。改めて、現実というものを突きつけられたような気がした。
「……あ、先客がいたんだ」
不意にぼそっとそう聞こえて――見ると、仁科さんが階段付近に立っていた。
「ど、どうも?」
軽く会釈をして、仁科さんとの距離を図る。けれど、仁科さんはそんな私のことも気にしなかった。
仁科さんは柵ぎりぎりまで来て、じっと男バスのことを見下ろす。
「そっちは何しにここに来たの?」
視線を外さないままの仁科さんに問われて、私は戸惑いながらも男バスに視線を戻した。
「理由は色々かな。一応、女バスとして見学するって言ったけど」
「女バス?」
「あ。実は新しく創部されることに……」
「うん、知ってる」
仁科さんは、ブラウンのセーターの裾をぎゅっと引っ張った。
「セーター伸びるよ?」
「……つい、癖で」
ぱっと離して、だけど一度も視線を逸らすことはなく仁科さんは淡々と言った。私が同じ質問をすると、「米山がしつこいから」と返ってきた。
ということは、仁科さんが米山くんの言っていた面白い子――女バスの最後の一人となる子なのだろうか。そうだとわかっていて、私はあえて何も言わなかった。
「名瀬はバスケをどう思う?」
ぎくっと体が強ばった。ここはどう答えたらいいのだろう。小森くんから動かしていなかった視線は、仁科さんの方へと向いていた。
「――……す、好きな人が、一番好きで頑張れる素敵なスポーツ?」
その時、ようやく仁科さんが動いた。聡明なその瞳が私を捉え、離してくれない。
「その答え、嫌いじゃない」
無表情を極めたような仁科さんの表情は、自然と微笑んでいた。……そして、私の中の何かと共鳴したような気がした。
*
朝練が終わる頃に一階へと下りると、「うちの練習はどうだった?」と三峰くんに尋ねられた。私は素知らぬ顔で体育館から出ていく仁科さんを横目に、口を吃らせる。
「……す、凄く良かったよ。ちゃんと考えられてるなぁって思った」
何より、中学の頃よりも小森くんがかっこよく見えた。それは彼が成長したせいなのか、メニューのせいなのか。
三峰くんは嬉しそうに笑って、「そうでしょう?」と胸を張る。そして、他の部員たちに丸投げせずに、自分も片づけに加わった。
「あ、私も手伝うよ?」
私が手伝いを申し出ると、三峰くんは一瞬迷うように視線を逸らす。けれど
「……そうね。折角だし、手伝ってもらおうかしら!」
私は三峰くんが指示した場所に足を運んだ。
「あれ、名瀬さん?」
「あ」
三峰くんが指示した場所にいたのは、米山くんだった。彼は転がっているボールを拾っている。
「名瀬さんだ〜。ほぼはじめましてだよね?」
「……そうだね」
私は近くのボールを拾って、籠の中に入れた。
「あぁ、ありがとう」
米山くんが微笑んで、再びボールを拾いに行く。私はその背中を見て、不意にあることを思い出した。
「ねぇ、米山くん」
彼が戻ってきた瞬間に口を開く。米山くんは「ん?」とボールを籠に入れた。
「前に都樹と話してた時、奈々ちゃんに三峰くんと小森くんが話してるみたいって言われたんだけど……どう思う?」
米山くんは、一瞬だけぽかんとして次に吹き出すように笑い出した。
「確かに似てる!」
口元を手で覆って、心底おかしそうに笑っている。私はそんな反応をされるとは思っていなくて、思わず眉を顰めた。
「具体的にどう似てるの?」
米山くんは考えるなんてことはせずに、落ち着いたらすぐに答えた。
「姉御と都樹は言うまでもないと思うけど、小森と名瀬さんって凄い努力型なんだよねぇ。それに……」
何かを言いかけて、米山くんは慌てて口を閉ざした。今にも不味いことを言ってしまいそうだった、そんな表情だった。
「な、何? どうして黙るの?」
「……うーん、これ、言っていいのかなぁ」
気まずそうに後頭部を掻く米山くん。視線はどこか別の場所を捉えていた。
「別に怒らないよ」
米山くんはしばらく黙って
「……一回バスケ辞めてるところ、とか?」
真面目な顔をしてそう告げた。対する私は、ほとんど何も言えなかった。
返す言葉がなかった、のかもしれない。
「ご、ごめん! やっぱ怒った?」
「……え、あ、ううん。大丈夫」
怒ってはいないけれど、痛い所を突かれた。そう思った。
「米山、さっさとボールを片づけろよ」
不意に小森くんが現れて、私たちの会話を途切れさせる。心なしか不機嫌そうな小森くんに米山くんは謝りながらボールを拾った。
「ごめんね、小森くん」
サボっていると思われたら嫌だ。私は必死にいいところを見せようとしたけれど、小森くんに止められる。
「お前はもういいから、三峰と一緒に先に戻ってくれ」
無理矢理両肩を掴まれてドキッとしたのも束の間、出入り口に向かって押されながら歩かされる。
「え? ちょっ、小森くん?!」
抵抗する暇もなく、私は三峰くんと一緒に閉め出された。
「ど、どうしたのかしらあの敦也」
「さ、さぁ?」
私と三峰くんは首を傾げて、仕方なく言われた通りに校舎へと向かう。三峰くんは元マネージャーで今は選手になっているけれど、周りが気を遣っているのか深くバスケ部に関わらせようとはしていなかった。
しばらく二人で歩いていると、三峰くんは「なんだか不思議な感じがするわね」と言って笑い始めた。
「そういえば、いつの間に敦也と仲良くなったの?」
その声色は、明らかに純粋な疑問だった。気を遣われていることに気分を害していない彼に私は内心安堵して、徐々に緊張感を解いていく。
「地元の夏祭りで偶然会ったの。その時、流れで一緒に回ることになったんだ」
「地元ってことは、あの夏祭りに行ったのね?」
三峰くんは「……じゃあアレも買えたのかしら」と呟いたけれど、それは何かという疑問はぶつけられなかった。というのも
「あ、ちょうど良かった! 佳乃!」
教室から顔を出した都樹が、私たちの会話を遮ったのだ。
「さっき女バスの部員が全員揃ったの! 顧問も捕まえてあるから、明日には活動できるよ!」
余程嬉しかったのか、今日の都樹の声色は弾けていた。