第五話 月がきれい
「あ、ジュン」
体育館に行こうとすると、その付近でジュンに会った。
「よう」
「これから部活でしょ?」
「あぁ。さっさと行こーぜ!」
「はいはい」
談笑しながら二人で歩いていると、男バスの姉御――じゃなくて、マネージャーの三峰皇牙先輩が話しかけてきた。
「あぁ、ちょうど良かったわ! ちょっと頼まれてほしいんだけど、いいかしら」
「はい。なんですか?」
「これを職員室に取りに行ってほしいのよ。悪いわね、誰も手が空いてなくって」
三峰先輩が私に手渡したのは、一枚の紙。私はそれに書かれた文字を見て三峰先輩をもう一度見上げる。
「部活に必要な物ですか?」
「そうよ」
「ふぅん。たくさんあるんだな」
「だからちょうど良かったって言ったの。純くんと二人で行ってきてくれる?」
「わかりました。行こう、ジュン」
「あぁ」
「こんにちは!」
「うわっ!? もっ、桃くん!」
振り返ると、猫宮君が手足を大きく動かして三峰先輩に何かをアピールしていた。
「……何やってんだ? コミヤ」
「ええっ?! ロドリゲスくんが大きい動作をしろって言ったんですよ?!」
「こっ、猫宮君?! いつからそこにいたの?!」
「黒崎さんまで?! 僕は最初からここにいましたよ!」
半泣き状態の猫宮君は、ふわふわの髪を揺らして落ち込む。
「だから、オマエはチビだからわかんないんだって」
「僕は黒崎さんよりも背が高いですし何よりちゃんとした男ですよ!」
胸を張る猫宮君は、確かにちゃんとした男の子だ。女子力は私よりも高いし笑顔が素敵だから忘れがちだけれど、意外と低い声も苦労していそうな骨ばった手も女の子のものではない。
「桃くんは可愛い男の子って感じよねぇ。羨ましいわ、俺なんて姉御よ?」
「僕は別に可愛い男の子なんて目指してませんよ?!」
私が女だからかもしれないけれど、猫宮君が可愛いと思ったことは一度もなかった。
「猫宮君は男の子だよ」
「くっ、黒崎さぁん! ありがとうございます〜!」
抱きついてきた猫宮君は間違いなく男の子。私は猫宮君のふわふわの髪に初めて触れ、愛おしくなってそれを撫でた。
*
その日は特に変わったことはなく、部活はあっという間に終わった。
「黒崎さん、一緒に帰りませんか?」
「あ、猫宮君。うん、いいよ」
「ありがとうございます! じゃあ、少しだけ待っていてください!」
「うん、わかった」
どうしてだろう。今日の猫宮君、どこか元気がない気がする。
いつも笑ってくれているせいか、猫宮君のそういうところには気づきにくい。逆に、いつも笑ってくれているせいか心配になる。
「……あの、少し話があるんです」
予想通り、猫宮君はいつもの公園の前でそう言った。
「話?」
「すっごく長くなると思うので、座って話しませんか?」
「わかった。いいよ」
「ありがとうございます」
昨日とは違いベンチに座る。直後に猫宮君が口を開くわけでもなく、私も黙ったまま猫宮君が何かを言ってくれるのを待つ。ただ、待つ。
何分……ううん、何秒だったかもしれない。時間感覚なんてとっくのとうに消えた頃、猫宮君が恐る恐る口を開いた。
「ロドリゲスくんとは、本当に仲が良いんですね」
突然のことに驚く。だけど私はすぐに口を開いて間を開けなかった。
「うん。同い年だったし……向こうはどう思ってるか知らないけど、幼馴染みみたいなものだと思ってるから」
「じゃあ、僕はなんですか?」
変な空気にならずに済んだ。そうやって安心しきった私に猫宮君が尋ねてくる。「え?」なんて間抜けな言葉が出てくるほどに、その問いかけは予想外だった。
「――黒崎さんにとって、僕はなんですか?」
じっと月を見上げる猫宮君は、きれいな瞳をしていた。その色はわからなかったけれど、きれいだということは知っている。
「えっ……と」
そう聞かれて、私は言い淀んだ。……私にとって、猫宮君ってなんだろう。
猫宮君の口調から、簡単に答えてはいけないような気がした。だからしばらく黙考して、彼との日々を心に描く。真面目に答えようと思った、ただそれだけなのに――それが不味かった。
「……そう、ですか。それが君の答えなんですね」
「え」
「わかりました。ご、ごめんなさい!」
「ちょっ」
ガタッと、猫宮君にしては珍しく音を立てて立ち上がり、そのまま走り去っていく。
「あっ! 猫宮君っ!」
今すぐ追いかけなきゃ。
「待って、猫宮君!」
既に日は沈み、月は雲に隠される。だから、街灯だけを頼りに私は走った。イロが見えない私にとって、夜道を走るという行為は無謀に等しい。それでも、私は走るのを止めなかった。
猫宮君を傷つけてしまった。それだけが、私が走る意味だった。
「ッ!」
何かに躓き私は転けた。確かに聞こえていたはずの足音は、もう聞こえない。さらに、辺りは静寂に包まれていて倒れた時の音は随分と派手に聞こえていた。
「ま、待って……お願い……」
呟いた時、頬に温かい何かが流れる。心が何故か、酷く痛んだ。
「……行かないで」
「大丈夫ですか?」
「……え?」
「く、黒崎さん、その……」
顔を上げると、今にも泣きそうな猫宮君がいた。
「泣いてたんですよね。ごめんなさいっ、立てますか?!」
膝をつきながら、手を差し伸ばしてくれる。
「こみやくん……ごめっ、ごめんね……!」
本当は猫宮君の方が泣きたいはずなのに、どうして私が先に泣くのよ。自分が嫌になっても溢れ出したら止まらない。
「ッ!」
ほら、猫宮君を困らせている。きっと嫌われた。なんて思ったのに
「泣かないで……泣かないでくださいっ!」
視界いっぱいに猫宮君が映り込む。モノクロでも。涙で霞んでいても。彼が私を抱き締めたことは、すぐにわかった。
*
――黒崎さんにとって、僕はなんですか?
あまりにも黒崎さんとロドリゲスくんとの仲が良くて、僕は尋ねる。僕は多分、ロドリゲスくんに嫉妬しているんだ。体格も向こうの方が圧倒的に大きいし、顔の形も向こうの方が男の人らしさがあってかっこいいと思う。
それに、高校に行ったら黒崎さんと一番仲が良い友達は僕になるって思っていたから。急に一人ぼっちになったような気がして、ずっとずっと怖かった。
「えっ……と」
目を見開き、そして泳がせ、黒崎さんは言い淀んだ。困らせている。僕は直感でそう判断した。
「……そう、ですか。それが君の答えなんですね」
必死に言葉を絞り出す。
黒崎さんは、初めて会った頃以外僕の誘いには二つ返事で快諾してくれた。けれど、ロドリゲスくんの時のように多くを語ることはなかった。だから、きっとそういうこと。答えはもう出ていたから、僕はずっとずっと怖かった。
「え」
「わかりました。ご、ごめんなさい!」
本音はわかりたくない。
「ちょっ」
それでも僕はその場から走り去った。その場所に少しでも長くいたくなかったから。
黒崎さんが追いかけてきているのはわかっていた。だけど、僕は止まらない。止まりたくない。その時、心臓を飛び上がらせるような大きな音がした。
不審に思って立ち止まる。黒崎さんの声も、足音も、どうしてかすべてが消えていた。
街灯も、月光も、僕らを照らすことはない。闇夜に静寂。不安が急に込み上がってくる。黒崎さんに何かあったらと思うと、いてもたってもいられない。僕は来た道を急いで引き返した。
「……行かないで」
暗闇の中で彼女の声が聞こえる。
「大丈夫ですか?」
僕は恐る恐る声をかけて、そこに黒崎さんがいるのを見つけた。
「……え?」
「く、黒崎さん、その……」
彼女が顔を上げる。慣れてきた視界に、黒崎さんの涙が焼きついた。
「泣いてたんですよね。ごめんなさいっ、立てますか?!」
「こみやくん…………ごめっ、ごめんね……!」
「ッ!」
黒崎さんが頬に流した涙は、自然と僕の体を動かす。
「泣かないで……泣かないでくださいっ!」
「うん、ごめ……」
涙を拭う黒崎さんは何も悪くない。悪いのは、こんな感情を勝手に抱いてしまった僕の方だ。
「貴方の笑ってる顔が好きなんです!」
なのに、思いが溢れて止まらなかった。
*
「……え?」
突然のことで、何も考えられなくなった。
「僕は、黒崎さんのことが好きだから……笑ってて、ほしいんです」
苦しそうに猫宮君が言う。涙はとっくのとうに枯れていて、落ち着きを取り戻した私は次第に伝わる彼の鼓動に頬を赤らめた。
「あっ! ご、ごめんなさい!」
猫宮君が私から離れる。けれど、回された腕はそのままだった。
「こみやく……」
「なっ、何も言わないでください! わかってますから!」
「え?」
「さようなら、黒崎さん」
随分と前に見た寂しそうな微笑みを浮かべ、私の元から去ろうとする彼の手を思わず掴む。
「待って……さようならって、どういう意味なの?」
「どうか、ロドリゲスくんと幸せになってください」
そんな顔を伏せ、声を震わせながらも彼は言葉を続けてくれた。
「なんで、ジュンが出てくるの」
「だって、黒崎さんはロドリゲスくんのことが好きなんでしょう?」
そう来るとは思っていなくて、反射的に握り締める手の握力を強める。
「だから、離してください」
「嫌!」
「どうしてですか」
「……すきだから」
猫宮君が、伏せていた顔を静かに上げた。涙の跡が、うっすらと見えた。
「私は、こみやく……桃太郎君のことが好き。世界で一番、桃太郎君のことが大好き」
海外にいた期間があるからこそ、私は〝世界一〟だって胸を張って彼に言える。だから、最後まできちんと伝えたい。
「全中で桃太郎君を見かけた時、笑顔が素敵な人だなって思ったの。多分、その時から好きだったんだと思う。この公園で、桃太郎君に励まされた時から……もっともっと好きになった」
「黒崎さん……」
桃太郎君が私に掴まれていない手で顔を覆う。泣き顔を見られたくないところも、男の子だ。そう思う。
「……僕、本当はみなさんが思っているような人間じゃないんです。可愛い男の子でもいいって思ってましたけど……奏歌さんの前だと格好良い男の子でいたいって思います。同じバスケ部だった、みんなと同じように」
「……格好良いよ、桃太郎君も」
その時、月明かりが私たちを照らした。
「あ」
いつの間にいなくなったんだろう。さっきまであった雲が嘘のように消え去っている。桃太郎君もそれに気がついて顔を上げた。
今日の夜空は、二年前のあの日と繋がっているように見えるほど星が輝いている。
「奏歌さん」
不意に、名前を呼ばれた。
「月がきれいですね」
桃太郎君が、私に向かって微笑んでいた。
「うん。きれいだね」
その言葉は、月に吸い込まれて溶けていった。
*
「ジュン、私ね」
「ん?」
「桃君とつき合うことになったの」
「はぁっ?!」
なんでもない活動日。練習している最中に告げると、ジュンは想像以上に驚いて私の顔を覗き込んだ。
「マジかよ!」
「うん、マジ」
ジュンからあの日の真実を聞かされた直後だったからか、私もちゃんと言おうって思えた。桃君は私に任せるって言ってくれたし、幼馴染みのジュンにはちゃんと自分の口から伝えたかったし。
「おーい、黒崎ー!」
「あ、はーい! じゃあね、ジュン。ちょっと行ってくる」
持っていたものをジュンに押しつけ、私は部長の元へと急いだ。
「あっ、おい!」
「ロドリゲスくん、声が大きいですよ?」
「いやいや誰のせいだと思ってるんだよ! オマエらいつの間に?! 元からそういう仲だったのか?!」
「ふふっ、どうでしょう」
「ちゃんと答えろよ! さっきの話マジなのか?!」
「それは本当です。昨日告白しました」
「マジかよ!」
「ごめんなさい。僕、冗談はちょっと苦手で……」
遠くの方から「嘘つくなよ!」と叫ぶジュンの声がする。桃君はあんまり表に出さないから気づくのが遅れたんだけど、ちょっとSっぽいというか純粋ないい子ではないんだよね。
そういう人間っぽいところを知れて、嬉しかった。桃君が頑張って〝いい子〟を演じているんじゃなくて、素の桃君のままでいてほしいから嬉しかった。
「…………な」
「はい?」
「アイツ泣かせたらぶっ殺すからな!」
「当たり前です。と言いたいんですけど、ロドリゲスくんちょっと台詞がクサイですよ?」
「は? 臭い?」
「違います」
「ん?」
「ロドリゲスくんってちょっとあほですよね」
そんな二人の会話を聞いていると、部長に小突かれた。
「何笑ってんだよ」
「すみません、二人の会話が面白くて……」
「確かにあれは面白いな。天然コンビなんだろうが」
私は桃君に目を向ける。桃太郎君じゃなくて桃君と呼んでほしいと言った彼は、ジュンを弄って笑っていた。
そんな彼の年相応の笑顔も、初めて彼と会話を交わしたあの日の笑顔も素敵だなって思っている。そんな彼の笑顔に私も、東雲中のみんなも救われていた。だから思う。
――貴方に出逢えて、本当に良かった。